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zoom RSS 箕輪初心:生方▲群馬県昭和村『森下城』:加藤丹波守の居城?

<<   作成日時 : 2018/08/01 06:25   >>

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平成30年(2018)3月16日に、川場スキーの帰りに森下城に寄っ
た。スキーの度に数百回も前を通っている城である。
森下城は、群馬県利根郡昭和村栃窪にある。関越自動車道昭和イン
ターをおりてもよい。県道65号で西へ・・・県道255号に突き
当たったら右へ一端下り北上すると、600m程の地点にある。
看板はないが、県道がカーブしているあたりで、片品川に面した
場所に位置するに場所にある。昭和中学校と昭和村役場の
真ん中に当たる。崖の上が阿岨城である。遺構は二の郭・堀
跡がわずかに残る程度で、大部分は片品川に崩落してしまっ
たようである。森下城は阿岨城とともに沼田顕泰⇒
藤田信吉の支城として重要な城であった。また、近くには城主:
加藤丹波守が切腹の際に腰かけたといわれる腹切石が
あることから、長い間、加藤丹波守が支えてきたのであろう。

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箕輪初心●群馬沼田【安岨(あそ)城】&【森下城】
https://53922401.at.webry.info/201202/article_24.html
平成22年(2010) 4月18日(日)に1回目の森下城をブログに
掲載した。

・県道255号から奧に入った。
●2の郭?主郭? 30m×40m
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●低い主郭部分 2の郭かもしれないが?
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●堀の部分
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◆沼田城&森下城・阿岨城の歴史
・永録3年(1560) 長尾景虎(上杉謙信)の第1次関東出兵。
 長尾景虎(上杉謙信)の第1次関東出兵
  長尾景虎が越山してくると、沼田康元は敗れた。
  沼田顕泰は復権して上杉配下で沼田衆を率いる立場になった。
(★栗原修「上杉越山と上野沼田氏」『戦国史研究』30号、
   戦国史研究会、1995年)

箕輪初心:生方▲『長尾景虎(上杉謙信)&近衛前嗣&彦部信勝』
https://53922401.at.webry.info/201612/article_3.html

 藤田氏・猪俣氏・用土氏は一時上杉勢に加担した。
  
9月北条氏康に攻められて天神山城は落城したという説もある。


・永禄4年(1564)
長尾景虎が小田原城を攻めた。
2月〜閏3月 小田原城→鎌倉八幡宮
関東管領は上杉憲政から長尾景虎に譲られ、上杉政虎となった。
★3つも字が付いている。
 近衛前嗣親子・彦部信勝が見届け役であった。

4月 上杉政虎は厩橋に帰城した。
箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

4月中旬〜 上杉政虎と上杉憲政&長尾憲景&長野業政の病気
上杉政虎(謙信)の病気
・4月4日付 上杉政虎書状
「・・・わつらいよく・・・
    くらがの(※倉賀野尚行)かね五まいくれ候、・・・
 卯月(4月)四日   」
『上杉政虎書状:上越市史別編1・1419』

・4月16日付 上杉政虎書状写
「就湯治、・・・養生・・・
  四月十六日          政虎
  沼田入道殿(沼田顕泰)    」
『上杉政虎書状写(東京大学文学部所蔵)』
 近衛前嗣親子が関東下向し、桐生城入りした。
  彦部信勝は同道した。
  近衛親子の帰京後も桐生市広沢に留まった。
★戦乱に明け暮れた桐生氏、由良氏どちらとも距離をおいた
  ようである。
・6月10日付 『近衛前嗣書状』・・・近衛は厩橋に到着
「・・・ふくちう(腹痛)いかか候や、・・
    ・・・みのわハわつらい候よし申そうろうまま、・・・」
  六月十日         花押」
※上杉政虎(上杉謙信)は腹痛・・
 ※長野業政は病気を煩っている。 
(★「久保田順一先生の平成28年(2016)8月27日講演会)
★彦部信勝が奉者を務めたのであろう。

・6月19日 長野業政が死んだ。

・6月下旬上杉政虎(上杉謙信)は越後に戻った。
 
・永禄7年(1568) 北条氏邦「藤田晋太郎」は天神山城より、鉢形城に
  移動した。天神山城には北条氏光が入って天神山城は支城となった。

埼玉の城:寄居*美里****************************
箕輪初心●埼玉【第53回寄居北條まつり後編:攻防戦】&
『鉢形城の歴史詳細』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_15.html

箕輪初心○埼玉【第53回寄居北條まつり前編@準備〜パレード】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_14.html

箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪〜
二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●箕輪城115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政
手作り甲冑@」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html


箕輪初心●埼玉美里町【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏
滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html

箕輪初心▲埼玉寄居町【金尾山城】&【金尾弥兵衛居館】
=鉢形城支城
http://53922401.at.webry.info/201406/article_2.html
 

・永禄7年(1568) 北条氏邦は天神山城から要害堅固な鉢形城に
  移した。
  しかし、藤田信吉の兄:用土重連(藤田重連)と北条氏邦との間に
 確執が生じ、北条氏邦から危険視された。
 
・永禄11年(1568) 上杉謙信は沼田城に入った説もある。

●永禄12年(1569) 沼田顕泰は天神城に来た嫡子:沼田朝憲を
謀殺した説もある。

 沼田顕泰は3男:沼田朝憲を殺害し、(側室:ゆのみに生ませた?)
 末子:沼田景義に嗣がせようとして、川場合戦となった。
 沼田万鬼斎顕泰は負けてしまい、会津の芦名を頼った。
(★加沢記⇒現地案内板:川場天神城)
また、沼田顕泰は天神城へ火を放ち、会津へ落ちる。
湯のみは途中雪の中で凍死。顕泰が会津黒川城で客死・・・。

箕輪初心:生方▲前橋【片貝城】上杉謙信のbR北条高広の城 (現龍澤寺)   
https://53922401.at.webry.info/201608/article_11.html
●永禄12年(1569) 沼田顕泰は天神城に来た嫡子:沼田朝憲を
謀殺した説もある。

 沼田顕泰は3男:沼田朝憲を殺害し、(側室:ゆのみに生ませた?)
 末子:沼田景義に嗣がせようとして、川場合戦となった。
 沼田万鬼斎顕泰は負けてしまい、会津の芦名を頼った。
(★加沢記⇒現地案内板)
また、沼田顕泰は天神城へ火を放ち、会津へ落ちる。
湯のみは途中雪の中で凍死。顕泰が会津黒川城で客死・・・。


・永禄12年(1569) 上杉の倉内城代に柴田右衛門尉がなった。
沼田氏の沼田城は上杉謙信家中の城代支配とされてしまった。

・永禄13年、元亀元年(1570)? 上杉の倉内(沼田)城代に上野家成、
  河田長親らが入った。
  
天正元年(1573)、沼田万亀斎は幕岩城から倉内(沼田)城に移ったが、
 万亀斎の愛妾・ゆのみの兄の金子美濃守に阿岨(阿曾)城が与えられた。
 また、森下城(天神城、鎌田城)とも呼ばれ沼田城団の一つとして造
 られたといわれる。
   (★現地案内板)
  ★加藤丹波守が森下城に入った可能性が高い。
後に、真田、北条氏によって前衛の砦として利用された。

・  
・天正6年(1578) 3月13日(5月) 上杉謙信急死した。
  (上杉謙信 歿 49歳)
 ▲御の乱
 上杉謙信の死去したが、後継者を指名していなかったことにより
 越後で家督争い「御館の乱」が勃発した。
 上杉家の家督の後継をめぐって、上杉謙信の養子である上杉景勝
 (長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の6男)との間で
 お家騒動が起こったのである。
  沼田:みなかみ方面…藤田信吉?
  厩橋(前橋)…   北条高広
  膳城…       河田長親
 
 越後が内紛状態になると、越後に養子に出した北条一族とされる
 上杉景虎に家督相続させる支援すると言う目的も重なり、北条氏
 政は混乱している上杉支配下の沼田城を攻撃した。
 鉢形城主・藤田氏邦(北条氏邦)ら30000を派遣し沼田城を占領する。
 北条氏邦は藤田信吉を城代にした。
  また、北条勢の一部は三国峠を越えて越後領内に進入した。
  本隊は雪の為進軍できなかった。

 結果的に御館の乱は武田勝頼と手を結んだ上杉景勝が勝者となる。 
 上杉景勝は武田勝頼に東上州の割譲を約束していた。
 「上州は勝手次第。」
武田勝頼の妹:菊姫を上杉景勝にくれる条件で成立した。
 上杉景勝が勝利し、上杉謙信の後継者となった。

 北条氏政は沼田城代に猪俣邦憲、城将に藤田重連、
 金子泰清(金子美濃守)らを置いた。

●天正6年(1578) 不満をもった藤田氏邦(北条氏邦)によって
 兄?父?の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子=娘婿)に謀殺された。
 藤田信吉が用土の跡を継いだ。はじめ用土氏・小野氏を名乗っていた。、、
 用土重連と藤田氏邦(北条氏邦)の間には長年の確執があったのだろう。

 理由…藤田(北条)氏邦は用土(藤田)重連を嫌っていたのか、
    北条氏邦は用土(藤田)重連の2人の間に確執があったのか
    北条氏邦が謀反の疑いを持ったのか
    と考えるのが妥当性がある。
    特に、藤田(北条)氏邦は藤田姓を嗣いだので、藤田
    康邦が用土姓を名乗り、用土姓(藤田)を名乗った重連
    は藤田家当主になれなかったのを恨んでいたと考えられる。

 一部には「北条氏邦が城代に選ばれなかったから毒殺した。」説が
 あるが、この理由には疑問点が残る。
 沼田城の筆頭城代には猪俣邦憲が選ばれていた。
 猪俣邦憲は伊豆の富永一族の富永助盛である。
 北条氏邦の奉公人であった。
 (後、天正11年(1583)頃 猪俣氏に養嗣子として入って猪俣範直
 (のりなお)を名乗った。天正15年(1587) 箕輪城在番城主
  ・・箕輪城城代になった。)
 北条氏邦が最も信頼する配下の重臣:富永助盛(猪俣邦憲)と考えら
 る。つまり、上州方面軍を任されていた北条氏邦が城代に選んだとも
 考えられる。
 用土(藤田)重連の後任には弟?従姉妹?用土(藤田)信吉が
 沼田城代に置かれた。
 
 
 上杉景勝と同盟を結んだ武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じた。
 真田昌幸はまず城将の藤田信吉、金子泰清らに調略をしかけた。

・天正7年(1579)
 真田昌幸は岩櫃城から進軍した。
中山城(高山村)で待機し、名胡桃城主:鈴木主水重利と小川城
 の小川可遊斎も武田に内応した。
  名胡桃城と小川城などが武田配下とのなった。

  真田昌幸は小川城主:小川可遊齊(みなかみ町)を味方に引き入れ、
  支城を次々と奪取した。猿ヶ京まで進出した。
  沼田城を裸にした上で、藤田信吉へ味方につくよう誘った

  厩橋城の北条高広も北条家から武田勝頼のもとへ走った。

・天正8年(1580)
 5月?
藤田信吉は、北条の武将として沼田城を守っていた。
 上杉景虎を支援していた北条氏も旗色が悪くなった。
藤田信吉は、
 @藤田家を北条氏邦に乗っ取られたこと
 A兄または父・従姉妹の:用土重連を毒殺されこと
  北条家に属し続けることに不安を感じていた。

沼田城は御館の乱の混乱で後北条氏側に奪回された。

 8月 武田勝頼配下の真田昌幸が長井坂城(旧赤城村)を
  攻略した。
  藤田信吉は真田昌幸の誘いに応じて武田勝頼に寝返り、
  沼田城を武田方に明け渡した。
  その後、武田勝頼から改めて沼田城代に任じられた。
  
沼田顕泰とゆのみの子?:平八郎景義は後北条氏方となった由良氏に
 ついて上野女淵城に住んでいた。

・天正9年(1581)沼田平八郎景義の沼田城奪還計画
  沼田顕泰の側室「ゆのみ」?の子: 沼田平八郎景義である。
 説@… 沼田景義は真田昌幸の意を受けた金子泰清により沼田城で
 謀殺された。これによって沼田氏は滅亡したという説もある。
沼田平八郎景義謀殺され、沼田氏滅亡説。
 (★加沢記)
 説A…会津に逃れていた旧沼田城主・沼田景義が沼田城奪回を目指した。
 沼田平八郎景義は 北条方の由良国繁の支援を得て武田方となった沼
 田城の奪還を図った。
 大胡氏・那波氏らの加勢を加えて3000の兵で挙兵した。

 説B…▲田北の原(沼田)の戦い
   藤田信吉と妻の一族海野勢が沼田景義に負けた。
 沼田衆には旧城主の沼田氏に参陣する者も多かった。
 しかし、真田昌幸の計略により沼田景義は討死し沼田氏は滅亡した
 説もある。

11月21日 猪俣邦憲らを先鋒に5000で名胡桃城と小川城の奪回
 を目指したが、小川可遊斎らが撃退した。
 大雪のため行動が取れず鉢形城に退却した。

 武田勝頼配下の真田昌幸により沼田城は調略されていた。
藤田信吉は武田勝頼から改めて沼田城代に任じられた。

・天正9年(1579)北条勢が名胡桃城を攻めた。 
6月、真田昌幸は沼田へ入った。
 藤田信吉は片品郷の内沼須の城を与えられた。
 藤田信吉は倉内城(沼田城)に在城し、妻子は沼須の城に置いた。
 藤田信吉が沼田城から移ったのが、沼須城であった。
  上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となったという説もある。
12月 武田勝頼から5700貫の所領を拝領した。
 ★1貫(銭1000枚分)が約10〜15万円。
  5700貫って、約1万石強位かな?違っているかなあ。
   沼田の3分の1〜5分1ってとこかな?
  沼須城(沼田)・森下城・阿岨城(昭和)・南雲(旧赤城)
  長井坂城にでそんな
  もんかなあ。 
  藤田信吉は、森下城、阿曾城の両城の繋ぎの城とした。

 藤田氏に復して武田勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ、
  「藤田能登守信吉」と名乗り、海野信親の娘を娶った。
 
★藤田信吉が真田昌幸に降ったのなら、藤田信吉の妻は人質として
 沼田城に置かれるはずである。それがなかったのであるから、
 藤田信吉は、真田昌幸よりちょっと下くらい関係であったと
 考えられる。


・天正10年(1582)
1月11日、真田昌幸は名胡桃城で軍議を行った。
1月31日 北条氏側の明徳寺城(関節自動車道の上)を攻略し、
 沼田周辺に放火して名胡桃城に引き返した。
 
 真田昌幸は沼田城攻略軍を叔父:矢沢綱頼に任せ一旦甲府に戻った。

3月、矢沢綱頼は沼田城を包囲した。
3月11日 武田滅亡
3月15日、真田昌幸は織田信長の家臣となったが、仕置きで
  真田の郷・岩櫃城と沼田城を召し上げられた、
 3月23日、滝川一益はその見返りとして、真田昌幸を箕輪城
代にした。そして、真田昌幸は榛名神社に制札を出したと考えてい
る。滝川一益が箕輪城を人質の城にするために、厩橋城に移ったが
  箕輪城には真田昌幸に見晴らせたと考えている。     
 
・天正9年(1581) か天正10年(1582 3月23日
3月23日
真田安房守昌幸は榛名山に制札を出した。
「禁制 榛名山
  彼の小屋において、乱暴狼藉の事、もし、此の旨に
  違背の輩においては厳科に処すべき者也。
            真田安房守昌幸(花押)  」
(★榛名町誌:久保田順一先生)
★榛名神社に制札を出した戦国大名は、
箕輪城主:長野憲業、関東管領:上杉憲政、箕輪城主:長野
業政、武田信玄、真田昌幸、箕輪城主:北条氏邦、徳川家康?
(天海僧正を榛名神社に送り込んだ)などである。
つまり、箕輪城主以上の格の戦国大名でないと榛名神社への
制札は出せないのである。

@久保田順一先生説
 榛名町誌:久保田順一先生は天正9年だろうと書いている。
花押がこの時代の物・・・
A箕輪初心:生方
★私は、天正10年(1582) 3月23日〜6月20日
まで、箕輪城代になったと考えている。
沼田城&岩櫃城の取り上げ分の代替えの城ではなかろうか?
 滝川一益が箕輪城を人質の城にするために、厩橋城に移ったが
 箕輪城には真田昌幸に見晴らせたと考えている。この時の中心
 人物は保渡田城:内藤昌月(まさあき:保科正俊の息子→内藤
 昌豊の養子)であった。滝川一益を真田昌幸の所領安堵の優遇
策を織田信長に進言し、真田昌幸を滝川一益の与力武将にした
 のは滝川一益であろう。しかし、一方で内藤昌月を大将として
 扱ったのであろう。・・・でなければ、真田昌幸は神流川の戦い
 での敗戦後、下諏訪まで送って行かないであろう。
★ちなみに、滝川一益を送っていったのは、真田昌幸
&真田信幸(後信之)真田幸繁(後幸村)の真田一族、
倉賀野景秀、和田信業(跡部勝資の息子)、木部高成(
父:木部範虎は武田勝頼について戦死)であった。
おそらくは、真田昌幸をしてくれた滝川一益を尊敬し、
腐れ縁=いい関係ができた。でなければ、真田昌幸は
滝川一益の孫:滝川一積に娘を嫁がせないであろう。
滝川一積は真田幸繁(幸村)の娘3人を養女になんか
しないであろう。また、真田昌幸は娘を保科正光に嫁が
せている。保科正光は内藤昌月の甥である。保科正光は
  父:保科正直、母:跡部勝資の娘である。養子には真田左
  源太、保科正之(徳川家忠の息子)がいる。

 3月24日  上野国は織田信長の支配下となった。
滝川義太夫「織田が支配」
   沼田城代:藤田信吉は織田氏の重臣・滝川一益に仕える。

3月24日 小諸城にて
★おそらくは真田昌幸は滝川一益の前にいて、道案内したのであろう。
真田昌幸は滝川一益に上野国などの武将の所領安堵の優遇策を織田
信長に進言するように伝えて言ったのであろう。

佐久郡の小諸城には道家正栄が入った。
上野国の松井田城には津田秀政が入った。
●松井田城主:津田小平次秀政(滝川一益の娘婿・織田信長の一族)
 織田信長の重臣・滝川一益の与力武将となった。
 沼田城には滝川一益の嫡男:滝川益重が入った。
織田信長から関東管領に補せられた滝川一益は厩橋城に入って
 経略に当り、松井田城には寵臣津田小平次秀政をおき、関西への
 繋ぎに任ぜしめた。政秀は後閑城はじめ附近の諸城の制圧につと
 めた。
(★「群馬の古城」・「群馬県古城累祉の研究」:山崎一著)

 一益は、寵臣津田小平次政秀に手兵2000を附して松井田城に置い
 て上方とのつなぎとし、箕輪城に進み、武田氏時代の態勢を踏襲
 して上州諸将を従属させた後、厩橋城に入った。

3月25日
上野国と信濃国小県郡・佐久郡は滝川一益の所領になったが、
滝川一益は情勢不穏の2国を考慮して国人衆に対しては懐柔政策
をとった。
●滝川一益は真田昌幸は本領の小県〜戸石・真田の郷〜吾妻
(岩櫃城)を安堵した。

滝川一益は上野箕輪城に入った。
★おそらくは真田昌幸がついてきて、人質の城の管理を任されたので
あろう。事前の約束があったはずである。

阿曾の城を逃れた金子美濃守は川場天神城に辿りついた。
川場天神城は繋ぎの城の役目をよく示している。
  (★「群馬県古城塁址の研究」)

3月26日?〜
滝川一益は次に厩橋城に入った。
関東の鎮定にあたることになる。〜〜〜〜〜〜〜〜

滝川一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵すること
を申し渡した。近隣の諸将が人質を伴い、次々と出仕した

●信濃衆(出仕者)
真田昌幸(上田城主、岩櫃城主・旧沼田城主)
依田信蕃(春日城主)

●上野衆(出仕者:武田家旧臣)
@内藤昌月(保渡田城主:旧群馬町・含旧箕輪城主:旧箕郷町?)
 ★保科正俊の2男:旧武田時代の実質的な高崎近辺の総まとめ役
A和田信業(和田城主:高崎市・・・後、井伊直政の高崎城)
 ★跡部勝資の長男・・
B倉賀野秀景(倉賀野城主:高崎市倉賀野町)
 金井淡路守→倉賀野秀景・・・滝川一益の側近。
C木部貞朝=木部高成(木部城主:高崎市木部町)=
D白倉重家(白倉城主:甘楽町)
D小幡信貞(小幡城主:甘楽町小幡)
F安中久繁(安中城主・安中市)・・・安中景繁の子ども
(★甘利昌忠の娘の生んだ子の可能性有り)
甘利明先生・・さらに危機状態。
G高山定重(高山城主:藤岡の世界遺産:高山社・・本城は高山城)
H大戸真楽斎(大戸城主:東吾妻町)
I藤田信吉(沼須城主:沼田市の上沼須の金剛院が城址である。
・天正9年(1581)6月、真田昌幸は藤田信吉に沼須の城を与えた。
 藤田は倉内に在城し、妻子は沼須城にいた。森下、阿曾両城の
 繋ぎの城であった
・天文10年(1582) 北条氏邦の夜襲を受けて阿曾の城を逃れた金子
  美濃守は沼須城に辿りついた。
  (★群馬県古城塁址の研究:山崎一著)

●上野衆(出仕者:旧上杉景虎方)
北条高広(旧厩橋城主)・・★柏崎北条城(元は上杉謙信家臣)
長尾憲景(白井城主)・・・★正確には、真田昌幸の白井城城代

●上野衆(出仕者:旧北条方)
由良国繁(金山城主&桐生城主)
長尾顕長(館林城主&長尾足利城:両崖山城主)
那波顕宗(那波城主&茂呂城主)
富岡秀高(小泉城主)・・・大泉町

●下野衆(出仕者)
宇都宮国綱(宇都宮城主)
皆川広照(長沼城主)
佐野宗綱=天徳寺宝衍(唐沢山城)・・・滝川一益の側近


●武蔵衆(出仕者)・・・北条家臣
成田氏長(忍城主)・・・★行田市 「のぼう君」の叔父様
上田朝直(松山城主)・・★東松山ICすぐ300m
上杉氏憲(深谷城主)・・★妻は北条氏政の娘
本庄近朝(本庄城主)・・★
北条氏邦(鉢形城主)・・★北条氏康の実質3男
※関東の北条氏政父子、佐竹義重、里見義頼も臣従したのだ。
@ 北条氏政に下野祇園城を元城主:小山秀綱に返還させた。
A北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた
  太田資正、梶原政景父子は、織田信長の直参となることを望
  んで滝川一益のもとに伺候している。
(★群馬県史を参考に加筆。)

●陸奥国の伊達輝宗、蘆名盛隆とも連絡をとった。  
説1… 沼田城には滝川一益の甥:滝川益重が入った説。
  (群馬県史)
説2…沼田城には滝川一門の滝川益氏が入った説。
(某ブログ等)
  藤田信吉は織田の関東方面総指揮官・滝川一益か甥:滝川益重
 とトラブルが生じた。
4月上旬、真田昌幸が名胡桃城に入った。
   金子泰清、渡辺左近允らが投降してきた。

4月8日 真田昌幸は織田信長に馬を送って誼を乞うた。
★真田昌幸は織田家へ完全臣従が認められた。

5月  沼田城の藤田信吉も真田に通じる意向をしめした。
  藤田信吉が属していた真田昌幸も滝川一益の傘下に入った。

5月上旬 滝川一益は諸領主を厩橋城に集めて能興行を開催した。
    嫡男、次男を伴い、「玉蔓」を舞った。
(★群馬県史:浅倉直美文責)

5月18日、真田昌幸は無血で沼田城に入城した。
  藤田信吉は沼田城で矢沢頼綱を補佐することになった。

5月23日 滝川一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて
  三国峠を越えた。
 上杉景勝家臣の清水城主(巻機山近く):長尾伊賀守と樺沢城主
 (上越国際スキー場一部)・栗林政頼に破れた(伝)。

6月1日 魚津城の戦い
  織田軍5万は越中国をほぼ制圧し、天神山城に入城して織田の大軍
  に備えていた上杉景勝は窮地に立たされる。
  結局、魚津城は落城、守りの山本山など将達は討死を遂げた。
箕輪初心:生方▲富山15『天神山城』天正10年:上杉景勝着陣
https://53922401.at.webry.info/201705/article_26.html
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201705/article_26.html

箕輪初心:生方▲富山16『魚津城』と【魚津城の戦い】 
https://53922401.at.webry.info/201705/article_27.html

6月2日  織田信長が死んだ。
  矢沢頼綱(真田昌幸の伯父)が 倉内城(沼田城)へ入城した。
 
織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。
越中から柴田勝家が清洲へ
 信濃から森長可が清洲へ
 上野から滝川一益が清洲へ(間に合わなかった。)

6月?日 藤田信吉は上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で
 滝川益重麾下の4千の兵の守る沼田城を攻めた。
  水曲輪の一つを乗っ取った。
 滝川一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤
 を従え2万の兵で北上した。

●6月13日、藤田信吉は沼田城攻略を諦め、越後に落ちていった。

・6月18日・19日 神流川の戦い

箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
https://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html

 矢沢頼綱(真田昌幸の伯父)は沼田城代となった。
  真田、北条2氏により沼田争奪戦を繰り返すことになる。

 1回目 10月22日 北条氏直は大戸真楽斎に真田昌幸の岩櫃城を
 攻めさせた。
 真田昌幸と依田玄蕃が信濃で碓氷峠の輸送路を断ったからである。
10月25日 北条氏直は北条氏邦に命じ、
  内藤昌明や倉賀野家吉・反町幸定などを率いて赤城の津久田に
  迫った。
10月27日 津久田で沼田の矢沢頼綱の兵が攻めたが、撤退した。

10月27日 沼田城へ進撃する北条氏が阿曾城を攻略した。
阿曽城を追われた金子家清が藤田信吉の沼須城(上沼須の金剛院)
に逃れた。
 阿曾の城を逃れた金子美濃守は川場天神城に辿りついた。
 川場天神城は繋ぎの城の役目をよく示している。
  (★「群馬県古城塁址の研究」)
 高崎の反町幸定が活躍した。
金子美濃守家清は真田側に「北条が迫っている。」と伝えた。

加沢記によると、
「天正10年(1582)、北条氏邦が長井坂城、阿岨城、森下城を次々
に攻略した。阿岨城では北条の兵3,000騎の夜討ちに遭い、金
子美濃守は騎馬もろとも谷を滑り落ち、倉内城へ逃れた。」

10月28日 森下城の戦い
 森下城は落城、城主の加藤丹波守は、城を逃れたが、すぐ近くにあった
石の上に座り、切腹して果てたという。
 (白沢村指定の史跡「加藤丹波守の腹切石」)

10月29日 徳川家康は、井伊直政・木俣守勝を使わし、
 北条氏直の北条氏房と話し合い。和睦した。
 

・天正11年(1583)
2回目
1月 北条氏政・氏直父子は白井城(旧子持村)に在陣した。

2月22日の荒木主税助、須田加賀守宛ての北条氏邦感状に
「去年10月28日、向倉内内相動、於森下敵一人討取、
功名無比類候」

8月、北条氏照は上杉家の手に渡っていた厩橋城を攻めた。
 厩橋城主:北条高広を追って、沼田攻略の機会を狙った。

・天正12年(1584) 小牧長久手合戦
徳川家康は膠着すると北条との盟約を強固にして後顧の憂いをなくそう
 と考えた。
 4月、徳川家康は真田昌幸に沼田城を渡すようにと和睦の条件を実行
  するよう通告した。
  しかし、沼田は「上田と双璧をなす最重要拠点」、
  「私が切り取った城である。」
 と真田昌幸は拒絶した。

 第1次上田合戦
  徳川家との神川合戦へと突入した。

3回目
 10月、北条は大軍は長井坂城(旧赤城村)に着陣した。
  東の崖上には真田方の阿曾城(白沢村)・森下城(白沢村)が
 あった。片品川の向こうには 沼須城があった。
 北条氏邦は、阿曾城に夜襲をかけた。阿曾城は落城し、阿曾城代の
  金子家清は、崖を駆け降り、片品川を渡り、命からがら沼須城
  に入った。
 沼須城から「北条軍来る」の報は沼田城に届けられた。
 真田方矢沢頼綱は、防備をいち早く固めた沼田城を死守した。



天正14年(1586)4月、 沼田城奪還に燃える北条氏直は攻略に本腰を
入れるため 上野、武蔵、下野、常陸、安房、上総、下総の各支配下から
約70000の兵力を興し出陣させた。
矢沢頼綱は率いる兵は2000であった。
北条氏直は厩橋を経由しまず氏照、氏邦、氏規を先手として沼田を
 攻撃させた。

その頃、長雨が続き利根川・片品川の水量は増し行軍は難行した。
北条軍は段丘上から沼田城を威嚇する構えをみせた。
矢沢頼綱は北条の陣所に頼綱の矢文が射掛け、北条を挑発した。
5月11日、北条氏邦は矢沢頼綱の返書を送った。
5月25日、北条先発隊は一斉に滝棚の原から沼田城に突撃した。
 矢沢頼綱は鉄砲を一斉に撃ちかけて北条勢を撃退した。
 北条軍は退却した。
 (上毛古戦記)

・天正15年(1587)2月、北条は4度目の沼田攻略を計画した。
 猪俣能登守と太田金山城の由良国繁に沼田攻略を命じた。
 矢沢頼綱69歳は片品川にて由良の軍勢を撃破し、猪俣勢を手玉
 にとって孤立させた。
 真田幸隆。矢沢頼綱はゲリラ戦が得意であった。 

 北条氏邦は沼田攻めた。どうにか、沼田城を攻略した。
猪俣邦憲は箕輪城代と沼田城代を兼任した。
  箕輪在番猪俣邦憲(沼田城と兼任)は林に命令
  「真田との戦闘態勢を強化せよ。」  
   (★唯一の文書)

 
 北条氏直、猪俣那憲に沼田城の警固を命じた。
  沼田城が真田に対して境目の城としてかなり重視され鉄砲など
  が送り込まれた。

・天正17年(1589) 名胡桃事件
箕輪初心:生方▲名胡桃城発掘の三宅敦気先生講演会「名胡桃城」
https://53922401.at.webry.info/201611/article_19.html
 
 通説…沼田城代:猪俣邦憲が名胡桃城を攻略した。
   真田側の名胡桃城代:鈴木主水は責任を負い切腹した
 (★加沢記⇒通説化された。)
(家忠日記「北条に城が落とされた。⇒みなかみ教育委員会
    は名胡桃城と限定をしていない。)
  真田昌幸は豊臣秀吉に手紙を出した。
   沼田城主猪俣能登守
  豊臣秀吉の沼田領裁定
   沼田領の三分の二を北条領、
   名胡桃城など三分の一真田領

・天正18年(1590) 豊臣秀吉は小田原城攻撃。
   北条氏も滅びる事となる。
沼田城主:真田信幸が沼田城に入城した。
  初代城主 領内検地をした。


箕輪初心●群馬【沼田城】=北条・武田・上杉の狭間で揺れ動いた城   
https://53922401.at.webry.info/201112/article_3.html


現在、森下城の遺構は2郭と1郭の半分以下の遺構かなあ?

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