箕輪初心●群馬倉渕『栗崎城=三ノ倉城』

高崎市:旧倉渕村には5つの城や砦がある。三の倉城の1回
目の訪問は、平成20年(2000)6月8日であったが、「全透院=
栗崎城=三の郭」だけであった。今回は、富岡武蔵氏の案
内で、余湖さん・野口さん・私の4人で主郭に登城するのだ。
1回目は主郭に行かなかったので、楽しみだった。余湖さん
の即興縄張り図は凄かった。
     
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◆◆ 箕輪初心●群馬「倉渕の城砦=5城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201103/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●群馬倉渕「権田城」 ◆◆
1回目 http://53922401.at.webry.info/201103/article_10.html
2回目 http://53922401.at.webry.info/201302/article_14.html

◆◆ 箕輪初心●群馬倉渕「大明神砦」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_15.html

■三ノ倉城訪問記①・・・平成20年(2000)6月8日
 倉渕東小学校の手前に全透院がある。
 「栗崎城址の立札」を見ながら、全透院に入った。
 「全透院=栗崎城三の丸」である。
 全透院は三ノ倉城下曲輪で、山頂は要害山城である。
 登り口が不明なので、御住職に3つ質問した。
 「登り口はありませんか。」「いつの築城ですか?」
  「石垣はどこが古いか?」
  住職は「分かりません。」と答えた。
※「入り口は寺の左に見ながら張り出した尾根を行く。
    本郭と2つの腰郭からなる。」とある。(倉渕村誌)
 しかし、藪が凄いので、断念した。


■三ノ倉城訪問記②・・・平成25年(2013)2月10日
①「栗崎城址の立札」を見ながら、全透院に入った。
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  全透院=栗崎城=三の倉城の三の丸である。
山門はかっこよかった。
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・我々は、鐘楼の下を通り、本堂の下に行った。
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全透院の本殿の屋根には武田菱があり、武田氏の支配下に
あったのことがあるのが分かる。

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・野面積み石垣&切れ込みはぎの石垣
 →最近の石垣の前を右に曲がって50m程進んだ。
  
・家の隣が大手口である。
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②途中、階段状の武者走りのような削平地・・・しかも
少し剔れているので、もしかしたら、鉄砲隊か弓隊を
隠した場所のような気がした。岩櫃城の中曲輪下の
2段構造によく似ていたからである。
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③尾根の部分・・・おそらくは大手登城口は、藪が凄くて
いけないので、普通の登山道をいった。
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④右側のくぼみは自然の堀らしき様相を醸し出している。
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⑤5分ほど歩いて尾根道に戻った。
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⑥南帯曲輪・・・大手門風の場所があった。

⑦大手虎口・・主郭の南側に虎口である。
虎口はこの1ヶ所しかない。


⑧主郭は単郭のようでもある。10分~12分程かかった。
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 南北40m×東西20mをいった広さだろうか。
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西・南・北の3面に土塁がある。
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⑨主郭の北西側・・・
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帯曲輪の東側に回った。
本丸を見ると帯曲輪は一段下にあった。

⑩主郭下の西側には、腰郭、いや帯郭があった。
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⑪空堀
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⑫富岡武蔵氏は「隣は東の郭だろう。」と言うので
 北東の鉄塔の所に行ったが、郭ではないようだ。
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 堀切らしきものがあったが、やや浅かった。
 笹郭洋式なのかもしれないが、不明である。
富岡武蔵のブログでは、「山崎一氏の縄張り図は、東曲輪を描い
 ていないが、現地に立つと東曲輪とさらに東にある堀切がある。
何故、山崎一氏が描かなかった考えがわかりません。」とあった。
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余湖さんの珍しい即興縄張り図
 ★余湖さん、ありがとうございます。
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▼下山した。


⑬全透院=三の郭
富岡武蔵氏が「案内板の所に行こう。」と案内してくれた
・お堂・・・でも、歴史案内板があったが、今はなかった。
 
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・新田系の塚のような?
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・閻魔大王&しょうつき婆・・・十王信仰か?
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・青面金剛・・・野口さんの趣味なんだって。
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・石塔
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◆◆ 富岡武蔵:栗崎城 ◆◆
1)栗崎城主郭 http://tomioka.at.webry.info/201103/article_31.html
2)栗崎城東郭 http://tomioka.at.webry.info/201103/article_33.html



◆◆ 栗崎城の歴史 ◆◆
・応永年間(1400)~ 永正年間の始め頃までの約100年間に
わたって、木部氏が三ノ倉地方を支配。
    (★全透院にある説明版)
  木部氏は木部城+木部北城+山名城を支配していた
  倉渕にも所領があったことになるようだ。

   
・延徳元年(1489) 木部新九郎が全透院を開基。
         (★倉渕村誌)

・永正年間(1504)~大戸:浦野氏(滋野系真田と同族)が侵攻。
        大戸氏分家:浦野氏の支配下。

・永正10年(1513) 箕輪の長野兼業?に攻撃→敗戦・和睦。
         長野氏から栗崎城を授与。
     ○大戸氏・浦野氏は大戸城・手古丸城が本城。
        浦野氏が権田城・栗崎城が支城。
          大戸・三ノ倉地方を支配。

・大永2年(1522) 大戸城主・浦野弾正忠重勝は栗崎城内に
         堂宇を建立。
         長年寺5世紹舜大和尚を招いて、
         全透院を中興開基。

・文明期・・・・長野業政は大戸氏に娘を嫁がせた。
◆◆ 箕輪初心●群馬『手古丸城=大戸城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201201/article_14.html


・永禄3年(1560) 長尾景虎=上杉謙信の第一次関東出兵
   大戸中務少輔(東吾妻町)は長野業政と同じ家紋で出撃。
  大戸十騎とある(★甲陽軍鑑)


・永禄年間(1558)~武田信玄が小山田、穴山、土屋、諸星、
         曽根を派遣し占領。

旧榛名は鷹留城を中心として、長野業政の勢力下なので
 嬬恋→大戸→旧倉渕と侵攻してきたと思われる。

         →武田氏の勢力下。

・永禄7年(1564) 浦野氏は真田幸隆のアドバイスもあり、
         箕輪城攻撃の一貫として、榛名に付け火。
         長年寺の消失。
(★上杉家文書)
甘利昌忠が武田信玄に取りなし、浦野が武田信玄の
 正式な家臣となった。


・天正10年(1582)
 3月 武田氏の滅亡→6月織田氏(滝川一益)の勢力下。
     大戸の浦野氏が在城(60~70年)
 6月 織田信長の死後
      →真田昌幸が岩櫃城より直接統治。 
    北条氏康は厩橋城より攻撃。
     ①沼田方面隊・・・北条氏邦を沼田城に侵攻。
     ①岩櫃方面隊・・・内藤丹波守、富永主膳、
        
     小幡信貞を500?の将兵で榛名町室田
       (室田口)より出撃。
    大戸城主大戸真楽斎、大戸但馬守父子(兄弟説)は
     三ノ倉に出て交戦。
   →権田、荻生の諸城を放棄し大戸の手古丸城に籠城。
   →3日間の奮闘。大戸父子は自刃。
◆◆ 箕輪初心●群馬『萩生城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_11.html


   北条勢は大戸の「千人隠陣城」より侵攻
   →岩櫃城主真田信幸(昌幸嫡男)の勝利 
   →栗崎城は北条氏の支配。北条の家臣:小笠原播磨守
     長範が城主。
   北条氏は吾妻の大戸:仙人隠陣城から岩櫃城に侵攻。

・天正18年(1590) 
  豊臣秀吉の北条征伐→北条氏滅亡。
  徳川家康の家臣:松平五左衛門を5000石で入封。

・慶長5年(1600)
   →松平五左衛門は関が原の戦いで伏見城に入城。
    松平五左衛門は伏見落城で討死。

幕末期 西軍が全透院が東善寺の小栗上野介の攻撃の
     本陣として、活用。
                 
   (★倉渕村誌他)

全透院から200m離れた烏川河岸で小栗上野介
が斬首された。

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◆◆ 箕輪初心★小栗上野介 ◆◆
小栗上野介シリーズは14回あるが・・・
4倉渕  http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html
7東善寺 http://53922401.at.webry.info/201108/article_10.html
童門vs村上http://53922401.at.webry.info/201212/article_18.html




★明日は、倉渕…高崎?

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