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zoom RSS 箕輪初心★★群馬の偉人:中居屋重兵衞=横浜開港功労者★★

<<   作成日時 : 2011/06/14 06:31   >>

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★謎の人物=横浜開港で巨万の富を得たが2年で失踪?
@横浜開港の第一功労者。
A群馬の生糸産業の基礎を作った先駆者。

Bインフレの経済活動を巻き起こした商人。
C井伊直政の暗殺の黒幕的存在。
中居屋重兵衛をどう評価したらよいだうか?
★私は@ACをいい面として解釈したい。

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■中居屋
【1】蕎麦屋「中居屋重兵衞」・・・子孫の家
(嬬恋村三原市街地から万座温泉方面に100m登った左。)
「中居屋重兵衛」は、横浜港の店の屋号である。
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  ★古い店に2回来ている。新しい店も2回。 
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  ★『中居屋のしおり』を戴いた。
  ★その上、資料を写真で、ブログ掲載してもよいと主人から
    許可を頂いた。

【2】中居屋重兵衛の生家・・・・・子孫の家
割烹:「中居屋重兵衛」の駐車場から50m上
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「中居屋旅館」の屋号が玄関入口のガラス戸に書かれている。
 中居屋旅館の家系は、撰之助が江戸へ出奔した為に、
 従弟が当主を務め傍系となった。
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  庭には、
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  土屋文明も来ていた。
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【3】中居屋重兵衞=中居撰之助&黒岩みや子の墓
  重兵衛の遺髪が、ギヤマンの容器に埋葬(伝)。
※嬬恋東小学校の西50mの丘の上
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  ★サンダルで、行ったので、冷たかった。
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  ★祈った。「お墓は宝物?」って、誰か言ってたな。

●映画「動天」・・平成3年1月全国一斉に上映、
   (主演:北大路欣也)・・中居屋重兵衛を演じた。
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映画「動天」メンバーは、小栗の理解者
   脚本・監督・・・・「社葬」の舛田利雄。
   共同脚本・・・・・芦沢俊郎と笠原和夫。
   撮影・・・・・・・「社葬」の北坂清。
   出演(中居屋重兵衛)・・ 北大路欣也
     (おその)・・・・・黒木瞳
     (おらん)・・・・島田陽子
     (勝海舟)・・・・西郷輝彦
      (松田玄仲)・・・三浦浩一

【4】万座鹿沢口駅前の顕彰碑

【5】横浜の店舗跡の記念碑・・平成15年10月建立。
※中居屋重兵衛住居跡
  ・横浜みなとみらい線「日本大通り駅」下車
  徒歩約10分 本町2丁目。記念碑。

■中居屋=黒岩一族の先祖【中居屋のしおり】を元に作成
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平安時代・・・藤原経長の子:吉田東権大納言定房
鎌倉時代・・・源頼朝の三原庄遠征。里見一族が案内?
鎌倉時代末期・後醍醐天皇の側近=お傳役(おもり)役。
 ★新田義貞とも交流があったのであろう。
南北朝時代・・南朝の楠木正成と同心で、吉野で戦死。
子:吉田冬房も南朝に所属。
室町時代・・・足利尊氏の圧政→各地に離散。
戦国時代・・・上野国:七日市・黒岩(現富岡市の東部)に
       在住し、開墾。吉田姓を名乗った。
★箕輪初心私見:小幡氏の家臣団に編入されたのでは?
そして、武田信玄に所領安堵か?
★箕輪初心推測・滋野系海野氏の子孫は吾妻に在住。
  西から、鹿沢氏・西窪氏・羽根尾氏がいた。
黒岩一族は、海野一族の領地の間の不毛の地を開拓した。
→真田幸隆は家臣団を増やす努力したのではないだろうか。
そのため、吾妻の奥に人を集めたかったのだろう。
中居屋重兵衛宅は、火薬製造の特別な家柄であった。
真田は、最高時2000人の兵力で鉄砲は多かった。
草津白根の硫黄・地元硝煙があれば、鉄砲の火薬製造が
可能である。
このことを考えると、【中居屋のしおり】に疑問が残る。
私は、真田軍団の鉄砲隊の火薬製造係は中居村黒岩家に
任されていたのでは、ないだろうかと考えている?
 この説は、箕輪初心の根拠のない仮説であるが・・・。
  後日、真田家臣団600で調べてみようと思う。
 
 江戸時代初期・・・七日市藩:前田氏に反目。
吉田一族9家系は、上野国:奥吾妻に移住。
○吾妻・・大笹・中居・大前・干俣・草津などへ移住。
黒岩姓を名乗る。宗家は大笹の黒岩長左衛門。
 江戸時代中期・・・中居村の黒岩家は火薬製造を継承。
    養蚕・薬草・質物の扱っていた。
江戸時代末期・・・榊原采女政陳(まさのぶ)の支配。
  ※先祖:榊原采女政殊(まさこと)は赤穂藩の受け取り人
祖父:黒岩幸右衛門・・・草津温泉の旅館「山清」の支配人
父:黒岩幸右衛門(=墨峯旅館の手伝い)
   和歌・学者・狩野派の絵の達人。


■中居屋重兵衞の年譜
文政元年(1818)中居村(現群馬県嬬恋村三原)の名主。
  旅館に容姿端麗な女性が入湯しにきた。上州勢多郡樽村
 (現渋川市赤城町樽)の豪農辰巳屋:-須田儀右衛門の養女のぶ
 である。実は川越藩儒学者:杉村霞皐(かこう)の娘であった。
  須田儀右衛門は和歌や書道をこなし、祖父:黒岩幸右衛門とは、
  昵懇であった。父:黒岩幸右衛門(=墨峯)とのぶの2人は
  縁あって互いに見染め合い、結婚した。
文政3年(1820)3月
  ○黒岩武之助=後の撰之助が生まれた。
文政8年(1824)5歳
  ○父より、漢の読み書き、手習いを学ぶ。 
文政9年(1825)7歳 父は、大坂で薬種薬草類を取引開始。
文政11年(1828)8歳 父は、名主。
  父の旅館「山口清太夫」=山清手伝い・質屋手伝い。

天保3年(1832)13歳 父は、鉱山師に騙され、甲州の金峰山の
  銅鉱山開発に手をだした。そして、父は、留守がちにした。
天保4年(1833)14歳
  ○父から学問・農業・狩・火薬の製造を教わった。
  ○撰之助は鉄砲撃ちが大好きであった。
  ○撰之助は、西洋流兵学砲術家:佐久間象山から銃の構造
   や射撃の姿勢、標的の狙い方などの正技を教わった。
  ○父:幸右衛門と撰之助の草津行きは続いた。
  ○江戸の政治・文化・風俗等の情報に刺激を受けた。

天保5年(1834)15歳
  甲州の金峯山銅鉱山事業で財産をなくしてしまった。
  父:幸右衛門が、絵の修行=放浪の旅に出てしまった。
父は、京都の堂上家に出入りした。
○撰之助は、名主代理である。母を助けて、必死で働いた。
○撰之助は、信州の帰路、川に転落。→仮死状態。
○撰之助は、学問に打ち込み始めた。

天保6年(1835)16歳 父の蔵書数百冊を読破
○撰之助は、先祖が藤原経長と知り、発憤。

天保7年(1836)17歳 家伝書により火薬製造に熱中。
 ○白根山の硫黄を採取し水車小屋で秘法を独学で会得。

天保8年(1837)18歳
 ○飢饉に見舞われた村の農家に副業を奨励。
 ○養蚕・薬草採取・緊急時の備蓄等を指導。

天保9年(1838)19歳
 ○撰之助は密かに江戸行きを決意した。
 ○後見役の叔父:黒岩七兵衛は、娘:みや撰之助の従妹
   15歳をめとらせた。
  
天保10年(1839)20歳
 ○撰之助は春蚕の養蚕中、旅芝居巡業一座を招く計画を立案。
 ○撰之助は芝居で稼いだ金を路銀に無断出奔し、江戸へ・・・。
  江戸の縁故先:日本橋4丁目の和泉屋書店:牧野善兵衛方で
  ある。母のぶの生母=撰之助の祖母の再縁先である。
  祖母は和泉屋の後妻である。撰之助の立志を聞いて、
  善兵衛は、快く寄食を引き受けてくれた。
 ○撰之助は働きながら、書物を読みふけり、学識を深めた。

天保11年(1840)21歳
 ○撰之助は和泉屋の顧客の各藩の武家や旗本・学者・医者など
  に接する機会が得られた。
 ○撰之助は佐久間象山の書院塾で象山と再会。→門弟。

天保12年(1840)22歳
 ○撰之助は、和泉屋善兵衛の元で火薬の研究。     
    
天保12年(1841)23歳
 ○蘭学・医学・・・川本・シーボルトに師事。
 ○剣術・・・・・・神道無念流:斎藤弥九郎に師事。
 ○韮山代官:江川太郎左衛門や江川師:高島秋帆の知遇。
 ※水戸斉昭が大砲を鋳造。
  高島秋帆は、幕命で徳丸ヶ原において砲術演習を行なった。
  ちなみに高島秋帆に由来する。現在の板橋区高島平である。

天保13年(1842)24歳
 ○医学や科学の先進技術や学識はさらに深まった。
 ※幕府は異国船打払令を緩和し、薪炭を給することを決す。

天保14年(1842)・弘化元年(1843)25歳
弘化2年(1844)26歳

弘化3年(1846)27歳
 ○学者からの海外事情→国防の急務と政治に関心を抱き、
  憂国の志を自覚し始める。

弘化4年(1847)28歳
嘉永元年(1848)29歳
 ○蘭法・医術薬法。。・蘭法医:伊東玄朴に師事。
 ○信州松代の医者:松田玄仲(=後の中居屋重兵衛店の
  大番頭となり、中居重右衛門)と知己になる。

嘉永2年(1849)30歳
 和泉屋善兵衛は日本橋三丁目に店舗を持たせて独立させた。
 ○店で書籍・和薬・唐薬などを扱った。
 ○中居屋撰之介と名乗る。
 善兵衛は、自分の娘:そのをめとらせた。重婚である。
 妻みやの父親は、次男:清七を撰之助に代わって後継ぎにした。
 ※幕府は異国船打払令を出す。諸大名に沿岸防備を厳命。

嘉永3年(1850)31歳
 ○江川坦庵(たんなん)や佐久間象山の教え
  →西洋流砲術にも通じ、鉄砲や火薬の重要性を悟る。
 ※佐久間象山が深川藩邸に砲術教授の看板を掲げた。
  門人多数集まった。勝海舟も入門してきた。

嘉永4年(1851)32歳
 ○儒学・・・尊王儒者:林鶴梁に師事。
 ※佐久間象山の塾生には吉田松蔭もいた。
 ※佐久間象山は塾生勝海舟の妹:順子を正室に迎える。

嘉永5年(1852)33歳
 ○林鶴梁門下の中井長居・長観・長鎮の三兄弟
   や水戸の志士と交誼を結ぶ。
 ※佐久間象山が、大森海岸にて大砲の演習を実施。

嘉永6年(1853)34歳 ★ペリー来航@
 「太平の 眠りをさます 上喜撰 たった四杯で 夜もねられず」
※幕府は伊豆韮山代官:江川坦庵に品川お台場の築造を命令。
 ○中居屋重兵衛は、江川から大砲の薬種製造法の相談を受ける
○製造場所は
  @上州中居村・・・撰之助の生地、
  A信州小県郡依田村飯沼(現長野県上田市生田)
     友人松田玄仲の生地
     
  B上州勢多郡樽村(現渋川市赤城町樽)母が住んでいた土地
  水車で火薬原料を搗(つ)いて粉末にする作業場を作った。
 ○国防方法に思いを巡らし、下田に偵察に言った。

嘉永7年(1854)・安政元年35歳 ★ペリー来航A
  ※攘夷派が奔走する中、幕府は開国要求を受け入れた。
  ※日米和親条約の締結。下田・箱館2港の開港
●中居屋重兵衛は多量の火薬を製造して納入。
  ※吉田松蔭が密航を企てたが成功せず、長州藩へ幽囚。
  ※佐久間象山は信州松代に永蟄居。
  →品川お台場の築造は必要がなくなって中止。
 下田港で密貿易を始めて、外国事情を調査。 
 ○「子供教草(こどもおしえぐさ)」を著書を出版。
  「利を以って利となさず、義を以って利となす」という人間の
  生き方を述べており、重兵衛の生涯を通じての生き方だった。
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安政2年(1585)28歳
 ●火薬の専門書「集要砲薬新書」を出版。
 「集要砲薬新書」は秘伝とされていた火薬の作り方などを公表。
→水戸藩・松代藩・上田藩・老中・諸大名に献上。
 日本の火薬研究をリード。
 中居屋のもとには多くの武士が火薬知識を求めて殺到(伝)。
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安政3年(1586)37歳 ★ハリス下田に来航・・
 ※下田奉行:井上清直と目付:岩瀬忠震(ただなり)が会見。
  岩瀬忠震は開明派で、渡米使節の提案も日米修好通商条約の
  一部に盛り込まれた。→アメリカ使節団の原点。
 ●中居屋撰之助は「昇平日録」 日記は元日〜4月1日まで。
●父:黒岩墨峰&義父:和泉屋善兵衛と図って、海外貿易準備。
  父:幸右衛門墨峰は江戸築地の淀藩:稲葉侯の屋敷に寄宿。
  江戸を本拠地にしながら、京都御所の紫宸殿に昇殿に左近の桜
  を描いたり、故郷の菩提寺:常林寺本堂に格天井画も描いたりし
  ている。「文画人名禄」に名前を連ねる程有名になっていた。

 安政4年(1587)38歳
 ※幕府は二つの問題があった。
   @将軍の世継ぎ問題、
   A開国か攘夷かの国際問題。
  ※ハリス江戸城で将軍と謁見
 ●中居屋撰之助は一橋慶喜を支持。
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安政5年(1588)39歳
 ※井伊直弼が大老。・・・・
  下田奉行:井上清直と目付:岩瀬忠震(ただなり)を罷免。
 ※外国船の来航の中で攘夷論が幕府内の風潮だったが、
  小栗は海外と開国思想を推進。
 ※日米修好通商条約   ※将軍は一橋慶福
   ★開港・・・横浜・長崎・函館
 ※メキシコ銀の大量入荷。
   外国(金1:銀15)・日本(金1:銀5)
●中居屋撰之助は、料理屋に遊びにきていた通訳3人が、女中に
  品の注文をしようとしたが言葉が通じない。隣室にいた撰之助
  が通訳して注文できたというのである。これが縁で米国領事館
  のデヴィスと知り合い、絹織物の取引を始めた(伝)。

安政6年(1589)40歳  ※横浜港開港・・・
 妻の父の和泉屋牧野善兵衛・・資金面を依頼。
 実父の黒岩墨峯・・稲葉侯を通じて諸大名への接近周旋依頼。
 以前から上州・信州・越州の生糸を手がけていたが、
 新たに紀州藩・会津藩・上田藩・奥州(福島県)棚倉藩・
 南部藩(岩手県)→その他の藩へも波及。噂が各藩に及んだ。
 火薬の製造販売で、各藩に縁故ができていたことも理由である。

 3月4日、長女:たかが生まれた。
 4月26日 ○中居撰之助名義で神奈川貿易願い提出  
奉公人六十余人。・・・横浜移住。
5月22日 横浜居留地本町四丁目店&自宅
  ○豪壮な店=銅御殿「あかがねでん」を建てた。
   銅御殿は間口30間(55m)も住宅兼店舗。
  「横浜開港見聞誌」・・中居屋の店の様子について掲載。
  金網を張った中庭に小鳥を放ち、座敷の廻りにはガラス張りの
  大きな水槽を置き、金魚を泳がせていた。
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  ○中居屋重兵衛を名乗った。
  ○開明派幕吏の支援を受け横浜一の貿易商として活躍。
   全国各地の商人が生糸を持ち込み、
   多くの外国商人が生糸買付けに訪れた(伝)。
   外国商人との高品質の上州生糸の貿易を半ば独占。
   6月〜10月までの生糸輸出三万五千斤の約半分は
   中居屋が売り込んだものであった。莫大な利益を上げた。
   中居屋の大福帳「日下恵」には、正月から買い付けを開始。
   大番頭の中居重右衛門が
   8月・・・信州の飯田・高遠。
   9月・・・甲州の韮崎・石和・大月・駒木野。
   10月・・・(生糸の相場が高騰)
   12月・・・上州の倉賀野・高崎・松井田・碓氷峠。
        信州の軽井沢・小諸。
   欧米では金1=銀15
   日本では金1=銀5〜6弱・・
   外商は日本で金を半値以下で購入できることになる。
   質の悪いメキシコドルを使えばさらに利益が増す。

 ※安政の大獄
  8月 徳川斎昭蟄居・一橋慶喜隠居
  9月 梅田雲浜獄死・橋本左内・頼三樹三郎処刑
  10月 吉田松陰伝馬町獄で処刑
●中居屋重兵衛は激怒。→黒幕的援助へ

安政7年(1860)・万延元年(1860)41歳
 ○中居屋重兵衛は「浜の門跡様」と呼ばれた。
 ○中居屋重兵衛は尊皇開国である。
 ○水戸派の志士達が中居屋重兵衛を訪れた。
重兵衛は、井伊大老を倒す密謀に荷担することになった。
重兵衛提案・・「井伊邸に密偵を潜入させ内情を探る。
   そのためには雑用係の茶坊主に近づけばよいと・・・。
   志士の中井国蔵の妻:ふく子を金貸し役に仕立てる。
   茶坊主に金を貸すことで油断させ、
   「甥っ子を茶坊主としてご奉公させたい」
  と口車にのせる計画である。
  作戦実施・・潜入できた。
 ○重兵衛が金を調達。→黒幕的存在となったのである。
 ●井伊直弼暗殺のため、短銃20挺を水戸烈士に譲渡。
 ○重兵衛は影武者を立て、身代わり業務を開始。

    
 1月 水戸の浪人が井伊直弼を神田見附で狙撃未遂。
    水戸の浪人が捕縛され、拷問攻めの結果おもわず
    「ナカイ・・・」と口走った。
    しかしハッと気がつき、舌をかみきり悶絶した。(伝)。
    水戸浪士に短銃20挺を渡していたのだ。
3月3日(太陽暦3月24日)江戸城桜田門外の変
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  (東京都千代田区)大老・井伊直弼を暗殺した事件。
   水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃。
   登城中の駕籠を大刀で突き、短銃で弾丸銃創の大老
   :井伊直弼を引きずり出し、太刀で斬り殺した。
   ついに首を挙げたのである。
   短銃によって、太股から腰に抜ける貫通銃創があった
   ことを確認(彦根藩井伊家藩医の遺骸検死報告書)。
 ※桜田門外の変で使われたピストルは重兵衛が提供(伝)。
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  ○中居屋では娘:たかの盛大な雛節句の祝宴が開催中。
   重兵衛に「井伊大老の死を告げる密書が江戸より到来。
   重兵衛は、「快哉。」と、吉報として皆に発表した。 
  ★評価が分かれるところであろう。
 
 3月19日 幕府は生糸の 「五品江戸廻し令」を発布。
   五品とは、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸である。
   重要輸出品を地方から直接横浜に送ることを禁じ、
   許可を与えた江戸問屋を通させる貿易統制を行った。
   しかし、外商や中居屋重兵衛らの商人からの反対もあった。
   雄藩が公然と密貿易に乗り出した。
  
神奈川奉行:赤松左衛門尉範忠からの呼び出し。
  「町人の身分で二階建て、あまつさえ御禁制の銅瓦を葺くなど
  とは以ての外である」
  と、咎められ、5日間の閉店謹慎と土瓦に取り替えを
  申し渡された。
 ○中居屋重兵衛 「自分自身のために豪奢にしたわけではない。
  粗末な建物では、外商から侮られる。外国奉行の水野様からも、
  美麗に致すように。」と言われている。閉店の儀は迷惑仕極で
  ござる。銅葺きにしたことは私の落度であるから、早速に取り
  払います。」
  と反論した(伝)。
  重兵衛は木板に麻張りし、チャン=アスファルト塗りに改装。

 初夏 ○重兵衛は番頭や手代を連れて旅行へ・・・。
・信州:別所・・中居村:21年ぶり・・草津「山清」
  ・中居村に3000両を寄付。
    母のおのぶや妻のみやとも顔を合わせた。
    みやは離縁こそしていないが、すでに他人であった。
  秋 ○重兵衛は和泉屋牧野善兵衛と京へ旅。
高野山詣で
※咸臨丸・ボーハタン号出航〜〜〜サンフランシスコ

文久元年(1861)42歳
 晩春 ○重兵衛は2人の手代を供にして、東海道から上洛。
  大阪と神戸の開港がの進出をもくろんでいた。
 大阪:山中成太カと京:大高忠兵衛の富豪2名と祇園で会見。
 神戸:湊川の楠木正成公の墓詣で、清掃。広厳寺に寄付。
★先祖後醍醐天皇のお傳役で、楠木正成と会見。
 →横浜へ帰郷。井伊大老襲撃事件の嫌疑によって、
  近く幕吏の探索が行なわれるとの情報入手。
→小舟で、脱走。
8月2日 中居屋重兵衛は、江戸の隠れ家で死亡。
 ★波乱万丈の生涯を閉じた。
   横浜在住期間はわずか2年半ほどであった。
★【中居屋のしおりでは、この年に死亡。】
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★「中居屋重兵衛」萩原進著では、
  5年間の逃避行説もある。5年先かも?
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文久2年(1862)43歳
文久3年(1863)44歳
文久4年・元治元年(1864)45歳
重兵衛は家族に累が及ぶのを恐れて、
 妻そのを離縁し、牧野家に戻した。
 娘たかを会津藩:佐瀬得所に預けた。
 横浜を脱出。房州の和泉屋:牧野善兵衛の親戚を頼った(伝)。
 ※文久4年の死亡説(横浜貿易生糸在庫調査報告書) 

慶応元年(1865)46歳
 その後、江戸へ潜入し芝の隠れ家に潜伏した。

慶応2年(1866)47歳
   黒岩墨峰が他界。重兵衛とともに墓地に眠っている。

慶応3年(1867)48歳
慶応4年・明治元年(1868)49歳
8月2日流行の麻疹(はしか)にかかって急死。
  全身に吹き出物があったことから、毒殺説もあるが真実は不明。
  父:黒岩墨峰と親交のあった牛込神楽坂の日蓮宗善国寺の
  住職によって荼毘に付された。

明治22年(1893)11月29日 妻:そのは牧野家で逝去。

明治26年(1893)母のぶは、89歳で他界。
 上州勢多郡樽村(現渋川市赤城町樽)田中堂:須田一門の墓地に眠る。
 中居屋重兵衛の遺骨は隠匿。
 辰巳屋本家須田家に過去帳に保存。
 俗名は「中居撰之助」となっている。

昭和12年(1937)中居屋重兵衛の子孫 
 ※黒岩家の子孫:黒岩敏而・安斎幸男の兄弟が探索
     +郷土史家:萩原進氏の調査。
 中居屋重兵衛の子:牧野たか・・『盛岡県令』の妻へ
 孫娘・・・萩の乱で罪を問われた前原一誠と結婚。
 曾孫:誠一=牧野望東(1876-1913) の号で俳諧に登壇。
    37歳で胃がんで死亡。
  牧野誠一には子がいなかったので、
  中居屋重兵衛の末裔は絶えた?



■神奈川県の横浜生糸商人の繁栄と没落
・安政6年(1859) 横浜港開港・・・3ヶ月の突貫工事。
  外国人居留地(中華街方面)・居留地商店街
   (関内=掘り割りで攘夷派対策)・日本人居住地(桜木町)
・明治初期  一攫千金の生糸商人の町に変貌。

1)上州の生糸業者
 ●下村善太郎(初代前橋市長)・・・
 ●茂木惣兵衛 大黒屋(高崎市出身)。
 ●吉田幸兵衛(群馬県桐生市大間々町出身)
 ●中里忠兵衛(児玉郡出身→群馬県鬼石の呉服商)
      →開港後に横浜に進出。
 ●左右田(そうだ)金作・開港後に横浜に進出。銀行設立。
         →鬼石の「不動堂」に梵鐘を寄付。
2)武州の生糸業者
 ●原善三郎(現埼玉県神川町渡瀬)出身。
              (横浜初代市長→貴族院議員へ。)
 ●原富太郎(善三郎の孫と結婚)・・・海外進出。
       富岡製糸工場譲渡。→三渓園。
3)信州の生糸商人・・・
 ●林国蔵
 ●小野光景(みつかげ・長野県辰野町出身)Y校の創建者?
4)甲州の生糸商人
 ●若尾幾造

★資料・参考文献・・・
 「中居屋重兵衞」(萩原進著)
「中居屋のしおり」・・・旅館:中居屋&割烹:重兵衛
ウキペディアHp
群馬風便りHp
※割烹「中居屋重兵衛」

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★平成24年(2012)10月6日、大学吹奏楽部同窓会に行った。 横浜市は歴史的建築物や海外文化の日本発祥の碑などが 点在している。横浜の昔をイメージするためには横浜開港 時から明治期の横浜の歴史の理解が必要である。日米和親 条約締結の地=横浜の歴史を辿る散策の旅に出るのだ。 ...続きを見る
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2012/10/09 22:29
箕輪初心◆神奈川『横浜開港物語』
★私の横浜開港の歴史散策の目的は @横浜開港〜明治時代の横浜の歴史の理解を深めること。 A日米和親条約締結場所に行くこと。 B群馬県嬬恋村出身の中居屋重兵衞宅を探すこと。 C群馬の養蚕・富岡製糸&横浜開港の関係を調べること。 である。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2012/10/10 07:27
箕輪初心★若山牧水Dロマンチック街道「小諸〜軽井沢〜草津編」
若山牧水6回目の上州旅は 『長野県→群馬県→栃木県』 だった。『みなかみ紀行』は6回目の上州旅が中心である。 大正11年(1922)の10月14日静岡県沼津の自宅を出発し、 長野県・群馬県・栃木県を巡って、11月5日に帰着する24 日間の旅を綴った紀行文である。紀行文は、自然や人間 模様の中に情景を歌った短歌を散りばめた形式である。 コースは現在のロマンチック街道である。  『酒&(女→自然)&旅&温泉を愛した若山牧水 が今日も行く。』 ...続きを見る
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2013/01/26 07:20
箕輪初心◆群馬『水戸天狗党&下仁田戦争』
★平成25年(2013)年3月初旬、里見哲夫先生の御孫様には、大変 嫌な思い、御迷惑をおかけしてしまいました。改めてお詫び申し上 げます。知識不足の「下仁田戦争」を調べることにしました。 ★里見哲夫先生と御孫様、御先祖本当に大変だったのですね。 「元治元年(1864) 11月16日、高崎藩一番隊は里見治兵衛宅前 に陣を構え討つことにした。」(★「上州の明治維新」:中島明著) そして、「水戸天狗党と下仁田戦争150話」大塚政義著、 「水戸天狗党と下仁田戦争」群馬県立歴史博物館第... ...続きを見る
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2013/03/24 09:54

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