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zoom RSS 箕輪初心★大河ドラマ【平清盛】親友:佐藤義清=西行A「生涯」

<<   作成日時 : 2012/03/19 06:37   >>

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【4】◆◆ 佐藤義清=則清(のりきよ)の先祖 ◆◆
1)佐藤義清の先祖・・・藤原秀郷流。
藤原秀郷の7代目の子孫:藤原公清が佐藤を名乗った。
(=佐藤義清の曽祖父は:藤原公清の佐藤公清と改姓。)
紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。
※紀伊国田仲荘(=現紀ノ川市)。紀ノ川沿岸も西国2番:
粉河寺の南西の肥沃な土地である。上流は吉野川である。
★預所(あずかりどころ)とは、京都にいる荘園の持ち主の
現地への派遣長官である。田仲荘は摂関家=藤原家の所領で、
佐藤氏は田仲荘の荘園の在地代理領主として経営をまかされ
ていたのだ。つまり、佐藤家は、エリート一族であったのだ。
佐藤義清は華麗なる一族の亜流=分家なのである。藤原秀衡
とも近い親戚なのである。
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【5】佐藤義清=西行の生涯
1)誕生〜・・・
・元永元年(1118) ●佐藤義清が誕生&平清盛が誕生。
  紀伊国田仲荘(=現紀ノ川市)に在住か?
・保安4年(1123) ※崇徳天皇は5歳で即位。
 
  紀州宇久井村(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井村)での歌
  『目覚山 下す有らしの はげしくて 
        高根の松は 寝入らざりけり』


2)摂関家への出仕時代
・長承2年(1133) ●16歳頃から徳大寺家に仕えた。
    右大臣徳大寺実能や嫡子:公能と親交を結ぶ。
    百人一首の後徳大寺右大臣は公能の子である。
 
 ※和歌に関する若年時の師匠は不明である。〜〜〜
  @崇徳院の歌壇にあって、藤原俊成と交流があった。
  ★藤原俊成は確か右大臣徳大寺実能の兄弟?である。
    
  A俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたらしい。
俊恵=源俊頼の次男で、東大寺の僧。
「方丈記」の鴨長明の師匠である
 ★でも、きっと素晴らしい師匠がいたに違いない。

この頃、平忠盛&清盛が瀬戸内海の海賊を押させ、
 家臣団に組み込んだのであった。

3)北面の武士時代
・保延元年(1135) 下北面・鳥羽院に謹仕
      18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官=少尉)
・保延3年(1137) 鳥羽院の北面武士として出仕。
(★記録が残存)
    和歌と故実に通じた人物として知られていた。

『後鳥羽院御口伝』・・・「西行はおもしろくて、しかも心こと
  に深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。
  生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。
  不可説の上手なり」・・
 ※現代語訳&端的な解釈では、
「西行は生まれながらの歌読みで、凡人が真似してはいけない。」
という意味だそうである。

大河ドラマでは、
 イケメンぶりを発揮し、都の女を魅了した。
 同僚が白河院の御落胤:平清盛で同年で親友だった。


4)出家の決断の時・・
後鳥羽院に、いとまを申し侍るときの歌
『惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは
       身をすててこそ 身をも助けめ』

  ※意味:いくら愛着をこの世に持ったところで、自分の思う
  ようにはならない。だから、我が身を捨ててて、愛着をた
  ってしまいたい。

友達には、
『世の中を そむきはてにと いひおかむ
        思いしるべき 人はなくても』


 平清盛には、佐藤義清は清盛に殴られながら、
  『身をすつる 人はまことに すつるかは 
    すてにひとこそ すつるなりけれ』(★大河ドラマ)

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※略。・・・わかるなあ。

・保延6年(1140)23歳で出家。円位を名乗った。(後に西行)。
        
 @小倉山(嵯峨)の庵・・・勝持寺
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 A鞍馬山の庵・・・
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 (★鞍馬寺の山門)
 
 B奈良の吉野山・・秘境の霊場:吉野。10万本の桜がある。
 『花に染む 心のいかで  残りけん 
    捨て果ててきと  思ふわが身に』

 ※意味:世の中への執着を全て捨てたはずなのに、なぜ
   こんなにも桜の花に心奪われるのだろうか?俺って未熟
  ★西行は煩悩に苦しんでいる「煩悩の徒」であった。
  迷いや心の弱さを素直に歌に込めていった。
 
  『いつの間に 長き眠りの 夢さめて 
        驚くことの   あらんとすらむ』

 ※意味:いつになれば長い夢=迷いから覚めて、万事に
   驚かない心=不動心を持つことができるのだろうか。
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 (★大河ドラマの紀行写真より)
 『ねかはくは 花のしたにて 春しなん 
      そのきさらきの もちつきのころ』(山家集)


 『ねかはくは はなのもとにて 春しなん 
      そのきさらきの 望月の比』 (続古今和歌集)


  花の下を「した」と読むか「もと」と読むかは
  山家集&続古今和歌集とで異なる。
  花=桜である。

・康治元年(1142)  待賢門院出家(42歳)
          草庵を創建。
 ●西行の妻は、天野の庵で生涯暮らした。
★西行は悶々と暮らしていたのであろう。

C鈴鹿の庵
  『鈴鹿山 浮き世をよそに 振り捨てて 
    いかになりゆく わが身なるらむ』

  ※意味:鈴鹿山で、浮き世を振り捨てこうしているが、
    これから、私はどうなっちゃうのだろうか?

 『世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 
        都はなれぬ 我が身なりけり』
 
  ※意味:世の中を捨てたはずなのに、都の思い出が煩悩と
    なって、私から離れないのだ。ダメな男だ。俺は。
かつての女性を思い出しながら、嘗めた男だった。
 「人生嘗めずに、これ、舐めて=キンカンのど飴」〜〜〜〜。

5)近隣漫遊の旅の時代・・・★おそらく、現世への未練?  
  ●諸国をめぐり漂泊の旅に出て多くの和歌を残した。
・天養元年(1144)
・久安元年(1145) 待賢門院没(47歳)
★旅立ちのきっかけかもしれないなあ。
奥州の親戚:藤原秀衡を訪ねてみるか?

・久安元年(1145) 待賢門院没(47歳)
★旅立ちのきっかけかもしれないなあ。

6)1回目の奥州の旅@
・久安3年(1147) 30歳。 ※源頼朝誕生
     徳大寺家:藤原実能が徳大寺を落慶した。  
 陸奥へ旅立つ・・★思い切って、親戚の藤原秀衡を訪ねるか
 と思った。   
○鈴鹿(三重)
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○伊勢(三重)
○天竜川(静岡)
  渡りの船に便乗した時には、一人の武士に
  「おまえがいては船が沈む、降りろ。」
  と言われ、殴られた。
  西行は頭から血を出しながら、情けなく降りたという。
  ★実に情けないエピソードである。
  
@秩父「西行戻り橋」・・・
  ★現在の埼玉の寄居は、平清盛の親戚:秩父平氏
   地盤である。後に秩父児玉党の藤田氏の城ができた。
川は荒川の支流:逆川である。
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  (★写真は北条祭り・・・鉢形城の荒川河川敷)
西行が寄居町末野から秩父への歌の修行に向う途中だった。
  末野を流れる逆川にかかる土橋で、西行は
  「小僧、どこへ行く」と問いかた。すると、子どもは
  「冬ぼきの夏枯草(麦)を刈りに行く」
  と答えた。
  西行は「冬ぼきの夏枯草」の意味が解らなかった
  橋のたもとのあばらやで、美しい小娘がハタを織っている姿に
  西行はうっとりとみとれている。
  「その絹を売るか?」とたずねました。
  すると、娘は、
  「ウルカとは、川の瀬にすむ鮎のはらわたです。」
  と答えた。
  西行は、秩父では、少年も少女もむずかしい歌を簡単に作る。
  「自分は恥ずかしい、」といってこの橋から戻って
  しまった。
http://www10.ocn.ne.jp/~kosuke/yorii/densetu.htm

 A日光「西行戻り石」・・・稲荷神社
奥州藤原氏への勧進の途中の西行が日光に立ち寄った。
 子供と話したの逸話が残る。
 境内裏に埋もれていた石で造られた西行の歌碑がある。
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○白河
『白河の 関屋を月の もる影は 
         人の心を とむるなりけり』

 ※意味:白河の関屋をもれてくる月の光の影は、なんと
   人の心を止めてしまう=惹きつけてしまうのだろうか。
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 (★でも、案内板にはのってないのだ。)


○信夫(福島県福島市)
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 (★福島県庁=大森城)

○名取(宮城県)
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 (★名取市・・・竹駒神社)
 西行は、河岸にある紅葉を見つけて
 『なとり河 きしの紅葉の うつる影は 
           おなじ錦を 底にさへ敷く』

  現代語訳:名取河の岸にある紅葉が、川面に映っている。
  そうしてよく見れば、川底にもまるで錦を敷いているように
  紅葉の影が沈んでいるようだ。


B松島「西行戻しの松」
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西行が松島に行く途中に休んでいると、少年が通りかかった。
「月にそふ 桂男の かよひ来て 
      薄ならむは 誰が子なるらん」
 と少年に問うた。
「桂男というのは、確か妖怪ですね。」・・・。
「雨もふり 霞もかかり 霧もふる 
        はらむすすきは誰か子なるらん」
 と答えたと言う。
 西行は、ただの子供ではないと驚いて、
 「一体どなたでしょう? 何をしている人ですか?」
 と尋ねると
 「これから、夏枯れ草を刈りに行くところです」
 と答えたと言う。
 (★某Hpより)

 10月12日 平泉。
西行は、黄金に飾られた北の都:平泉の栄華だった。
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 ★藤原秀衡が迎えに出ただろう。
    なぜなら、西行の親戚だからである。
  藤原秀衡は出家の理由を聞き、
  「何で出家なんかした? 
   出家をしなく立って、歌は作れるだろう。
   妻子がかわいそうだ。」
と、言ったのに違いない。
 
○衣河
  『とりわけて 心もしみて さえぞわたる 
           衣河みに きたるけふしも』

 ※意味:特別に心に沁みてくるのだろう。
     今日も衣川を私は見にきたのだ。
     凄いとこであった。

○平泉
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  西行は小さな庵でどんな思いで暮らしていたのか。
  所在なく、寒風・雪に晒されながら、
  京都と待賢門院を思って、泣いていたのであろう。
★暇人は、たぶん、昔の栄華と女しか思い出せないであろう。
 『常よりも 心ぼそくぞ  おもほゆる
         旅の空にて  年の暮れぬる』
 
 ※意味:いつもの年の暮れよりも随分と心細く感じられる。
  それもそのはず、旅路の果てに陸奥まで来てしまったのだ。
  奥州の空の下での年の暮れなのだから、寂しすぎる・・・。

 『雪降れば 野路も山路も 埋もれて 
           遠近しらぬ 旅のそらかな』
   
 ※意味:平泉に雪が降ると、大きな通りや庵の前の道の
  真っ白に埋もれてしまっている。雪が解けて、旅立つ日は
  遠いのか近いか分からないが、旅先での雪は降り続けてい
  る。もう、嫌。こんな生活・・・と言ったところであろう
  か。また、勝手な解釈をしてしまった。 
  西行は、奥州の寒さと孤独の中で春を待ったのだ。
  雪が解けたら、俺は平泉を発とうと思った。
  奥州の冬は、辛かったのだ。たぶん。

・久安4年(1148)  平泉で束稲山の桜見物。
西行は、藤原秀衡の別れを告げに訪れた。
  藤原秀衡は束稲山(たばしねやま)の麓で馬を下りた。
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 (★中尊寺から束稲山(たばしねやま)を望む) 
 『奥に猶 人見ぬ花の ちらむあれや 
       尋ね越らん 山ほとゝぎす』

 ※意味:奥山に、人が見ていない花が 散らないで咲いて
   いて欲しい。やまホトトギスが来る夏5〜6月になった
   ら、鳴き声を聞きながら分け入ってみたい。
 ★東北のこの頃の花といえは、アズマシャクナゲか?
 ★いつか、一緒に奥山=栗駒山?岩手山?に行こうかも?
 ★いや、そんな単純ではない。もしかしたら、この歌は、
  平泉の永遠の輝きを願った和歌かもしれない。
  奧に猶=平泉、人の見ぬ=都の人も見たことのない
  花散らんあれや=平泉の栄華が散らないように
祈っている。〜〜〜と藤原秀衡にエールを送ったのだ。
西行は藤原秀衡を励まされた。
また、勝手な解釈をしたいるのだ。
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 (★パンフレット表紙)
  『中尊寺』&『毛越寺』など、5ヶ所が、世界遺産になっ
  ちまったどー。ほんま、凄いぜよ。

  後に、藤原秀衡は源義経を匿うことになる。
  源義経を擁立して、源頼朝に対抗する考えを持った。
        
  西行は、陸奥から帰京 〜〜〜〜。

6)京都→高野山の生活時代
・久安5年(1149) 高野山(和歌山県高野町)
 @大峰入の修行
  大峰山に登って、修行に励んでいた。
  「その構えが出来ていない。」
  と先輩の坊主に罵られて、大泣きをした(伝)。
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 A高野山にて修行
  人恋しさの余り人骨を集めて秘術により人間を作ろうとし
  たが、化け物が出来上がってしまった。恐ろしくなり、
  人の通わぬ所に逃げ帰った(伝)。       
 ※鳥羽院皇后:得子が美福門院となった。
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7)流浪の旅時代
・仁平2年(1152) 修行の旅
       ※平清盛が厳島神社を修造。
・仁平4年・久寿元年(1154) ※源義仲が生まれる
・久寿2年 (1155) ※近衛天皇崩御(17才)
             後白河天皇即位

・保元元年(1156) 39歳  ※鳥羽院崩御(54歳)
           崇徳院を仁和寺に見舞う。
  ※7月11日 保元の乱
          ※藤原頼長敗死(39才)
            ※崇徳上皇が讃岐に流される

・保元2年(1157) ※徳大寺家:藤原実能没(62才)
・保元3年(1158) ※二条天皇が即位。・・・後白河院政。
         
・平治元年(1159) 42歳
  ※平治の乱  源信頼&源義朝が後白河上皇の御所三条殿を焼く
         平清盛は源信頼を六条河原で斬る。
         ※義経誕生  
・永暦元年(1160) ※源義朝が討たれる(38歳)
          源頼朝は伊豆に流される
          美福門院没(44才)

・永暦2年(1161) ※徳大寺家:藤原公能没(4?歳)
・応保2年(1162) ※藤原定家誕生

・長寛2年(1164) 47歳 崇徳院が讃岐で崩御(46歳)

・長寛3年(1165) ※二条天皇崩御(23才)
         ※平清盛・・・権大納言。重盛は参議。

・仁安元年(1166) 50歳 ※平清盛が太政大臣となる。
          西行&清盛はともに50歳。


7)四国への旅&在住時代・・・3年
・仁安3年(1168) 51歳  ※平清盛出家
    四国へ旅立つ
讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)で庵を設立。
    讃岐国で、崇徳院の白峰陵を訪ねて霊を慰めた。
    ※『雨月物語』中の「白峰」(上田秋成)。
    弘法大師の遺跡の巡礼も兼ねていた。
    善通寺に庵居〜3年間 
            ※高倉天皇即位
・承安元年(1171) 54歳  四国の旅より帰京  
・承安2年(1172) 55歳  平清盛の万燈会に出席
            
8)高野山の時代A・・・5年     
            高野山に戻る
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9)伊勢在住の時代・・・8年
・治承元年(1177) 60歳 伊勢国二見浦に移動。

・治承3年(1179) 62歳  高野山で歌の贈答
            平清盛が後白河院を幽閉。

・治承4年(1180) 63歳  高野山より二見に転居
            ※安徳天皇即位
          ※平清盛が福原遷都。
          ※源頼朝が挙兵(33歳)

・元暦元年(1184) 67歳 ※木曽義仲が敗死。
・元暦2年(1185) 68歳 ・・・壇ノ浦にて平氏滅亡

10)2回目の奥州への旅A
・文治元年(1186)東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため
         に二度目の奥州下りをした。(『吾妻鏡』)
        源頼朝に面会し、政治の話をした。
○鎌倉
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 (★鎌倉八幡宮・・・大銀杏があった。)
  源頼朝に面会
   頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて
   「一切、忘れはてた。」
   と、とぼけたといわれている。
  源頼朝から拝領した純銀の猫を通りすがりの子供に
   与えた(伝)。 (★『吾妻鏡』)

○平泉
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 (★中尊寺から平泉を望む)
  西行と藤原秀衡は、38年前の昔話を語った。
  
○毛越寺
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○衣河・・38年の自分の波乱に満ちた生涯を振り返った。
 「18歳で北面の武士として立った頃、
あの頃は絶好調だった。宮中の女から持てたし〜〜。
  自分の人生は最高だ。。
  23歳で甘美な恋を知った。人妻に恋をしたのだ。
   でも、出家をせざるを得なかった。
   結局、自分には和歌しかないのだ。」


○平泉
  ★西行は藤原秀衡に、
 「頼朝は義経殿は罪人にした非情な男だ。
  奥州は明らかに源頼朝が狙っている。注意なされよ」
と、言って別れたに違いない。


★源義経は、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て、平氏を滅ぼた
 最大の功労者であった。・・・しかし、
 平氏との戦いにおける独断専行したこと、
 源頼朝の許可を得ることなく院より勝手に官位を受けたこと、
 兄:源頼朝の怒りに対して、自立の動きを見せたたこと、
 朝敵とされ、全国に「源義経の捕縛」の命が伝わった。
 平家追討の英雄から一転して逃亡者となっていた。
 源義経は、武蔵坊弁慶他わずかな手勢を従えて、藤原秀衡の
 いる奥州平泉を目指した。
 @北陸道説 
 吉野→北陸道・・安宅の関・・→東山道・・上野・下野・・。
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 (★安宅の関の義経)
A東山道説
  京→伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って
  平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつして
  いたという。
(★『吾妻鏡』文治3年(1187)2月10日)
 
・文治3年(1187) 70歳  陸奥より帰京
   ※源義経は藤原秀衡の元に身を寄せる
   自歌合『御裳濯河歌合』・・藤原俊成の判を請う。
   自歌合『宮河歌合』・・・・藤原定家に判を請う。
   (二つの歌合は伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された。)
 ※西行は「歌壇の流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、
  みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、
  西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成と
  ともに『千載集』を完成させ、さらに新古今集和歌集へと
  つながる流れを生み出した。
(★某有名な西行研究者の意見)

藤原秀衡は源頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、
  源義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとした。
  10月29日藤原秀衡が病没。死去。
(★ウキペディア)

11)河内国弘川寺(大阪府河南町)の庵居時代・・・3年
・元暦5年(1188) 71歳  弘川寺に在住。
   源頼朝の追及を受けた藤原泰衡は
   源義経を攻撃。※源義経は衣川で自刃=戦死。  
★あの時、遭っておきたかったなあ。源義経に。

・元暦7年(1190) 71歳
陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂(伝)。
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 『なげけとて 月やは物を 思はする 
           かこち顔なる わが涙かな』
  
 ※意味「嘆き悲しめと、月はわたしに物思いをふけさせる
   のだろうか。 いや、そうではない。本当は恋の悩みの
   故なのだ。まるで月の仕業であるかのような顔をしてい
   るが、わたしの涙が流れてしまうのだ。」
 (★出典「千載集」&百人一首の訳より)
 ★晩年の作と言われているが、未だに白河院の愛妾で
  鳥羽院の中宮=妻:待賢門院を好きになのだ。
  当時、17歳も年上の40歳の女性であった。
  47歳で死んだが、若いときのイメージが、若いまま
  残っているのであろう。未練がましいと言えなくもない。
  いや、年をとり、寂しさが一層深くなったのであろう。 
 と、解釈した方がいいかもしれない。


・建久元年(1190) 73歳  円寂と改名。・・73年
西行が死亡。

(★参考文献等・・ウキペディアHp・古典文学全集
   百人一首・歌人物語他・・・)

【6】◆◆ 西行への雑感  ◆◆
★世間では、「西行は凄い人である。」という。で、・・・。
 恋するスケベ野郎?が出家して自分の生きる道を見つけた。
 23歳=73歳までが、「空蝉」=「空虚」の生き方したかも
 しれないし、自己実現の世界であったかもしれない。
 貴族社会から摩擦された人物で故であろうか?
 しかし、小栗上野介のように、明治時代の薩長土肥の
 歴史観の故に、抹殺された人物とは明らかに違う。

★どなたか、『西行』の人物像に近づく説明や参考になる本を
 紹介して下さい。アドバイス下さい。

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箕輪初心■群馬:【上州の桜】=メジャーではないけれど?
@『ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ』 A『いにしへのならの都の八重桜  けふ九重ににほひぬるかな』 B『花の色は移りにけりな悪戯にわが身世にふるながめせしまに』 @ABは、私がなんとなく思い出せる和歌である。平安時代 の昔から、『花』=『桜』が、日本人に人気があったのだ。 C『願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月の頃』 Cの西行法師の和歌にも、桜が詠まれている。 ▲▼ 箕輪初心●佐藤義清=西行の出家の謎 ▼▲を参照あれ。 http://53... ...続きを見る
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2012/08/09 07:39

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
私の現在畑になっているところは 西行法師が住んでいたといわれています。
私は先祖は清和天皇の子供 滋野天皇の末裔です。

長野県(小県郡)ですが
西行法師は東北へ旅をしたということがあるようですが
こちらに立ち寄ったらしいです。
古文書を見てみないと明確には分かりませんが 地元の会報に掲載されたほどなので間違いありません。
このあたりは中山道ができる前の物資を運ぶ道があったそうです。

それからすぐ横には
急な山道があり 通称 おじょの坂

老婆が善こうじ参りをした後 往生したという名前からきています。牛にひかれて善こうじ参りの発祥の地です。
ちまたで出回っていないことですが、これも村中が知っていることです。


推測ですが
西行法師がいたころの話 もしくは
西行法師がつくった話ではないかと考えます。

歴史には表舞台に立っていない情報がたくさんありますので

ぜひこのコメント欄にいろいろな情報がありますとうれしく思います。

すぺ
2012/08/08 21:33
コメント、ありがとうございました。
「西行が長野県の東御市に住んでいた。」というのは
とてもびっくりしました。また、すべさんが滋野一族の末というのもとても興味があります。滋野一族・海野&真田・望月・祢津一族についてもたくさん書きました。
まだ、望月城や祢津下城について書いていませんが・・。
すべさんへ
2012/08/09 08:02

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箕輪初心★大河ドラマ【平清盛】親友:佐藤義清=西行A「生涯」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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