城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心★織田信長G武田氏滅亡→本能寺の変

<<   作成日時 : 2012/06/12 06:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

・天正10年(1582)49歳
2月1日 武田信玄の娘婿外戚の木曾義昌が織田信長に
     寝返った。新府城築城のための負担増大への
     不満からであった。※縄張りは真田昌幸であった。
     武田勝頼は即座に木曾討伐の軍勢を送り出した。
     雪で進軍は困難の上、地元木曽軍に翻弄された。
 2月3日 織田信長は武田領国への大動員令を発令。
     駿河から徳川家康
     相模から北条氏直
     飛騨から金森長近
     木曽から織田信忠    
 ※織田信忠軍は軍監:滝川一益と織田信忠の譜代衆:河尻秀隆
 ・森長可・毛利長秀等であった。兵は100,000人余だった。

  武田軍は降伏優先状態になった。
  @大島城の武田勝頼の叔父:武田信廉が甲斐に敗走。
  A伊那城城将・下条信氏(★祖父は武田信玄、子孫は
    黒崎氏)が家臣に追い出されて降伏。
  B飯田松尾城主:小笠原信嶺が戦わずして降伏。
  C駿河田中城主:依田信蕃も戦わずして降伏。
  D江尻城主で武田家重鎮:穴山信君(★勝頼の従兄弟)
   も降伏。徳川家康を介して織田信長に服属を誓った。
  →武田軍は裏切りが多く、敗北ムードが広がった。
 これにより武田氏の国人衆は大きく動揺した。
 将兵は武田勝頼を見すてて逃げ出した。
 高遠城の武田勝頼の弟:仁科盛信(女優:仁科明子の先祖)
 だけが籠城。→木曽の鳥居峠の戦いで戦死。

3月8日 織田信忠は甲府躑躅ヶ崎城を占領。
画像
 
 ●天目山の戦い
  武田勝頼は未完成の新府城(縄張りは真田昌幸)に放火して
   逃亡。約60日の城であった。
画像

   甲斐岩殿城主:小山田信茂(一門衆)「籠城にぴったしだよ。」
画像

   上野岩櫃城主:真田昌幸が「潜竜院を造って待っているよ。」
画像

   と武田勝頼を受け入れることを箴言した。
 3月11日 甲斐都留郡の田野
  武田勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城を選んだ。
  しかし、小山田信茂は武田勝頼を裏切った。
  武田勝頼は後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場
  がないことを悟った。
  武田勝頼一行は武田氏ゆかりの地:天目山棲雲寺を
  目指した。
  滝川一益が田野で捕捉。
  武田勝頼は嫡男:武田信勝や正室の北条夫人とともに
  自害。享年37。
  →450年の歴史を誇る名門:甲斐武田氏は滅亡。

  武田勝頼父子の首は長谷川宗仁によって京都一条大路の辻で
  さらし首にされた。
 
  既に、北条氏直の家臣:上野の松井田城主:大導寺政繁は
  信濃小諸城→甲斐の若神子城まで侵攻していた。


 徳川家康は新府城を本陣とした。
獅子吼城の戦い
画像

北条氏の家臣:松井田城主:大導寺政繁
VS
徳川家康・・・服部半蔵を使って、攻略。
結果・・・大導寺政繁は上野まで退却。
  
 滝川一益・・・信濃→上野へ
  ●大導寺政繁の信濃小諸城へ進軍
画像

 小諸城で、織田信長より馬を拝領。
上野の箕輪城に侵攻。・・
    跡部からの養子で内藤豊後守昌豊の子:
    内藤昌月(まさあき)が降伏。
   武田勝頼家臣の妻子を箕輪城に人質とした。
画像

   厩橋(前橋)城に在城。   
 
◆◆ 箕輪初心●箕輪城R滝川一益 ◆しかゥ
http://53922401.at.webry.info/201010/article_33.html
 

 ※織田信長の戦後処理・・・
 @駿河・・・・徳川家康
 A上野・・・・滝川一益
 B甲斐・・・・河尻秀隆
 C北信濃・・・森長可
 D南信濃・・・毛利長秀
   
 滝川一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも
 同盟関係を保った。

4月21日 織田信長が安土城にやっと帰着。

 織田信長は
 @四国の長宗我部元親攻略開始。
  三男:神戸信孝(織田信孝)、重臣:丹羽長秀・蜂屋頼隆
  ・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた。

 A越後の上杉景勝への攻撃開始 
   ●上杉景勝は新発田重家の乱で困惑。
  北陸では北の庄城の柴田勝家
   ●富山城攻撃。
画像

  (★後の富山城)
   ●魚津城を攻撃。
画像

画像

  (★上杉謙信の入城した天神山城の旗)
  北信濃方面から松本城の森長可
  上野方面から厩橋城(前橋城)滝川一益の進攻
  東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

5月15日 徳川家康の安土城の来訪。 
   駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、
   織田信長は明智光秀に接待役を命じた。
5月15日〜17日 明智光秀は徳川家康を手厚く接待。
  織田信長は明智光秀の料理が気に入らなかった。
  接待役を堀秀政に変更した。(伝)
  
5月〜6月
羽柴秀吉30000
  ●備中高松城攻撃・・水攻め
清水宗治6500

   羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。
   織田信長は明智光秀の接待役の任を解き、
   羽柴秀吉への援軍に向かうよう命じた。

  明智光秀は丹波亀山城に戻った。

5月29日 織田信長は中国遠征の出兵準備のために上洛。
   本能寺に逗留。
   明智光秀の謀反の決意〜〜〜。
    娘婿:明智秀満や斉藤利三などの重臣に

謀反のことを話した。反対されなかった。
   ※明智光秀は本能寺を襲撃の際に標的が信長であること
   を伏せていた説もある。

   羽柴秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が
   丹波亀山城から京都に向けて進軍。
嵐山で、
  「敵は、本能寺にあり。」
と、号令をかけた。
   実際は、妙覚寺の織田信忠にも
   兵を出した。

6月1日 織田信長は対毛利戦に自ら参戦すべく進軍する途中
   で本能寺に宿をとった。
   年内の天下統一は時間の問題だった。

6月2日未明 本能寺の変
 明智光秀13000の軍勢の襲撃。
織田信長勢は100人説。180人説。300人説あり。
本能寺境内では小姓たちが戦ったが、すぐに討死。
 織田信長は鉄砲の音で部屋を出た。
 「謀反か。敵は誰じゃ。」
 明智軍が本能寺の中に突入してくる。
 森蘭丸が「明智が者と見え申し候」。
 明智軍の火矢説・織田信長のつけ火説あり。
 「是非もなし。」
 織田信長は脱出を試みなかったのだ。
 織田信長は数本の弓矢を放った。
 弦が切れると槍を手に取った。
 圧倒的多数の明智軍には敵わず、・・・
 やがて戦うのを止めた。
 ※森蘭丸が自害をすすめた説もある。
 織田信長は燃え盛る炎の中で本能寺の奥の居間に入り、
 自ら腹を切った。享年49(満48歳没)。
 覇権の夢は終わったのだった。
 
 (★織田信長まんがを参考に作成) 

明智光秀の謀反の理由
説@・・明智光秀のいじめられ説
説A・・明智光秀の織田信長への不信説
明智光秀の織田信長暗殺の黒幕説
説B・・足利義昭の調略説
説C・・天皇家の陰謀説
 明智光秀と公家には深い親交があったことから、
 近年では朝廷と考える説もあるそうだ、
 織田信長はルイス・フロイスら宣教師から聞いた欧州の
 絶対王政を目指していたのだ。天皇=朝廷・公家を滅ぼし
 国王になるつもりだった。
 天皇家は信長の野望を阻止せんがため、明智光秀を利用し
 織田信長を葬ったという考えもある。

 明智光秀の娘婿:明智秀満が織田信長の遺体を探したが見
 つからなかった。
 
 妙覚寺にいた織田信忠は約2000の兵に守られ、二条城に
 逃げ込んだ。
 明智軍の包囲・・・
 結果・・・織田信忠と京都所司代:村井貞勝が戦死。 


 安土城には、蒲生賢秀が守っていたが、逃げた。
  明智秀満が安土城に入った。

山崎の合戦
 羽柴秀吉 VS 明智光秀
 明智光秀の敗北
明智秀満が安土城から坂本城に逃れた。

6月12日 ※安土城炎上
   織田信雄の到着後のことだった。
   織田信雄のつけ火説もある。
画像

  (★安土城の天守台入り口)

 清洲会議
画像
  
 家督相続を決める「清洲会議」が清洲城で開かれた。
 上野国の厩橋城(=前橋城)にいた滝川一益は箕輪城
 にいた旧武田勝頼家臣の妻子など人質を解き放って、
 味方になるように促した。
 でも、北条氏康の3男:北条氏邦側につく者が多く、
 神流川の2度目の戦いで敗北し、清洲会議には遅刻した。
 ★上野国を盗られた上、遅刻したので、メンツ丸つぶれだった。


(★戦国武将ウォーキング・安土城の資料
  ウキペディア等多数を参考に作成)


◆◆ 織田信長の墓・供養塔 ◆◆
 ●訪問済み 
 △訪問したが、写真がない。
 ×訪問していない

@●本能寺・・・京都市中京区
 織田信長終焉の本能寺。
 織田信忠や家臣の供養塔。
 元は本能小学校付近(伝)。
 現在の本能寺は移転したもの。信長廟。

A×阿弥陀寺・・・京都市上京区
本能寺襲撃の報を聞いた阿弥陀寺住職清玉上人が本能寺から
 織田信長の遺骸を裏手の藪で火葬。→織田信長の骨を持ち帰り
 埋葬した(伝)。
 織田信長・織田信忠・森乱丸・坊丸・力丸3兄弟、
 家臣12名の家臣の墓。
 本堂には織田信長・信忠の木像が安置。

B△大徳寺総見院・・・京都市北区
 豊臣秀吉が、織田信長の一周忌の法要を執り行うために建立
 した大徳寺の塔中の一つでる。
 奇蝶(濃姫)やお鍋の方・信長の子息、息女などの墓。
 本堂には信長の木像がある。

C△妙心寺玉鳳院・・・京都市右京区    
 織田信長の乳母養徳院の菩提寺。
 滝川一益の墓。

D×大雲院・・・京都市東山区
 織田信長の嫡子:信忠の菩提寺。
 織田信忠が戦死した二条御所跡に建立。
 →後に移転。信長と合祀の墓石。
 祇園祭の先頭に出される長刀鉾を出す寺としても有名。
 織田信長の肖像画。

E×今宮神社・・京都市北区
 
E×建仁寺本坊・・京都市東山区      

F×建勲神社・・・京都市北区
 織田信長を祭神として東京の織田子爵家邸内に建立。
 明治13年に遷座。
 豊臣秀吉が計画した信長の菩提寺「天正寺」船岡山に鎮座。

G×聖隣寺・・・京都府亀岡市 篠山城近く
 丹波亀山城主で織田信長の子:織田秀勝が建立。

H●総見寺・・・滋賀県安土町 安土城二の丸跡
画像

豊臣秀吉が織田信長の一周忌につくらせた廟所。
 織田信長の肖像画・・・未公開。
画像


I×西光寺・・・滋賀県近江八幡市
安土城下→豊臣秀次が近江八幡城の城下町を移転。

J×南宗寺本源院・・・大阪府堺市堺区
 織田信長・織田信忠。徳川家康・千利休の墓など

K●金剛峯寺・・和歌山県高野町高野山奥の院
織田信長・明智光秀・豊臣秀吉など戦国武将の墓。
徳川家康・江の墓・・・大名の墓など
画像


L△崇福寺・・・岐阜県岐阜市長良町の岐阜城近く
 お鍋の方が織田信長の供養に努めるよう書状を出した。

M●瑞龍寺・・・富山県高岡市 
 前田家の菩提寺。
 前田利家・織田信長・織田信忠の供養塔。
画像


N△織田剱神社・・福井県織田町
 織田家の発祥の地。

O×総見寺・・・愛知名古屋市中区
 本能寺の変後、織田信雄が父を弔うために建立。
 江戸時代に名古屋に移転。

P×総見院  愛知県清洲町
 名古屋の総見寺3世が寺を復活。供養塔。

Q×長興時・・・愛知県豊田市
 織田信長の有名な肖像画が残されている寺。

R×本門寺・・・静岡県芝川町
 信長の首塚。
 本能寺の変の際に信長の首が持ち出され、遠江まで運ばれ
 柊の木の下に埋められた(伝)。

S×泰厳寺・・熊本県八代市
 細川忠興が織田信長の菩提を弔うため、丹後国宮津に創建。
 →父細川藤孝(幽斎)菩提寺の泰勝院を小倉から移転。
 寛永9年(1632)に八代城移封。泰厳寺
 細川忠興の妻:玉(ガラシャ)は明智光秀の娘である。  
 現在は廃寺。墓のみ残存。
   (八代市Hpより)


★参考文献
 「織田信長」小和田哲男著 小学館 
画像

 「織田信長」吉本直志郎著 ポプラ社
 「織田信長」中島俊之著 学研まんが 
 「織田信長」日本の100人
 「信長戦記」 CG日本史シリーズ
画像

 「信長の城・秀吉の城」安土城考古博物館
「戦国ウォーキング」
画像

 「桶狭間への道」水野誠志郎 2012年6月1日初版
画像

「安土城の資料」
  ウキペディア等多数を参考に作成。



★「これで、織田信長は尾張じゃあ。さらば。」



織田信長 戦乱の世の風雲児 (学習漫画 日本の伝記)
集英社
かたおか 徹治

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 織田信長 戦乱の世の風雲児 (学習漫画 日本の伝記) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心★織田信長G武田氏滅亡→本能寺の変 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる