箕輪初心:生方▲5回目30-4『城№903三城(さんじょう)城』と大村純忠の生涯

今回、長崎空港⇒「天正少年使節団」⇒『玖島城』⇒「城下町」⇒『三
城城』に行くことにした。三城城は、永禄7年(1564) 日本初のキリシ
タン大名として有名な大村純忠が築き、三城城に移った。息子:大村
喜前が玖島城に居城を移すまで大村氏の居城であった。★行かずば、
なるまい。大村市の中心部から、JR大村線の北の山にある。東の多
良山系から続く丘陵の末端部に造られた平山城であった。南の本堂川
を堀代わりとしている。ナビで場所は分かったが、登山道が見つから
なかった。地元の方に登山道を聞いた。三城城の西麓に回り混んだ。
「富松神社」を見てから、右の山道を車で上がった。
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●富松神社に参拝させて頂いた。
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●途中
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●ミニ駐車場
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・某Hpには「 縄張りは本丸、二の郭、三の郭の三つの主要な曲輪が深く
掘られた横堀(空堀)で分けられており、城名は縄張りに由来するもの
といわれる。」とあった。
⇒ここは二の丸の一部
⇒階段上が本丸
⇒拝殿奧は三の丸か?

・「三城城は標高38mの平山城で、比高は30mとなる。別名は留松の
 城、大村城とも言う。」とあった。


●三城城本丸
・忠霊塔
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★見えるの広々した本丸~~~
しかし、「三城城」の看板等が見つからない。
●「三城城」の看板
 「あった。東屋の横の木の陰に隠れてた。やったぜ。」

・城の遺構としては空堀と土塁の一部のようである。
 石垣はなく、堀や土塁で守られた中世城郭であった。










◆三城城歴史と大村純忠の生涯****************

・中世
  大村純伊は三城城の北西にあった大村館(乾馬場町付近)に居住して
  いた。

 大村純前(おおむら すみさき)
 大村純伊の子。妻は有馬尚鑑娘。

・享禄~天文年間 
  大村純前・西郷純久は有馬晴純の副将格として活動した。

・天文2年(1533) 大村純忠は有馬晴純の次男として誕生した。
  父:有馬晴純
  母:大村純伊の娘

・天文3年(1534) 大村純前と側室との間に実子:又八郎
(後藤貴明:たかあきら)が誕生した。

・天文7年(1538) 有馬(純忠)は大村純前の養嗣子となった。

 大村氏家臣団の中には、跡継ぎであった後藤貴明を追い
 出す原因となった大村純忠に反発する動きがあった。
 
 大村純前は有馬晴純に気兼ねして後藤氏へ養子に出す
 ことにした。

・天文14年(1545) 実子:又八郎(庶子:側室の子)は武雄の
 後藤氏に養子に出された。
 

・天文19年(1550) 大村純忠が家督を継いだ。
  ポルトガル船が平戸に入港した。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた
  鹿児島から平戸にやってきた。
ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地と
  して栄えた。
  松浦隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。
  しかし、松浦隆信はキリスト教徒にはならなかった。

・天文20年(1551) 大村純前が亡くなった。

・永禄3年(1560) 後藤貴明(たかあきら)は当時、実子がなかったこと
 から、平戸城主の松浦隆信から惟明を養子に迎えた。

・永禄4年(1561 )平戸の「宮之前事件」
ポルトガル船員と日本人商人が売買交渉が始まったが、絹糸/絹織物
の交渉が決裂し、傷害事件が起こった。
商取引上のトラブルから平戸領内でのキリシタンと仏教徒(ザビエルの
 拠点)の確執が表面化した。

・永禄5年(1562) 大村純忠がアルメイダ神父に平戸を追われた
  イエズス会は代わりとなる港:横瀬浦(西海市)を新貿易港
  として、対日貿易を再開することにした。
  大村純忠は貿易における免税、布教の自由などの特権を
  与えた。横瀬浦は大いに繁栄した。
  「日本史」を記したルイス・フロイスも横瀬に上陸し布教活動
  を開始した。
  
・永禄6年(1563) 大村純忠は横瀬でルイス・フロイスらの周旋
  で、コスメデ・トーレス神父から洗礼を受け、キリスト教に改
  宗した。日本初のキリシタン大名となった。
  洗礼名は「バルトロメオ」であった。

  後藤貴明・西郷純堯・有馬当主:有馬義貞は大村純忠から
  離反した。
  大村純忠に恨みを持つ武雄の後藤貴明と大村純忠の
  家臣による謀反で放火により横瀬浦が壊滅した。
    
大村純忠の家臣にでも大村純忠はキリシタンに入信したことで、
  後藤貴明によしみを通じる者が続出していた。
  この後、後藤貴明は大村純忠としばしば対立することとなる。
    
・永禄7年(1564) 大村純忠が築城し、三城城に移った。
   ※彼杵郡大村武部郷:現長崎県大村市三城町

・永禄8年(1565) 福田港(大村市)を開港した。
しかし、福田港は水深が浅く布教活動にも不便だったので、
  イエズス会宣教師らは、長崎港の水深などを調べ、長崎港を
  開港するよう大村純忠に求めた。

・永禄9年(1567) 大村純忠は新しく長崎港を開港した(説1)。
長崎は当時人口1500人程度の小さな寒村であった。
 ルイス・デ・アルメイダが長崎を訪れ1年ほど布教活動を行い、
 500人ほどの信徒を獲得していた。

・永禄10年(1568) 大村に聖母協会が建てられた。

・永禄12年(1569) 大村純忠の長男:大村喜前が生まれた。
母は西郷純久の娘。
純忠の夫人、長男の喜前(よしあき)が受洗
  フィゲイレドが長崎港を測量した。

※元亀2年(1571)長崎開港の年と認め、開港記念日を4月27日と
  することに決定した。(※「長崎商工会議所(説2)」)
出島や新地蔵に居留地ができた。
 長崎港にポルトガル船入港し、長崎に新しく六町ができた。

・元亀3年(1572) 大村純忠と対立していた武雄の後藤貴明、諫早の
 西郷純堯、平戸の松浦隆信の1500からの急襲を受けて、三城
 城は危機的な状況となった。籠城した大村純忠は妻子を合わせて
 も僅か70~80名しかいなかったという。
 急わずかな手勢で持ちこたえ、援軍を待って包囲を解かせた。
  大村家では後年「三城七騎篭り」と称した。
(騎馬武将クラスが7人。非戦闘員:女・子どもを含めて約80人程
  の籠城要員)
①大村純忠…有馬晴純の次男で大村純前の養嗣子
②後藤貴明…大村純前の側室の子で実子:庶子
③西郷純堯…大村純忠の室は西郷純久の娘(西郷純堯の妹)?
      西郷純堯の娘:おえん?
④松浦隆信…松浦隆信の次男⇒後藤貴明の養子:惟明(貴明と対立)


・天正2年(1574) 大村純忠は全領民のキリシタン化をおこなった。
キリスト教を狂信し、神社仏閣を徹底的に破壊し、養父の大村純前
  の位牌を焼き捨てるという行為を行なった。

・天正5年(1577) 龍造寺隆信の3男:龍造寺家信を後藤貴明の娘・槌市
 と結婚させ、後藤貴明の養子とさせた。

・天正6年(1578) 龍造寺隆信に従って後藤貴明と養子:後藤家信は
  大村に出陣した。
 7月 大村純忠は龍造寺隆信に降伏した。

 有馬鎮純の松岡城を降して肥前の統一を完成した。

・天正8年(1580) 大村純忠は龍造寺隆信に従った。
 父:大村純忠、母:西郷純久の娘(おえん) 

・天正10年(1582) 大村純忠・大友宗麟・甥の有馬晴信は天正遣欧
  使節を派遣し、長崎を開港して南蛮貿易を行なった。

大村純忠は隠居し、和田にある和田館跡に移り住んだ。
  (★「大村純忠史跡公園」)

・天正12年(1584) 3月、有馬晴信が龍造寺氏から離反する。
沖田畷の戦(島原半島) 
    龍造寺隆信 VS 有馬晴信・島津家久
龍造寺隆信が討ち死にした。

  ●天正遣欧使節団がスペインでフェリペ2世に謁見した。


・天正15年(1585)
●天正遣欧使節団は教皇グレゴリウス13世に謁見した。

 大村純忠は死去した。
   嫡男の大村喜前が跡を継いだ。

・天正17年(1587) 豊臣秀吉が伴天連追放令を発布した。

・文禄4年~ 大村喜前・有馬晴信は豊臣政権下で朝鮮出兵においては
  小西行長に属して戦い、武功を挙げた。

・慶長4年(1599)大村喜前が玖島城を新たに築いて移った。
  三城城は大村氏本城としての役目を終えるた

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
大村喜前は東軍に属した。
  戦後、徳川家康から所領を安堵され、肥前大村藩の初代藩主となった。

・寛永14年(1637) 江戸幕府の命により完全に破却され廃城となった。

・現在、本丸跡に長崎県忠霊塔(1934年建立)と霊苑がある。
発掘調査では当時の生活用品や鉄砲の弾が出土した。
 また、三城城跡の一部が富松神社と三城神社(含三の丸部分)の境内
 となっている。





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この記事へのコメント

光の中へ
2018年06月19日 21:58
「大友純忠の生涯」興味深く読ませてもらいました。
若い頃でしたが、フロイス日本史(中央公論社 松田 川崎訳)を読みました。その時、大友純忠は政治的、軍事的戦略においてキリシタンとなったのだという思いを強く抱きました。今日のブログでその頃を思い出し再読してみました(フロイス日本史6 第二六章 P303~P313「コスメ・デ・トルレス師が‥‥ならびに大村殿が改宗してドン・バルトロメウと称したことについて」)やはり昔の考えを変えることは出来ませんでした。また、ブログにも本書にも多出する「平戸」も50年程前に訪れた時の記憶が朧気ながらに蘇り、懐かしく思えました。
 きょうは、早朝3時起床、第415回 窯焚(本焼き)。およそ3年振りの自作品焼成でした。長いトンネルでした。焼成中「この作品が再び私を東京に連れて行ってくれるといいな」と思いながら炎をコントロールし先程終わりました。窯出しは、4日後です。 
光の中へ
2018年07月01日 08:49
返事が遅れてすみません。メールを開くのを忘れていました。客のこないブログなので、すみませんでした。第415回 窯焚(本焼き)とありましたが、凄いですね。私は昨日、安中自性寺の土でロクロ成形しました。コメント、ありがとうございます。

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