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zoom RSS 箕輪初心■箕輪城シリーズ26「第17代:井伊直政」

<<   作成日時 : 2010/10/19 20:39   >>

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箕輪初心■「第17代:井伊直政」
・天正18年(1590) 井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
{箕輪城の歴史・・・箕郷町教育委員会の冊子より}
徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城・・・北関東支配の拠点?
★箕輪初心私見・・・「特に真田・上杉対策ではないだろうか?」
★箕輪初心私見・・・「井伊氏の時代に城の拡張工事(堀の深さ10m・3の丸と本丸への橋・
二の丸と大堀切・2006年発掘の門・郭馬出・木俣・水曲輪・法峰口など)をしたのでは。
・・・・城下町が箕輪小の南に細長く、発展しているから。」

(箕輪初心作成・・・参考:山崎一氏の立体模型・秋本太郎氏作成の鳥瞰図
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 ※城と城下町の整備・改築
  @東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
  A大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
   ・大手門(後の高碕城槻木門)設置。『上州高崎城大意』
   ・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸
  B城下町の整備
   東・・・武家屋敷
   南・・・4つ通にの商人・工人の民家
    1)白銀町・紺屋町
    2)・本町・鍛冶町
    3)連雀町・田町・四ッ谷 秋本先生「宿は北条時代・町は徳川の呼び方」
    4)寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸。龍門寺は城の鬼門に創建。井伊家の菩提寺。
天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に向かう。   
文禄元年(1592) 井伊直政が江戸留守居役に。江戸城普請。
文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。
榛名町神戸(高浜北の新幹線出口の上)に検地。
   *4月18日  扶20万貫都合、あらたむべきこと。」(高井家文書)
 
 ※家臣団の再編成
   秋本説・・箕輪人口推定2万人以上〜最高人口4万人規模「関東最大では?」
   「関ヶ原の戦いで5000・・・馬1250騎+歩兵3750人」
  1250×4=5000人の家族+歩兵3750×4=15000人〜20000人
  +武具関係家族200〜500人   /商人家族は200〜300人
  +長野の生き残り+武田の生き残り+北条の生き残り・・・100人以上?
   (1590年、小田原城籠城は3万人)
 ※その後の長野氏
 @亀寿丸(鎮良)・・・極楽院や長純寺の住職へ
 A長野業政→子:長野業親→孫:長野業実
          (1580年?に井伊家に3000石で召し抱えられる。)
        ・長野十郎左衛門(井伊家中老)・・・代々中老・家老職・・・・。
        ・長野金三郎は300石。
  *幕末の井伊直弼の江戸家老は伊勢出身の長野主膳 
  (彦根博物館の井伊直政が全家臣に出させたの家系より:彦根博物館発刊の本)

■慶長3年(1598) 箕輪城廃城
 井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。
   私見・・・「箕輪城が後で前田・真田等の元外様大名に使われないように。」 
 ★箕輪城私見「箕輪城の廃城理由」
   @検地で12万石の土地として、地形的に石高が成立しがたい。
     南と東だけの田が少ない。扇状地に近い地形なのだ。
    ・東〜・・・畑地はほとんど。(水の少ない地形)
    ・北東・・・現相馬が原と呼ばれる場所で、榛名の4〜6Cの火山灰の扇状地。
    ・南・・・・水が少ないため、長野氏は榛名白川から水を引いた。
    ・西・・・・標高150m〜350mの地形で、米が生産量が上がらない。
    ・北・・・・松の沢地区から北や現芝桜公園から北は、マムシの多住の榛名山麓。
          善地地区は水の豊富な標高250〜400mの土地。田は少ない。
   A城下町が狭い。人口増加に耐えられない広さの可能性。(東〜南の方面のみ。)
   B江戸との交通の要地として不適。江戸に近い方がいい。→発展性に乏しい地形。
   (高崎は後の街道の要所:中山道・三国街道・例幣使街道・姫街道近く・利根川水運等)
   C信州と越後の江戸の守りの重要地点だから、どちらにも応援できる場所。
   D政治・経済・文化の中心地の必要性。
   *法峰寺を移転(箕輪小北に)許可
 ※高崎城に移した物
  ○「松ヶ崎」は松が枯れるので縁起が悪いと龍門寺の白あん和尚に言われ、高崎に改称。
  @箕輪城大手門・・・→高碕城の槻木(つきのき)門
  A11の寺+3寺・・石上寺(現在はない)・正法寺(現在妙福寺)
   ・慈上寺(長野業政時代の修験道の)・大雲寺
   ・法華寺・慧徳寺・安国寺・大信寺(徳川忠長の墓)・金剛寺・龍広寺・延養寺
  B5の神社・・・津波岐那神社(←椿山)・布留明神(←石上寺)・八幡宮(←真応寺)
         ・上諏訪神社・下諏訪神社
  C家臣団(約5000の武士団の家族/工業系の職人/商家/民家)
  D町名・・・・・・連雀町・田町・紺屋町・鍛治町
  *箕郷には東明屋・西明屋の町名があるが、「空き屋」が転化した呼び名?
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    (※写真は高崎城本丸発掘調査2009年)
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●井伊直政 (1561年〜1602年) 「徳川家康の四天王筆頭」
 元亀3年(1572)「三方ヶ原の戦い」(現在の浜松市付近) 武田軍は三方ヶ原で家康軍を撃退。
         武田信玄が三河地方に侵攻する途中、発病のために上洛は中止。
 天正元年(1573) 武田信玄が甲斐国へ帰還中に信玄は病死。井伊直政が家康家臣。
 天正3年(1575)「長篠の戦い」武田勝頼の手中に落ちた城を取り戻す「高天神城攻略」戦いで          
           数々の戦功を立て22歳にして旗本先手役に任命。
 天正10年(1582) 織田信長により武田氏が滅亡。→「本能寺の変」
         徳川家康によって甲斐国が平定。
         →井伊直政に武田家の山県隊が配下。自分の部隊を赤備えとして編成。
 天正12年(1584)「小牧・長久手の戦い」で井伊の赤備えは対秀吉の先鋒を務めて奮戦。
 天正18年(1590) 徳川家康が関東に入封。
         井伊直政が箕輪城に入封。徳川筆頭家老の最高石高12万石で入城
         ・酒井忠次・・・下総国臼井(碓井)城3万7000石 子の家次が入城。
         ・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・・・館山城里見対策
         ・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
         ・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・・上杉・真田対策
 慶長4年(1598)  箕輪城から石田三成の旧領近江佐和山に18万石(滋賀県彦根市)で入封。
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 慶長5年(1600) 「関ヶ原の戦い」家康本軍に随行。山内一豊など諸大名を東軍工作を実行。
          本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐。西軍に一番槍の戦功。
          関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。
          *彦根城の築城開始。
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   ※彦根市の長野氏菩提寺:長純寺がある。
慶長7年(1602)2月1日 過労と島津義弘軍の追撃で受けた鉄砲傷の破傷風が元で死去。

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