テーマ:新田一族

箕輪初心★新田義貞の弟:脇屋義助&子孫の動向

★脇屋義助・・・嘉元3年(1305)~興国3年・康永元年(1342) 5月11日(6月25日)。新田朝氏の長男が新田義貞、次男が脇屋 義助である。長女(妹)は大館宗氏の正妻である。脇屋義助は 新田荘脇屋に居住していたことから脇屋姓を名乗った。 ・元弘元年(1331)脇屋義助は「どこに逃げたって同じ。鎌倉攻 撃をしよう。」と強行…
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箕輪初心●太田『台源氏館』=新田義貞誕生の地説

★『台源氏館』には「新田義貞卿誕生地之碑」と石碑が建っている。 『吾妻鏡』によれば、政義は寛元2年(1244)京都大番役として在京中、 幕府の許可を得ず突然出家をしたしたため、幕府の咎めを受けて所領 を没収され、(上野国)由良郷別所(群馬県太田市別所町)に蟄居す ることになった。当時「新田荘由良郷」とよばれており、13C中頃~ …
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箕輪初心◆新田荘遺跡「円福寺」&「十二所神社」

★旧新田町の反町館を後にして台源氏館に向かった。反町館からは 2km東に当たる。道を聞いた方から、「円福寺の向こうです。」と言わ れたが、大雑把な地図しかなく、2度3度と人に聞いた。円福寺には、 新田義貞の先祖の墓があることが分かった。円福寺&茶臼山古墳 に立ち寄ることにした。新田荘遺跡「円福寺」「十二所神社」は群馬 県旧太田…
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箕輪初心●伊勢崎「西今井館」&世良田「今井館」

★太田薮塚IC→旧新田町の綿打館→田中館を過ぎ、さらに 南下した。伊勢崎の西今井館や旧尾島町の長楽寺などを見学 するためである。今井館は「伊勢崎市西今井の西今井館であ る。」と思っていたが、どうも旧世良田町にも「今井館」が あったらしいのだ。 山本隆志先生は「新田義貞」(ミネルヴ ァ書房)の中で、「新田義重館=世良田今井」であ…
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箕輪初心★新田義貞「生品神社挙兵~鎌倉進軍コース」

★今回は、新田義貞の生品神社の再生復刻版でいこうと思う。 ・元弘3年(1333)鎌倉幕府は楠木正成の攻撃に多額の経費を使っ た。全国の荘園に臨時のお金を出すように命じた。北条高時は 新田荘世良田にも銭6万貫文を収めるよう下知を下した。頭に 来た新田義貞は脇屋義助に命じて、使者の一人:黒沼を殺させ た。北条高時の報復の情報を得た…
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箕輪初心●群馬旧新田町「田中館=長慶寺」千利休先祖の館

★田中山長慶寺 (太田市新田上田中町)は、新田里見系の里見義俊 (竹林=高林太郎)の息子:田中五郎義清を開祖とした田中氏の 居城があったとされる。しかし、峰岸純夫氏は「歴史の旅 太平記 の里 新田・足利を歩く」で、長慶寺は里見系田中氏ではなく、 新田岩松系田中氏の居城跡という説を述べている。戦国時代の千 利休も田中氏の末裔と…
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箕輪初心●群馬旧新田町『綿打館=大慶寺』

新田氏の始祖:新田義重の娘が源悪源太義平の妻となった。源義 平の妻は、木曽義仲の父を討った源義平(源頼朝の兄)の菩提を弔 うために綿打郷に移った。治承4年(1180)に出家して妙満尼となった。 その後、新田系→大舘氏系→綿引氏の居城となった。 綿打氏は大舘家氏の子:綿打太郎為氏を始祖とした一族である。 綿打為氏の子:綿打太郎氏…
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箕輪初心●群馬新田荘遺跡『反町館』=新田義貞伝説

★昭和33年に群馬県指定史跡、平成12年に新田荘遺跡と して国指定史跡になった。新田荘を代表する館跡である。 反町館も新田義貞の居館であった(伝)。城址には「新田義 貞公古城跡」と石碑が建てられている。新田義貞は反町館 東の台源氏館で生まれ、旧尾島町の総持寺&明王院& 反町館の3ヶ所が「新田義貞館」であったということになる。 …
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箕輪初心●群馬新田荘遺跡:江田館跡=江田行義館

★高校の社会科の教科書に「中世館」として載っていた。 ★「木崎台地の西端部に立地しています。新田荘を代表する館跡 で、昭和22年に群馬県指定史跡第1号に指定されていましたが、 平成12年に新田荘遺跡として国指定史跡に指定されました。  堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方 形で、堀がほぼ全周し、この内側には…
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箕輪初心◆群馬旧尾島町:二体地蔵&普門寺&新田荘歴史資料館

★平成25年(2013)3月10日、職場での仕事がいやになって、15:00 に旧尾島町に向かった。行っていない場所を見たかったからである。 太田薮塚ICで降り、①旧新田町の長慶寺=田中館、②江田館&東田 遺跡、③伊勢崎市の今井館、・・・④旧尾島町の二体遺跡、⑤普門寺 ⑥長楽寺&世良田東照宮&新田荘歴史資料館&世良田館、ついで …
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箕輪初心●徳川家康の姓名変更の謎『松平元康→徳川源家康』

★3月11日、脳裏の刻めこめれた東日本大震災から2年経つ。・・・ ★群馬の旧尾島町では「徳川氏発祥の地」と宣伝しているが、 一般的には徳川家康の家系詐称説が有力説のようだ。徳川家康は 「竹千代→松平元康→松平家康→得川藤原家康→徳川源家康」 となったようである。つまり、源氏系→藤原の新田系世良田系の 子孫が松平初代:松平太郎左…
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箕輪初心●群馬旧尾島町8『岩松館=青蓮寺』源義国~岩松代々の館

★れいこねえさんから、トランペットのマースピースのプレゼント があった。ありがどうございます。大事に使わせていただききます。 ★新田氏・足利氏の始祖:源義国が岩松館を創築し、子:新田義重、 孫:義兼の3代が居館していたされる。新田義兼の没後、譲状に より、未亡人の新田尼に所領が安堵され、新田尼は岩松館に居館し たと考えられてい…
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箕輪初心●旧尾島7『堀口館』=新田系堀口一族

新田義重→義兼→義房→新田(世良田)政義→政氏と続く。 新田政氏の子どもは4人いた。長男:綿内為氏・次男:堀口 次郎貞氏・3男:貞寂・4男:大館宗氏である。堀口次郎貞氏 が鎌倉時代に堀口郷に館を構えて堀口氏の祖となった。 (★尊卑分脈) ※別系図では新田政義の3男:家貞を堀口氏の祖とする。 ◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島…
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箕輪初心●群馬旧尾島町6『大舘館』=新田一族

新田義重→新田義兼→新田(世良田)政義→長男:新田政氏・ 新田政義の次男:大舘家氏・3男:堀口家貞・・・ 大舘家氏が大舘郷に住み、地名の大舘を名乗ったのが大舘氏の 始まりである。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めに大舘 宗氏は弟:堀口貞満&子ども達とともに参加した。しかし、 極楽寺坂口で戦死した。(東勝寺合戦)。 …
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箕輪初心●群馬旧尾島5『安養寺館=明王院』=新田義貞居住最有力説

国指定史跡「新田荘遺跡」11の内の1つに「明王院境内」があ る。★学芸大学名誉教授:峰岸純夫先生にお聴きしたところ、 先生は「新田義貞の生まれた場所は明王院=安養寺館だと思い ます。安養寺館が新田義貞の館跡だと思っています。」と、おっ しゃった。新田義貞の生まれた場所は5説あるが、最近では、太 田市の市教委も明王院=安養寺館跡…
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箕輪初心●群馬旧尾島町4『満徳寺』=縁切り寺

昭和60年(1985)に訪れた時は、小さなお堂だった。近所の管理さ んにお堂を開けてもらった。この当時、満徳寺など訪れる者は滅 多にいなかったのある。★しかし、位牌をのぞくと、ビックリだ。 新田系の位牌が並んでいたのである。寂れたまんまの寺であった。 平成4年(1983)に満徳寺資科館が開館した。2回目の訪問は平 成23年(2…
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箕輪初心●群馬旧尾島町『長楽寺&世良田東照宮&世良田館』

★新田荘は、平安時代末期:12C中頃に開かれた荘園である。 新田義重(★源義家→源義国→新田義重)は、太田市旧尾島町の 早川・石田川流域19郷をさらに開発して37郷を支配した。 国史『新田荘遺跡』は、円福寺・十二所神社・総持寺・長楽寺 ・世良田東照宮・明王院・生品神社・江田館跡・反町館跡& ・重殿水源・矢太神水源の11からなる…
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箕輪初心●『徳川館』=徳川義季の館

鎌倉時代、新田義重の4男:義季は、徳川義季 (得川姓:世良田姓・徳河か不明。★長楽寺の木造では徳河 義季になっている。)は、新田義重より新田庄のうち 六郷を譲り受けて徳川郷へ居住した。久保田順一先生は 「徳川義季は得川在住で、世良田郷の地頭である。」と 『新田一族の盛衰』と書かれている。 得川=徳川義季の子:頼氏は世良田弥四…
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箕輪初心●群馬旧尾島①『新田館』=世良田総持寺

★『新田館』は、尾島町世良田850「総持寺」(国史)にある。   旧尾島町は新田氏の始祖:新田義重がこの地を領有したことに よる。総持寺境内が新田館であるという説が有力のようである。 新田義貞もここに住んでいたという説も有力説である。 ◆◆ 箕輪初心●群馬『新田義重を巡る旅』 ◆◆   『寺尾=太田説&高崎説』  h…
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箕輪初心●群馬「旧尾島町の城9城」=新田一族の遺構

★旧尾島町は新田氏の始祖:新田義重の子:義季がこの地を領有 し、得川姓、あるいは世良田姓を名乗った旧尾島町は、新田荘遺 跡=(総持寺・長楽寺・東照宮・明王院境内)など新田の遺構など が数々残っていて、見飽きることがない。徳川家の先祖の地として 江戸時代から手厚く保護されてきた。地元では「徳川氏発祥の地」 と宣伝している。しかし…
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箕輪初心●群馬『寺尾中城2回目』=新田義重の城か?

★平成25年(2013)2月10日、07:45に富岡武蔵氏・余湖さん ・野口さんと合流した。①東吾妻町の萩生城、②倉渕の権田城、 ③大明神砦、④栗崎城=三の倉城、⑤榛名の榛名山城・・・・ 富岡武藏氏と別れ、⑥高崎の寺尾上城=乗附城、⑦寺尾中城、 茶臼山城と御一緒させていただいた。今日は、⑦寺尾中城の 紹介をしようと思う。「観音…
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箕輪初心●群馬【仁田山城&谷山城&皿窪砦】&『里見一族』

【太田:犬&スキー&ハイキングの会】の2012年のスキーは 終わり、ハイキングになった。第1弾は【鳴神山】である。 私は、桐生川内町駒形09:00集合というので、その前に、 仁田山城=石尊山を計画した。富岡武蔵さんのブログでは、 赤城大明神が登山口で、ほかのHpでは、栃久保ダムを登 山口であった。しかし、大手口からの登山を考え…
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箕輪初心◆◆千利休=源氏系新田一族→里見系の一族の末裔

本名は「田中与四郎」→号は「千宗易」→貴族名で「千利休」。 ★千利休は茶道を確立した功労者である。 “茶聖”千利休は現在の千家流の始祖となった。 現在、表千家、裏千家などに作法が伝えられている。 ★千利休は織田信長・豊臣秀吉という2人の天下人に仕えた。 織田信長や豊臣秀吉とも対等の立場を貫こうとした。    (安土城の聡…
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箕輪初心●福井「金ヶ崎城」①新田義貞&②木下藤吉郎

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」①新田義貞&②木下藤吉郎 ①延元元年(1336)10月、新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて 気比氏治の居城:金ヶ崎城に入城→約半年間、足利勢と交戦。 延元2年3月6日落城。尊良親王・新田義顕(義貞嫡男)以下 300余名が戦死(伝)。 ②元亀元年(1570)4月、織田信長が一ノ谷城:朝倉義景討伐を命令…
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箕輪初心●里見一族⑨「里見城&上里見城など(高崎榛名)」=武田信玄に抵抗。

箕輪初心●里見一族「榛名里見に戻った里見一族」 桐生仁田山に114年いた里見一族は→高崎榛名へ移動した。 箕輪城主:長野業政の親戚になると、武田信玄に抵抗した。    (里見城本丸) 桐生仁田山の里見一族 8)里見氏連(里見義連3男)・・・現桐生市仁田山城    桐生氏との婚姻説・・・桐生国綱の娘が妻。 9)里…
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箕輪初心●里見一族⑧「高津戸城」=桐生仁田山で114年

箕輪初心●里見一族「仁田山の里見一族→榛名の里見一族へ」 三代将軍足利義満の頃、里見本家から分家した里見一族は桐生の仁田山(高津戸城)に 住んだ。やがて、戦国時代には里見一族初代:里見義俊の居住地:高崎の榛名に移住した。 箕輪城:長野業政の親戚になり、武田信玄に抵抗した。   (高津戸城の本丸) ●仁田山の…
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箕輪初心●新田義貞⑤「若狭に逃亡~福井で38歳没」

箕輪初心●新田義貞⑤「新田義貞の最後38歳没」(福井) ★せっかく、新田義貞は京都で足利尊氏を九州に敗走させたのに、 女にうつつをのかし、出陣のタイムリーを逃した。そのため、京都で勝った戦が足利尊氏の復活を許し、 西国で敗戦した。西国での新田一族の戦死者123名・郎党8000余人であった。 ★おいらも新田系。群馬から4人の総理大…
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箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」

箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」 6月 鎌倉の支配権をめぐって、新田・足利で緊張が高まった。→対立。 ●新田義貞、鎌倉大御堂谷の勝長寿院に本陣 ■足利尊氏、二階堂の別当坊に着陣・・・・多くが足利に着いた。 ●新田義貞が引き、京都に向かった。→鎌倉は足利の支配地になった。   ※恩賞の関係で、武士は自己申告の紙をどちらに…
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箕輪初心●新田義貞③「2度の鎌倉攻撃」

箕輪初心●新田義貞③「2度の鎌倉攻撃」 ※鎌倉は、南は海、尾根が三方(西・北・東)に囲まれている自然の要害である。 新田義貞は鎌倉の7つの切り通しのうちのどこかをを突破する必要があった。   (写真は稲村ヶ崎の新田義貞の碑) ●新田義貞は藤沢の遊行寺で、軍勢を三方に分ける計画を立てた。  ①上道→北の巨福呂坂・・★上将軍:…
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箕輪初心●新田義貞②「新田~鎌倉へ進軍」

箕輪初心●新田義貞②「新田~鎌倉へ進軍」 ■新田義貞の鎌倉攻撃挙兵理由  1)鎌倉幕府から重用されなかった不満。  2)元弘3年(1333)3月・・・護良親王の倒幕の挙兵の令旨をもらったこと  3)楠木正成の征伐の途中棄権後、鎌倉幕府の命令への反感。    「臨時の兵糧税の六万貫(六千貫説あり)を5日以内に払え。」という命令。…
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