箕輪初心★新田義貞の弟:脇屋義助&子孫の動向

★脇屋義助・・・嘉元3年(1305)~興国3年・康永元年(1342) 5月11日(6月25日)。新田朝氏の長男が新田義貞、次男が脇屋 義助である。長女(妹)は大館宗氏の正妻である。脇屋義助は 新田荘脇屋に居住していたことから脇屋姓を名乗った。 ・元弘元年(1331)脇屋義助は「どこに逃げたって同じ。鎌倉攻 撃をしよう。」と強行論を提案した。兄:新田義貞が鎌倉に向け 兵を挙げた。兄:新田義貞に従いって鎌倉を攻撃を敢行した。 北条氏を打ち倒した。建武の中興では、兄:新田義貞とともに 南朝:後醍醐天皇の下で活躍した。駿河守護(+越前守護)に 任命された。兄:新田義貞の「脇役」の脇屋義助であった。 兄:新田義貞が越前:福井の灯明寺畷で死亡すると、「主役」の 抜擢され、脇屋伊予守義助となった。でも、大変な役であった。 伊予の国分寺近くで亡くなった。・・・しかし、足利尊氏の時代 になってしまった。新田一族系で、足利幕府の要職についたのは 新田系山名一族、新田系岩松一族、新田系大舘一族などである。 新田宗家&脇屋子孫は苦しい道を歩んだ。  (脇屋義助の墓:愛媛県今治市国分寺北200m) ◆◆ 脇屋義助の生涯 ◆◆ 【1】生誕~兄:新田義貞の死 ・嘉元3年(1305) 新田朝氏の次男として生まれた。 新田朝氏の長男が新田義貞、次男が脇屋義助である。  長女(妹)は大館宗氏の正妻である。  脇屋義助は新田荘脇屋に居住した。 ★脇屋館はどこかい…

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箕輪初心●太田『台源氏館』=新田義貞誕生の地説

★『台源氏館』には「新田義貞卿誕生地之碑」と石碑が建っている。 『吾妻鏡』によれば、政義は寛元2年(1244)京都大番役として在京中、 幕府の許可を得ず突然出家をしたしたため、幕府の咎めを受けて所領 を没収され、(上野国)由良郷別所(群馬県太田市別所町)に蟄居す ることになった。当時「新田荘由良郷」とよばれており、13C中頃~ 14C前半新田氏本宗家の拠点となっていたと考えられている。 新田政義→政氏→基氏→朝氏→新田義貞と続く。」 (★新田荘遺跡のパンフレット) 新田荘遺跡の「円福寺」の東400~500mの所にある。現在 の北之庄公園である。  ○新田荘遺跡「円福寺」「十二所神社」は群馬県旧太田市 西部の別所町にある。旧新田町の反町館の2km東に当たる。 さらに東に4~500mほど行った場所が新田義貞公誕生地 「台源氏館跡」である。円福寺までは、ぐちゃぐちゃで、3回も 道を聞いたので、わからなくなっちゃった。ナビがなかったのだ。 とにかく、分かりづらかった。住宅街の一角にあった。 後で分かったことだが、北之庄公園だった。 ①北之庄公園・・・松・芝生・四阿屋・人・・ ②石碑「新田義貞卿誕生地之碑」 ③説明案内板 台源氏館跡 新田義貞誕生伝説地 ここは太田市由良町(字北之庄)に当り、古く…

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箕輪初心◆新田荘遺跡「円福寺」&「十二所神社」

★旧新田町の反町館を後にして台源氏館に向かった。反町館からは 2km東に当たる。道を聞いた方から、「円福寺の向こうです。」と言わ れたが、大雑把な地図しかなく、2度3度と人に聞いた。円福寺には、 新田義貞の先祖の墓があることが分かった。円福寺&茶臼山古墳 に立ち寄ることにした。新田荘遺跡「円福寺」「十二所神社」は群馬 県旧太田市西部の別所町にある。  (★新田義貞の祖父:新田基氏の墓) ◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『江田館』=江田行義館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_14.html ◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『反町館』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_15.html ◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『綿打館=大慶寺』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_16.html ◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『田中館=長慶寺』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_17.html 【1】「円福寺」 ①山門 ②案内板 ③「新田氏累代の墓」・・・20基程の石層塔と五輪塔   新田基氏=新田政義の孫・新田義貞の祖父の五輪塔  ・新田基氏(新田義…

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箕輪初心●伊勢崎「西今井館」&世良田「今井館」

★太田薮塚IC→旧新田町の綿打館→田中館を過ぎ、さらに 南下した。伊勢崎の西今井館や旧尾島町の長楽寺などを見学 するためである。今井館は「伊勢崎市西今井の西今井館であ る。」と思っていたが、どうも旧世良田町にも「今井館」が あったらしいのだ。 山本隆志先生は「新田義貞」(ミネルヴ ァ書房)の中で、「新田義重館=世良田今井」であると考え ている。と明言されている。その他にも、大沢氏の「今井館」 があったのだ。伊勢崎の赤堀城も「今井城」という。 山本隆志先生は「新田義重館=世良田今井」の根拠として、 ①応永3年(1396)10月18日の日光輪王寺の般若心経奧書 に、「上野国新田庄今居千手堂如意山普門寺圓頓法界院」と あり、今井に普門寺があったことが分かる。今と少し違う。 ②江戸時代の世良田郷絵地図・・・「今井」長楽寺と総持寺 の間に注記されている。かつて、世良田の北~東に今井が あった。・・・現総持寺が「新田館」である。としている、 ★つまり、鎌倉時代の今井は世良田~現伊勢崎市の西今井 地区までがその範囲なのであろう。 旧新田郡尾島町は史跡の多い町である。 世良田交差点からみると、 南・・・・・長楽寺・世良田東照宮・世良田館 南西・・・新田館跡の総持寺      そして、現伊勢崎市の西今井も含まれる。 西・・・・・戦国時代の由良国繁の四天王:大沢氏の今井館。 北・・・・・鎌倉時代の源義平の墓がある清泉寺 北東・・・南北朝時代の新田義貞…

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箕輪初心★新田義貞「生品神社挙兵~鎌倉進軍コース」

★今回は、新田義貞の生品神社の再生復刻版でいこうと思う。 ・元弘3年(1333)鎌倉幕府は楠木正成の攻撃に多額の経費を使っ た。全国の荘園に臨時のお金を出すように命じた。北条高時は 新田荘世良田にも銭6万貫文を収めるよう下知を下した。頭に 来た新田義貞は脇屋義助に命じて、使者の一人:黒沼を殺させ た。北条高時の報復の情報を得た新田義貞は、生品神社で挙兵 した。  (★新田荘歴史資料館の3月~の第5回企画展パンフ)  平成25年(2013) ◆◆ 箕輪初心★新田義貞2「新田~鎌倉進軍」  ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201102/article_41.html ◆◆ 箕輪初心★新田義貞3「2度の鎌倉攻撃」  ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html ◆◆ 《ニックネーム》『ぼ輔』さんのブログ ◆◆ 《内容》太平記「稲村ヶ崎」伝説について・・・・ ブログ「鎌倉街道を探そう!」を書いている ぼ輔です。 下記ブログにて、稲村ガ埼で起きた事を詳細に解説しています。 http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/m/201007 常識的に言われている事と事実には大きな違いがあります。 ★「ぼ輔」さんは凄すぎます。 是非、寄ってみて下さい。 【1】新田義貞の挙兵理由 1)鎌倉幕府から重用されなか…

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箕輪初心●群馬旧新田町「田中館=長慶寺」千利休先祖の館

★田中山長慶寺 (太田市新田上田中町)は、新田里見系の里見義俊 (竹林=高林太郎)の息子:田中五郎義清を開祖とした田中氏の 居城があったとされる。しかし、峰岸純夫氏は「歴史の旅 太平記 の里 新田・足利を歩く」で、長慶寺は里見系田中氏ではなく、 新田岩松系田中氏の居城跡という説を述べている。戦国時代の千 利休も田中氏の末裔と言われている。また、明治時代の足尾鉱毒 事件に抗議した田中正造も末裔だそうである。(★内村鑑三も応援) ◆◆ 箕輪初心●福井『金ヶ崎城』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html ◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『江田館』=江田行義館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_14.html ◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『反町館』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_15.html ◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『綿打館=大慶寺』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_16.html 【1】田中館・・現群馬県太田市新田上田中町:長慶寺 ■訪問日1回目・・平成20年(2008)5月18日  「江田館」から西へ約1km弱。 ■訪問日2回目・・平成22年(2010)…

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箕輪初心●群馬旧新田町『綿打館=大慶寺』

新田氏の始祖:新田義重の娘が源悪源太義平の妻となった。源義 平の妻は、木曽義仲の父を討った源義平(源頼朝の兄)の菩提を弔 うために綿打郷に移った。治承4年(1180)に出家して妙満尼となった。 その後、新田系→大舘氏系→綿引氏の居城となった。 綿打氏は大舘家氏の子:綿打太郎為氏を始祖とした一族である。 綿打為氏の子:綿打太郎氏義、孫の大炊助氏頼父子は新田義貞の 鎌倉攻撃に参加し、南朝:後醍醐天皇側に属した。延元2年(1337) 3月6日金ヶ崎城落城。尊良親王・新田義顕(義貞嫡男)以下 300余名が戦死(伝)。『長楽寺系図』によれば、綿打太郎氏義、 綿打大炊助氏頼も討死したとされているそうである。 延元3・建武5(1338)閏7月2日新田義貞は50余騎で偵察に向 かった。途中、藤島の灯明寺畷(福井市新田塚)で斯波軍にあい、 最後は自刃したという。大慶寺には新田義貞公の戦死を惜しみ泣 いたという「守不動」=「泣不動」がある。綿打氏の遺物につい ては、住職に聞いていないので分からない。 ・明徳5年(1394)には、足利小俣の鶏足寺から「明源房空覚上人」 を招いて大慶寺を再創建した(伝)。 ・江戸時代  大慶寺は徳川氏より厚く庇護されてきた。 ・平成時代 「ぼたん寺」として有名である。  4月下旬~5月上旬頃には、約150種、3,000株のボタンが大輪  の花を咲かせ、大勢の参詣人で賑わうそうである。 (★大慶寺案内板・パンフレット・Hp&新田町資料などより編…

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箕輪初心●群馬新田荘遺跡『反町館』=新田義貞伝説

★昭和33年に群馬県指定史跡、平成12年に新田荘遺跡と して国指定史跡になった。新田荘を代表する館跡である。 反町館も新田義貞の居館であった(伝)。城址には「新田義 貞公古城跡」と石碑が建てられている。新田義貞は反町館 東の台源氏館で生まれ、旧尾島町の総持寺&明王院& 反町館の3ヶ所が「新田義貞館」であったということになる。 しかし、東西方向は南辺で138m、北辺で75mあり、南北は 115mである。守護クラスの館は200m×200m以上と考えら れるようになって、新田義貞の館説は小さすぎて少数説と なった。 (★新田町の文化財新田町教育委員会・・・1400円など) ◆◆ 箕輪初心●群馬旧新田町『江田館』=江田行義館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_14.html ■訪問日・・・平成20年(2008)5月18日 ①江田館から反町館に向かった。  周囲には水をたたえる大きな堀が巡らされていた。  後で調べて分かったことであるが、東の堀の北半部は県道  改修の際に二倍以上の幅に広げているそうだ。 ②堀の内側へ・・・★クスノキがでかい。 ③凸型の要塞・・・・★写真の取り忘れ。 ④照明寺本堂・・・反町薬師 ⑤本堂の裏の「不鳴の池」  「義貞が軍議を開いた時に鳴いている蛙の声を静めた。」   という伝承がある。 ⑥南・西・北には土塁が…

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箕輪初心●群馬新田荘遺跡:江田館跡=江田行義館

★高校の社会科の教科書に「中世館」として載っていた。 ★「木崎台地の西端部に立地しています。新田荘を代表する館跡 で、昭和22年に群馬県指定史跡第1号に指定されていましたが、 平成12年に新田荘遺跡として国指定史跡に指定されました。  堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方 形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。 南辺と東辺の二箇所では堀が切れ、虎口が造られています。  堀の東辺と西辺は、外敵を防御するために直角に折れ曲がって います。周囲には黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷と呼ばれる郭が あり、反町館跡と同様戦国時代に城郭化化されたと推定されます。  築造年を示す史料はありませんが、反町館跡と同様、鎌倉時代 から南北朝時代の築造と推定されます。鎌倉攻めに従軍した江田 行義の館であったと伝えられ、その後、戦国時代には金山城主横 瀬氏の家臣矢内四郎左衛門が館を拡張して住んだと伝えられてい ます。  北側の土塁には「義貞様」と呼ばれるお宮があります。太田金 山にある新田神社には、明治時代にこのお宮から御魂を持って行 ったということです。 この時代の平城は通常がうめられたり、中に建物が入ってたり して形が変えられてしまいますが、江田館跡はほぼ築造された当 時の姿をとどめている貴重な館跡です。 (★新田町の文化財 新田町教育委員会・・・1400円) 【1】江田館・・・太田市新田上江田町925-9堀の内 ■訪問…

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箕輪初心◆群馬旧尾島町:二体地蔵&普門寺&新田荘歴史資料館

★平成25年(2013)3月10日、職場での仕事がいやになって、15:00 に旧尾島町に向かった。行っていない場所を見たかったからである。 太田薮塚ICで降り、①旧新田町の長慶寺=田中館、②江田館&東田 遺跡、③伊勢崎市の今井館、・・・④旧尾島町の二体遺跡、⑤普門寺 ⑥長楽寺&世良田東照宮&新田荘歴史資料館&世良田館、ついで に、「田島弥平の家(★世界遺産候補」)に行った。今回は、④旧尾 島町の二体遺跡、⑤普門寺、⑤新田庄歴史資料館にしよう。  (★新田義貞人形) 【1】二体地蔵・・・旧尾島町世良田  世良田館や新田館から近い。国道354号線世良田交差点の  すぐ東500m程の所ににある。塚として盛り上がっている。 ※新田朝氏の執事は船田政綱であった。 ・船田政綱は新田義貞の父:朝氏(→朝兼)と執事として  新田宗家の土地の切り売りに手腕を振るった。  新田義貞の父:朝氏→朝兼&船田政綱はともに出家した。  (★久保田順一) ・元弘元年(1331) 元弘の乱・・・楠木正成 ・元弘2年(1332)新田義貞が鎌倉幕府より楠木正成討伐の命を受  けて河内へ出陣した。船田善昌も出陣した。   (★「新田一族の盛衰:久保田順一著) しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまった。 ・新田義貞が幕府に反逆した決定的な理由は、   楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった。  鎌倉幕府は、調達のため、富裕税の一種である有…

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箕輪初心●徳川家康の姓名変更の謎『松平元康→徳川源家康』

★3月11日、脳裏の刻めこめれた東日本大震災から2年経つ。・・・ ★群馬の旧尾島町では「徳川氏発祥の地」と宣伝しているが、 一般的には徳川家康の家系詐称説が有力説のようだ。徳川家康は 「竹千代→松平元康→松平家康→得川藤原家康→徳川源家康」 となったようである。つまり、源氏系→藤原の新田系世良田系の 子孫が松平初代:松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となり、松平 親氏を名乗ったという説を作り上げたのかもしれないな。  (★旧尾島町世良田の新田庄歴史博物館前の系図)  (★旧尾島町満徳寺・徳川義季館前) 【1】新田氏→松平氏 鎌倉時代、新田義重の子・義季は、父より新田庄のうち六郷を譲り受け て徳川郷へ居住した。 ★しかし義季は世良田氏と得川氏のどちらを名乗ったかは不明。  得川=徳川義季の子:頼氏は世良田弥四郎と名乗っていた。 ・元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府倒幕の挙兵。 世良田頼氏の曾孫:世良田満義は新田義貞に従い、鎌倉攻撃に 従軍している。大館・堀口・世良田などが大将であった。 (★新田一族の盛衰:久保田順一著) 南北朝の動乱の時、南朝:後醍醐天皇に新田(世良田)政義は 新田義貞とともに味方した。世良田政義は寺尾城=高崎茶臼山 城に籠もる醍醐天皇の孫:伊良(ただよし)親王に味方し、 北朝の平井城:上杉憲定と戦った。世良田政義は世良田満義は 伊良親王と信濃に落ち延びた。しかし、信濃浪会(現長野県下 伊那郡浪会村)で戦った。 (★…

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箕輪初心●群馬旧尾島町8『岩松館=青蓮寺』源義国~岩松代々の館

★れいこねえさんから、トランペットのマースピースのプレゼント があった。ありがどうございます。大事に使わせていただききます。 ★新田氏・足利氏の始祖:源義国が岩松館を創築し、子:新田義重、 孫:義兼の3代が居館していたされる。新田義兼の没後、譲状に より、未亡人の新田尼に所領が安堵され、新田尼は岩松館に居館し たと考えられている。貞応3年(1224)、新田尼は孫の岩松時兼に 館と岩松郷を譲渡し、嘉禄2年(1226)には鎌倉幕府は岩松時兼を 地頭職に任じている。岩松時兼以降、岩松氏が代々この館に居館し たと考えられる。現在の青蓮寺境内を中心とした地域には、義国神 社や岩松尚純の墓やその跡があり、南には岩清水八幡宮を勧請した と伝えられる岩松八幡宮がある。 ◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島『9城一覧』 ◆◆  http://53922401.at.webry.info/201302/article_28.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「新田館」=新田義重館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「徳川館」=徳川義季館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_4.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「長楽寺&世良田館」=世良田頼氏館 ◆◆ http://53922401.at.webry.i…

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箕輪初心●旧尾島7『堀口館』=新田系堀口一族

新田義重→義兼→義房→新田(世良田)政義→政氏と続く。 新田政氏の子どもは4人いた。長男:綿内為氏・次男:堀口 次郎貞氏・3男:貞寂・4男:大館宗氏である。堀口次郎貞氏 が鎌倉時代に堀口郷に館を構えて堀口氏の祖となった。 (★尊卑分脈) ※別系図では新田政義の3男:家貞を堀口氏の祖とする。 ◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島『9城一覧』 ◆◆  http://53922401.at.webry.info/201302/article_28.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「新田館」=新田義重館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「徳川館」=徳川義季館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_4.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「長楽寺&世良田館」=世良田頼氏館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_5.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「満徳寺」=徳川義季の娘 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_6.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「安養寺館=明王院」=新田義貞の館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_7.html …

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箕輪初心●群馬旧尾島町6『大舘館』=新田一族

新田義重→新田義兼→新田(世良田)政義→長男:新田政氏・ 新田政義の次男:大舘家氏・3男:堀口家貞・・・ 大舘家氏が大舘郷に住み、地名の大舘を名乗ったのが大舘氏の 始まりである。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めに大舘 宗氏は弟:堀口貞満&子ども達とともに参加した。しかし、 極楽寺坂口で戦死した。(東勝寺合戦)。 大館館・・・尾島町大館1456「御堀」(国史)      ■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日)   ○大舘館は、県道298号線沿いの東楊寺から北に300m程  入った所にある。城址の中央に諏訪神社が祭られている。  探すにに一苦労だった。畑の真ん中に2m×2mの諏訪神社  があるが大舘氏館の跡地である。 【1】諏訪神社には城址標柱や案内板などがある。  ○御堀、御蔵、鍛冶屋、馬場などの地名も残っている。   しかし、耕地整理によって畑になり遺構は消失した。  「大舘」という地名が残っている。  ○山崎一氏の「縄張り図」や「城郭体系」の図を見ると、   120m×120m程の単郭の居館で、五角形をしている。   【2】祠脇には標柱・・・。   新田荘の大舘氏の居館跡「大舘館跡」として城碑が立つ。 ◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島『9城一覧』 ◆◆  http://53922401.at.webry.info/201302/article_28.html ◆◆ 箕輪初…

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箕輪初心●群馬旧尾島5『安養寺館=明王院』=新田義貞居住最有力説

国指定史跡「新田荘遺跡」11の内の1つに「明王院境内」があ る。★学芸大学名誉教授:峰岸純夫先生にお聴きしたところ、 先生は「新田義貞の生まれた場所は明王院=安養寺館だと思い ます。安養寺館が新田義貞の館跡だと思っています。」と、おっ しゃった。新田義貞の生まれた場所は5説あるが、最近では、太 田市の市教委も明王院=安養寺館跡をとっているようである。新 田義貞は「安養寺殿」と呼ばれたので、安養寺館を構えていた場 所が明王院であると推定しているようである。ここには新田義貞 の鎌倉攻めの際の「新田触不動」伝説が残っている。また、境内 には新田一族の五輪塔などがある。    ◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島『9城一覧』 ◆◆  http://53922401.at.webry.info/201302/article_28.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「新田館」=新田義重館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「徳川館」=徳川義季館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_4.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「長楽寺&世良田館」=世良田頼氏館 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_5.html ◆◆ 箕輪初心●群馬「満徳寺」=徳川義季の娘 ◆…

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箕輪初心●群馬旧尾島町4『満徳寺』=縁切り寺

昭和60年(1985)に訪れた時は、小さなお堂だった。近所の管理さ んにお堂を開けてもらった。この当時、満徳寺など訪れる者は滅 多にいなかったのある。★しかし、位牌をのぞくと、ビックリだ。 新田系の位牌が並んでいたのである。寂れたまんまの寺であった。 平成4年(1983)に満徳寺資科館が開館した。2回目の訪問は平 成23年(2010)年5月30日であった。高崎市箕郷町の「箕輪町誌」 に「神澤一族の女性が満徳寺に逃げ込んだ。」という文章が記載 されていたからである。館長:高木先生が第一人者である。資料 を探して下さった。ありがとうございました。「駆け込み寺」とも呼 ばれ、関東では、鎌倉の東慶寺・旧尾島町の満徳寺し2つしかな い。徳川幕府の権威が象徴される寺である。 ◆◆ 満徳寺Hp ◆◆ http://www8.wind.ne.jp/mantokuji/mantokuji/mantokuji.html 群馬県太田市徳川町385-1 TEL・FAX0276-52-2276 ◆◆ 箕輪初心◆鎌倉東慶寺 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201202/article_1.html ①入り口・・・拝観料 ②第一展示室・・・満徳寺の歴史 ・開山・・・徳川義季の娘 ・文化6年(1809)満徳寺消失    本尊や開山上人座像、歴代将軍の位脾、御朱印状などを    持ち出したに過ぎ…

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箕輪初心●群馬旧尾島町『長楽寺&世良田東照宮&世良田館』

★新田荘は、平安時代末期:12C中頃に開かれた荘園である。 新田義重(★源義家→源義国→新田義重)は、太田市旧尾島町の 早川・石田川流域19郷をさらに開発して37郷を支配した。 国史『新田荘遺跡』は、円福寺・十二所神社・総持寺・長楽寺 ・世良田東照宮・明王院・生品神社・江田館跡・反町館跡& ・重殿水源・矢太神水源の11からなる。今回は、『長楽寺& 世良田東照宮&世良田館』を中心に紹介をしようと思う。 でも、写真がバッテリー切れで、少ない。 ◆◆ 箕輪初心●群馬『新田館』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html ◆◆ 箕輪初心●群馬『徳川館』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201303/article_4.html 【1】長楽寺・・・群馬県太田市世良田町3119-7 世良田の交差点の南300mほどの所に長楽寺がある。 国指定史跡『新田荘遺跡』の中心となる場所である。 ■訪問日・・昭和60年(1985) ・中学校&高校の吹奏楽部部後輩の関口と訪ねた。  全く、廃寺同然であった。建物のには自由に入らせてくれた。  お堂の縁側の隅には、壊れかけた人形や朽ちた仏像が置いて  あった。和尚様が  「お堂の縁側にある木造や人形は持って行って下さって かまわないですよ。」 と言った。★でも、持ち帰らなかった。 頭の毛の抜…

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箕輪初心●『徳川館』=徳川義季の館

鎌倉時代、新田義重の4男:義季は、徳川義季 (得川姓:世良田姓・徳河か不明。★長楽寺の木造では徳河 義季になっている。)は、新田義重より新田庄のうち 六郷を譲り受けて徳川郷へ居住した。久保田順一先生は 「徳川義季は得川在住で、世良田郷の地頭である。」と 『新田一族の盛衰』と書かれている。 得川=徳川義季の子:頼氏は世良田弥四郎と名乗っていた。 ・元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府倒幕の挙兵。 世良田頼氏の曾孫:世良田満義は新田義貞に従い、鎌倉攻撃に 従軍している。大館・堀口・世良田などが大将であった。 南北朝の動乱の時、南朝:後醍醐天皇に新田(世良田)政義は 新田義貞とともに味方した。世良田政義は寺尾城=高崎茶臼山 城に籠もる醍醐天皇の孫:伊良(ただよし)親王に味方し、 北朝の平井城:上杉憲定と戦った。世良田政義は世良田満義は 伊良親王と信濃に落ち延びた。しかし、信濃浪会(現長野県下 伊那郡浪会村)で戦った。(★高崎茶臼山城の看板) ・世良田義政は世良田に退いて、足利尊氏・直義と和解した。 しかし、武蔵:松山にいた関東管領:足利基氏に世良田館  が攻撃され、世良田義政は長楽寺で自刃した。 ★以下は、徳川家康の系図詐称あるいは捏造と云われる 部分である。 ①世良田満義の次男:政親は三河松平郷へと逃亡した。 そして、世良田政親は一時出家し、時宗の僧になった。で、 松平郷の領主:松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となった。 松平親氏を名乗ったという。松平…

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箕輪初心●群馬旧尾島①『新田館』=世良田総持寺

★『新田館』は、尾島町世良田850「総持寺」(国史)にある。   旧尾島町は新田氏の始祖:新田義重がこの地を領有したことに よる。総持寺境内が新田館であるという説が有力のようである。 新田義貞もここに住んでいたという説も有力説である。 ◆◆ 箕輪初心●群馬『新田義重を巡る旅』 ◆◆   『寺尾=太田説&高崎説』  http://53922401.at.webry.info/201102/article_29.html ■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日)  ①総持寺の山門横の看板 ②総持寺本堂など ③新田館(★群馬県太田市世良田町)  総持寺の寺域は早川の東、高台の地を占める現在は1ha余に   過ぎないが、往時は数倍の館域であった。 南と北に東西に走る濠の痕跡が残存している。 ◆◆ 新田館=総持寺の歴史 ◆◆  ・保元2年(1157) 新田義重によって築かれ、新田宗家累代の 居館となった。   新田義重は、清和源氏嫡流の源義家三男義国の長子で、  義重が新田氏を始祖となり、弟の義康が下野国足利を領  して足利氏の祖となった。 ・建久2年(1191)源頼朝の挙兵  新田義重は、源義国の長男だから、源頼朝よりは源義家に  近い。俺が嫡流だと思っていたらしい。  寺尾で反抗した。  寺尾説・・・①太田の寺井『新田之庄』という和食屋 …

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箕輪初心●群馬「旧尾島町の城9城」=新田一族の遺構

★旧尾島町は新田氏の始祖:新田義重の子:義季がこの地を領有 し、得川姓、あるいは世良田姓を名乗った旧尾島町は、新田荘遺 跡=(総持寺・長楽寺・東照宮・明王院境内)など新田の遺構など が数々残っていて、見飽きることがない。徳川家の先祖の地として 江戸時代から手厚く保護されてきた。地元では「徳川氏発祥の地」 と宣伝している。しかし、徳川家康の家系詐称説も流布している。 群馬県新田郡尾島町から、平成18年(2005)3月28日に旧太田 市・新田町・藪塚本町が合併し、太田市となった。 ◆◆ 箕輪初心★新田義貞「楠木正成への攻撃」 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201102/article_40.html 【1】岩松館・・・尾島町岩松「青蓮寺」           ■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日)   岩松地区の青蓮寺が岩松氏の居館の跡である。  青蓮寺は山門が非常に立派である。  遺構が残存しているのは、寺院背後の北側である。しかし、藪  である。内部には、東西に土塁と堀が一直線に延びている。  しかし、東西および南側の遺構はすでに失われてしまっている。  近くに、岩松氏の墓がある。 ※建保3年(1215) 新田義兼の後家が岩松郷を与えられた。  後家は孫:時兼に所領を譲り、時兼が岩松郷の地頭となった。  岩松氏の開祖である。それ以後、岩松館は岩松氏代々の居城と  なった。   【2…

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箕輪初心●群馬『寺尾中城2回目』=新田義重の城か?

★平成25年(2013)2月10日、07:45に富岡武蔵氏・余湖さん ・野口さんと合流した。①東吾妻町の萩生城、②倉渕の権田城、 ③大明神砦、④栗崎城=三の倉城、⑤榛名の榛名山城・・・・ 富岡武藏氏と別れ、⑥高崎の寺尾上城=乗附城、⑦寺尾中城、 茶臼山城と御一緒させていただいた。今日は、⑦寺尾中城の 紹介をしようと思う。「観音山ファミリーパーク」からのハイ キングコースになっているのだ。2回目の訪問である。 余湖さん・野口さん、お世話になりました。 ◆◆ 箕輪初心●群馬高崎:寺尾中城1回目 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201012/article_20.html ◆◆ 富岡武蔵「寺尾中城」詳細  ◆◆ http://tomioka.at.webry.info/201101/article_20.html ◆◆ 余湖「寺尾上城・寺尾中城・茶臼山城」詳細  ◆◆ ★余湖さんの写真の赤い服は私である。 http://homepage2.nifty.com/mizuki55/gunma/takasakisi02.htm ◆◆ 箕輪初心●茶臼山城=寺尾城本城・新田義重の城◆◆ http://53922401.at.webry.info/201012/article_19.html 平成25年(2013)2月10日の探検では、看板設置& 下草刈りがしてあって、大きな堀ははっきり見えた。 主郭の土塁や井戸跡・二の…

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箕輪初心●群馬【仁田山城&谷山城&皿窪砦】&『里見一族』

【太田:犬&スキー&ハイキングの会】の2012年のスキーは 終わり、ハイキングになった。第1弾は【鳴神山】である。 私は、桐生川内町駒形09:00集合というので、その前に、 仁田山城=石尊山を計画した。富岡武蔵さんのブログでは、 赤城大明神が登山口で、ほかのHpでは、栃久保ダムを登 山口であった。しかし、大手口からの登山を考えた。きっと 二人とも大手道ではないだろうと思ったからである。  (★右の山が仁田山城・左は谷山城)  ★桐生川内町5丁目三堂坂 07:50 ① 仁田山城居館跡地=蓮慶寺庚申堂・・    三堂坂のバス停の横。   今は川内町5丁目町内会の広場になっている。    ○道反対の家の方・・・親切だった。   ・「三堂坂・・・不動堂、薬師堂、蓮慶寺庚申堂だ。」と 教えて下さった  ・集落からと、棒ノ谷戸の赤城神社よりの登路がある。 ・栃久保ダムに向かって、50mの所の水道の黄色   マークの右が登山道であると連れて行って下さった。  ・「正面の山は「谷山砦」で5月5日に7人で、崩れた   石祠を直しに行った。」とおっしゃっていた。 ・「案内人がいないと難しい。」と言われたが・・・。  ★山頂が主郭と分かれば、攻め方はいろいろだ。 私は、大手門から攻めることにした。 ○車移動・・・三堂坂を左に3軒目脇に車を止める。  「仁田山城は栃久保城とも言われている。   仁田山城址は石尊…

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箕輪初心◆◆千利休=源氏系新田一族→里見系の一族の末裔

本名は「田中与四郎」→号は「千宗易」→貴族名で「千利休」。 ★千利休は茶道を確立した功労者である。 “茶聖”千利休は現在の千家流の始祖となった。 現在、表千家、裏千家などに作法が伝えられている。 ★千利休は織田信長・豊臣秀吉という2人の天下人に仕えた。 織田信長や豊臣秀吉とも対等の立場を貫こうとした。    (安土城の聡見寺の茶室) ★平成23年(2011)6月27日の「江~戦国の女たち」では 「江」は、千利休と徳川家康と仲良しだった。 天正18年(1590)の小田原攻撃の直前、豊臣秀吉&千利休の 確執が表面化し、石垣山一夜城の宴会で、利休と秀吉の決別。 豊臣秀吉と対等の立場をとろうとするポリシーとも考えられる。 千利休は茶道の発展ために、政治を利用しすぎた。(TV) ①小田原城攻めの功労  ・豊臣秀長・・100万石。  ・徳川家康・・240万石。・・・・・・・三河召し上げ。  ・豊臣秀勝(江の2番目の夫)・・・甲斐一国 ②千利休&徳川家康 ③江&豊臣秀勝・・・??LOVE ④江&徳川秀忠・・・いやみ関係 ⑤9月・・陸奥まで平定 ⑥豊臣秀吉&淀・・・鶴松を溺愛。病気。 ⑦朝鮮への征服計画・・・朝鮮特使憤慨 ⑧千利休が古田織部を紹介。 ★古田織部&長谷川等伯が抜擢された。 ⑨弟:豊臣秀長の死・・・利休の仲良しだった。 ⑩鶴松の回復 ⑪大和郡山城・・・豊臣秀長の城 ★豊臣秀長の死は、豊臣秀吉の独断的な行動に繋がった。  ★…

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箕輪初心●福井「金ヶ崎城」①新田義貞&②木下藤吉郎

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」①新田義貞&②木下藤吉郎 ①延元元年(1336)10月、新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて 気比氏治の居城:金ヶ崎城に入城→約半年間、足利勢と交戦。 延元2年3月6日落城。尊良親王・新田義顕(義貞嫡男)以下 300余名が戦死(伝)。 ②元亀元年(1570)4月、織田信長が一ノ谷城:朝倉義景討伐を命令。 徳川家康・木下藤吉郎(=豊臣秀吉)等が敦賀に進軍。 天筒山城・金ヶ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江:浅井 長政が朝倉義景に味方するとの報告。織田信長は窮地。 →金ヶ崎城の殿の木下藤吉郎(秀吉)の活躍で無事帰京(伝)。 ■訪問記・・・ ①平成21年(2009)5月4日・・奥の細道「越前・若狭・美濃編」&新田義貞 ②平成22年(2010)8月8日・・若狭・丹後・丹波・大和平城京1300年祭 ○松尾芭蕉の碑・・・本来の目的達成。 ○石段が続く参道 ○石段を上がっていくと、金ヶ崎宮  織田信長勢が木の芽峠を越えて、一ノ谷に攻め入ろうとした時、  お市の方(浅井長政妻&信長妹)から袋の両方を縛った小豆の  入った袋が届けられた。「袋の鼠」の意味である。  …(浅井&朝倉が両方から挟み撃ちにするという知らせ)  ★伝説で、信憑性が薄い。しかし、小豆袋のお守りのお土産は   縁結びの御利益があると人気がある。  ○金ヶ崎城&天筒山城のジオラマ (左=金ヶ崎城方面、真ん中=天筒山城方面、右=天筒山…

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箕輪初心●里見一族⑨「里見城&上里見城など(高崎榛名)」=武田信玄に抵抗。

箕輪初心●里見一族「榛名里見に戻った里見一族」 桐生仁田山に114年いた里見一族は→高崎榛名へ移動した。 箕輪城主:長野業政の親戚になると、武田信玄に抵抗した。    (里見城本丸) 桐生仁田山の里見一族 8)里見氏連(里見義連3男)・・・現桐生市仁田山城    桐生氏との婚姻説・・・桐生国綱の娘が妻。 9)里見成義・・・仁田山八郷の支配。仁田山紬の生産。 10)里見時連・・8代将軍足利義政が二階堂行旨を城主に 11)里見国義・・・高津戸城を強固に~~? 12)里見宗連(家連)・・・  ・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵。    ①長尾景虎の仁田山城攻撃。→自刃説。      (関八州古戦録)(上杉文書)    ②長尾景虎への寝返り→桐生氏への攻撃。      桐生氏の反撃説→自刃。    →長尾景虎(=上杉謙信)は桐生氏と和睦。  ・永禄9年(1566) 由良の援助で、古河公方配下。  榛名里見の里見一族 13)里見宗義(河内)・・・114年の仁田山を捨て、榛名へ移動。  ・天文24年(1555) 現高崎榛名に手勢30騎で逃亡。   長野業政の娘?を妻とする。     ※長野一族の有力家臣の娘説(里見義弘氏説)  ・永禄5年(1562)雉郷山城を修築。 ①里見館・・・・高崎市榛名:光明寺 ②上里見城・・・高崎市榛名上里見 ③里見城・・・・高崎市榛名中里見 …

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箕輪初心●里見一族⑧「高津戸城」=桐生仁田山で114年

箕輪初心●里見一族「仁田山の里見一族→榛名の里見一族へ」 三代将軍足利義満の頃、里見本家から分家した里見一族は桐生の仁田山(高津戸城)に 住んだ。やがて、戦国時代には里見一族初代:里見義俊の居住地:高崎の榛名に移住した。 箕輪城:長野業政の親戚になり、武田信玄に抵抗した。   (高津戸城の本丸) ●仁田山の里見一族 8)里見氏連(里見義連3男)・・・現桐生市仁田山城    桐生氏との婚姻説・・・桐生国綱の娘が妻。    9)里見成義・・・仁田山八郷の支配。仁田山紬の生産。 10)里見時連・・8代将軍足利義政が二階堂行旨を城主に    嫡子:二階堂政行を暗殺?・・・   ①里見時連の返り咲き説   ②安房の里見勝広が赤萩城主として仁田山をおさめた説。       里見勝弘は同族の里見氏を頼って安房から桐生へ(伝)。     里見勝弘は16代安房里見義弘の甲州後胤説   ★里見勝廣は安房里見実堯(関八州古戦録は変?)      「桐生搦手の赤萩に在城せしめ」(関東庭軍記)    「赤萩の塁を構えて差置けリ」(桐生家本末記)   桐生助綱が里見勝広に赤萩を守らせた。 11)里見国義・・・高津戸城を強固に~~? 12)里見宗連(家連)・・・  ・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵。    ①長尾景虎の仁田山城攻撃。→自刃説。      (関八州古戦録)(上杉文書)    ②長尾景虎への寝返り→桐生氏へ…

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箕輪初心●新田義貞⑤「若狭に逃亡~福井で38歳没」

箕輪初心●新田義貞⑤「新田義貞の最後38歳没」(福井) ★せっかく、新田義貞は京都で足利尊氏を九州に敗走させたのに、 女にうつつをのかし、出陣のタイムリーを逃した。そのため、京都で勝った戦が足利尊氏の復活を許し、 西国で敗戦した。西国での新田一族の戦死者123名・郎党8000余人であった。 ★おいらも新田系。群馬から4人の総理大臣がでたが、新田・里見・山名などから総理は出ていない。 がんばれ、新田一族。   (新田神社=新田義貞が自刃した灯明寺畷) 5月27日 ●新田義貞は後醍醐天皇と比叡山に逃亡。 6月3日  ■足利尊氏は京都に入った。光明天皇(北朝)を擁立。         足利尊氏の比叡山攻撃。 6月30日 ●新田義貞が京都に出撃。 8月23日 ●新田義貞が宇治で敗北。 8月28日 ■足利尊氏が比叡山を陥落。 10月10日 後醍醐天皇は足利尊氏と和睦。・・・光明天皇が新天皇になる約束。         ※後醍醐天皇は隠密裏に足利尊氏に接近。          →堀口貞満の怒り「新田一族130人・郎党8000余人が死んだ。          後醍醐天皇・あなたは新田義貞を捨てるのか?我々を皆殺しにしてくれ。」(太平記)         後醍醐天皇の越前への下向命令。         ●新田義貞は後醍醐天皇の王子惟良親王・尊良親王を奉じ、            ・・・脇屋義助の領地越前へ         ■越前では、北朝方の斯波高経…

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箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」

箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」 6月 鎌倉の支配権をめぐって、新田・足利で緊張が高まった。→対立。 ●新田義貞、鎌倉大御堂谷の勝長寿院に本陣 ■足利尊氏、二階堂の別当坊に着陣・・・・多くが足利に着いた。 ●新田義貞が引き、京都に向かった。→鎌倉は足利の支配地になった。   ※恩賞の関係で、武士は自己申告の紙をどちらに提出するか迷った。     中には両方出す武士もいた。次第に、力に勝る足利尊氏に自己申告書を出す武士が 多くなった。 (峰岸説)   (大銀杏のない鎌倉八幡宮) 6月 後醍醐天皇京都帰還。建武の新政開始。  8月5日 建武の新政の中での論功行賞 ①新田義貞・・・   ●従四位の上。上野・播磨の国司。長男新田義顕は越後の国司。弟脇屋義助は駿河の国司。    武者所長官(=支配者)・・・新田義顕・一井貞政・堀口貞義・江田行義・新田義治を登用。    ※鎌倉を陥落させた最大の功労者に対する恩賞は他の貴族たちに比べると高くない。    ★しかし、無位無官の新田庄の土豪だったので通常からみればこれでもいいのか?。    ※足利に近い岩松経家は飛騨の守護。 ②足利尊氏・・・・   ■鎌倉幕府時は従五位上で、前治部大輔。    恩賞後は従四位下左兵衛督・鎮守府将軍。     →従三位。武蔵・常陸・相模の国司。弟:足利直義は遠江の国司。    後醍醐から名の尊の字を貰い、「足利高氏」→「足利尊氏」と改名。   ■足利尊…

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箕輪初心●新田義貞③「2度の鎌倉攻撃」

箕輪初心●新田義貞③「2度の鎌倉攻撃」 ※鎌倉は、南は海、尾根が三方(西・北・東)に囲まれている自然の要害である。 新田義貞は鎌倉の7つの切り通しのうちのどこかをを突破する必要があった。   (写真は稲村ヶ崎の新田義貞の碑) ●新田義貞は藤沢の遊行寺で、軍勢を三方に分ける計画を立てた。  ①上道→北の巨福呂坂・・★上将軍:堀口貞満・副将軍:大嶋讃岐守守之(義政?)の軍。  ②上道→北西の化粧坂・・★上将軍:新田義貞・副将軍:弟の脇屋義助の軍  ③下道→西の極楽寺坂・・★上将軍:大館宗氏・副将軍:江田行義・里見義胤の軍。 ■鎌倉幕府  ①巨福呂坂・・・・・・・・北条守時を大将とした五千騎  ②化粧坂・・・・・・・・・・金沢左近将監忠時を大将とした三千騎  ③極楽寺坂・・・・・・・・大仏貞直・長崎高重を大将としたなど三千騎  ④本隊予備隊・・・・・・北条高時を大将とした五千騎 5月17日     ①堀口貞満・大嶋守之   →「上道」→ 巨福呂(こぶくろ)坂切通   ②新田義貞・脇谷義助・堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川など     「上道」→→化粧坂切通 片瀬・腰越     ③大館宗氏・江田行義 ・里見義胤    →極楽寺坂切通、稲村ヶ崎(太平記)   5月18日・・  ①堀口貞満・大嶋守之   →「上道」→ 巨福呂(こぶくろ)坂切通    前線:州崎・北鎌倉山崎   ▲金沢貞将が大将・・・(梅松…

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箕輪初心●新田義貞②「新田~鎌倉へ進軍」

箕輪初心●新田義貞②「新田~鎌倉へ進軍」 ■新田義貞の鎌倉攻撃挙兵理由  1)鎌倉幕府から重用されなかった不満。  2)元弘3年(1333)3月・・・護良親王の倒幕の挙兵の令旨をもらったこと  3)楠木正成の征伐の途中棄権後、鎌倉幕府の命令への反感。    「臨時の兵糧税の六万貫(六千貫説あり)を5日以内に払え。」という命令。    北条得宗家被官:池田出雲介親連(上野守護:長崎高資一族?)と      黒沼彦四郎(淵名郷=群馬伊勢崎)が受け取りへ。    →新田義貞は「勝手に、我が地の辺りを馬の蹄で懸けさせつること返す返すも      無念なり。」(太平記)→二人を捕らえ、黒沼を惨殺。・・・鎌倉幕府への反逆。  4)足利尊氏は鎌倉から出発後の4月に倒幕を決意。    →新田義貞と足利尊氏は秘密の協定が存在(久保田説)    鎌倉の足利尊氏の子:千寿王(=後の2代将軍:義詮)を紀五左衛門尉が脱出幇助。    千寿王の側近の田島○○(岩松経家の一族)が岩松家を通じて新田軍へ。 ★生品神社に5~6回行っている. 【1】新田義貞の挙兵=生品神社(太田市新田)  ・元弘3年・正慶2年   5月8日 新田義貞・弟:脇屋義助と生品神社で挙兵。   「旗ヲ上ゲ、綸旨ヲ披テ 三度是ヲ 拝シ」・・・一味神水の儀式。    鰐口を鳴らし「神下ろし」をし、誓約の起請文に署名。その起請文を焼いて、    水に溶かして飲み交わす儀式。    新田の土地で新田・大館・一…

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