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zoom RSS 箕輪初心:生方▲群馬:『川場天神城』と沼田万鬼斎顕泰

<<   作成日時 : 2018/07/30 11:20   >>

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エロ動画の乗っ取られた。2回目である。ヤマダ電機の友達は
「ごみのようなもので、乗っ取られた部分は手のほどこしようがない。」
とのことだった。ゴミを消していただいたのに、また入ってしまった。
2018年、今シーズン川場スキー場に6回行った。行き帰りに必ず、
天神城を見ながら行く。看板が出ているので、気にはなっていた。
5回目のスキーの帰りに川場天神城によった。溝又川と薄根川
に挟まれた3角状の10m程の崖の上に立ち、北方向に堀を有す
る天然の要害である。天神城は、沼田顕泰の隠居城であったと
いう。若い愛妾「ゆのみ」との安穏な老後を楽しんでいた万鬼斎
であったそうであるが・・・
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箕輪初心:生方▲2018スキー10群馬『川場5回目』&沼田「くれそん」
&昭和の湯
https://53922401.at.webry.info/201803/article_21.html

箕輪初心●群馬の沼田一族の城:荘田城→小沢城→幕岩城→沼田城
https://53922401.at.webry.info/201112/article_25.html

箕輪初心●群馬【沼田城】=北条・武田・上杉の狭間で揺れ動いた城
https://53922401.at.webry.info/201112/article_3.html


●川場酒造
 ★年間、100本飲んでいるかなあ。
   でも、1回も安くして貰ったことはない。
   感謝状も貰っていない。
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●春駒の集会所
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●遠望
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●案内板はバス停の反対にある。
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●平時の居館…手前の台地上にあったと考えられる。
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●駐車場付近か断崖に囲まれ、進入路は小道一本! 
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●空堀
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●溝又川と薄根川に挟まれた3角状の10m程の崖の上に立ち、
  北方向に堀を有する天然の要害である。
 空堀
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●本郭虎口
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●本郭
 10m〜15m×30mってとこか
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●石碑・・・ しかも、でっかい!!
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●川場カルタ
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主郭は狭い。

●看板=説明板
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●地図
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●薄根川
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●溝又川

●動画


●薄根川の対岸から
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【1】三浦一族から沼田一族の出自
・平安時代

 源義朝は三浦義明の娘を側室とした。
   長男:源悪源太義平が生まれた。

  三浦義明は桓武平氏の平良文を祖とする三浦相模介義継の子で
 ある。相模国三浦郡衣笠城を居城とし、三浦荘(現横須賀市)
  の在庁官人であった。
長男:杉本義宗は和田氏の祖となった。
 次男:三浦義澄が後を継いだ・
 娘の一人は源義朝の側室となった。
娘の一人は畠山重能の室となった。

・久寿2年(1155) 大蔵合戦
源義朝の子:義平 VS 叔父:源義賢(妻は畠山重能の娘)
 三浦義明の娘の子:義平 VS 三浦義明の娘の子(重能の子):畠山重忠
三浦義明は複雑だった。悪源太義平に支援する形を取った。 
 源義賢が負けた
 
・治承4年(1180) 源義朝の3男・源頼朝が挙兵
   三浦一族は合流しようと衣笠城を出発した。
 ▲石橋山の戦い
   源頼朝の敗戦を聞き、引き返して篭城した。
 ▲衣笠城合戦
   畠山重忠・河越重頼・江戸重長が衣笠城を攻めた。
  平氏方の三浦義明の外孫:畠山重忠 VS 三浦義明・三浦義澄 
   最終的には子:三浦義澄は源頼朝に合流⇒安房に逃した。
   三浦義明は衣笠城を守って戦死した。享年89。

   畠山重忠は衣笠城攻撃を行うのは本意でなかったが、父:畠山重能
   が大番役で在京していたため、平氏方として働かざるを得なかった。
   
やがて、畠山重忠・河越重頼・江戸重長は源頼朝についた。
 
   三浦義澄⇒三浦義村が後を継いだ。
 三浦義村の妻は一条忠頼の娘・土肥遠平の娘
   子は
    朝村、泰村、長村、光村、重村、家村、資村、胤村、重時、
    良賢(僧侶)、
    矢部禅尼、
   土岐光定室・・・・・⇒美濃の土岐家・明智光秀
   毛利季光室(大江系)・・⇒越後:北条高広
                越後:南条⇒安芸:毛利元就・毛利輝元   
   千葉秀胤室、・・・・・・・千葉氏⇒上野国蒼海城主⇒

 三浦泰村

箕輪初心●群馬の沼田一族の城:荘田城→小沢城→幕岩城→沼田城
https://53922401.at.webry.info/201112/article_25.html  


【2】沼田氏の出自
@ 大友氏系「沼田氏」『沼田町史』
  鎌倉時代に大友氏の一族・太郎実秀 (大友能直の母方の叔父
  :波多野氏)が沼田氏を名乗った。

大友能直 (承安2年1172〜)
  父:近藤能成、母:波多野経家の三女:利根局(波多野氏) 
   養父:中原親能
近藤能成(よしなり)に、源頼朝の妾を勤めていた相模国足柄上郡
 大友郷を領する波多野経家(大友四郎経家)の3女・利根局が嫁し
 て来て近藤(大友)能直(おおとも よしなお)が生まれた。
母方の所領:大友を継ぎ、大友能直と名乗った。
 ★従って、大友姓は鎌倉時代後期となる。
 大友能直豊前・豊後・筑後守護となった。
⇒子孫は大友宗麟


A三浦氏系の沼田氏「加沢記」
 三浦氏系の沼田氏は、三浦泰村の次子:景泰が宝治合戦で自害せず
 逃亡し沼田氏の祖となった。
「 (前略)為道三浦長門守と号、為道八代の孫三浦景泰上州利根庄
を領して、利根薄根の両川を前に当て沼田庄に構城郭住し給、去は
沼田景泰とこそ申けり、沼田氏の元祖なり、(以下略)
 (『加沢記・沼田根元記』 37頁)
『沼田町史』では沼田景泰は宝治合戦で自害した。

B戦国期の沼田氏は三浦氏系沼田氏 
 『沼田市史』によると、『吾妻鏡』での大友氏系沼田氏とは異なる。
その祖は諸説あるとされているが、宝治元年(1247)の執権北条氏
・安達氏と三浦氏の争いである宝治合戦の際に北条氏に追われ、
この地に逃れてきた三浦泰村の次男景泰か、その一族としている。

@天慶3年(940) 荘田城を築城した。
    初代 沼田景泰 8代 158年間
    小沢城に移るまで
(★沼田氏が天慶3年(940) に庄田城を造るのは無理がある。)
箕輪初心●群馬【沼田・片品・みなかみの城一覧53城】
https://53922401.at.webry.info/201202/article_18.html

 ★荘田城(庄田城)の歴史は間違っているのが分かる。
 沼田姓の御家人はまだいないのである。




・文治元年(1185) 10月24日 沼田太郎は頼朝随兵として登場する
( 『吾妻鏡』に初出)

・建久元年(1190)11月。沼田太郎が随兵となった。

・建暦3年(1213) 5月 和田合戦
  有力御家人和田義盛の反乱である。
沼田太郎は和田合戦に参加している。どちらの陣営だったかは不明。
  沼田七郎・次郎が戦死した。
  (★『吾妻鏡』)

・承久元年(1221) 承久の乱
沼田氏は幕府方として参加した。
(沼田市史編さん委員会編 『沼田市史』通史編1 (2000年)

・鎌倉時代後期
   大友氏が沼田を支配しており、大友一族が入っていたと見られる。
(『沼田市史』)

   三浦氏後裔を自称する沼田氏が登場した。
(『沼田市史』)

・元弘3年(1333) 沼田氏は千早城・赤坂城攻めに鎌倉方であった。


・正平23年(1368) 南北朝の動乱 
新田義宗は脇屋義治は足利義詮、基氏が病死したのを機に武蔵での
 河越直重らの武蔵平一揆に呼応して越後:寺泊で挙兵した。


▲桜河原の戦い
大友刑部は、桜河原で新田義宗と戦い、戦死した(伝)。
  と言われる。川場館は大友刑部の居館であった(伝)。
  川場小学校の北側400m程北、桂昌寺が川場館の跡である。

・正平23年/応安元年(1368) 上野沼田荘で敗北。
   新田義宗は戦死し、脇屋義治は出羽に逃れた。
★白沢小学校校庭に像、隣に看板。

箕輪初心★里見一族の歴史:リニューアル版
https://53922401.at.webry.info/201309/article_29.html

箕輪初心:生方▲20171111田中大喜先生講演会『新田一族の中世」
:「武家の棟梁」への道』
https://53922401.at.webry.info/201711/article_13.html
 
A応永12年(1405) 小沢城が築城された。
8代 沼田景朝
   114年間
11代 沼田泰輝(沼田顕泰の父) 幕岩城 移るまで

・永享12年(1440) 結城合戦
 沼田荘を本領とする沼田上野三郎が上州白旗一揆の成員であった。
 (★「分捕頸注文」『結城戦場記』・『沼田市史 資料編1』2-31)

・康正2年(1456)2月26日 上野深巣(前橋)合戦
  足利方の赤堀政綱は上杉方の越後上田荘(六日町)の長尾房景
 と沼田上野守を軍勢を攻撃し、父:赤堀時綱・孫三郎が討ち死に
 した。(★群馬県史資料編7)
★沼田氏は関東管領の上杉氏の家臣のトップにいた可能性がある。

・長禄年間(1457〜1459)沼田景康という人物がいた。

・長禄2年(1458) 「利根薄根両川の落合の岸」 に城を築こうとした。

・応仁2年(1468) 上野綱取原(伊勢崎)の合戦
  沼田彦三郎の父が戦死した。 

・文明3年(1471) 7月30日 沼田彦三郎の子が足利義政から感状
を得た。(栃木県史資料編中世4)

 ★白旗一揆の構成員から独立した武家になっていたとみられる。
(黒田基樹氏)

・永享10年(1488) 永享の乱
上野介長忠は「文武の達人」や「沼田近辺の城主を 幕下に付給
  ひて」とある。
  ★戦国時代の沼田氏の基礎をつくった人物であると考えられる。
 沼田氏の記述が本格的に始まるのは、沼田勘解由左衛門尉顕泰
  からである。


【3】沼田氏系図********************
1)沼田市史
沼田顕泰の子については、
  長男:上野介は将軍義輝の近臣となった。
  次男:三郎は18歳で早世。
  3男:六郎は沼田顕泰の妹婿の家である赤見氏を継いだ。
  4男:弥七郎朝憲が後継者となっている。

2)黒田基樹氏作成系図
持康9⇒上野守康輝10⇒長男:彦三郎11
            次男:顕泰12  
            女(長尾景春の妻)
            景義
            義秀(★沼田市史通史編)  
    長尾忠景→定明(上杉憲景の養子)

沼田顕泰の子ども
    長男:憲康(妻は子持長尾景春の孫:長尾景英の子)
    次男:養子:綱康(妹の子:赤見より養子)
    3男:朝憲(妻は長野道賢の娘)
    長女(長野業正の子:吉業の妻⇒安中景繁の妻)
    4男:景義13
     (沼田市史⇒黒田基樹先生作「沼田氏系図」)

また、長野氏系図によっては、
  @長野業政の母は沼田顕泰の娘としている系図もある。
  A箕輪城の長野業政の娘を正室としている系図もある。
     
********************************
 沼田顕泰の代には利根、薄根、勢多、須川、中山、尻高、米野、根利、
 黒川、深沢、五乱田を支配していた。
 
B永正16年(1519) 沼田顕泰は幕岩城を築城した
    沼田顕泰は13年居城とした。

・享禄・天文年間には沼田中務大輔顕泰がいた
(★黒田基樹 「北条氏の上野進出と沼田氏」『戦国大名と外様国衆』
    文献出版、1997年)
(★黒田基樹 「戦国前期の沼田氏」・『戦国期山内上杉氏の研究』
  黒田基樹 岩田書院 2013 )


・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の内乱(黒田基樹)
第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。


●結果
1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原
  (市原市)にて隠棲。
結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。

※箕輪長野方業が敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許された。
長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
 あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
  (★黒田基樹)
◆参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 洋泉社2011
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 戎光祥出版 2012
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 岩田書院 2013
・『西上州の中世』:安中市・・・ふるさと学習館
沼田氏は関東管領・山内上杉家に仕えた上州八家のひとつに称された
 一族であった。
(小幡氏・白倉氏・安中氏・倉賀野氏・桐生氏・横瀬由良氏・山上氏
 ・沼田氏)

・享禄4年(1531) 沼田顕泰はに同族の発智氏と争った。
  沼田城を築城し幕岩城から移って居城とした。

C天文元年(1532) 倉内城(沼田城)
   12代 沼田顕泰 三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰


箕輪初心●沼田城のブログ
http://53922401.at.webry.info/201112/article_3.html

 3年をかけて築城した倉内城(沼田城)が完成した。
 13年居住していた幕岩城から倉内城(沼田城)拠点を移した。
 沼田城は以後北関東の要衝として重要視され、上杉・武田・北条
 そして真田による争奪戦が長きに渡って繰り広げられることになる。


・天文21年 (1551)
武蔵国の御嶽城が落城した。
 上杉憲政の本拠・平井城(上野国)が北条氏の脅威に直接晒される
 こととなった。
 山内上杉家臣だった伊勢崎の那波城主:那波宗俊や館林城主・赤井
 照康、川西衆:箕輪城主:長野業政、国峯城主小幡憲重はなどは
 北条方に寝返った。
 北条氏綱は西上野の山内上杉方を崩していった。
 国峯城主小幡憲重は北条氏に寝返ったのちに武田氏に寝返っている。
 (★正確には、上杉・北条・武田に税を払っていた。)

 山内上杉憲政は北条に追われて水上粟沢にいた。

 沼田顕泰は上杉憲政を迎え越後国へ落ち延びさせた説もある。
上杉憲政は越後長尾景虎に頼った。

箕輪初心:生方▲【水上:建明寺】&上杉憲政は水上での逃亡生活7年間?
https://53922401.at.webry.info/201505/article_11.html

・弘治3年(1557) 上杉憲政の越後:御館入城説
  上杉憲政は長尾景虎を養子とする。(★「上杉家文書」)
・永禄元年(1558)上杉憲政の越後:御館入城説(★高崎市史)

弘治3年(1557) 川場天神城を築城した。
 (★現地案内板)


・永禄元年(1558)までには上杉憲政が越後へ亡命した。
  沼田氏は北条氏の勢力に怯えることとなる。
  また、北は越後長尾氏の領土とほぼ接していた。
 沼田氏家中は北条氏綱につくか長尾景虎につくかで分裂した。

・永禄2年(1559) 8月以前に北条綱成次男:北条康元が沼田城に入って
継承した。
(★@ 黒田基樹 「北条氏の上野進出と沼田氏」『戦国大名と外様国衆』
文献出版、1997年)
久保田順一先生は(「永禄3年(1560)以前としている。)
(★A久保田順一「後北条氏の上野進出」『ぐんま史料研究』1号、1994年)。
沼田顕泰は既に長男:沼田憲泰に家督を譲っていた。
 沼田弥七郎憲泰は北条方につく事を主張した。
 沼田顕泰は山内上杉家の旧恩を裏切ることはできないと考え、長尾景虎
 を頼った上杉憲政に義理立てして長尾景虎につくと表明した。
 沼田氏は内紛状態に陥ったが、沼田顕泰は長尾景虎への一本化を図る
 ため、和睦と称して沼田憲泰を川場天神城に呼び出して謀殺した。
と、考えられる。
※永禄6年(1563) 説もある。

・永禄6年(1563) 上杉政虎(長尾景虎)は 沼田に入る。
隠居していた沼田顕泰と当主・弥七郎(顕泰次男または三男)
 との間で内紛が起こった。    
 沼田弥七郎は北条氏側につき、沼田顕泰は上杉氏側で家中が分裂
 したためであった。
 沼田弥七郎が沼田顕泰によって討たれた。
 
●永禄9年(1566) 沼田顕泰は倉内城「蔵内城」を沼田朝憲に
  譲り、川場へ隠居した説もある。


・永禄11年(1568) 上杉謙信は沼田城に入った説もある。

●永禄12年(1569) 沼田顕泰は天神城に来た嫡子:沼田朝憲を
謀殺した説もある。

 沼田顕泰は3男:沼田朝憲を殺害し、(側室:ゆのみに生ませた?)
 末子:沼田景義に嗣がせようとして、川場合戦となった。
 沼田万鬼斎顕泰は負けてしまい、会津の芦名を頼った。
(★加沢記⇒現地案内板)

箕輪初心●福島『向羽黒山城』=蘆名盛氏の隠居城
https://53922401.at.webry.info/201305/article_18.html


沼田万鬼斎は長尾景虎(上杉謙信)が関東に進出すると、謙信に降りた。
そして、長尾景虎の家臣、厩橋城代:北条高広(きたじょうたかひろ)
の娘を、嫡子:沼田朝憲の嫁に迎え、天神城に隠居した。
「加沢記」によると、永禄12年(1569年)に上野国人・沼田氏で内紛
が起こり、北条高広娘婿で沼田氏当主:朝憲が殺害されると、北条高広
は沼田氏の家臣団の求めに応じ、朝憲の父の沼田顕泰(万鬼斎)とその
子の沼田景義を会津に追放したという。
 しかし沼田氏内紛は上杉謙信が関東へ進出する以前とのこととされ、
沼田朝憲の室も当時の厩橋城主・厩橋長野道賢の娘と考証されており、
北条高広と沼田氏は無関係である。
(★黒田基樹 『戦国大名と外様国衆』文献出版、1997年)
 (★黒田基樹「戦国前期上野沼田氏の動向」岩田書院2013年)
また、沼田顕泰は天神城へ火を放ち、会津へ落ちる。
ゆのみは途中雪の中で凍死した。顕泰が会津黒川城で客死した。

箕輪初心:生方▲前橋【片貝城】上杉謙信のbR北条高広の城 (現龍澤寺)   
https://53922401.at.webry.info/201608/article_11.html

・永禄12年(1569) 上杉の倉内城代に柴田右衛門尉がなった。
沼田氏の沼田城は上杉謙信家中の城代支配とされてしまった。

・永禄13年、元亀元年(1570)? 上杉の倉内城代に
 里見氏系上野家成、河田長親、(上杉方)藤田能登守信吉の3名が
 入った。
(藤田能登守は北条氏邦の妻:大福御前は姉・妹であった説も
   あるが藤田康邦の孫または甥説もある。)
   藤田信吉は上杉謙信に付いたいた。)


・天正9年(1581)沼田平八郎景義の沼田城奪還計画
  沼田顕泰の側室「ゆのみ」?の子: 沼田平八郎景義である。
 説@… 沼田景義は真田昌幸の意を受けた金子泰清により沼田城で
 謀殺された。これによって沼田氏は滅亡したという説もある。
沼田平八郎景義謀殺され、沼田氏滅亡説。
 (★加沢記)
 説A…会津に逃れていた旧沼田城主・沼田景義が沼田城奪回を目指した。
 沼田平八郎景義は 北条方の由良国繁の支援を得て武田方となった沼
 田城の奪還を図った。
 大胡氏・那波氏らの加勢を加えて3000の兵で挙兵した。

 説B…▲田北の原(沼田)の戦い
   藤田信吉と妻の一族海野勢が沼田景義に負けた。
 沼田衆には旧城主の沼田氏に参陣する者も多かった。
 しかし、真田昌幸の計略により沼田景義は討死し沼田氏は滅亡した
 説もある。


★明日は沼田の沼須城かな?

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