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zoom RSS 箕輪初心★織田信長E岐阜城時代

<<   作成日時 : 2012/06/10 09:07   >>

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【5】織田信長の岐阜城時代
永禄10年(1567) 34歳。
 ●稲葉山城の戦い
 織田信長 VS 斉藤龍興
結果・・・斎藤龍興が伊勢長島に敗走。7年かかった。
尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった。
 8月15日本拠地を尾張小牧山城から稲葉山城に移した。
 稲葉山城を岐阜と改称。
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 (★信長館)

◆◆ 箕輪初心●岐阜城&長良川の鵜飼い ◆◆
 http://53922401.at.webry.info/201106/article_20.html

11月「天下布武」(武家の政権を以て天下を支配する)
    の朱印を使い始める。
   僧:沢彦(たくげん)から与えられた印文「天下布武」だ。
  ※本格的に天下統一を目指すようになった。
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 11月 織田信長は甲斐の武田信玄の4男:武田勝頼に養女=
  遠山夫人を娶らせたが、武田信勝を出産した直後に早世した。
  織田信長嫡男:信忠と武田信玄6女:松姫との婚姻を成立。
  同盟を結んで国内外を固めた。
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 (★躑躅が崎城) 
 
 11月9日 正親町天皇は織田信長を「名将」と褒めた。
  御料所の回復:誠仁親王の元服費用の拠出を求めた。
  織田信長は「まずもって心得存じ候」と返答した。 


永禄11年(1568) 35歳
9月 織田信長は他国への侵攻の大義名分として将軍家の
    嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。

観音寺城の戦い
  織田信長は約6万の軍勢で、南近江の六角義賢:義治父子
  の観音寺城を攻撃。観音寺城が落城。
  六角父子は甲賀郡に後退。
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◆◆ 箕輪初心●観音寺城 ◆◆
 http://53922401.at.webry.info/201101/article_13.html


 9月28日
勝龍寺城(京都)への攻撃
  三好党の岩成友通が約500人で抵抗。
降伏。

9月30日
芥川城(摂津高槻)への攻撃   
   三好長逸が降伏。

 10月18日 織田信長は足利義昭を奉じて上洛。
      足利義昭を15代:足利将軍とした。
三好長慶死後、三好義継・松永久秀らは織田信長に臣従。
   三好三人衆に属した勢力の多くは阿波国へ逃亡した。
   池田勝正も織田信長に降伏。
   →畿内を制圧。
 織田信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り
   尾張へ帰国。

  北伊勢の神戸具盛と講和。
   織田信長は3男の織田信孝を神戸氏の養子として
   送り込んだ。
   北畠具教の次男:長野具藤(井伊直弼の家臣長野主膳
   の先祖)を追放。弟:織田信包を長野家当主にした。
   (★幕末期の井伊直弼の家老の先祖)
 
 10月28日 従五位下弾正少忠
足利義昭との関係は悪化した。
   事実上の権力は織田信長にあったからである。
   
   足利義昭は、織田信長の勢力拡大に不満を持つ武田、朝倉、
   浅井、毛利、三好ら諸大名や、石山本願寺、比叡山延暦寺
   などの宗教勢力に呼びかけて、信長包囲網づくりを進める。

   織田信長は徳川家康に援軍を要請。

・永禄12年(1569)
 ●六条合戦
   織田信長が美濃国に帰還した隙を突いて、
   三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が足利義昭の御所
   六条本圀寺を攻撃した。
   浅井長政や池田勝正と明智光秀の奮戦で三好・斎藤軍
   は織田信長の到着を待たず敗退した。

 ●高槻城の戦い
  :入江春景への攻撃。入江春景を処刑。
   摂津国を守護:池田勝正を伊丹氏と和田惟政の
   3人に統治させた。

   織田信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求。
※堺は南蛮貿易の盛んな自治都市だった。
   →今井宗久ら堺の会合衆は三好三人衆を依頼した。
   最終的には、三好三人衆が破れ、
   織田信長の要求をのんで支払いに応じた。

永禄12年(1569) 36歳。
 織田信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、
 『殿中御掟』9ヶ条の掟書+追加7ヶ条を発令。
  足利義昭に認めさせた。
 ※織田信長&足利義昭は利用し合う関係であった。

 3月 正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」と打診。
  織田信長は無視した。

 8月20日 
 ●伊勢侵攻
  滝川一益の調略によって北畠具教の実弟:木造具政が信長
  側につけた。
  織田信長は岐阜を出陣し南伊勢に進攻。
  北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦。
 10月3日 織田信長と和睦。
    次男:織田信雄を養嗣子として送り込んだ。

元亀元年(1570)年37歳。
 3月14日 正四位下弾正大弼
 4月20日 
  織田信長は上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、
  浅井氏との盟約を破棄。徳川家康の軍勢と越前国へ進軍。
織田・徳川連合軍は朝倉氏の城を攻略。
  ●金ヶ崎の戦い
  織田信長は金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。
※浅井長政の妻:お市(信長の妹)の小豆伝説
  織田・徳川連合軍撤退を開始。
  殿の池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きで京に逃亡。
  織田信長は10名の家臣と京に到着した(伝)。
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 6月28日
  ●姉川の戦い
   織田軍・徳川軍25000 
VS
浅井・朝倉連合軍14000
  結果・・織田・徳川連合軍は勝利。
浅井長政は小谷城で籠城。
 
7月〜9月織田信長は摂津国へ三好三人衆を討つべく出陣。
  ●野田城の攻撃
  ●福島城の戦い・・・
織田40000 VS 三好三人衆13000
  
石山本願寺が織田信長に対して挙兵。
※10年戦争の開始。  
※織田信長は、危機に立たされた。
   
  織田信長は京へ撤退。
  
9月23日 織田信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。
     浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗。
 浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国坂本に侵攻。

宇佐山城の戦い
 志賀の陣・・織田信長は本隊を近江国・宇佐山城に置いた。
織田信長3000 VS 浅井・朝倉連合軍30000
  結果・・森長成・織田信長の実弟:信治が戦死。


11月21日 織田信長は六角義賢・義治父子と和睦。
    
11月26日
堅田の戦い
織田軍1000 VS 朝倉義景約10000
比叡山に立て籠もっていた浅井・朝倉連合軍は
  琵琶湖の湖畔の堅田に進出した織田軍を攻撃した。
結果・・・織田家重臣:坂井政尚が戦死。

12月13日 足利義昭→関白二条晴良→正親町天皇
      勅命で浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。
   ※織田信長は窮地を脱した。岐阜に帰った。


元亀2年(1571) 38歳。
 5月
 ●第一次長島一向一揆の鎮圧    
    石山本願寺の法主:顕如の命を受けた伊勢の門徒が
    一揆を起こした。
    織田信長の実弟:織田信興が自害。


 9月 織田信長は延暦寺を攻撃。3000
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 ●比叡山焼き討ち
    織田信長は何度か退避・中立勧告。
    抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした。
僧侶、一般人を男女約4000人を皆殺しにした。
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    坂本も焼いた。
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 後北条氏との甲相同盟を回復

元亀3年(1572)
    石山本願寺が織田信長と和睦。

 7月 三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。
    織田信長は嫡男:奇妙丸(織田信忠)が初陣。
    戦況は織田軍有利に展開。
 
7月〜9月 
   ●第一次小谷城の攻撃
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   織田軍50000で、浅井6000の小谷城を包囲。
朝倉義景10000。が救援。
結果・・・織田軍が岐阜に撤退。
 
10月 織田信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送った。
   織田信長と足利義昭の関係は決定的に悪化する。

 戦国最強の甲斐:武田信玄が京都に進軍を開始。

11月 武田信玄家臣:秋山信友が東美濃岩村城を攻撃。
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     遠山景任は防戦。・・病死。
    遠山景任の後家:おつやの方(織田信長の叔母)は
    織田信長の五男:坊丸(織田勝長)を養子にして城主と
    して抵抗した。
    秋山信友はおつやの方を嫁することを降伏条件に提示。
    結果・・・織田信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏。
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   一言坂の戦い・・・徳川軍がで武田軍に大敗・
二俣城の戦い・・・二俣城が開城・降伏。
  
   織田信長は、徳川家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の
   援軍を送った。
12月22日(1573年1月25日) 
  ●三方ヶ原の戦い 
   遠江国敷知郡の三方ヶ原(現静岡県浜松市北区三方原町近辺)
   武田信玄軍2万7,000人 
VS
徳川家康軍1万1,000人(含織田信長からの援軍3,000人)
  
  結果・・織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。平手汎秀は討死。

    松永久秀が織田信長に降伏。

元亀4年(1573)
 武田軍は遠江国から三河国に侵攻。
 2月 武田信玄は野田城を攻略。
※徳川家康のおしっこちびった伝説。

    足利義昭が織田信長に対して宇治挙兵。
    織田信長は岐阜から京都に向かって進軍。
    織田信長が京都に着陣。
    細川藤孝や荒木村重らは織田信長に寝返った。
    織田信長は上京を焼打ちして、足利義昭に脅しをかけた。
 
 4月5日 足利義昭と織田信長は和睦。
 
 4月12日 武田信玄は病死→武田軍は甲斐国へ帰国。     
     何と信玄が結核で急死。
     武田軍は甲斐に引き返した。
     織田信長・徳川家康は命を繋いだ。
     ★歴史にもしはないが、残念。
      生きていれば、歴史が変わったかも?

 
 7月26日40歳。
   ●槇島城の戦い
    再び抵抗の意思を示した足利義昭は
    二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もった。
    将軍:足利義昭を追放。
    →足利幕府が滅亡。

 7月28元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上した。
8月
  ●第二次淀古城の戦い
  細川藤孝が淀城を攻撃
   籠城そた三好三人衆の一人:岩成友通を討伐。

天正元年(1573)
 8月8日〜 
  織田信長30000の小谷城侵攻。
   浅井長政3000で籠城。
  織田信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。
 8月14日
  朝倉義景は浅井長政の救援のため兵を進めた。
刀根坂の戦い
織田信長30000
VS
朝倉義景10000
  朝倉義景は敗北。
  朝倉義景は一乗谷(一乗谷城)に帰陣。
  
  朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継・富田長繁
  ・毛屋猪介・戸田与次カらが織田信長に寝返った。

  朝倉義景の手勢は近習含め500人となってしまった(伝)。
  朝倉義景の筆頭:朝倉景鏡が大野郡にて形勢の建て直しを
   図るように箴言した。
 ●一乗谷城の戦い
 8月15日〜16日織田信長は休息を取らせた。
  羽柴秀吉による事前工作・・平泉寺城の僧兵集団には、既に
  所領安堵などを条件ですでに信長と内通していた(伝)。
 8月17日 織田信長が越前に攻撃。
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 8月18日 織田信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧
   かつて1万人余もの人口がいた繁栄を誇った街が焼けた。
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 8月20日か22日? 朝倉義景は六松賢松寺で、裏切った朝倉景鏡
  の手勢に囲まれ、自刃。
  時に41歳。越前の朝倉氏は滅亡。
  
  朝倉景鏡は朝倉義景の首を持参し、織田信長に持参した。
  しかし、朝倉景鏡の義景関係の助命嘆願のも関わらず、
  織田信長は、朝倉義景の身内を護送中に処刑した。
 
8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城
   京極丸を急襲して陥落させた。本丸の浅井長政と小丸の父:
  浅井久政を分断させることに成功した。小丸で浅井久政が自害し
  8月28日 本丸も落ちた。
    浅井長政は本丸の袖曲輪:赤尾屋敷で自刃。浅井氏は滅亡。
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   浅井長政は、小谷の方(お市)と三人の娘を、織田信長の
    元に送り届けた。時に29歳。
羽柴秀吉が連れ出した説もある。
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 (★小谷城の京極丸)
 9月 浅井長政の母・小野殿(阿古御料人)を殺害。
    浅井長政に嫁いでいた妹:お市らは落城前に落ち延びて
    織田信長が引き取った。

◆◆ 箕輪初心●小谷城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201101/article_8.html


9月24日 
 ●第二次長島攻撃 
   織田信長は伊勢長島に行軍
   織田信長軍30000とも50000とも?
一向一揆軍25000
    織田軍は滝川一益らの活躍。
    半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。
    結果・・・氏家卜全・林通政が討死。
織田信長が敗北。

11月 河内国の三好義継の反乱
   織田信長は佐久間信盛の軍勢を河内国に進軍させた。
11月16日 三好義継はに自害。三好氏も滅亡。

12月26日 大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、
      織田信長に降伏。


天正2年(1574)41歳
 1月 越前国で、地侍や本願寺一向宗門徒の反乱
   守護代:桂田長俊(前波)一乗谷で殺害。

   甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻。
   織田信長は嫡男:織田信忠とともに迎撃しようとしたが、
   織田信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城。
   織田信長は武田勝頼軍との衝突を避けて岐阜に撤退。

3月18日 織田信長は上洛して 従三位参議
3月28日 正親町天皇勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を
     切り取る。

7月〜9月 
  ●第3次伊勢長島攻撃
   陸・・・数万人の大軍
   海・・・織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍
織田信長軍約100000
VS
一揆軍約30000
一向宗や地侍や旧北畠家臣などが抵抗。
   伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにした。

8月 大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が
   織田信長の鉄砲で討ち取られた。
 9月29日 長島城の門徒は降伏。
   織田信長の庶兄:織田信広、弟:織田秀成などが戦死。
   頭に来た織田信長は中江城、長島城に立て籠もった
   長島門徒2万人を城の周囲から柵で包囲し、焼き討ち
   にして皆殺しにした。
   結果・・織田軍が約20000人が虐殺し、勝利。
    織田信長は長島を占領。


天正3年(1575)42歳
3月
高屋城の戦い
  荒木村重が大和田城を占領。
   織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万兵で出撃。
  高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにした。
  新堀城が落城→三好康長は降伏。
 
 
 ●長篠の戦い
・天正3年(1575)
4月 武田勝頼は離反し、徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つ
  ため、1万5,000人の軍勢を率いて奥平貞昌の居城:長篠城
  攻撃。
  長篠城500の兵+200丁の鉄砲や大鉄砲を持っていた。
  武田軍に善戦。兵糧の減少により追い詰められた。
  奥平貞昌の家臣:鳥居強右衛門を密かに逃し、岡崎城の家康へ
  後詰を要請。
  奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取った。
  
 5月12日 織田信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣。
 5月13日 織田信長が岡崎城に到着。
 5月17日 三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。
      織田・徳川連合軍は3万8,000人。
 5月18日 設楽原に陣を敷いた。
 5月21日 織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まった。
  ●長篠の戦い・・・設楽原決戦
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 (★清洲城のビデオより)
   ※新メニュー・・・3段構えの鉄砲隊。
火縄銃・・・3,000丁(★ウキペディア・信長戦記)
武田勝頼率いる最強武田騎馬軍団
  織田信長率いる鉄砲隊が正面から激突。
  織田信長の鉄砲隊が威力を発揮した。
  武田騎馬軍に、織田軍の鉄砲隊が一斉に火を吹いた。
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  武田軍は一発撃てば次は無いと思いこんでいたので、
  そのまま突っ込んでいった。
  しかし、三段に構えた織田軍の鉄砲隊に休むことなく放た
  れた。武田騎馬軍は次々と倒れていった。
   織田軍の鉄砲隊の前にあっという間に壊滅した。

織田信長&徳川家康38000
VS
武田勝頼軍15000(★ウキペディア)
140000(★信長戦記)
  結果・・・織田軍6,000人。武田軍に圧勝。
       武田軍10,000〜12,000人戦死
・山県昌景(★武田譜代家老→子孫は井伊直政の赤備え軍団)
  ・内藤昌豊(★上野国:箕輪城城主)
  ・馬場信春(★築城の名手=小諸城・松本城など縄張り)
  ・横田康景(★信濃松代城?横田高松の婿養子・原昌胤の兄)
  ・原昌胤 (★美濃土岐氏の庶流→24将)
  ・原盛胤 (★千葉氏一族の原氏の出自)。
  ・真田信綱(★上野国岩櫃城:真田幸隆の嫡男)
  ・真田昌輝(★上野国岩櫃城:真田幸隆の次男)
  ・土屋昌続(★上野国保渡田城:内藤昌豊と)
  ・土屋直規(★上野国保渡田城:内藤昌豊と。土屋昌続弟)
  ・安中景繁(★上野国松井田城)
  ・和田業繁(★上野国和田城→高崎城)
  ・小幡憲重(★上野国国峰城)
  ・望月信永(★武田信玄甥で武田信繁3男。信濃望月氏養子)
  ・望月信雅(★信濃望月城主?)
  ・甘利信康(★甘利昌忠の子)
  ・米倉重継(★甘利衆同心頭→武田信玄従者。夜警・目付役)  
  ・高坂昌澄(★武田譜代家老:春日虎綱(高坂昌信)の長男)
  ・根津??(★信濃根津城主→家康の鷹匠。根津光儀氏の先祖)
『信長公記』
 ★織田信長の優れていた点は、先見の明に優れていたことで
  ある。長篠の合戦も、武田勝頼が強引に押しきった。
  織田信長と武田勝頼の器量の差が戦いの結果に結びついた。


 6月27日 織田信長が上洛。
  天台宗と真言宗の争論の問題の解決に当たらせた(絹衣相論)。

7月3日 正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが
     織田信長は拒否。
   家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。
  松井友閑・・・宮内卿法印
  武井夕庵・・・二位法印
  明智光秀・・・惟任日向守
  簗田広正・・・別喜右近
  塙直政・・・・・原田備中守
  丹羽長秀・・・惟住
   などの官位と姓を与えた。

 8月 
 ●越前侵攻
木の芽峠城の戦い
    下間頼照や朝倉景健ら12,250人を数える越前国
  ・加賀国の門徒が織田軍によって惨殺された。
さらに一揆の残党狩は続き、越前領内の坊主を大罪人
    として磔にした。徹底した捕獲作戦が行われ、
   結果・・・30000人とも40000人とも言われている。
   越前国は再び織田領。
   ・越前八郡・・・柴田勝家
・大野郡・・・・金森長近と原彦次郎
   ・府中の周囲2郡・・不破光治・佐々成政・前田利家
   ・織田信長は国掟8条を出した。
  ★写真がない。

 11月4日 織田信長は権大納言に叙任。
 
 11月7日 右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職)に叙任。
  織田信長は御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式
  の儀礼を挙行。
  信長のよび名は「上様」となり、将軍と同等とみなされた。
  嫡子:織田信忠は秋田城介(鎮守府将軍の前官)
  次男:織田信雄は左近衛中将に叙任。

11月21日 嫡男:織田信忠が東美濃:岩村城を陥落。
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11月28日 織田信長は嫡男:織田信忠に織田家の家督
  ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲った。
  ※織田信長が実質的に政治・全軍を総括した。
 

天正4年(1576)43歳。
1月 織田信長は、安土城の築城を開始。
    ※天正7年(1579年)に五層七重の天守が完成。
    安土城に移転。

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近畿ツーリスト「岐阜の古城と鵜飼いと常滑焼」という ツアーでやってきた。実際は、郡上八幡城→岐阜城→ 長良川鵜飼い→近江温泉→常滑焼コースなのだ。 ★「岐阜城」+「織田信長館跡」は2時 間の散策。時間稼ぎの計画だろうが、実によかった。 ...続きを見る
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2012/10/20 07:59

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