箕輪初心:生方▲箕輪城№307『栁沢先生作成冊子』&「ウラシマソウ等」

訂正、新情報「武田時代の城代は甘利昌忠(信忠)ではなく、弟 (または子)の甘利郷左衛門信康であった。長篠の戦いで死んだ。」 4月、新型コロナ・ウイルスの影響と梅の消毒後の畑仕事禁止で、 TV鑑賞、ブログ書き、晴れれば、箕輪城散策と嗜好品購入位しか 「暇つぶし」ができない。ガイドもコロナで長くは話すと迷惑なの で短時間で済ます。箕輪城に「ウラシマソウ」が咲き始めた。 【1】『栁沢先生作成冊子』  ★西原先生が作った年表も、私のせいで   甘利昌忠としてある。ごめんなさい。 2)「雑草等の花」  ボランティアの方々、ありがとう  ございます。 ・アブラナ ・ショカッサイ(アブラナ科) ★野菜・・・ダイコン・小松菜・からし菜・ワサビ・キャベツ ★雑草・・・ナズナ・イヌガラシ・ヒメタネツケバナ・ ・ニワトコ ・ソメイヨシノ ・八重桜 ・ウラシマソウ ・マムシ草 ・タチツボスミレ・マルバスミレ ・キランソウ ・ムラサキケマン ・ウマノアシガタ(毒) ・カラスノエンドウ ほかに、 タンポポ・ヒメオドリコソウ・ホトケノザ・ ヒトリシズカ・チゴユリ・カキドウシ・ エイザンスミレ・ミツバツチグリ・ ・オオイヌノフグリ(大犬のちんちんの意味)  等30種以上は咲いているかな? ①長野時代の城主(尚業?→憲…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№303『箕輪城築城年代12説』&「みさと芝桜公園」

箕輪城の築城年代については12 説ある。 3月下旬~4月上旬、箕輪城の桜がきれいだった。桜が散ると みさと芝桜公園の整備が始まった。みさと芝桜公園、4月上旬 ~5月上旬が開花時期となる。4月12日開園~5月11日 迄となる。広い(高崎市Hp2.9ha・4トラベルでは4.1ha)の敷 地に26万株の芝桜が花を咲かせるはずである。今年はお金を 取るだけの 整備をしているようだ。料金大人310円(200円)、 小学生100円(50円)・・・ お客が来てがっかりしないよ うにするためには、最低限のことであろう。でも、新型コロナ ・ウイルスの影響で、県外からの客はこないだろう。 【0】『箕輪城築城年代諸説』 箕輪城の築城10 説 ウィキペディアでは「・永正9年(1512年)戦国時代中期、 当地を支配する長野氏の長野業尚によって築かれた。 また、大永6年(1526年)業尚の子の信業によって築かれた という説もある。」 ウィキペディアを批判する結果になってしまう懸念があるが、・・・ 参考文献が一つしか書いていない。『定本日本城郭事典』(西ヶ谷恭弘、 秋田書店、2000年、93頁)とあった。 著者の名前は知っているが、「ウィキペディア」のデータが古い。 2010年前の情報とも感じられる。 秋本太郎先生・飯森康広先生・峰岸純夫先生・黒田基樹氏・久保田順一 先生等が新説を掲載している。 1)箕輪初心:生方説 文明6年(1474)以前の築城説 …

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箕輪初心:生方▲箕輪城№302『井伊直政の箕輪城分封』と「築城者推測」

箕輪城の桜は沼田城の桜や名胡桃城の桜より1週間早かった。 ・天正18年(1590)井伊直政は箕輪城分封。修士論文の内容に 「豊臣秀吉が10万石・箕輪を徳川家康に提案した。徳川家康 が12万石にした」と結論づけた。もちろん、古文書史料を 根拠としている。入封でなく、「分封」である。箕輪城改修 工事はおそらく、築城名人の旧土屋昌恒衆早川幸豊・大鳥居 土佐守と子:玄蕃・旧北条家臣:富上喜太夫因就が中心と改 修したと思われる?但し、改修者の古文書がないが、3人は 彦根城の縄張り者である。上野国出身の岡本半助宣就19歳 (旧小幡信貞の第一家老の熊井戸半右衞門の子)も江戸城の 石垣奉行になっている。宇津木泰繁(氏久の子)は22歳前 後、彦根城では作事奉行であるが??? (二の丸からの赤城山遠望) ヒヨドリ・椋鳥・コガラ・シジュウカラなどの恋の季節 がやってきた。♂は♀を求めて呼ぶ。やがて、つがいに なる。 本丸 御前曲輪 ※井伊直政時代(1590年~1597年)の木橋復元予定 ※井伊直政時代(1590年~1597年)の郭馬出復元 ・慶長元年(1596)) 〔甲陽軍鑑〕軍法之巻裏書「加越能文庫」   表題は「軍法之巻裏書」   末尾に尾畑(小幡)勘兵衛尉景憲の名で  「右広瀬美濃守景房早川弥三左衛門尉幸豊物語之通聞書是也」    甲州小幡景憲は小幡孫次郎の名前で井伊直政の家臣になって  いる。(関ヶ原の戦い後、…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№300「箕輪城の歴史の石碑」と「高崎城の桜」

令和2年(2020)3月25日、某大学院の修士課程を修了した。最初の テーマは「箕輪城の歴代城主」で入学した。最終テーマは「徳川家臣 筆頭になった井伊直政~主に家格上昇を中心に~」となった。教授 には大変お世話になった。大学には6年、大学院4年かあ、長かっ たなあ。大学には10年も行っちゃった。もう、論文はいやじゃ。 歴史を証明するのは古文書が中心の論文・・・。歴史学者の第一歩を 踏み出せそうもない。本を書いて出版するように言ってくださる方も いるが、客の来ないブログ程度で十分。文章って本当に難しいのだ。 今日は論文の思い出と修了にひたるかあ? 【1】「箕輪城の歴史の石碑」の疑問点 「箕輪城の歴史の石碑」は箕輪城史跡保存会が書いている。会長は峰 岸純夫先生だった気がする。近藤義雄先生もいたようである。 ★昭和53年~60頃の説だから・・・・ 「ウィキペディア」の「箕輪城の歴史」も疑問点だらけ、・・・ ★2010年以前の説だから、古すぎる。 秋本太郎先生・飯森康広先生・峰岸純夫先生・黒田基樹氏・久保田順一 先生等が新説を掲載しているからである。私も新説を主張している けどね。 【2】箕輪城の遺構は井伊直政時代 【2】高崎城の原型が井伊直政 ★安藤時代に高さ7mの上に「三重楼』 ★乾門は西北(乾)は戌亥(いぬい)にあった。  今は違う場所にある。 ・音楽センター「修了式」 ★新型コロナで直ぐに終わっ…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№299「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」「語り部の会メンバー解説」

令和2年(2020)、新型コロナ・ウィルスの影響で、梅畑と箕輪 城位しか、行く場所がない。「箕輪城語り部の会」の会長や役 員が時々いるからである。私も時々、解説している。3月24 日、AM6:00、一瞬、雪が降った。梅の花がしもげてしまう。 箕輪城の雪景色の写真を撮りに行こうと思ったが、直ぐに溶け てしまった。天正18年(1590)4月20日、北国勢:前田利家・ 上杉景勝・・・先陣の真田昌幸・信幸・幸繁たちは松井田城を 落とした後、大道寺政繁の案内で真田昌幸父子・前田利勝・ 保科正直・正光父子らが箕輪城に来た。 【1】●天正十八年四月二十九日「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」    去る二十四日の書状、今日二十九、披見候。箕輪城の儀、羽賀 信濃守追い出し、保科居残り、城相渡すに付いて、羽柴孫四郎 同前に請取るの由尤もに候。小田原の儀取り篭められ、干殺し 仰せ付けらるる故、隣国の城々命の儀御侘び言申し上げ候。御 助け成され候城は兵粮・鉄炮・玉薬其の外武具悉く城に相付け 渡し候。家財は少々城主にも下され候間、其の意を成し、箕輪 の儀も玉薬其の外武具・兵粮以下、少しも相違せざる様に念を 入れ請取り置くべく候。次に在々所々土民百性(姓)共還住の 儀仰せ出だされ候。其の許堅く申し触るべく候。東国の習に女 童部をとらへ売買仕る族(やから)候はば、後日成り共聞こし 召し付けられ次第、御成敗を加へらるべく候。若しこれを捕へ 置く輩これ在らば、早々本在所へ返し置くべ…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№263『2018年4月本丸土塁復元状況』&箕郷町の桜」

箕輪城では昨年11月頃から、本丸西虎口高麗門の復元作業が始ま った。それに伴い、門はまだであるが、本丸土塁復元工事が完了した。 4月初旬頃、高崎市でも桜の開花する。例年、小中高・大学は入学式の 頃となる。でも、今年は3月下旬~4月上旬の暖かさ?暑さにより 開花は約1週間早まって、3月30日には箕輪城の桜の花が満開に なっていた。ついでに、高崎市箕郷町の桜の花を見て廻った。 高崎は梅⇒桃⇒桜の順で開花となる。でも、福島県三春町は、 梅・桃・桜の花の開花が一緒だから三春であると言う。  (★箕輪城御前曲輪)  (二の丸のスイセンと桜) 【1】箕輪城の桜 1)松下郭の内堀跡 2)三日月堀跡 3)御前曲輪 4)本丸の土塁復元状況 ・御前曲輪と本丸土塁 ・本丸土塁から御前曲輪を望む。 ・本丸の北の土塁 ・本丸西虎口の高麗門・狭間・木橋の復元場所 ・本丸東の土塁と奧の横矢掛かり ・東虎口門跡 4)本丸堀…最大40m幅で関東最大規模。 5)二の丸 ・ハクモクレン 6)郭馬出 7)本丸堀からの復元予定の高麗門 ・アオキの実 8)搦め手口から二の丸遠望 【2】行人塚の芋うえ桜…樹齢300年 【3】下田邸前の桜 【4】金龍寺の桜 【5】榛名白川堤の桜 【6】童子砦のしだれ桜 …

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箕輪初心:生方▲箕輪城№263『2018年3月本丸西虎口門の復元状況』

平成15年(2003)~平成16年(2004)年度、本丸西虎口の発掘調査 が行われた。礎石4個がすべて残っていることが確認された。 平成25(2013)年6月、高崎市は国指定史跡箕輪城跡の井伊直政時 代2つの城門を復元する事業に着手することになった。秋本太郎先 生の功績が大きい。総事業費には約2億5000万円を見込まれて いる。トータルで9億円の予算である。平成27年(2015)6月に郭 馬出西虎口が完成した。11月23日、完成式典が行われた。 平成29年(2017)11月?12月?本丸西虎口門の工事が始まった。 本丸西虎口門は、幅3、1m・奥行1、7m・高さ3・9mの1階 建てである。箕輪城本丸で唯一の木造橋をわたって本丸に到達する。 城主をはじめとする限られた重臣・お客のみが用いる門だったので あろう。平成30年(2018)、3月4日、大類歴史研究会を案内しな がら、結構工事が進展していることを感じた。 【1】平成25年(2013)6月頃? 高崎市役所の模型 【2】平成30年(2018)3月 ・本丸土塁の復元 ・本丸堀から・・・★あれっ、写真がない。 ★明日は草津かな?

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箕輪初心:生方▲箕輪城№262「旧下田邸は井伊直政作?堀部安兵衛作?」

★今日は私の誕生日?自分自身に旅行のプレゼントせねば・・・ 「旧下田邸書院」は長野業政の第2家老:下田大膳正勝か子孫の屋敷 にあった書院である。下田大膳正勝あるいは下田大膳の子孫が桃山 様式の茶室と庭園を造らせたとも考えられる。しかし、個人的には、 旧下田邸の数奇屋造り風の草庵茶室と堀部安兵衛が作庭したと伝わ る庭園は井伊直政の造らせたのではないかと勝手に考えている。箕 輪城に庭園がないが、旧下田邸には茶室と庭園があるからである。 第一級の古文書も二次史料さえもないのに、井伊直政が造ったという 根拠のない話とした。こんなばかばかしい話は私位しか言っていない。 旧下田邸にはかつて長屋門があったが、現在は伊香保の道の駅の所に あったが、新潟の「味噌なめたか」の関興寺に移築されたという。旧 下田邸は現箕郷支所・箕郷中央公民館の敷地全部とその南、西部分 も含まれていたという。ブログは根拠もなくてもOKなので書いてみた。 井伊直政は井伊谷龍潭寺の小堀遠州作の庭園を見て育った。 井伊直政は豊臣秀吉から「侍従」とされ、茶を嗜んだ。だから、箕輪に お茶畑「茶園場」も造らせた。従って、井伊直政は箕輪に茶室 ・庭園を造らせたとすれば、「旧下田邸」となるのが私のへ理屈=推 測である。 【1】旧下田邸 ★厳密にはここは勘定町ではない。道を挟んだ北側が  勘定町である。  井伊直政の時代の名残である。12万石の蔵が  並び、年貢の米を納め、年2回、扶持として分け …

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箕輪初心:生方▲箕輪城№260&井伊直政№178『2018雪の箕輪城』

長野氏→武田氏(家臣が城代:含真田幸綱)→織田氏(滝川一益) →北条氏(北条氏邦・猪俣邦憲・多米長定・垪和康忠など)→ (前田利家が豊臣秀吉の許可を得た。真田昌幸が戦後処理) →井伊直政8年と繋がっている。長野業政の孫とされる長野 業実も浜川1000貫で箕輪城に来た。現在の箕輪城址の遺 構は井伊直政時代の遺構である。 30cmの積雪の雪解けを待って1月23日、20cmの雪解けを待って 2月3日、雪の箕輪城に写真撮影に行った。搦手口の駐車場に停めて 郭馬出西虎口門、工事中で入れない本丸西虎口門を目指して散策 した。ついでに、箕輪城の大堀切(傾斜付きの畝堀)も見た。関東 一の規模の本丸堀は最大幅40mと広く、深さ30mと圧巻である。 榛名白川から運んできたと思われる石垣の遺構が一部残っている。 箕輪城には天守閣はなかったが、発掘調査の結果、本丸には八戸城の ような?彦根城のような?御殿があった。でも、箕輪城復元予算の 9億円の御殿の復元予定は今のところない。 【1】1月23日 ●新しい看板 ●搦め手口 ★本丸工事の土木屋さんが道の雪をかいた。 ●本丸下の腰郭 ●二の丸 ●大堀切   畝堀は埋まっているが、さらに4mの深さがあった。   しかも地中に基壇1、8m、上部1、2m程、高さ2m   の石垣が田んぼの畦のように7段ある。   と秋本太郎先生たちが調査結果を元に、1つ復元された。  ★二の丸…

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箕輪初心:生方▲井伊直政№158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』

群馬は戦国時代の印象が薄いと思われがちであるが、重要な戦略拠点 なので北条、上杉、武田の草刈り場になった。『関東の三国志』とし て見ると興味深い。長野業政や長野業政の同心:新陰流を開いた上 泉信綱、長野業政の長女の婿:小幡信貞、太田金山城の由良氏、玉村 宇津木氏久、真田昌幸などもいる。…天正10年(1582)前に長野業 政の孫:長野業実は既に井伊直政の家臣になっていた。天正18年 (1590)井伊直政が箕輪城に入城した。新たに長野業政の親戚:八木原 某、小幡信貞の子ども小幡大膳や小幡信貞の第一家老家:熊井戸半右 衛門の嫡男:熊井戸業実(岡本半助宣就)、玉村の宇津木氏久・宇津 木泰繁、倉賀野の五十嵐半次、安中の安中某、萩原図書、元箕輪城城 代:内藤昌明の3男:内藤知矩、和田信業の3男:和田内匠などが井 伊直政の家臣となった。慶長3年(1598)高崎城が完成した。高崎の街の 基礎は井伊直政が造った。徳川家康にとっても上野国高崎は最前線基地 として極めて重要であった。井伊直政は箕輪城約8年、高崎城約2年6 カ月いたことになる。従って、合計10年6カ月いたことになる。ちょ っとだけ、井伊直政や家臣が残した物が見られる。文書史料もある。  (復元予定の模型:高崎市役所1階…平成30年完成予定) 【1】箕輪城…慶長3年(1598)箕輪城を破城にした。   箕輪城の遺構は井伊直政の時代の物である。 ①復元郭馬出西虎口門(平成26年完成) 2003年…

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箕輪初心:生方▲井伊直政№153「箕輪から高崎に移った寺社』復刻版

「高崎志」よれば、「井伊直政は11の寺・末寺と5社箕輪から高崎に 移した。」と書いている。箕輪から高崎に移った11の寺は石上寺 ・正法寺・慈上寺・大雲寺・法華寺・恵徳寺・安国寺・大信寺・金 剛寺・龍広寺・延養寺である。5の神社は津波岐那神社・布留明神 ・八幡宮・上諏訪神社・下諏訪神社である。  (高崎市教委作製地図を加工した私のオリジナル作品) 箕輪初心▲箕輪城№153【長野氏の箕輪の寺社→井伊直政の高崎移転の寺社】 http://53922401.at.webry.info/201412/article_15.html 【1】箕輪から高崎に移った11の寺 1)石上寺 ①箕輪石上寺(東明屋) ・箕輪初心▲箕輪城№147【①石上寺:長野氏の菩提寺?鬼門の寺】 http://53922401.at.webry.info/201412/article_8.html 文明6年(1474)、石上寺に石撞が造られた。長野氏菩提寺 ●箕輪城の築城年代10説******************* 箕輪初心★箕輪城128【築城年代7説】 :私見は長野業尚1477年説 http://53922401.at.webry.info/201404/article_31.html  箕輪初心◆箕輪城144【2014築城年代私見:文明6年(1474)説】 http://53922401.at.webry.info/201410/article_31…

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箕輪初心:生方▲井伊直政№153『箕輪白銀町・鍛冶町→高崎鍛冶町』

※戦国時代、板鼻(安中市)や小幡(甘楽町)には甲冑集団がいた。 「上州鉢」という小星をあしらった兜が制作された。  (★出典:群馬県立博物館) ・長享2年(1488)上杉定昌(顕定の兄)死去に伴い、上杉憲房は  白井城を継いだ。 ・永正年間、関東管領:上杉顕定が明珍一族を平井(藤岡)や板鼻  (安中)に呼んだ。 ・永正~天文の頃、上杉顕定の甥:上杉憲房は明珍信家が筋兜などの  甲冑を白井城曲輪の北の青堀近くの松原屋敷と呼ばれる鍛冶場で作  成させていた。明珍家は甲冑・轡(くつわ)・鍔なども製作した。  (★出典:????)  越後府中(直江津:上越市)に住んでいた明珍17代:信家にとって  白井城は出張先の一つであった。 上杉顕定は越後守護代:長尾為景を討つため出陣し、上野白井城  に駐屯していた。   (★復元予定模型、    平成29年12月、復元工事が始まった。    箕輪城本丸西虎口と木橋) ・大永4年(1524)頃 長尾景誠は家督を継ぎ、白井城主となった。 ・大永5年(1525)3月 上杉憲房が病死した。 (★『戦国のコミュニケーション』:山田邦明著) ・享禄2年(1529)1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八  郎に謀殺された。    (★出典:『続本朝通鑑』)      総社長尾憲景が白井城主となった。 ・天文21年(1552)、北条氏康に平井城が攻め落とされ、関東管領   上杉憲政は越後の長尾…

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箕輪初心:生方▲井伊直政№148『箕輪城下町推定絵図』&直虎・直政ブログ一覧

井伊直政時代の城下町の絵図が現存していない。しかも、城下町の武 士居住区・武家屋敷ついては発掘調査がされていない。しかし、井伊直 政時代の箕輪の町名が現存しているので町人居住区は確実である。 箕輪城の武家居住区は彦根城の城内1郭・2郭と城下町武家居住区 と町人居住区絵図→安藤時代・間部時代・大河内時代の高崎城絵図 →井伊時代の高崎城下町推定絵図→井伊時代の箕輪城推定絵図と 帰納的に考えると、以下のように推測できる。この論文は「歴史地理 学」的な論文であったので、没になったが、詳細説明は掲載しない。 。 「井伊直政時代の自作推定絵図」 赤は箕輪城で、紫色は武士推定居住区である。  ★彦根城・高崎城同様に箕輪城の武家居住区が3方向を   取り巻くように構築されたと考えられる。 ピンク色は町人居住区である。 緑色は田畑・茶畑である。  ★高崎城・遠構(城下町をすっぽり囲む外堀)   を長野堰から「新井堰」から城内・城下町に   水路を張り巡らせた。   箕輪城も祭戸用水は町人居住区に   井野川・伏流を巧みに武家居住区に   流している。 ●井伊直政シリーズ平成21年~*************** ◆◆ 箕輪初心●箕輪城「井伊直政」 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201010/article_40.html http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.…

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箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』

・天正18年(1590)  ・2月 井伊直政の長男:直継=直勝が駿河で誕生。 ・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪  へ攻め入った。井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。  小田原城落城のきっかけを作った。  篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣 :長野業実(なりざね)であった。 (★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。) ・6月?日 豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。   (★箕輪城シンポジウム:中井均先生) ・6月?日 ◆黒田如水の策略「お土産&褒め殺し作戦」  小田原城に入って、北条氏政・氏直父子を説得し、   無血開城させる功績を立てた。  ※贈り物は「ホウボウの粕漬け」だった。   北条氏政はお返しに   「鉛&火薬・・・徹底抗戦」   黒田官兵衛は一人で乗り込んだ。   「20万人も来ているのに・・・」   と、まず、褒めた。   ・・・小田原城の開城へ・・・・  (★歴史ヒストリアsp7問目) ・7月1日 北条氏直は豊臣秀吉への降伏を決意した。 ・7月5日 小田原城開城 ・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。   内通が失敗に終わった松田憲秀と松井田城開城後に箕輪城に   道案内した大導寺政繁らには切腹が命じられた。 ・7月13日 長野業実は      ①井伊直政から、名刀「備前三郎国光」、     …

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箕輪初心:生方▲井伊直政№142『天正18年山中城攻撃~小田原城攻撃~箕輪城入城』

平成30年(2018)1月1日元旦、初日の出を箕輪城に見に行った。 ここ4年連続である。井伊直政・木俣守勝も見たであろう日の出 を箕輪城から眺めたのである。天正18年(1590)3月29日山中 城攻撃~3月30日井伊直政は単独で足柄山城を攻略した。6月 22日井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪に攻め入った。 井伊直政は豊臣秀吉より箕輪城に入るように言われた。7月5日、 小田原城開城となった。8月初旬、井伊直政が徳川家康より12 万石で箕輪城に入城した。 ・二の丸 ・箕輪城全貌 ・木俣郭から、武家屋敷地→奥に赤城山 ・太田金山城・県庁遠望 ・初日の出…私のカメラは太陽が2つでた。 ・高崎城遠望 ・井伊直政時代の復元郭馬出西虎口門 ・二の丸 ・本丸西虎口の復元工事開始…12月 ・搦め手口 【1】歴史の流れ ・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃 2月 徳川家康は出陣した。     井伊直政も・・・・ **************************** ・1回目は平成11年(1999)5月23日町民ハイキング ・2回目は平成19年(2007) 10月8日「北条氏と今川氏の城を   訪ねて2泊3日」 ・平成22年(2011)2月7日は、三島郷土資料館で山中城のこと  について学んだ。 ・3回目は平成26年(2014)11月17日 単独箱根の日帰り旅行 ・4回目は平成29年…

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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№105直政略史と井伊家の墓

【0】井伊家出自 ・鎌倉時代    井伊氏を惣領家として多くの庶子家を分出している。  5代井伊盛直から井伊谷井伊氏(現浜松市井伊谷)・赤左井伊氏  (浜松市北区)・貫名井伊氏(袋井市)の3家に分かれた。 ①井伊谷7代(長野主膳作成系図では8代)井伊弥直の子からは   田中氏・伊平氏・ 谷津氏・石岡氏に分流した。   さらに田中氏からは田沢氏・松田氏らが分出した。   ②赤佐井伊氏からは井伊宗家を凌ぐ勢いを見せた奥山氏が分かれた。   ③貫名井伊氏からは日蓮宗の宗祖:日蓮が出ている。  結果・・・宗家・分家の名字を地図と重ね会わせると、浜名湖の北部~  東部一帯・・・と言っても、袋井市までが井伊氏の勢力範囲であった  ことが分かる。横地(菊川市)・勝間田(榛原郡)まで入れると遠江  全体に近い。 【1】井伊家宗家・・・井伊直虎・虎松 ◆井伊虎松:井伊家24代跡継ぎ ①井伊直虎:井伊家宗主・虎松の後見人 ②井伊直虎の母:新野親矩(今川重臣)の妹 ③井伊虎松の母:奥山朝利(井伊家庶子家・奥山朝利の娘) 【2】井伊谷七人衆 1)筆頭家老:小野家・・・小野但馬守政直(道高)・TV鶴丸:  政次(道好) 篁(たかむら)屋敷跡:遠江国赤狭郷小野村(現浜松市浜北区    尾野小野海道)である。 →25小野兵庫助重正→26小野和泉守政直→27小野但馬守 『小野氏系図』 ○26代目:小野和泉守政直 ・天文1…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№258&井伊直虎№104小和田哲男先生『箕輪城と講演会』

10月8日、「おんな城主直虎第40話」で、直虎ゆかりの地で 松下清景が住んだ【箕輪城の稲荷曲輪(松下)】と井伊家菩提寺 【竜門寺の松下3代の墓】が紹介された。 10月21日、小和田哲男先生が箕輪城を見学された。 メインは、①郭馬出西虎口の復元門、②木俣郭、③稲荷曲輪(松下) であられた。西原先生の依頼で私と岡田先生も案内させていただいた。 それから、小和田哲男先生が高崎市箕郷町の「箕郷文化会館」で 「直虎から井伊直政の箕輪城入城前」を講演をされた。 掲載許可を得ていなかった。しまった。ご尊顔を掲載できない。 【1】箕輪城 ①郭馬出西虎口の復元門 ②木俣郭 ③稲荷曲輪(松下) 【2】小和田先生の講演会『直虎から井伊直政の箕輪城入城前』 はじめに ①箕輪城の話…西原さんより手紙をいただいて  中世の城門の復元は数が少ない。  ★石川県の鳥坂城が復元されている。 ②時代考証の難しさ…原作なし。    脚本家:森下さんから原稿を読んで、史実と台詞を注意する。  例1「鳩が豆鉄砲を食らったような顔」・「眼鏡にかなった」は   使えない。  例2、「小野政次の槍で殺されたシーン」はグレイゾーンであった。 ③「黒田官兵衛」…明智光秀が長篠で助言はしていないと訂正した。  史実は坂本城で島津家久と会っていた。 ④「黒田官兵衛」…刀でなく、太刀2尺7寸であった。と指摘された。   (福岡市立博物館)」 ⑤N…

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輪初心:生方▲箕輪城№258&井伊直虎・直政№103『2017/10月箕輪城関係情報』

近年、箕輪城がブームになっている。百名城の本が発行され、 城巡りに行く方が増えたからである。平成28年、NHK大河ドラ マ『真田丸』で、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が亡くな った6月10日頃~、箕輪城に真田昌幸が来たことや滝川一益に 会ったシーン等から、ゆかりの地として放映された。また、11月 23日に箕輪城郭馬出西虎口門が復元され、公開された。さらに 観光客は増えている。クラブツーリズムの案内なども多くなった。 平成29年(2017)10月8日、「おんな城主直虎第40話」で、直虎 ゆかりの地で松下清景が住んだ【箕輪城の稲荷曲輪(松下)】と 井伊家菩提寺【竜門寺の松下3代の墓】が紹介された。 今回は、最近の本・雑誌などを紹介したい。 映画の撮影場所として箕輪城が使われることもあった。 3月、BSで、私もエキストラで出演した『上泉伊勢守信綱』村上 弘明主演が放映された。 8月、フジテレビの「コメディ番組」で、箕輪城が放映された。 【1】最近の箕輪城関係の情報 0)9月12日 新聞 1)『和・YAMATO(わずやまと)』夏号     井伊谷のと訪ねて    ヤマトの木下さん文責 ★木下さんの掲載許可を受けておりませんが、宜しく  お願いします。  ★素晴らしい編集ですね。 2)『大人の休日クラブ』9月号  「それでも城歩きはやめられない」箕輪城:春風亭昇太さん  ★許可を得てい…

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箕輪初心:生方▲箕輪城257『2017第16回きつねの嫁入り』昼間の部写真集

高崎市箕郷町在住の岡本優子さんが「みのわきつねの嫁入り」を 創作したことに始まる。井伊直政の養父:松下源太郎清景は箕輪 城の稲荷曲輪(松下)に松下稲荷神社を浜松の頭陀寺城の稲荷神 社より勧請した。10月8日、おんな城主直虎で『箕輪城の稲荷 曲輪』と松下清景・松下一定(中野直之次男)・松下高冬の墓のあ る『竜門寺』が紹介される。霧隠神社とも言われ、武田信玄は攻め られた時、霧が出た伝説もある。そのため、箕輪城廃城後、狐が 夜な夜な箕輪の町に出没したという伝説が生まれた。岡本さんは きつね伝説と農村の結婚儀礼をミックスさせて創作劇を作った。 それが『みのわのきつねの嫁入り』である。16年も続いている。 箕輪城祭りより古いのである。クラブツーリズムはバスでやって来 た。観光客は多かった。写真道楽老人がコンクールに出す写真を撮 りたいがため、写真を撮っている人の前に平気で出るので、年寄り になっても礼儀知らずの方が多いと思った。「今の若いもんは」と いえない程、態度が悪い道楽老人が大勢見られた。 ●写真集 【0】会場 【1】1回目の場所 ★例年の半分くらいの行列か? 可愛い女性もいた。 ・長野業政・妻の役である。 ・尻尾がついている。 【2】2回目の場所 ・Gテレビも来ていた。 【3】3回目の場所 【4】4回目の場所 …

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箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』⑦「長野業尚:榛名鷹留城主」

長野業尚・長尾為景・大光宗猷禅師・が草津温泉に入った説は 2つある、※延徳2年(1490) 説と大永6年(1526)説である。 草津温泉の標柱には延徳2年(1490)長尾為景・長野業尚・ 曇英恵応(大光宗猷禅師)が草津温泉に来たとある。 文亀3年(1503) 長野業尚が亡くなっているので 個人的には延徳2年(1490) 説を取りたいと考えている。 大永6年(1526)の年号は間違っていると考えている。   しかし、伝説・伝承の域を出ないのかもしれないが、・・・ 長野業尚は榛名鷹留城主であるが、系図によっては箕輪城主 もある。長尾為景は越後守護代で上杉謙信の父である。大光 宗猷禅師=曇英恵応は子持雙林寺の双子の僧の1人で林泉寺 &榛名長年寺を開基した人物である(林泉寺和尚様の話)。 ※久保田順一先生説「年不詳? 長野業尚の草津温泉遊蕩 長野業尚は草津温泉で入湯した時、長尾為景(上杉謙信父) &恵応(雙林寺3世)に会った。→不思議体験伝説 「草津温泉に泊まった湯本氏の旅館?・・息子が死んで、  温泉が出なくなった。・・・これに答えた3人衆・・・  やがて、温泉が再び出てきた。・・・・」 (★「久保田順一先生講演会」・『箕輪城と長野業政』久保田順一著) 箕輪初心:生方▲箕輪城188【鷹留城】築城3説と落城3説 http://53922401.at.webry.info/201606/article_23.html 箕輪初心▲箕輪城…

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箕輪初心:初心▲箕輪城№255【水の手郭:第23回箕郷ホタルまつり】

高崎市箕郷町には、ホタルの見られる場所が4か所あるらしい。 昔は近くの小川に至るところ、ホタルが見られた。親から「隣同 士で2つ光ってるのはホタルではなくてヘビだから、気をつける んだよ。」と言われながら、淡い光が闇夜に乱舞する様子を見 に行ったものだ。「ほぉ、ほぉ、ほ〜たる来い・・・あっちの み~ずがあまいぞ。こっちのみ~ずがからいぞ。・・・」なんて、 餓鬼の頃を思い出すなあ。であるが、最近はすっかり見られ なくなった。高崎市箕郷町の法峰寺蛍峰園(ほうぼうじけいほう えん)に行ってみた。「火垂る」=蛍を育てている場所である。 昼間行ったので、出店と小中学生・親子連ればっかであった。 焼きまんじゅうを800円分買って、昼飯代わりにしただけだった。 夜、8時頃になれば、見られるが、夜、見にくる気はない。 【1】箕輪城水の手曲輪=箕郷町の法峰寺蛍峰園 ≪アクセス≫  箕輪小学校の奥に行った場所である。)  法峰寺 箕郷町西明屋247 · 027-371-2959  第23回箕郷ホタル祭り・・水の手郭にて  「みさとホタルの会」では、「蛍峰園」として活用したイベント  を行っている。 ・平成6年(1994)年12月5日に発足した。  会長は山村暮鳥の家を貸していた中隯(なかじま)忠久さんで  あった。  かつては北野神社の獅子舞や箕輪城太鼓の演奏やマス・ウナギの  つかみどりなどお楽しみイベントも行われたらしい…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№240【箕輪城の桜とガイド】・『西光寺の桜と檜扇』

・平成29年(2017)3月下旬に3回程、榛名山の標高500m以上 に雪が降った。高崎市箕郷町の標高200m~350m付近の梅 の産地は気温が2℃~11℃の日が続き、梅は開花したままの状 態が続いた。①4月6日、高崎経済大学の西沢教授の依頼で、箕輪 城現地研修会のボランティアガイドを務めた。西沢教授の修士論 文を考慮しての説明会であった。感謝申しあげます。4月7~9 日、箕輪城の桜が例年より4~6日遅く満開になった。ポケモン の出没する「かみつけの里」にも時々行っている。保渡田古墳群 の一つ薬師塚古墳は現在は「西光寺」の裏山になっている。 ②西光寺の屋根の門には長野氏の「檜扇」が表示されている。 桜が美しい場所でもある。 ③高崎の17号バイパスの立体交差脇のミニ公園は井伊直政が 高崎城の木材運びの集積所・中仙道の原型になった場所である。 (★二の丸から搦め手口方面の眺望) ガイド日と撮影日は3日違う。 箕輪初心●箕輪城124【桜満開の二の丸~大手丸戸張】 &『箕輪亭ランチ』 http://53922401.at.webry.info/201404/article_26.html 【1】 高崎市箕郷町『箕輪城の桜』 4月6日、高崎経済大学の西沢教授の依頼で、箕輪城現地研修会の  ポランティアガイドを務めた。 ●駐車場……地理的・歴史の説明   秋本太郎先生作成のパンフレットを使って、概要説明 「長野氏→武田信玄→織田信長→…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№239『長野業政・井伊直政』&3碑&世界かんがい施設遺産『長野堰』

平成28年(2016)11月8日 長野堰が世界かんがい施設遺産に認定 された。『長野堰を語りつぐ会』会長:中嶋宏氏・副会長:西山氏・ 井田氏・清塚氏など『長野堰を語りつぐ会』・『土地改良区』の皆さん などの努力があった。高崎市のHpには「長野堰用水の開削が始まっ たのは約1000年前と言われています。」とあるが、完全に間違ってい る。古墳時代から長野堰に相当する大用水があった。若狭徹博士に確 認した。長野業政は①祭戸用水、②十二堰、③早瀬川、④長野堰の大 改修工事、⑤本郷堰(黒沢川)+長純寺用水などの用水路を開発した。 最も有名なのが「長野堰」である。長野業政の時は楽間か沖の榛名 白川の取水口であった。戦国時代、井伊直政が長野堰のから「新井 堰」を造らせ、高崎城の内堀・遠構え(外堀)、城内の生活用水、 工業用水、農業用水として活用させた。江戸時代に高崎市榛名町本 郷で烏川の取水口となった。現在は沖町→我峰町→並榎町→住吉町 ・・高崎市のほぼ中央を流れる。江木町の円筒分水で4筋の堰に分 離され、最終的には再び烏川に流れこむ。  (★立役者) ★楽しみを生きがいに変えたレジェンド4人組は凄い。 箕輪初心:生方▲2016【高崎の用水路開発&長野堰の歴史】大修正版 http://53922401.at.webry.info/201607/article_1.html ~~~高崎市の用水路シリーズ~~~~~~~~~~~~~~ 箕輪初心◆「群馬:高…

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箕輪初心:生方▲箕輪城238『長純寺・石上寺・東向八幡・字輪寺・信玄家臣:塚越伴七調査』

平成27年(2017) 1月1日、村の新年会終了後、箕輪城主長野氏に 関係する調査・研究に出かけた。①長野氏菩提寺:長純寺に新年の 挨拶、②長野氏祈願所:石上神社(石上寺)の石幢調査、③長野氏 祈願所:現東向八幡宮の石幢と由来調査、④長野氏の一族がいたと 思われる榛東村広馬場「宿」の『字輪寺』の宝篋印塔と由来調査、 ①かみつけの里にぽけもんGOで休憩。⑥「長野氏家臣・武田信玄 家臣:塚越伴七の子孫:塚越義夫宅」での聞き取り調査を実行した。 1月14日の高崎学ソシアス講演会『箕輪城の歴代城主・城代・城 番と井伊直政』の原稿の確認をするためでである。 【1】長野氏菩提寺:長純寺に新年の挨拶 ①境内散策 ・長純寺だけ、8枚はね・・・ ②住職に挨拶  「葬儀・49日、ありがとうございました。   1年忌は10月21日、11時~」とお願いした。 ③長野業政公の供養塔に礼拝 【2】長野氏祈願所:石上神社(石上寺)の石幢調査 ・文明6年(1474)石上神社・石上寺の六地蔵石幢(せきどう)が 建立された。 ①石幢調査・・・台座に「天明六・・」を確認できた。 ②礼拝 【3】長野氏祈願所:現東向八幡宮の石幢と由来調査、 ・文明6年(1474)八幡神社(現東向観音)の石幢(せいどう)が建立 された。 ①礼拝 ②石幢調査・・・台座の確認はできなかった。 ③宮司さんが『現…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№231久保田順一先生の新刊『長野業政と箕輪城』前編

★平成26年(2016)11月26日、榛名文化センターで、久保 田順一先生の講演会「(新田義貞の子ども)義顕・義興・義宗と 南朝」があった。12月8日が公式の発売日であるが、戎光祥 出版と榛名町の本屋「戸田書店」がコラボして先行発売された。 *シリーズ【実像に迫る】「長野業政と箕輪城」久保田順一著 戎光祥出版から1500円+税で、発売された。久保田先生は 箕輪城の城主と結論づけてはいないが、「長野業尚(尚業)→ 憲業→箕輪長野信業はなく、もしかしたら、厩橋長野信業→ 長野方業・・=業政かもしれない。」と考えているようである。 ●久保田先生の本を10000円以上買った。サインもいただ いた。。 ●山本隆志先生の本は持ってきてサインして貰うのを忘れた。   箕輪初心:生方▲箕輪城208【久保田順一先生20160827 「長野業正:新系図発見」】 http://53922401.at.webry.info/201609/article_1.html 【0】表紙のコメント 主家の再興に賭けた人生 戦国乱世に中で。武田信玄・北条氏康を翻弄した 「上州の大鷹」。 業政の没後、迫り来る武田軍の前に居城箕輪城の運命は 【0】はしがき 長野業政に関する史料は極めてすくなく、実像は捉えにくい。 長野業政の残した書状は一通も残っていない。 花押・実名さえ分かっていない。 「業正」・・・「雙林寺伝記」学術書 「業政」・・・諸系譜…

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箕輪初心:生方▲箕輪城230▲【20161123郭馬出の完成式典】

平成28年(2016)11月23日、国史跡「箕輪城跡」で「郭馬出西虎口 門」の完成式典が開かれた。栁澤本次先生・栁澤佳雄先生・ 箕輪城保存整備委員長:峰岸純夫先生・富岡高崎市長・副市長・ 飯野教育長・後閑市議会議長・岸県議・石川市議・青柳市議・岡田 先生・関口先生・県文化賞の西原さん、飯嶋校長、南雲校長なども 招待されていた。幅5、73m、奥行3、48m、高さ6、48mの櫓門 は戦国時代の関東地方の城郭で最大規模の櫓門である。 そして、午後は栁澤先生と栁澤先生の大学院同級生の桐生の 「彦部家」に行った。榛東村出身の筑波大学名誉教授先生:山本 隆志先生や北条氏研究の群馬県立文書館:青木裕美先生などの 講演会があるからである。山本先生から「箕輪の古街道の石碑」を テーマに「群馬歴史散歩」に書いてください、と依頼されてしまった。 困っっ~~~たあ。どうしよう。何か書かなくちゃになっちゃったあ。 ●秋本太郎先生は「史跡箕輪城跡Ⅷ」「関東の名城を歩く北関東編: 箕輪城」・「ぐんまの城30選:箕輪城」の執筆をしておられる。 ★復元の中心推進者:高崎市教委「秋本太郎先生」は感慨無量   であろう。  秋本先生、許可を得ず、すみません。 ●若狭徹先生は「高崎千年物語」を書いておられる。 ●峰岸純夫先生は「中世の合戦と城郭」「戦国時代の制札と  その機能」などを書いておられる。  峰岸先生が箕輪城保存整備委員長とは、存知あげません  でした。高崎筑縄の六…

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箕輪初心:生方▲箕輪城229【黒田基樹説を加えた「北条氏邦の鉢形領支配→箕輪城主への過程」

北条氏邦が鉢形領支配→箕輪城主になるまでの過程を今まで 「群馬県史:浅倉直美文責」や「北条五代:相川司」著など をベースに書いた年表に『鉢形城と戦国武将』:黒田基樹著を 加味して、新しく年表を書き足した。●印は黒田基樹先生の 部分である。石塚三夫館長先生、いい本を紹介してくださって ありがとうございます。 ●▲■北条氏の動向 ・天文10年(1541) 北条氏邦は北条氏康の氏康4男:実質3男  として生まれた。 ●【黒田基樹説】 ①天文10年(1541)説   北条氏邦は北条氏康の氏政・氏照の弟として生まれた。 (★狭山藩史料:北条系図) ②天文13年(1544)説 (★堀尾古記) ●天文10年(1541)藤田康利の娘:大福御前が生まれた。   (★正竜寺過去帳)   ・天文15年(1546) 河越の夜戦      上杉勢が大敗。      上杉憲政は平井城に逃走。    ・天文18年(1549)  7月 藤田重利が北条氏康の傘下となった。    藤田重利は北条氏康の「康」の字を貰って、     藤田康邦と名前を変えた。 ・天文19年(1550)頃    北条氏康の3男乙千代→晋太郎→氏邦が藤田重利 の長女:大福御前の娘婿となった。  武蔵児玉党を支配した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 箕輪初心●埼玉長瀞【…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№226【鉢形城歴史博物館館長:石塚先生の「箕輪城関連の話】

平成28年(2016)11月17日、高崎市委嘱「箕郷歴史文化調査 研究会」の事務局2人と3人で、鉢形城歴史博物館館長:石塚三 夫館長先生の話を聞きに、出かけた。鉢形城も見学もした。 (★鉢形城の石垣)  ★箕輪城の本丸の東虎口付近~本丸堀上・北の土塁    二の丸の大堀切よりの場所に同じような石積みが   ある。完全に北条氏邦の命令による改修工事である。 【1】鉢形城歴史博物館館長:石塚三夫館長の話 0)挨拶&名刺交換 ①佐藤氏の目的・趣旨説明 ②私の知っていること 後北条時代の箕輪城城主・城代は①北条氏邦(鉢形城兼任)→②北 条家№3の富永一族の富永能登守助盛=猪俣邦憲→③北条氏邦→ ④多米周防守元忠→多米出羽守平長定、⑤垪和伊予守氏続→垪和伯耆 守康忠→垪和信濃守となる。 *橋台2ヶ所・・・が北条流で小田原城3の丸と同じ *2の丸・本丸の土塁・・・鉢形城の秩父曲輪と3段石垣を同じ *郭馬出が北条流・・鉢形城の馬出 *箕輪城の大堀切の畝堀・・・小田原城の大堀切 *時の鐘・・・・・・・川越城の時の鐘のように箕輪城にあった   のではないでしょうか?高崎城・彦根城にもありました。」 私が分かっているのは、ここまでです。 1)石塚先生「箕輪城の矢倉・建物・・・不明です。」 礎石や柱穴が出てきても、上の構造は建築家から言わせても 分かっていません。図がでれば、凄いですし、・・・ 鉢形城の…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№225「箕輪城のじじばば石」など箕郷の10伝説

箕輪城主:長野氏が本郭の築山に安山岩の夫婦岩を据えた。 ①長野家の城主に代々受け継がれてきたと~~~。 そして、武田 軍の箕輪城攻撃で落城寸戦の時、武田軍に火の玉攻撃をした。 ②井伊直政は箕輪城から高崎城に「じじばば石」を運び込もうと した。ところが、箕輪:青木の里で夜を過ごしているうちに、 勝手に城の本郭に戻っていた。           ③現在は高崎市箕郷町のI家の庭にある。 ★「じじばば石」 ・平成28年(2016)11月12日 『上泉伊勢守信綱』主演:村上弘明さん・・・ 私の「赤備えの武田武将の鉄砲討たれ役」のシーンはなかなか こなかった。 栁澤氏「本丸は安田家の土地で、二の丸は栁澤家の      土地だった。・・・・」 私は栁澤氏に 「じじばば石ってどこにおいてあったのでしょうね?」 栁澤氏「このあたりじゃないの?」 栁澤氏「Iさんは隣に座っているよ?     聞いてみようか?」 ・・・・・・ 栁澤氏&I氏の会話・・・ I氏「三波石だけどね。」 と私にも伝えた。 ★見たいなあ。 もしかして、今いる石川さん・栁澤さん・川浦さんの場所が 「じじばば石」の設置地点?・・・  井伊時代の土塁付近?  可能性は大きいが、・・・・  不思議なのは、箕輪城に庭園が発掘されてないことである。 長野氏も武田氏も織田氏(滝川氏)も北条氏も井伊氏も  庭園が見つかっていない。小田原城は御米…

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箕輪初心:生方▲箕輪城№224『剣聖:上泉伊勢守信綱の生涯』大修正版3

★私の「剣聖」イメージ」は上泉信綱 ・塚原卜伝・柳生宗厳・伊藤 一刀斎 ・丸目蔵人・宮本武蔵 ・男谷信友・ 昭和の剣聖「持田誠 二」かな?ということは、箕輪城関係者には【上泉伊勢守信綱】 &新陰流の弟子:神後伊豆宗治&疋田文五郎&岸監物(昭和 の剣聖「持田誠二」の先祖)がいた。塚原卜伝も箕輪城に尋ねて きている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 箕輪初心●箕輪城№93【上泉伊勢守秀綱】箕輪城落城~流浪の旅へ http://53922401.at.webry.info/201212/article_24.html ◆◆ 箕輪初心●群馬【上泉城】 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201212/article_23.html ◆◆ 箕輪初心★「上泉城:上泉伊勢守信綱と子孫」 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201212/article_23.html 箕輪初心:生方▲群馬:【上泉城】&『上泉伊勢守信綱の生涯復刻版』 http://53922401.at.webry.info/201508/article_2.html 箕輪初心:生方▲『上泉伊勢守秀綱』:主演村上弘明のロケに参加 http://53922401.at.webry.info/201611/article_10.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~…

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