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zoom RSS 箕輪初心●箕輪城シリーズ54「井伊直政」

<<   作成日時 : 2010/11/21 10:03   >>

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箕輪初心●箕輪城シリーズ54「井伊直政」
 ※参考文献等・・・井伊直政・高崎文化協会西原巌氏論文
            ・「箕輪城の歴史」関係の本・・・約30冊
            ・彦根城博物館の発刊の本やHP
            ・井伊谷歴史の会HP・ウキペディアHP
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■井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主。

永禄3年(1560) 桶狭間の戦い  祖父:井伊直盛は今川義元側。戦死。
永禄4年(1561)2月19日 17代井伊虎松(直政)が生まれた。
        今川氏の家臣:井伊直親の長男。
        遠江国井伊谷説(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)。祝田説。
永禄5年(1562)今川家家老:小野但馬守の「徳川方に内通した」と讒言
        井伊直親は申し開きに駿府に向かう途中、今川氏真の命で、
        掛川城主:朝比奈泰朝の軍に攻められ、19人が討死。抹殺。
  →井伊直政は2歳であったため、直親の従兄妹:祐圓尼が井伊直虎と
     名乗り、直政の代理として井伊氏の当主になった。
  →直政の生母は今川氏の家臣:松下清景と再婚→井伊氏の家督相続権を剥奪。
  →井伊氏は井伊谷の所領を失い、直政も今川氏に命を狙われた。
  →井伊氏重臣:新野左馬助親矩に保護され、養母:井伊直虎に育てられた。

永禄7年(1564))曳馬城攻め・・井伊氏重臣:新野左馬助と中野越後守がで討死。
        虎松は龍潭寺2世:南渓瑞聞により、鳳来寺に移住。
永禄8年(1564) 次郎法師(叔母)は南渓和尚に徳政免除の黒印状を与える。
永禄11年(1568) 11月 井伊谷3人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)は
        徳川家康の遠州侵攻の道案内を承諾。
    徳川家康を宇利(新城市中宇利)〜陣座峠(奥山の狩宿)に案内。
    井伊谷3人衆は井伊谷城を横領した小野但馬守を攻撃。
    →徳川の大軍は井伊谷を通過。
永禄12年(1569) 徳川家康は「小野但馬守の讒言」を事実無根として、
        小野但馬守と息子2人を井伊谷蟹淵ではりつけ獄門に処した。
元亀3年(1572)武田信玄の侵攻 
  三方が原の合戦・・・・・武田家臣:山県昌景が山吉田城を攻撃。
       井伊谷3人衆は開城。→3人衆は浜松城へ移動。

天正元年(1573 ) 武田軍が井伊谷に侵攻・・神社・仏閣・民家の焼き払った。
天正2年(1574年)高天神城の戦い@
    5月 武田勝頼は、25000人の大軍を率いて、
    遠州東部における徳川方の高天神城に攻攻撃。
    城将の小笠原長忠は徳川家康に救援を求めた。
    徳川家康軍の総兵力は10000程度に過ぎず、武田軍を相手にはできない。
    徳川家康は織田信長に救援を要請する。
    織田信長は救援要請に応じて30000の軍勢を率いて京都を出立。
    高天神城は、武田軍による猛攻
   小笠原長忠が降伏。高天神城は武田軍の支配下。

天正3年(1575) 長篠の戦い・・・武田軍は織田・徳川連合軍の前に大敗。
           二俣城・犬居城などにおいて徳川方の反攻開始。

天正3年(1575) ●井伊直政(15歳)は浜松で徳川家康に出仕。
        井伊万千代の名で、旧知行地の井伊谷を賜った。     
  ■徳川家康&井伊直政の怪しい関係
   ※伝説・・鷹狩りに出かけた徳川家康は少年のあまりの美しさに
   本気で惚れ込んでしまった。この少年こそが、虎松だった。
   徳川家康は「直政が自分と内通していた疑いで殺害された井伊直親の実子
   である。」ことを知り、直政を自分の小姓として取り立てた。
   衆道相手として深く寵愛した。衆道は武士の嗜みで一般的であったらしい。
■徳川家康&井伊直政の怪しくない関係
@井伊直政の祖父の姉妹は今川義元の側室→義元義弟の関口親水の妻
生まれた子は徳川家康の正室:築山殿である。
長男:徳川信康と井伊直政は血縁関係。
A井伊直政の正室は、徳川家康の養女:花である。
B井伊直政の長女:政子は徳川家康の4男:忠吉の正室である。
(高崎市文化協会:西原巌氏)

天正9年(1581) 高天神城の戦いA 
     徳川家康は5000人の軍勢を率いて、高天神城を攻撃。兵糧攻め。
          
     武田勝頼は甲斐から援軍を送ることができず、城将は今川旧臣:
     岡部元信の城兵全員が討って出て、玉砕したと言われている。
     ●井伊直政は、高天神城の攻略の戦功
     家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取った。(伝)
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天正10年(1582) 22歳で元服。直政と名乗る。
   3月 新府城→天目山で武田勝頼が自害・・・武田氏が滅亡。
       甲州:若神子城・獅子吼城の戦い・・・・北条氏の大導寺政繁と
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      北条氏との交渉で徳川方の使者として政治的手腕を発揮。
      徳川家康が武田氏の旧領:信濃国・甲斐国を支配。
      →武田家の旧臣達を多数与力に抜擢。            
   ●井伊直政は武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属された。
     兜や鎧など使用する全ての装備品を赤色で統一。
    →「井伊の赤備え」と呼ばれる部隊の大将となった。
     理由・・・山県昌景の意志を尊重し、朱色の軍装を復活
          赤は目立ちやすく、自分の部下達がどこにいるか分かる。    
     
   ●井伊谷4万石に加増。
   
   ●徳川家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚。
   ●旗本先手役に任ぜられて、本多忠勝や榊原康政の同僚となる。
→徳川四天王

 6月2日 本能寺の変・・・家康の伊賀越えに従い、堺から帰還。
   本能寺の変後、甲州平定において、北条との交渉
      →井伊直政が正使・木俣守勝がの副使になった。
      木俣守勝は井伊直政をよく補佐し、北条家との交渉をうまく進めた。
      この後、井伊直政付きになり、筆頭家老となった。

天正12年(1584) 徳川家康は井伊谷3人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)
に対し、井伊直政に仕えるよう命じた。

天正13年(1585) 小牧・長久手の戦い・・・初陣。
  井伊直直政は短気で家臣に非常に厳しかったと言われている。
  徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵の羽柴軍の総大将である羽柴秀吉
  (=豊臣秀吉)や配下の武将達も「井伊の赤備え」には大変手こずったという。
  井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」「徳川家臣団最強の部隊」と
  見なされ、本人は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名に恐れられるようになった。
  自ら先陣に立って戦うことを好んだため、筆頭家老:木俣守勝がその役目を
  果たしたと言われている。 
  →●井伊直政は井伊谷6万石の大名になった。

天正16年(1588) 井伊谷3人衆の近藤康用が井伊谷において没(72歳)

天正18年(1590) 7月13日 豊臣秀吉の小田原城攻め
    ※写真は神奈川県教育委員会の看板より
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   ※徳川家康が関東に入封。
   ●井伊直政が箕輪城に入封。徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城
    井伊直政は小田原城落城のきっかけを作った篠曲輪攻めでの功績。
(高崎文化協会:西原巌氏)
   ・酒井忠次・・・下総国臼井(碓井)城3万7000石 子の家次が入城。
   ・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・・・館山城里見対策
   ・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
   ・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・・上杉・真田対策
   ●井伊直政は豊臣秀吉の命令で上野国箕輪(群馬県)の12万石
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   ※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居を構えた。
     2年後、井伊直政を離れ、金指で、1000石を賜った。
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   ※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣?」に居住したらしい。
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★箕輪初心私見「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの名残である。」
   ※松下源太郎(井伊直政の養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
     →墓は井伊直政の鬼門「龍門寺」にある。
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   ※龍門寺を建立・・・白庵和尚 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
    浜松龍譚寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺

 ●井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
         {箕輪城の歴史・・・箕郷町教育委員会の冊子より}
  徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城・・・北関東支配の拠点?  
 ★箕輪初心私見・・・「特に真田・上杉対策ではないだろうか?」
 ★箕輪初心私見・・・「井伊氏の時代に城の拡張工事(堀の深さ10m
     ・3の丸と本丸への橋・二の丸と大堀切・2006年発掘の門
     ・郭馬出・木俣・水曲輪・法峰口・新曲輪など)をしたのでは。
      ※城下町が箕輪小の南に細長く、発展しているから。」
 
●城と城下町の整備・改築
  @東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
  A大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
   ・大手門(後の高碕城槻木門)設置。『上州高碕城大意』
   ・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸
  B城下町の整備
   東・・・武家屋敷
   南・・・4つ通にの商人・工人の民家
    1)白銀町・紺屋町
    2)・本町・鍛冶町
    3)連雀町・田町・四ッ谷 秋本先生「宿は北条時代・町は徳川の呼び方」
    4)寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸。龍門寺は城の鬼門に創建。
      井伊家の菩提寺。
★箕輪初心私見「井伊直政が徳川家康に随行して、大坂、伏見に滞在している
   間は、木俣守勝が箕輪城・箕輪城下町の整備を取り仕切った。」

天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に向かう。   
文禄元年(1592) 井伊直政が江戸留守居役に。江戸城普請。
文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。
*榛名町神戸(高浜北の新幹線出口の上)に検地。
  *4月18日 「扶20万貫都合、あらたむべきこと。」(高井家文書)
 ※秋本説・・箕輪人口推定2万人以上〜最高4万人規模「関東最大では?」
  「関ヶ原の戦いで5000・・・馬1250騎+歩兵3750人」
  1250×4=5000人の家族+歩兵3750×4=15000人
                           〜20000人
  +武具関係家族200〜500人   /商人家族は200〜300人
  +長野の生き残り+武田の生き残り+北条の生き残り・・・100人以上?

慶長3年(1598) 箕輪城廃城
 井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。
 ★箕輪初心私見「箕輪城が前田・真田等の元外様大名に使われないように。」 
 ★箕輪初心私見「箕輪城の廃城理由」
  @検地で12万石の土地として、地形的に石高が成立しがたい。
   南と東だけの田が少ない。扇状地に近い地形なのだ。
   ・東〜・・畑地はほとんど。(水の少ない地形)
   ・北東・・現相馬が原と呼ばれる場所で、榛名の4〜6Cの火山灰の扇状地。
   ・南・・・水が少ないため、長野氏は榛名白川から水を引いた。
   ・西・・・標高150m〜350mの地形で、米が生産量が上がらない。
   ・北・・・松の沢地区から北や現芝桜公園から北は、マムシの多住の榛名山麓。
        善地地区は水の豊富な標高250〜400mの土地。田は少ない。
  A城下町が狭い。人口増加に耐えられない広さの可能性。(東〜南の方面のみ。)
  B江戸との交通の要地として不適。江戸に近い方がいい。
   →発展性に乏しい地形。
   (高崎は後の街道の要所:中山道・三国街道・例幣使街道・姫街道近く
   ・利根川水運等)
  C信州と越後の江戸の守りの重要地点だから、どちらにも応援できる場所。
  D政治・経済・文化の中心地の必要性。
  *法峰寺を移転(箕輪小北に)許可
 
慶長3年(1598)
 ●井伊直政は箕輪城から高崎城に移り、城下町を造った。
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 ●高崎城・高崎城下町に移した物
  ○「松ヶ崎」は松が枯れるので縁起が悪いと龍門寺の白庵和尚に言われ、
   高崎に改称。
  @箕輪城大手門・・・→高碕城の槻木(つきのき)門
  A11の寺+3寺・・石上寺(現在はない)・正法寺(現在妙福寺)
   ・慈上寺(長野業政時代の修験道の寺=スパイ)
   ・大雲寺・法華寺・慧徳寺・安国寺・大信寺(徳川忠長の墓)
   ・金剛寺・龍広寺・延養寺
 B5の神社・・津波岐那神社(←椿山)・布留明神(←石上寺)
     ・八幡宮(←真応寺)・上諏訪神社・下諏訪神社
 C家臣団(約5000の武士団の家族/工業系の職人/商家/民家)
 D町名・・・・・・連雀町・田町・紺屋町・鍛治町
 *箕郷には東明屋・西明屋の町名があるが、「空き屋」が転化した呼び名?

慶長4年(1598)  箕輪城から石田三成の旧領近江佐和山(滋賀県彦根市)
         に18万石で入封。・・・山城だった。
      ※写真は彦根城から
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慶長5年(1600) 
  9月15日 関が原の戦い
        ●井伊直政の兵力5000で家康本軍に随行。
         山内一豊など諸大名を東軍工作を実行。
         本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐。
         西軍に一番槍の戦功。
関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。
 10月10日 井伊直政は関が原の合戦の功
        ●井伊直政は近江佐和山18万石の大名となった。
        近藤季用は井伊谷3050石を賜った。
        松下常慶安綱は引佐郡の代官になった。 

慶長6年(1601) 江戸幕府は代官頭伊奈備前守忠次に井伊谷筋の寺社領を安堵。
        *彦根城の築城開始。
徳川家康は木俣守勝に「・・・がんばれ?」
慶長7年(1602) ●2月1日過労と島津義弘軍の追撃で受けた鉄砲傷の破傷風が
          元で死去。(43歳)
         →井伊直政の次男:井伊直勝が継承。
慶長8年(1603)  徳川家康、征夷大将軍となる
 飯田助右衛門が井伊谷筋の代官として井伊谷陣屋に勤めた。
伊奈備前守忠次は上野玉村代官になり、滝川用水に尽力した。
慶長9年(1604) 井伊直勝が近江:彦根城を築城。
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元和元年(1615) 江戸幕府の命で、弟:掃部頭直孝に彦根藩主の座を譲った。
        直孝の代には35万石の譜代大名へ。
        直勝は亡父の兵部少輔を世襲、安中藩3万石の藩主へ。
※彦根城は江戸幕府が諸大名に御手伝普請をさせた。
   幕府が大名に普請させたのは、京・大坂に備える必要あったといわれている。

■江戸時代 宗家・井伊掃部頭家・・・彦根藩家
1、直政 (病弱)→安中藩へ
2、直孝  15万石→20万石→25万石→30万石→35万石格
3、直澄〔大老〕
4、直興〔大老〕
5、直通〔侍従〕
6、直恒
7、直治→直該(なおもり)〔大老〕 4代・直興が再封
8、直惟(なおのぶ)〔左少将〕
9、直定
10、直=iなおよし)
11、直定 再封
12、直幸(なおひで)〔大老〕
13、直中(なおなか)〔侍従〕
14、直亮(なおあき)〔大老〕
15、直弼(なおすけ)〔侍従 大老〕
   直弼は将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派や反対の弾圧した。
   安政の大獄を実行したが、桜田門外の変で暗殺された。
★箕輪初心「長野主膳は、伊勢出身。」
    (彦根城博物館学芸員&博物館の系図調べ)
15、直憲(なおのり)〔左近衛権中将〕 30万石→20万石→23万石
   大政奉還後には譜代筆頭にもかかわらず、新政府側に転向。
   鳥羽・伏見の戦いでは新政府側に属し、戊辰戦争にも転戦。
明治17年(1884)伯爵華族。
昭和28年(1954)〜 井伊直憲の孫:井伊直愛が彦根市の市長
現在        井伊直愛の孫娘:井伊裕子と婿養子として結婚した
          井伊岳夫=井伊直岳が彦根城博物館長。

■分家・井伊兵部少輔家
  井伊直政の長男:直勝は病弱だったといわれる。
  安中藩→西尾藩→掛川藩と転封。直勝の曾孫で掛川藩主:直朝が改易。
  宗家・掃部頭家から直興(直該)の 4男:直矩を迎えての家名再興存続。
  与板藩主。・・・10代・井伊直朗が若年寄。城主格に昇格。
  維新後、子爵華族。

◆◆◆井伊直政を巡る旅◆◆◆
@静岡県浜松市井伊谷(いいのや)・・・龍潭寺
A群馬県高崎市箕郷町・・・・・・・・・・・・・箕輪城・龍門寺
B群馬県高崎市・・・・・・・・・・・・・・・・・・高崎城・龍広寺
C滋賀県彦根市・・・・・・佐和山城  
               彦根城    
               彦根城博物館
               玄宮園
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               楽々園
               龍潭寺
               埋木舎・・・井伊直弼の育った場所
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     D東京都世田谷区豪徳寺・・菩提寺:豪徳寺 井伊氏世田谷領代官屋敷
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     井伊直孝から歴代の墓
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      井伊直弼の墓
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箕輪初心★井伊直政=井の国千年物語後編
F井伊虎松誕生&父:井伊直親の死 ・永禄4年(1561) 2月9日井伊直政(幼名虎松)だ生まれる。 ・永禄5年(1562) 井伊直親が今川氏真により呼び出され、          遠州掛川にて朝比奈泰朝に誅殺。 供18人も抹殺。 理由・・井伊直親が松平元康(徳川家康)と仲良し ...続きを見る
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箕輪初心●静岡【井伊谷城】=井伊直政先祖発祥の居城
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現静岡県浜松市北区引佐町井伊谷は井伊氏発祥の地で ある。居城:井伊谷城の南4〜300m程の所には、龍潭 寺がある。天正5年(733)に行基によって開創されたと伝 わっているそうだ。井伊氏は、平安時代に、藤原鎌足の子 孫藤原共資が遠江守となって下向したのに始まる。子の藤 原共保が井伊谷に住み、井伊に改姓した。南北朝の時代に は井伊氏は南朝の宗良親王と北朝の足利尊氏の家臣と戦っ て負けた。室町時代末期、20代:井伊直平が黙宗瑞淵和 尚を迎え、臨済宗妙心寺派となった。22代:井伊... ...続きを見る
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箕輪初心:生方★高崎城【井伊直政&早川幸豊】
★平成27年(2015)4月3日〜7日まで、高崎シティギャラリ ーにて、中嶋宏氏の主唱する【長野堰を語り継ぐ会】の長野堰 の絵図展が開催された。いくつかの新聞社の掲載記事、NHK 報道もあり、5日間で約2000人近くの来場者があった。慶長3 年(1598)に徳川四天王の「井伊直政」が本城を箕輪城→高 崎城に移した。高崎城の縄張りは早川幸豊がしたのであろう。 長野堰からの新井堰の取水口→高崎城への水堀&高崎の城下 町の用水路は秋元長朝、新井喜左衛門などに命じて作らせた のでな... ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2015/04/09 08:04

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