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zoom RSS 箕輪初心★「井伊直政の町:高崎(高崎高校)VS彦根(近江高校)」

<<   作成日時 : 2012/03/28 07:57   >>

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平成24年(2012)3月26日、選抜高校野球が『高崎高校
VS近江高校』・・結果は7対2で近江高校の勝ちだった。

井伊直政は、駿河:井伊城
遠江國引佐郡渭伊郷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)
にある井伊谷城(別称・井谷城、井伊城)★浜松出身ですさんの
ご指摘です。

上野:箕輪城8年→上野:高崎
城2年→近江:佐和山城2年→近江:彦根城でずうっ〜〜と。
つまり、高崎&彦根は井伊直政が発展させた町だった。私は
「400年後、第84回選抜高校野球で『高崎高校VS近江高校』の
対決なんて、不思議だなあと思わずにはいられなかった。

平成24年(2012)3月24日、選抜高校野球が『高崎高校
VS 近江高校』に開始されたが、途中で雨のため、ノーゲ
ームになった。3月25日、第C試合が設定された。私は、
苗場でスキーをした後、カーナビでTVを見ながら帰った。

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箕輪城シリーズ54「井伊直政」をブログに掲載した。
http://53922401.at.webry.info/201010/article_40.html

箕輪城シリーズ54「箕輪城&彦根城の類似性」をブログに掲載した。
http://53922401.at.webry.info/201101/article_10.html

【1】野球対決編・・・・NHKのTV上映&上毛新聞より
@『高崎高校2点』・・・31年ぶりの出場
  当時の野球部監督田端先生も行っていた。職場に
  時々見える方である。私は、田端先生の倅と至仏山や
  奧穂高岳に登った。職場の同僚は前日だけであった。  
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A『近江高校7点』
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  ★高崎高校が負けて残念であった。
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○1150kmを日帰りした職場の同僚の土産
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【2】学校対決
@『高崎高校』・・・
元総理大臣:福田赳夫 中曽根康弘もいるよ。
 http://www.takasaki.ed.jp/

A『近江高校』
昭和13年 初代理事長:夏川嘉久次が近江実修工業学校創立
http://www.ohmi-h.ed.jp/


【3】城対決
@『高崎城』
 元は、平忠常?氏系・三浦系・和田義盛系の落人の築いた
 和田城(鎌倉時代は赤坂と呼ばれていた。)
・天正18年(1890)豊臣秀吉の命で、上野国の箕輪城に移封。
  井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
    {箕輪城の歴史・・・箕郷町教育委員会の冊子より}
  徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城=北関東支配の拠点?  
 ★箕輪初心私見・・「特に真田・上杉対策ではないだろうか?」 
 ★箕輪初心私見・「井伊氏の時代に城の拡張工事(堀の深さ10m
  ・3の丸と本丸への橋・二の丸と大堀切・2006年発掘の門
  ・郭馬出・木俣・水曲輪・法峰口・新曲輪など)をしたのでは。
  ※城下町が箕輪小の南に細長く、発展しているから。」


 箕輪城に「木俣」&「松下(稲荷郭)」と呼ばれる場所
 がある。彦根藩では木俣守勝は筆頭家老であり、松下は、
 15番目の家老である。

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・慶長3年(1598) 井伊直政は高崎城に移り、城下町を造った。
    木俣守勝は元武田家家臣の早川
  幸豊三(左衛門)を使って、武田流&北条流で築城

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・慶長5年(1600) 関が原の戦い
    ●井伊直政の兵力5000で家康本軍に随行。
・文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。
*榛名町神戸(高浜北の新幹線出口の上)に検地。
  *4月18日 「扶20万貫都合、あらたむべきこと。」          
   (高井家文書)
 ※秋本説・・箕輪人口推定2万人以上〜最高4万人規模「
  ★関東最大では2番目では?」
 ★箕輪初心 「関ヶ原の戦いで5000・・・馬1250騎+歩兵3750人」
  1250×4=5000人の家族+歩兵3750×4=15000人
                   〜20000人
  +武具関係家族200〜500人  
/商人家族は200〜300人
  +長野の生き残り+武田の生き残り+北条の生き残り
・・・1000人以上?

  
 はじめは200騎だとすれば、井伊直政の家臣とその家族は
 2000人〜2500程度である。
 
 つまり、37500人は、途中からの家臣だということになる。
 群馬県の土着の配下は、20000人以上いることになる。
 この人達も彦根に着いて行った人が多いことになる。


A『彦根城』・・・新築。
・慶長6年(1601) 彦根城の築城開始。
木俣守勝は元武田家家臣の早川幸豊三(左衛門)を使って、
  武田流&北条流で築城。

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 (★木俣守勝の屋敷)
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【3】彦根の群馬県の家臣
■井伊氏の家臣団
 井伊直政の領地・家臣を与えられて家臣団が成立.
@井伊谷での譜代家臣+家康命令の家臣
 A武田氏滅亡後の武田遺臣・・・山県120人など
  ○早川幸豊三(左衛門)
   武田信玄、勝頼に仕えた。
    馬場美濃守・勘介流(甲州流)の築城法を山県昌景
    より伝授された。
   ・天正10年(1582)徳川家臣:井伊直政の家臣になった。
・天正18年(1590)井伊直政の箕輪城移封。
(★木俣守勝の命令で、箕輪城の改修工事を
 をしたと思われる。ここで、北条流の橋台・
 犬走り・畝堀・堀障子の技術などを学んだ。)
・慶長3年(1598)  井伊直政は高崎城を造った。
高崎城も木俣守勝の命令で、和田城の拡大工事
を行った。甲州流&北条流の築城技術を生かして
高崎城を建築した。畝堀が発掘された。
   ・その後、甲州流によって彦根城を築いた。
  ○広瀬美濃守景房
   甲斐石和広瀬の郷士。武田信玄・家に使え、板垣衆を経て
    山県衆へ。長篠の合戦では足軽大将衆。
    武田家滅亡後は井伊直政に仕える。

 B駿河の今川氏、相模の後北条氏など旧戦国大名家の遺臣
 C上野箕輪城・高崎城領主時代の上野の出身家臣
  ★箕輪初心私見「特に長野一族の重臣に抜擢し、長野時代
  (長野家→武田家→北条家)の家臣になった一族を
手名付けたかったのであろう。
★箕輪初心「金をばらまいて、上野農民など5000人の
  軍隊を作り出したらしい。松井田の奥まで。兵隊が欲
 しかったのであろう。」
12万石・・・箕輪5000石+新高崎+新安中
D近江も多い.。
 ※「井伊年譜」・・・家臣団は「〜衆」といった組により編成。
筆頭家老・・・木俣家10000石。
   ※徳川譜代。強制的に井伊直政の家臣に配属
次席家老・・・庵原家5000石
   ※北条氏照家臣:狩野一庵の子主膳(氏照落胤)
3席家老・・・長野家4000石  
   ※箕輪城の長野業政業盛の子孫。養子業親子孫。

家老・・・・
 C河手家4000石
    ※井伊直政姉:春光院の嫁ぎ先の家系。
 D西郷家3500石
   ※徳川家康臣:西郷元正の子。西郷局の従兄弟。
 E中野家3500石
   ※井伊直氏の弟:中野直房を祖とする家系。
 F小野田家3000石 ※
 G横地家2600石 ※
 H三浦家2500石 ※
 I宇津木家2500石
   ※上野の玉村の領主?。北条氏→井伊家へ

 J貫名家2300石
   ※井伊良直の弟:貫名政直を祖とする家系。
 K新野家2000石
   ※井伊直政を助けた譜代重臣の家系。
 L脇家2000石  
         ※
 M岡本家1950石
         ※上野の富岡の領主?長野家と親戚の家系。
 
 N松下家????石
        ※井伊直政の養父・継父松下清景の家系。


■箕輪落城後の長野一族 
井伊直政(学研?)・40年の歩み
  ●長野業政→長男:長野吉業(菅谷城)河越夜戦がもとで死去。
      次男:長野業盛=氏業(箕輪城)
       永禄9年(1566)自刃。
3男・長野業忠(浜川館)浜川長野氏の祖。
◎長野業忠=長野業親→◎長野業実:彦根長野氏の祖?

1)長野業政→長野氏業(=業盛)→亀寿丸(=鎮良)の子孫
  永禄9年(1566)9月29日、武田信玄の攻撃で、箕輪城の
    落城時に長野業盛は、自刃。家臣の藤井忠安(筆頭家
    老の友忠の子)・青柳金王・阿保清勝らに伴われ、極
    楽院(高崎市箕郷町和田山)に脱出。
    その後、出家して極楽院鎮良と名乗った。
    阿保清勝の姪を妻として5子があった(伝)。
  ※極楽院鎮良は武田氏や徳川家から安堵状・印状を授与され
   ている。
  ※別の長野系図では、氏業の子:業忠がある。浜川の善長院
   を建立(伝)
 
2)長野業政→嫡子:長野出羽守業親→長野十郎左衛門業実の子孫
※長野業政→長野出羽守業親(=浜川遊喜斎)
 ※天正14年(1586)北条氏邦の沼田城(真田昌幸&矢沢頼綱)
   を攻撃
   浜川遊喜斎が北条軍として、攻撃に参加
      (★山崎一:長野氏興亡史)
 @井伊家3席家老:長野一族・・長野十郎左衛門業実の系図
3席家老の長野民部は長野一族である。
  業正(業政)の子:業親の子が伝蔵(業実、業真)である。
  ※長野業実(向坂伝蔵)は、武田氏の滅亡後、生母が井伊直
   政と知りあいだったことから、徳川家康の近習として仕え
   た後、井伊直政に仕えて4000石を賜ったとされる。
         (★彦根藩「侍中由緒帳」)
★箕輪初心私見「やや、年齢を考えると無理があるのでは?」
 長野業実→業輝→業利→業則→増業→業庸→業房→好業→業義
   →業壽→業賢
 (★『彦根藩井伊家文書』(彦根城博物館所蔵)の「侍中由緒帳」)
  
 D長野出羽守業親が長野氏の系図16種に出てこないため、
  業正(業政)の庶子か養子、または近親者とする。
         (『新編高崎市史 通史編2』)
ちなみに、出羽守は、3名が名乗っている。
 A,厩橋城主:長野方業(業政叔父)
B,厩橋城主:長野勝業(方業養子)
C,菅谷城主:長野吉業(業政長男)河越夜戦が
        もとで死去。
B長野業忠=長野業親→◎長野業実:彦根長野氏の祖?                 
(★高崎市文化協会:西原巌氏)

3)鷹留長野氏・・長野業氏(長野業政兄)鷹留長野氏の祖。 
 @長野業氏(長野業政兄)→長野業通(長野業政の娘婿)
   →次男:業茂
  業通の次男:業茂は、箕輪城落城後に仏門に入った。
  「珠山玄宝」と名乗って、和田山長純寺の住職になった。
  井伊直政・直勝・直孝に従い、彦根に移住し、彦根長純
    寺を開いた(伝)
★箕輪初心「2009年5月、現在は、寺の敷地のみで、
 寺院はなかった。
 長野氏の墓を捜したが見つからなかった。」
 A長野業氏の次男:業亮は、長野氏が健在の頃から和田山
  大雲寺にあり、
  大森別当・曇廊などという。落城後に住職となり、井伊氏の
  移動に従って彦根大雲寺を開いた。(大雲寺記録)。
B長野民部は「珠山玄宝=長野業茂」の出家前にもうけた
    次男:業源のことだとされている。
(天保9年(1838)徳川家が長野業正の子孫を探した時、
   長野氏関係の寺院が連署で幕府に提出した報告書)
 C長野業氏→長野業通→業亮(=曇廊和尚)
   →業亮の子:成誉典応
   彦根宗安寺の開山   
  (天保9年(1838)「大雲寺寺歴書」)
 D長野業氏→長野業通→長野業亮(=珠山玄宝)の子:業連(
            「宗安寺記」)

★これから、フィリピンでダイビングである。

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内 容 ニックネーム/日時
直政は駿河出身ではなく遠江出身です。
そもそも駿河に井伊城など存在しません。
あなたがいいたいのは遠江國引佐郡渭伊郷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)にある井伊谷城(別称・井谷城、井伊城)のことではありませんか。
そもそも井伊氏の始まりも井中出生伝説のある備中大夫共保公が井伊谷に居住したことに始まります。なので井伊氏の出身には駿河はまったくもって関わりがないのです。
記事の訂正を要求します。
ちなみに井伊氏は藤原北家良門流または藤原南家為憲流または三国真人が本姓で、氏祖は備中大夫共保公です。
浜松出身です。
2015/05/27 13:46
ご指摘ありがとうございます。
早速、訂正いたします。
浜松出身です。さんへ
2015/05/28 17:50

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箕輪初心★「井伊直政の町:高崎(高崎高校)VS彦根(近江高校)」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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