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zoom RSS 箕輪初心:生方▲沼田『沼須城』&「流浪の武将:藤田信吉」

<<   作成日時 : 2018/07/31 06:51   >>

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2018年、今シーズン川場スキー場に6回行った。必ず、子持城・
長井坂城、阿曽城・森下城、川場天神城を遠くに見ながら行く。
平成30年3月16日、5回目のスキーの帰りに川場天神城・
沼須城によった。沼須城が沼田市上沼須町にある。遺構の残存
度は著しく良くない。藤田信吉は関東管領:山内上杉憲政の家臣
:藤田康邦の一族として生まれた。藤田信吉は北条氏邦→武田
勝頼→上杉景勝→徳川家康と主君を代えながら、戦国を渡り歩
いた流浪の武将である。
画像

 
川場スキー場⇒川場天神城入り口⇒沼田ヤマダ電機⇒突っ切って
 (沼田インター近く)
沼田県道62号で河岸段丘を下ると、「上沼須交差点」のすぐ西の
「上沼須バス停」の目の前。



●金剛院跡
画像


●金剛院跡東と南側に堀跡?
画像


●金剛院跡北には公民館・・・北東の城域か?

●眺望
画像

 正確には、「沼須城跡」は建物の手前のようである。
 ★片品川の対岸は森下城、崖上は阿岨城がある。


【1】藤田氏の出自
1小野妹子→2小野毛人→3小野毛野→4小野氷見→6小野岑守→
6小野篁(たかむら)→
 
1)小野妹子
近江国滋賀郡小野村(現滋賀県大津市)周辺を本拠とした。
山城国愛宕郡小野郷(現京都市左京区)も支配下にあった。
「十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐
  以鞍作福利為通事」(★ 『日本書紀』:巻第22)
 小野妹子を遣隋使となった。

2)小野毛人
京都市左京区上高野西明寺山の崇導神社内には小野毛人
 の墓碑がある。

3)小野毛野
 天武朝に仕え朝臣姓を賜り、持統天皇9年(695年)
  遣新羅使に任ぜられた。

4)小野岑守
  「凌雲集」を撰した歌人として知られる。

3)小野篁(たかむら)(802年〜852年)
小野篁は武芸者・学者・詩人・歌人としても知られる
 特に漢詩や和歌に優れていた。
 小野篁は「令義解」の編纂に加わった。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
 (『百人一首』11番)

※エピソード
嵯峨天皇は
「子子子子子子子子子子子子」
と質問した。篁、答えて曰く
「ねこのここねこ ししのここじし(猫の子 子猫、獅子の子 子獅子)」。
嵯峨天皇は篁を許した。

小野篁→小野俊生・・・・井伊家筆頭家老
小野篁→小野良真→小野小町・小野道風
小野篁→小野葛絃→小野好古
小野篁→小野保衡→:武蔵七党の筆頭の横山氏:猪俣氏
              猪俣一族→横瀬氏(由良氏)
小野篁の長男・小野俊生
小野俊生が小野村を開拓した。

5)小野好古
小野好古は藤原純友の乱の鎮圧にあたった。


6)小野道風・・・能書家として有名である。
 ★高崎天竜護国寺の算額

7)小野小町・・・ 我が国、絶世の美女「平安おかめ美女?」
★平安時代の美女は下ぶくれの一重まぶただったそうである。
「花の色は 移りにけりな いたづらに
  わが身世にふる ながめせしまに」
★眺め・長雨の掛詞である。

8)関東の小野一族
小野氏は藤原氏が台頭してくると中央政界での勢力を失い、地方官と
して東国に下るものも出た。
小野篁の8代の孫:小野武蔵守孝泰である。
孝泰は武蔵国多摩郡横山に土着して武蔵七党として知られる東国武士
団のうち 横山党、猪俣党の祖となった。
@横山党・・横山・椚田・海老名・藍原・山口・愛甲・平山・小野
 ・古庄・中村・小俣・ 本間・成田・中条・横瀬、

A猪俣党・・猪俣・中村・河勾・甘糟・藤田・岡部・男衾
源平合戦で 源氏方として奮戦した。
・戦国時代まで勢力を保った家も多い。
・山口  所沢市山口城 
・成田  熊谷市成田 →行田:忍城
・中条 熊谷 
・横瀬・・・ 太田金山城 由良国繁
藤田・・・現寄居町 花園城 藤田康利→養子:北条氏邦
・猪俣・・・現寄居町 猪俣城 猪俣家養子:富永助盛=猪俣邦憲

箕輪初心▲埼玉所沢▲『山口城』=遺構の寂しい城?
http://53922401.at.webry.info/201407/article_11.html

箕輪初心▲埼玉所沢:【根小屋城】=狭山湖畔の山口氏の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201407/article_10.html

箕輪初心●埼玉熊谷『成田氏館』&行田『忍城』
http://53922401.at.webry.info/201409/article_8.html

箕輪初心●埼玉『忍城』=城代:成田長親【のぼうの城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_6.html

箕輪初心▲熊谷:【中条氏館】:常光寺&中条家長&子孫
http://53922401.at.webry.info/201409/article_1.html

箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html

箕輪初心○埼玉【花園城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_17.html

箕輪初心●埼玉【天神山城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_16.html

藤田氏は武蔵国北西部を地盤とした関東七党の一つ「猪俣党」の出
である。 また、畠山重忠の末裔という説もある。


【2】藤田重利(康邦)
・天文元年(1532)〜 1540年頃藤田重利が、北条に備え、
  天神山城を築城。
 藤田氏は関東管領・山内上杉家に従っていた。
  約400年も本拠地とした花園城から居城を移した。

箕輪初心○埼玉寄居町【花園城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_17.html

・天文6年(1537) 北条勢が河越城が奪取した。

・天文年間 藤田重利が築城した(伝)。
箕輪初心●埼玉【天神山城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_16.html


・天文15年(1546) 河越の夜戦
     上杉勢が大敗。
     ・・・上杉憲政は平井城に逃走。
       
  北条氏康に天神山城と花園城を譲渡。

・天文18年(1549)7月 父・藤田重利は北条氏康に従属した。
  藤田重利は北条の傘下とななった。
   北条氏康の3男新太郎(氏邦)が長女:大福御前の娘婿
   となった。
   藤田信吉の姉とされる大福御前の婿養子に北条氏康の
   3男・北条氏邦(北条氏吉)を迎えた。
 北条氏邦は、天神山城は居城に、花園城を支城にした。
  北条氏邦は「藤田晋太郎」と名乗り、秩父衆を掌握した。

   北条氏邦が藤田家の家督を引き継ぎ藤田安房守(藤田氏邦)を
   名乗り、事実上、藤田重利は隠居した。
    天神山城と花園城が藤田氏邦(北条氏邦)のものとなった。
   藤田氏邦(北条氏邦)は10歳未満だったと考えられ、筆頭家老:
   岩田対馬守が実質実務を担当したようだ。
   北条氏康は滝山城の大石氏を配下に加えた際にも同様に実子:
   2男:北条氏照を養子として送り込んでいる。
   滝山城主の大石氏とも姻戚関係があった。
    
   藤田重利は寄居に用土城を築き居城を移して用土新左衛門を
   称し、名を重利から康邦(氏康の「康」と氏邦の「邦」)に改
    め、用土康邦と改名した。
 
・天文24年(1555) 8月13日、用土(藤田)康邦が死去した。
  藤田信吉の兄?用土重連(藤田重連)が用土家の跡を継いだ。
  用土重連(藤田重連)は藤田氏邦(北条氏邦)の
  小姓として仕えていた。
  

【2】藤田信吉の生涯
・永禄2年(1559) 藤田信吉が生まれた。
  秩父・長瀞にある天神山城主:藤田重利((右衛門佐、泰邦)康邦)
  と西福御前の小野氏系藤田康邦の次男として生まれた。
 といわれているが、・・・永禄2年(1559) ということで、4年前に
 藤田康邦は死去しているので、計算が合わない。
  それ故、藤田康邦の孫または甥ではないかと考えられている。
  また、藤田康邦の一族である用土業国(新三郎、新左衛門尉)の
  子息とする説もある。
 
・永録3年(1560) 長尾景虎(上杉謙信)の第1次関東出兵。
 長尾景虎(上杉謙信)の第1次関東出兵
  長尾景虎が越山してくると、沼田康元は敗れた。
  沼田顕泰は復権して上杉配下で沼田衆を率いる立場になった。
(★栗原修「上杉越山と上野沼田氏」『戦国史研究』30号、
   戦国史研究会、1995年)

箕輪初心:生方▲『長尾景虎(上杉謙信)&近衛前嗣&彦部信勝』
https://53922401.at.webry.info/201612/article_3.html

 藤田氏・猪俣氏・用土氏は一時上杉勢に加担した。
  
9月北条氏康に攻められて天神山城は落城したという説もある。

10月北条氏康は藤田を攻めた。再び家臣になった。


・永禄4年(1564)
長尾景虎が小田原城を攻めた。
2月〜閏3月 小田原城→鎌倉八幡宮
関東管領は上杉憲政から長尾景虎に譲られ、上杉政虎となった。
★3つも字が付いている。
 近衛前嗣親子・彦部信勝が見届け役であった。

4月 上杉政虎は厩橋に帰城した。
箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html


・6月19日 長野業政が死んだ。

・6月下旬上杉政虎(上杉謙信)は越後に戻った。
 
・永禄7年(1568) 北条氏邦「藤田晋太郎」は天神山城より、鉢形城に
  移動した。
  天神山城には北条氏光が入って天神山城は支城となった。

  しかし、藤田信吉の兄:用土重連(藤田重連)と北条氏邦との間に
 確執が生じ、北条氏邦から危険視された。
 
・永禄11年(1568) 上杉謙信は沼田城に入った説もある。

●永禄12年(1569) 沼田顕泰は天神城に来た嫡子:沼田朝憲を
謀殺した説もある。

 沼田顕泰は3男:沼田朝憲を殺害し、(側室:ゆのみに生ませた?)
 末子:沼田景義に嗣がせようとして、川場合戦となった。
 沼田万鬼斎顕泰は負けてしまい、会津の芦名を頼った。
(★加沢記⇒現地案内板:川場天神城)

 また、沼田顕泰は天神城へ火を放ち、会津へ落ちる。
湯のみは途中雪の中で凍死。顕泰が会津黒川城で客死・・・。

・永禄12年(1569) 上杉の倉内城代に柴田右衛門尉がなった。
沼田氏の沼田城は上杉謙信家中の城代支配とされてしまった。

・永禄13年、元亀元年(1570)? 上杉の倉内城代に上野家成、
  河田長親らがなった。

・天正6年(1578) 3月13日(5月) 上杉謙信急死した。
  (上杉謙信 歿 49歳)
 ▲御の乱
 上杉謙信の死去したが、後継者を指名していなかったことにより
 越後で家督争い「御館の乱」が勃発した。
 上杉家の家督の後継をめぐって、上杉謙信の養子である上杉景勝
 (長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の6男)との間で
 お家騒動が起こったのである。
  沼田:みなかみ方面…?
  厩橋(前橋)…   北条高広
  膳城…       河田長親
 
 越後が内紛状態になると、越後に養子に出した北条一族とされる
 上杉景虎に家督相続させる支援すると言う目的も重なり、北条氏
 政は混乱している上杉支配下の沼田城を攻撃した。
 鉢形城主・藤田氏邦(北条氏邦)ら30000を派遣し沼田城を占領する。

●藤田信吉の北条氏邦の配下時代?*************
 北条氏邦は藤田信吉を留守番にした。
  また、北条勢の一部は三国峠を越えて越後領内に進入した。
 先鋒は元上杉家北条高広・北条長男:安田景元・河田長親であった。
 荒砥城(湯沢町)・樺沢山城(上越国際スキー場)を攻略した。
 本隊は雪の為進軍できなかった。

 結果的に御館の乱は武田勝頼と手を結んだ上杉景勝が勝者となる。 
 上杉景勝は武田勝頼に東上州の割譲を約束していた。
 「上州は勝手次第。」
武田勝頼の妹:菊姫を上杉景勝にくれる条件で成立した。
 上杉景勝が勝利し、上杉謙信の後継者となった。

●天正6年(1578)
 北条氏政は奪った沼田城代に猪俣邦憲、城将に藤田重連、
 金子泰清(金子美濃守)らを置いた。

●天正6年(1578) 不満をもった藤田氏邦(北条氏邦)によって
 兄?父?の用土重連が藤田氏邦(康邦の養子=娘婿)に謀殺された。
理由…藤田(北条)氏邦は用土(藤田)重連を嫌っていたのか、
    北条氏邦は用土(藤田)重連の2人の間に確執があったのか
    北条氏邦が謀反の疑いを持ったのか
    と考えるのが妥当性がある。
    特に、藤田(北条)氏邦は藤田姓を嗣いだので、藤田
    康邦が用土姓を名乗り、用土姓(藤田)を名乗った重連
    は藤田家当主になれなかったのを恨んでいたと考えられる。

 一部には「北条氏邦が城代に選ばれなかったから毒殺した。」説が
 あるが、この理由には疑問点が残る。
 沼田城の筆頭城代には猪俣邦憲が選ばれていた。
 猪俣邦憲は伊豆の富永一族の富永助盛である。
 北条氏邦の奉公人であった。
 (後、天正11年(1583)頃 猪俣氏に養嗣子として入って猪俣範直
 (のりなお)を名乗った。天正15年(1587) 箕輪城在番城主
  ・・箕輪城城代になった。)
 北条氏邦が最も信頼する配下の重臣:富永助盛(猪俣邦憲)と考えら
 る。つまり、上州方面軍を任されていた北条氏邦が城代に選んだとも
 考えられる。

 藤田信吉が用土の跡を継いだ。
用土(藤田)重連の後任には弟?従姉妹?用土(藤田)信吉が
 沼田城代に置かれた。


 用土氏・小野氏を名乗っていた。
 ★小野姓は上記の通り。 
  
 上杉景勝と同盟を結んだ武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じた。
 真田昌幸はまず城将の藤田信吉、金子泰清らに調略をしかけた。

・天正7年(1579)
 真田昌幸は岩櫃城から進軍した。
中山城(高山村)で待機し、名胡桃城主:鈴木主水重利と小川城
 の小川可遊斎も武田に内応した。
  名胡桃城と小川城などが武田配下とのなった。

  真田昌幸は小川城主:小川可遊齊(みなかみ町)を味方に引き入れ、
  支城を次々と奪取した。猿ヶ京まで進出した。
  沼田城を裸にした上で、藤田信吉へ味方につくよう誘った。

  厩橋城の北条高広も北条家から武田勝頼のもとへ走った。

・天正8年(1580)
 5月?
藤田信吉は、北条の武将として沼田城を守っていた。
 上杉景虎を支援していた北条氏も旗色が悪くなった。
藤田信吉は、
 @藤田家を北条氏邦に乗っ取られたこと
 A兄または父・従姉妹の:用土重連を毒殺されこと
  北条家に属し続けることに不安を感じていた。

沼田城は御館の乱の混乱で後北条氏側に奪回された。


藤田信吉の武田勝頼家臣:真田の配下時代******
 8月 武田勝頼配下の真田昌幸が長井坂城(旧赤城村)を
  攻略した。
  藤田信吉は真田昌幸の誘いに応じて武田勝頼に寝返り、
  沼田城を武田方に明け渡した。
  その後、武田勝頼から改めて沼田城代に任じられた。

  
沼田顕泰とゆのみの子?:平八郎景義は後北条氏方となった由良氏に
 ついて上野女淵城に住んでいた。

・天正9年(1581)沼田平八郎景義の沼田城奪還計画
  沼田顕泰の側室「ゆのみ」?の子: 沼田平八郎景義である。
 説@… 沼田景義は真田昌幸の意を受けた金子泰清により沼田城で
 謀殺された。これによって沼田氏は滅亡したという説もある。
沼田平八郎景義謀殺され、沼田氏滅亡説。
 (★加沢記)
 説A…会津に逃れていた旧沼田城主・沼田景義が沼田城奪回を目指した。
 沼田平八郎景義は 北条方の由良国繁の支援を得て武田方となった沼
 田城の奪還を図った。
 大胡氏・那波氏らの加勢を加えて3000の兵で挙兵した。

 説B…▲田北の原(沼田)の戦い
 藤田信吉と妻の一族海野勢が沼田景義に負けた。
 沼田衆には旧城主の沼田氏に参陣する者も多かった。
 しかし、真田昌幸の計略により沼田景義は討死し沼田氏は滅亡した
 説もある。

11月21日 猪俣邦憲らを先鋒に5000で名胡桃城と小川城の奪回
 を目指したが、小川可遊斎らが撃退した。
 大雪のため行動が取れず鉢形城に退却した。

藤田信吉は武田勝頼から改めて沼田城代に任じられた。

 

・天正9年(1579)北条勢が中山城・名胡桃城を攻めた。 


6月、真田昌幸は沼田へ入った。
 藤田信吉は片品郷の内沼須の城を与えられた。
 藤田信吉は倉内城(沼田城)に在城し、妻子は沼須の城に置いた。
 藤田信吉が沼田城から移ったのが、沼須城であった。
  上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となったという説もある。
 (★群馬県古城塁址の研究:山崎一著)


12月 武田勝頼から5700貫の所領を拝領した。
 ★単純に5700石かなあ? 
 1貫(銭1000枚分)が約10〜15万円。
  5700貫って、約1万石強位かな?違っているかなあ。
   沼田の3分の1〜5分1ってとこかな?
  沼須(沼田)・森下・阿曽(白沢)・南雲(旧赤城)にでそんな
  もんかなあ。
   藤田氏に復して武田勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ、
  「藤田能登守信吉」と名乗り、海野信親の娘を娶った。
 

  藤田信吉は、森下城、阿曾城の両城の繋ぎの城として
  配下に置いた。南雲の長井坂城も支配下となった。

藤田信吉が真田昌幸に降ったのなら、藤田信吉の妻は人質として
 沼田城に置かれるはずである。それがなかったのであるから、
 藤田信吉は、真田昌幸よりちょっと下くらい関係であったと
 考えられる。


・天正10年(1582)
1月11日、真田昌幸は名胡桃城で軍議を行った。
1月31日 北条氏側の明徳寺城(関節自動車道の上)を攻略し、
 沼田周辺に放火して名胡桃城に引き返した。
 
 真田昌幸は沼田城攻略軍を叔父:矢沢綱頼に任せ一旦甲府に戻った。

3月、矢沢綱頼は沼田城を包囲した。
3月11日 武田滅亡
3月15日、真田昌幸は織田信長の家臣となったが、仕置きで
  真田の郷・岩櫃城と沼田城を召し上げられた、
 
3月23日、滝川一益はその見返りとして、真田昌幸を箕輪城
代にした。そして、真田昌幸は榛名神社に制札を出したと考えてい
る。滝川一益が箕輪城を人質の城にするために、厩橋城に移ったが
  箕輪城には真田昌幸・内藤昌明に見晴らせたと考えている。  
   
 
3月24日  上野国は織田信長の支配下となった。

3月24日 小諸城にて
★おそらくは真田昌幸は滝川一益の前にいて、道案内したのであろう。
真田昌幸は滝川一益に上野国などの武将の所領安堵の優遇策を織田
信長に進言するように伝えて言ったのであろう。

佐久郡の小諸城には道家正栄が入った。
上野国の松井田城には津田秀政が入った。
●松井田城主:津田小平次秀政(滝川一益の娘婿・織田信長の一族)
 織田信長の重臣・滝川一益の与力武将となった。
 沼田城には滝川一益の嫡男:滝川益重が入った。
織田信長から関東管領に補せられた滝川一益は厩橋城に入って
 経略に当り、松井田城には寵臣津田小平次秀政をおき、関西への
 繋ぎに任ぜしめた。政秀は後閑城はじめ附近の諸城の制圧につと
 めた。
(★「群馬の古城」・「群馬県古城累祉の研究」:山崎一著)

 一益は、寵臣津田小平次政秀に手兵2000を附して松井田城に置い
 て上方とのつなぎとし、箕輪城に進み、武田氏時代の態勢を踏襲
 して上州諸将を従属させた後、厩橋城に入った。

3月25日
上野国と信濃国小県郡・佐久郡は滝川一益の所領になったが、
滝川一益は情勢不穏の2国を考慮して国人衆に対しては懐柔政策
をとった。
滝川一益は真田昌幸は本領の小県〜戸石・真田の郷〜吾妻
(岩櫃城)を安堵した。

滝川一益は上野箕輪城に入った。
★おそらくは真田昌幸がついてきて、人質の城の管理を任されたので
あろう。事前の約束があったはずである。

3月26日?〜
滝川一益は次に厩橋城に入った。
関東の鎮定にあたることになる。〜〜〜〜〜〜〜〜

滝川一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵すること
を申し渡した。近隣の諸将が人質を伴い、次々と出仕した

●信濃衆(出仕者)
真田昌幸(上田城主、岩櫃城主・旧沼田城主)
依田信蕃(春日城主)

●上野衆(出仕者:武田家旧臣)
@内藤昌月(保渡田城主:旧群馬町・含旧箕輪城主:旧箕郷町?)
 ★保科正俊の2男:旧武田時代の実質的な高崎近辺の総まとめ役
A和田信業(和田城主:高崎市・・・後、井伊直政の高崎城)
 ★跡部勝資の長男・・
B倉賀野秀景(倉賀野城主:高崎市倉賀野町)
 金井淡路守→倉賀野秀景・・・滝川一益の側近。
C木部貞朝=木部高成(木部城主:高崎市木部町)=
D白倉重家(白倉城主:甘楽町)
D小幡信貞(小幡城主:甘楽町小幡)
F安中久繁(安中城主・安中市)・・・安中景繁の子ども
(★甘利昌忠の娘の生んだ子の可能性有り)
甘利明先生・・さらに危機状態。
G高山定重(高山城主:藤岡の世界遺産:高山社・・本城は高山城)
H大戸真楽斎(大戸城主:東吾妻町)
I藤田信吉(沼須城主:沼田市の上沼須の金剛院が城址である。
沼田城代:藤田信吉は織田氏の重臣・滝川一益に仕える。

●上野衆(出仕者:旧上杉景虎方)
北条高広(旧厩橋城主)・・★柏崎北条城(元は上杉謙信家臣)
長尾憲景(白井城主)・・・★正確には、真田昌幸の白井城城代

●上野衆(出仕者:旧北条方)
由良国繁(金山城主&桐生城主)
長尾顕長(館林城主&長尾足利城:両崖山城主)
那波顕宗(那波城主&茂呂城主)
富岡秀高(小泉城主)・・・大泉町

●下野衆(出仕者)
宇都宮国綱(宇都宮城主)
皆川広照(長沼城主)
佐野宗綱=天徳寺宝衍(唐沢山城)・・・滝川一益の側近

●武蔵衆(出仕者)・・・北条家臣
成田氏長(忍城主)・・・★行田市 「のぼう君」の叔父様
上田朝直(松山城主)・・★東松山ICすぐ300m
上杉氏憲(深谷城主)・・★妻は北条氏政の娘
本庄近朝(本庄城主)・・★
北条氏邦(鉢形城主)・・★北条氏康の実質3男
※関東の北条氏政父子、佐竹義重、里見義頼も臣従したのだ。
@ 北条氏政に下野祇園城を元城主:小山秀綱に返還させた。
A北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた
  太田資正、梶原政景父子は、織田信長の直参となることを望
  んで滝川一益のもとに伺候している。
(★群馬県史を参考に加筆)

●陸奥国の伊達輝宗、蘆名盛隆とも連絡をとった。  
説1… 沼田城には滝川一益の甥:滝川益重が入った説。
  (群馬県史)
説2…沼田城には滝川一門の滝川益氏が入った説。
(某ブログ等)
  藤田信吉は織田の関東方面総指揮官・滝川一益か甥:滝川益重
 とトラブルが生じた。
4月上旬、真田昌幸が名胡桃城に入った。
   金子泰清、渡辺左近允らが投降してきた。

4月8日 真田昌幸は織田信長に馬を送って誼を乞うた。
★真田昌幸は織田家へ完全臣従が認められた。


藤田信吉の武勝頼の家臣時代*************
5月  沼田城の藤田信吉も真田に通じる意向をしめした。
  藤田信吉が属していた真田昌幸も滝川一益の傘下に入った。

5月上旬 滝川一益は諸領主を厩橋城に集めて能興行を開催した。
    嫡男、次男を伴い、「玉蔓」を舞った。
(★群馬県史:浅倉直美文責)

5月18日、真田昌幸は無血で沼田城に入城した。
  藤田信吉は沼田城で矢沢頼綱を補佐することになった。

5月23日 滝川一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて
  三国峠を越えた。
 上杉景勝家臣の清水城主(巻機山近く):長尾伊賀守と樺沢城主
 (上越国際スキー場一部)・栗林政頼に破れた(伝)。

6月1日 魚津城の戦い
  織田軍5万は越中国をほぼ制圧した。
  上杉景勝は天神山城に入城したが、織田の大軍
  の前に窮地に立たされる。
6月3日結局、魚津城は落城、守りの山本山・山吉など将達は討死した。
箕輪初心:生方▲富山15『天神山城』天正10年:上杉景勝着陣
https://53922401.at.webry.info/201705/article_26.html
https://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201705/article_26.html

箕輪初心:生方▲富山16『魚津城』と【魚津城の戦い】 
https://53922401.at.webry.info/201705/article_27.html

6月2日  織田信長が死んだ。
  矢沢頼綱(真田昌幸の伯父)が 倉内城(沼田城)へ入城した。

6月9日 滝川一益に知らせが届いた。 
越中から柴田勝家が清洲へ
 信濃から森長可が清洲へ
 上野から滝川一益が清洲へ(間に合わなかった。)
織田軍の北征は頓挫し、上杉景勝は九死に一生を得た。

6月?日 藤田信吉は上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で
 滝川益重麾下の4千の兵の守る沼田城を攻めた。
  水曲輪の一つを乗っ取った。
 滝川一益が小幡、安中、和田、倉賀野、由良、長尾(館林)、内藤
 を従え2万の兵で北上した。

6月13日、藤田信吉は沼田城攻略を諦め、越後に落ちていった。



・6月中旬 滝川一益は箕輪城に置いておいた人質を
        解放した。

・6月18日・19日 神流川の戦い

箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
https://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html


6月20日 箕輪城で内藤昌明・真田昌幸と別れの宴会。
★滝川一益を送っていったのは、真田昌幸
&真田信幸(後信之)真田幸繁(後幸村)の真田一族、
倉賀野景秀、和田信業(跡部勝資の息子)、木部高成(
父:木部範虎は武田勝頼について戦死)であった。

10月 沼田城へ進撃する北条氏が阿曾城を攻略した。
阿曽城を追われた金子家清が藤田信吉のいた沼須城
へ逃げ込むんだ。



藤田信吉の上杉景勝家臣時代******************
8月 上杉景勝は新発田重家を平定すべく出陣させた。

8月20日、上杉景勝は三条城に入った。
9月2日、上杉景勝勢は新発田城、五十公野城、池ノ端城の中間にあたる
 小坂の地に陣取った。
  新発田城包囲は長期戦になり、兵糧が乏しく降雪の季節が近いこと
 から、上杉景勝は一旦兵を引き揚げた。


・天正11年(1583)

4月、上杉景勝は新潟城を攻撃しかけた。
  川岸より三丁ばかりも離れていて鉄砲も届かず苦戦した。
 この時、上杉景勝方に発知源六(元沼田発知城主)は兵船十余艘を
 並べて綱で縛り付け、その上に櫓を組んで川上より流し、新潟城に
 押し寄せて櫓の上から火矢を打ち込んだ。
 五日間城中に打ち込まれた。
 落城せず、発知源六も倒され、上杉景勝は兵を引いた。
 沼田の発知一族・藤田信吉も参加していた。

8月 放生橋(新発田市法正橋)の戦い
 上杉景勝の上田衆重用に不満を持ち謀反した新発田重家と戦い、
菅名但馬守・水原満家・上野九兵衛ら名のある大将を討ち取られ、
安田能元が重傷を負った。
上杉景勝も追いつめられる大惨敗を喫した。

 藤田信吉は上杉景勝から越後長島城を与えられた。
 越後:長島城主だった吉江資堅(吉江喜四郎資堅)は魚津城で
 討ち死にした。藤田信吉は未亡人を娶り長島城主となって
 いたからである。
  
 藤田信吉は、以降上杉家中で数々の武功を挙げていく。


・天正12年(1584)
8月、上杉景勝は新発田側になった水原城の奪還のため出陣した。
11月20日 藤田信吉は新潟城と沼垂城が藤田信吉の調略によって
 上杉方の手に落とした。新発田方は新潟港から塩の津潟を経由して
 新発田に至る水利権を失い、物資の大量輸送が困難になり、蘆名家
 との津川経由のルートによって当面の物資を補給せざるをえない状
 況に追い込まれた。
 ★藤田信吉は特に新発田重家討伐戦での新潟城・沼垂城を調略に
 上杉景勝軍の優位に導いた。

・天正13年(1585) 「墜水の会」
夏、須田満親は上杉景勝と羽柴秀吉との交渉役になった。
越後・越中の国境:勝山城(親不知トンネルの上)で上杉&羽柴
が会見する下準備をした。
上杉景勝と敵対していた羽柴秀吉が石田三成ら僅かな手勢にて越後
:勝山城(糸魚川)にて上杉景勝と面会した。
 上杉景勝に同行したのが直江兼続と藤田信吉などであった。
上杉景勝+直江兼続⇔羽柴秀吉+石田三成
結果・・・同盟を結んだ。
徳川家康が怒って、第1次上田合戦になる。
(★『勝山城現地案内板』)
★@須田満親の長男:須田満胤(光義)は直江兼続の妹「きた」
娘婿となっていたため、須田家の家督は次男:長義が継いだ。
★A佐々成政の豊臣秀吉と上杉景勝の挟み撃ち作戦が成立した。

箕輪初心:生方▲富山bT『越中の戦国時代』+ちょっと越後
https://53922401.at.webry.info/201705/article_23.html
★勝山城で面会

箕輪初心:生方▲真田丸88【須田満親&真田昌幸】
&『福島正則陣屋』上高井郡高山村散策3回
http://53922401.at.webry.info/201604/article_28.html

会談の内容は、「秀吉の天下統一のために、景勝に協力して欲しい。」
上杉景勝も羽柴秀の実力は十分把握していたため、要請を受け入れる
しかなかった。

・天正14年(1586)
 6月12日 上杉景勝は上洛して正式に羽柴秀吉に臣従した。

 帰り、豊臣秀吉より上杉氏景勝に佐渡国制圧の命が下った。
  献金を条件に・・・
 藤田信吉は直江兼続らと共に遠征し戦功を上げた。
 羽茂高持、佐原利国らを4度に渡り破り、平定に最大の貢献
 をした。
 
・天正15年(1587)
  新発田重家との戦いは未だに続いていた
9月10日、藤田信吉は赤谷城下(阿賀野町)に達した。
 赤谷城主の小田切三河守は鉄砲数百丁で応戦した。
 藤田勢は鉄砲350丁を3つに分けて応戦した。
 赤谷城救援に駆けつけた金上盛備率いる蘆名軍を撃破した。
赤谷城を落城させた。
 さらには
10月13日、上杉景勝は五十公野城を見下ろす高地に陣取った。
 直江山城守兼続、泉沢河内守久秀、藤田能登守信吉らが五十公野
 城を攻撃した。 
 新発田勢の五十公野氏が篭城する五十公野城を包囲した。
 藤田信吉は城内に内応者を作り城門を開かせ総攻撃した。
 新発田重家の義弟のいる五十公野城を攻略した。
 藤田信吉の功績は抜群であった。

10月24日、上杉景勝は直江兼続を前備えに、藤田信吉は猿橋
 の出城に、
泉沢久秀は池ノ端城の備えに配置し、新発田城を包囲
 した。
10月25日、新発田重家は自刃し、新発田城は落城した。

箕輪初心:生方▲百名城B【24〜32】甲信越の城
https://53922401.at.webry.info/201506/article_26.html
 ★新発田城の写真

・天正17年(1589) 藤田信吉は佐渡国の本間氏討伐にも従軍した。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
  藤田信吉は上杉軍の先鋒を務めた。
 国峰城主:小幡信貞が小田原城に籠城し、留守だった。
  (後、小幡信貞の子どもが伊豆の土肥にいて、井伊直政の
   家臣になった。)
 4月17日 上野の宮崎城・国峯城(富岡市)を攻略した。

 武蔵の北条氏邦の鉢形城北条方の諸城を次々と攻略した。

5月20日  北国軍(前田利家、上杉景勝、真田昌幸など)は南下
 し、鉢形城をに包囲した。
藤田信吉は鉢形城も知っていて、上杉景勝にほうこくしたのであろう。
 籠城中に・・・徳川麾下が合流した。
 鉢形城は前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、徳川家康麾下の
 浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍 (35000) が包囲した。
6月11日総攻撃を開始した。
  北条氏邦は荒川を堰き止めて、北国軍が川を渡ると一気に押し流
  すなど、知略の限りを尽くして戦った。
 本多忠勝は東の車山から大砲を撃ち込んだ。
6月12日  藤田信吉は藤田姓の義兄?叔父?を説得するため、
 ★おそらくは藤田信吉や北条氏邦にとっても菩提寺:正龍寺の良栄
 大和尚に開城して降伏するよう北条氏邦の説得を依頼したので
  あろう。
6月13 北条氏邦は城兵の命と引き換え降伏した。
北条氏邦は剃髪して僧衣をまとい、供の者僅か9人で前田家の
陣へ下ったとされる。

 藤田信吉は北条氏邦に一矢報いたってところだろうか?
 北条氏邦は前田利家に1000石で仕えることなり、能登に
 住んだ。

◆参考書籍
「群馬県史」の戦国時代:浅倉直美文責
「北条五代」:相川司著
「後北条領国の地域的展開」浅倉直美著
「鉢形城と戦国武将」:黒田基樹著1000円
「関東三国志」:鉢形城博物館編860円  
「論集戦国大名と国衆 3 北条氏邦と猪俣邦憲」浅倉直美著
「論集戦国大名と国衆 2 北条氏邦と武蔵藤田氏」
   黒田基樹・浅倉直美編纂
「北条五代」:黒田基樹著


・文禄2年(1593) 
8月 朝鮮在陣中の藤田信吉配下の者310人のうち44人が病気と
   なる。
  (★新潟県立図書館デジタル)

・慶長3年(1598) 上杉景勝が会津に移封された。
藤田信吉は大森城1万5000石で入った。

箕輪初心●福島『大森城』=伊達政宗の会津平定の拠点
https://53922401.at.webry.info/201305/article_11.html

 藤田信吉は上杉景勝から越後津川(阿賀野町)城代として
  1万5,000石の所領を与えられた。
(会津の越後への進出口。蘆名氏の隣国への勢力拡張の拠点だった)
  阿賀野川と常浪川の合流部に半島状に突き出た麒麟山稜の城
  であった。
★4回、近くを通っているが、よってはいない。


・慶長5年(1600) 
1月 藤田信吉は上杉景勝の代理として新年の祝賀のために上洛した。
  徳川家康は藤田信吉に銀子や青江直次の刀等を贈るなどして好意的
  に接した。
 ★藤田信吉の真の狙いは「沼田城の復権」であったかもしれない。

 上杉家第一家老:直江兼続は露骨に徳川家康に敵対する姿勢を見せた。
 直江状である。
藤田信吉は上杉景勝に徳川家康のとの戦いを諫言した。
 また、藤田信吉は大坂の徳川家康に対して懸命に弁明して避戦に
 努めた。
 しかし、直江兼続が「藤田信吉は徳川家康に内通している。」
 と讒言した。
 ★徳川家康の狙いは「上杉家の混乱で期待した。」のかもしれない。
  藤田信吉が豊臣VS徳川の戦いの避戦論なのか、
  藤田信吉は「東軍につくことを主張した。」かは不明である。
  藤田信吉はいずれにしても、孤立し、上杉家からの出奔せざるを
  えなくなった。


藤田信吉の徳川家康の家臣時代*************
3月11日 藤田信吉は「関ヶ原の戦い」の直前に江戸の徳川
  秀忠の許に逃れた。
  結果、徳川家康に味方することになった。
  藤田信吉は大坂の徳川家康の元に行った。
  (★降慶一郎『花と火の帝』)
 藤田信吉は京都:大徳寺金龍院で出家した。
 徳川家康の会津上杉討伐
徳川家康は上杉軍を知る藤田信吉を還俗させ、先導とした。
 ⇒関ヶ原の戦い。

 関ヶ原の戦いの後、藤田信吉は徳川家康に下野国西方(栃木市)に
 1万5,000石の所領を与えられ、西方藩を立てた。
(★東北自動車道:都賀西からの先、西上に城が見えるが、行って
   いない。)

・慶長7年(1602) 藤田信吉は佐竹義宣が常陸国水戸から出羽国秋田へ
  減移封されたとき、水戸城の接収を担当した。

・慶長19年(1614) 大坂の陣
藤田信吉は館林:榊原康政の軍監として出陣した。
  藤田信吉も従軍した。
榊原康勝200
   保科正光600
   藤田信吉300
   丹羽長重200
   小笠原秀政1600
   仙石忠政1000
   諏訪忠澄540  計6340人

藤田信吉は薄田兼相の策の裏をかき、陥落させた。

・慶長20年(1615) 大坂夏の陣
   藤田信吉は改易された。
  理由…藤田信吉の西方藩は嗣子断絶により廃藩となった説もある。
    榊原康勝軍の軍監を務めていたときの失態、戦功に対する
    不満からの失言など諸々の理由は挙げられている。
本当は若江の合戦の時、榊原康政・小笠原秀政の軍の進軍を抑えた
  ことにあった。
  食録を失い、信濃に流配と決定した。
・元和2年(1616) 7月14日、信濃国奈良井で死去した。享年58。
  死因は病死説・自殺説(有力説)がある。
墓は西方の実相寺にある。寺が自動車道から見える。


★明日は森下城かな?

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