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zoom RSS 箕輪初心●香川「塩飽水軍」=新田義貞の弟&咸臨丸操縦。

<<   作成日時 : 2011/01/16 08:43   >>

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箕輪初心●香川「塩飽水軍の活躍」
★「四国bWの歴史詳細編
平成20年(2009)年7月3日・4日
★「塩飽水軍の活躍」をテーマにした参考文献が極めて少ない。
それでも、勝手に歴史的な流れを自分なりに構成してみた。
@新田義貞弟:脇屋義助が足利尊氏の追撃や伊予赴任で貢献。
A信濃源氏分流:村上水軍の傘下で活躍。
B織田・豊臣の傘下の水運業・朝鮮出兵に貢献。
C咸臨丸の水主として、近代化日本に貢献。
詳細は下記。自分で言うのも変だけど、
「俺って、マニアックすぎ。これじゃ。お客さん、来ないよね。
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【1】正覚院=山寺・・・
 ★個人的には、ここは詰め城ではないだろうか?

■訪問記@・・・大学1年の夏合宿地
 ○丸亀港からフェリーにのり、本島港に入港した。
 ○荷物・自分のコルネット・山ちゃんと大太鼓を持って、歩いた。
 ○30分の歩くと、山寺に着いた。
 ○本堂に寝泊まり2泊3日の合宿である。
 ○裏のお堂や遠見山で吹いた。
 ○夜の風呂は先輩の入った後で10cmの深さしかない。
 ○先輩が「アイスクリームを買ってこい。」というので、里まで買いに
行くが、片道30分もあるので、アイスは溶けていた。
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■訪問記A・・・平成20年(2009)年7月3日・4日
 ○丸亀城訪問後、丸亀港フェリー乗り場〜〜〜本島へ
 ○あの日のように30分歩いた。オレンジ色の蟹が歩き回っている。
 ○石段が古風である。
 ○山門はまるで、城である。★詰め城かもしれないと思った。
 ○本堂を見せていただいた。★懐かしかった。
 ○遠見山展望台まで歩いた。祐太郎が「やっぱ、来たことある。」
  毎年7月15日の湯状の加持、山伏の大護摩(ごま)供養が有名
  木造観音菩薩像(国重文)、毘沙門天像などもある。
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【2】笠島城=本島城遠望・・・丸亀市本島町笠島 
■訪問記・・島の北を瀬戸大橋を見ながら半周した。
 ○港でおじさんに聞いた。「雑草や木が多いので行かない方がいいよ。」
  といわれた。★迷ったが、行くのを断念した。
 ○塩飽水軍の基地
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○丸亀市のHpを引くと「水軍の館城=笠島城跡・東山城」とあった。
  @標高50m。
  A笠島城跡は3段の平坦な曲輪があった。
  B主郭部は、南北約50m、東西約35mである。
  C主郭の東の一段下がった所が副郭である。
  D主郭の西側(集落側)縁辺には土塁が残る。
  E曲輪の外側は崖・切岸にして、急斜面で登れない。
  F尾根筋の前後は、主郭から高低差が約3〜5mの堀切がある。
  G堀切は、西側で竪堀、東側では3段目の細長い帯曲輪に接続。
  ※笠島城跡は、平地居館の形態を丘陵に造った戦国末期の「館城」である。
  香川県の水軍城跡では本島の笠島城跡と直島町本村の高原城跡だけである。
○後で、12月23日にご一緒させていただいたチエゾーさんのHpを見た。
 笠島城 「ちえぞー!城行こまい」
 「古い町並み・・専修寺の北東が城跡。
 専修寺・・登山道・・緩やかな登り・・倒木・・分かりやすい堀切・・
 主郭は一面の藪。石組の井戸は見つけられなかった。」とあった。


■笠島城の歴史
・古代・・・・・・・・本島は塩飽諸島の政治・文化の中心。
・鎌倉時代・・・・塩飽衆は荒波の操船技能や造船技術が優れていた。
          塩飽は塩つくりの地味な生活を送っていた。
・承元年間(1207~11) 駿河権守高階保遠が笠島城を築城(伝) 
・南北朝時代・・

★箕輪初心私見「南朝側の新田義貞の弟:脇屋義助・大館氏朝は
  九州に逃げた足利尊氏を追った。〜〜塩飽水軍を頼んだ。」
  塩飽水軍を使って、伊予の国司として入封。(今治の歴史:松浦氏)
足利尊氏の逆襲・・伊予で脇屋義助は病死。大館氏朝は戦死。

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     写真は脇屋義助の供養塔(伊予国分寺から500m)
・室町時代・・・・・・塩飽水軍として活躍。
・戦国時代初期・・塩飽の代官は安富氏。
・戦国時代中期・・能島村上氏(信濃:村上源氏系村上水軍)が支配。
(長野県千曲市の村上義清博物館?)
・元亀2年(1571)元太合戦(笠島城跡から近くの児島)
       阿波勢 VS 毛利勢
    塩飽衆は阿波勢に味方。能島に兵糧を輸送中、毛利勢が襲来。
→村上水軍は独立性の強いが、毛利元就の支配下。
塩飽衆は大型船をもつ水軍として注目を集めるようになった。
   ※理由・・・本州と四国が最も接近する場所・畿内に近い場所。
・天正年間(1573-92)讃岐天霧城主:香川氏の甥・福田又次郎が支配。
・天正3年(1575) 薩摩の島津家久が京都へ行く途中、本島の
         福田又次郎の館に宿泊(旅日記の記述)。
・天正年間  織田信長は塩飽衆を味方につけ、信長の石山本願寺攻めに貢献
         塩飽衆は、堺港へ出入りする特権を獲得。         
・天正11年(1583) 笠島浦の福田又次郎の城が長宗我部軍に攻略。
・天正15年(1587)羽柴秀吉による四国征伐
   4月24日 塩飽衆や能島・来島衆は羽柴秀吉に人質を差し出した。
     塩飽諸城の明け渡し。→塩飽衆は、豊臣秀吉の海上輸送の役
6月   豊臣秀吉の島津攻め・・→塩飽衆の活躍。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
村上水軍・塩飽水軍・九鬼水軍は駿河湾から包囲
・慶長2年(1597) 朝鮮出兵での海上輸送の功
      塩飽諸島に人に対し650人に1250石の領地が与えられた。
      →軍役の義務を負ったが、特権的地位は保証。
・慶長5年(1600) 徳川家康からも塩飽の船方衆650人に1250石の領有認可。
・万延元年(1860) 塩飽衆は咸臨丸の航海でサンフランシスコ往復。
咸臨丸の水夫50人中、35人が塩飽出身の水夫であった。」  
    塩飽衆は外国人乗組員に励まされ、大活躍した。
塩飽衆の水主の航海日誌がある。(塩飽勤番所)
    品川→・・・嵐・・・サンフランシスコ→・・・ハワイ・・・品川
   
  ●「咸臨丸は日本人の手で太平洋をはじめて横断した。」
    →★俺、憤慨。明治政府の政策だから〜〜〜。
    勝海舟はげろでだめだったらしい。
    福沢諭吉は新米でだめだったらしい。
    行きは大嵐のため、外国人が操縦した。
    塩飽衆が大活躍。 

   (小栗上野介忠順:市川光二・群馬東善寺博物館)
★ボーハタン号・・・新見・小栗上野介忠順など。
品川→横浜→ハワイ→サンフランシスコ→パナマ・・汽車・・
フィラデルフィア→ワシントン→NY→カナリア諸島→コートジボアール?
→ケープタウン→インド→バタビア「ジャカルタ」→マニラ→上海→品川
でも、薩長の歴史観から「小栗など幕府の歴史」が抹殺された。
(丸亀市Hpや本島パンフレットなどを参考に編集)
(小栗上野介忠順:市川光二・群馬東善寺博物館)
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         (東善寺:村上先生の著作の本)
 
  

【3】塩飽(しわく)の建物(伝建群=国選定の伝統的建造物群保存地区)。
■訪問記・・・
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○江戸末期から明治期にかけての建物が残存。
 町並みに、千本格子の出窓を配した家々やしっくい塗りの白壁が続く。
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 ★塩飽の大工さんは船だけでなく、家も高い技術力を持っているのか?
  と感心しながら、急いだ。
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○町並保存センターの「真木邸」
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○ふれあい館の「小栗邸」
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○文書館の「藤井邸」
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○専称寺=高階氏館  丸亀市本島町笠島城根
  笠島集落から泊集落へ向う道筋を押さえる場所。

【4】塩飽(しわく)勤番所(国史)丸亀市本島町泊宮ノ浜
 ★時間外で入れなかった。残念。
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■寛政9年(1797)〜10年(1798)の建築。文久2年(1862)に改築の復元。
   ※主屋・長屋門・御朱印庫 番所が残存か。
 年寄が政務を執った本館。
 信長・秀吉・家康から与えられた朱印状などが保管されている。
 咸臨丸の航海日誌などを展示しているとあった。
   (本島のパンフレットより)

【5】塩飽年寄の墓
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