箕輪初心:生方▲草津100-53【田山花袋:M26・M30・T7】変態小説家?・紀行作家

「36.田山花袋:館林生まれ。『蒲団』『田舎教師』は自然主義文学の
金字塔。」「明治26年 田山花袋が草津に来た。」と草津温泉観光協会
にはある。上毛カルタに「誇る文豪 田山花袋」があるが、私は「誇
る文豪 頭が硬い。」とイメージしてしまっていたが、『蒲団』を読
むと「若い女の子好きのエロ中年変態?」でごくごく普通の男性であ
ったように感じた。この中年男性の心理状況を自然主義というのだろ
うか
?『蒲団』の主人公は田山花袋本人で、下宿していたモデルは牧
子は『草津に来た実在の内弟子:水野仙子じゃないの?』と勝手に想
像した。旧館林城内にある『田山花袋記念文学館』び市政60周年企
画展の冊子では「内弟子:岡田美知代」であるとしている。田山花袋
は、『日本一周』・『旅から』など、たくさん紀行本を出版している。
また、その中に数冊の温泉紀行・温泉案内書が含まれている。また、
『山水小記(T6)』ではエッセイスト要素が感じられ、『温泉めぐり
(T7)』は旅好きの温泉ルポライターでもあった。
現代の温泉紀行作家
のパイオニアと言っても過言ではないだろう。とにかく、私は田山花
袋の行った温泉に私も多く行っていることが分かった。

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【1】 田山花袋の略歴
(年齢は、明治5年暦法改正を考慮し満年齢で換算した。)
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・江戸時代
 田山家は、旧館林藩主秋元家に仕え、山形から館林に移り住んだ。

・明治4年(1871)12月13日、田山十郎・てつの次男として生まれた。

・明治9年(1876) 警視庁勤めとなり、一家で上京した

・明治10年(1877)西南戦争
  5歳の時、父:田山十郎は従軍して肥後飯田山麓の闘いで戦死
  した。
  8月 家族と館林に戻った。

・明治12年(1879)館林東学校に入学した。

・明治14年(1881) 11歳 上京して本屋の丁稚になった。

・明治16年(1883) 13歳 吉田陋軒に漢学を学びはじめる。
★草津に来た儒学者:安積艮斎の弟子だった。

この頃から漢詩文を雑誌に投稿するなど、文学に目覚めた。
  ふるさと館林での生活は『ふる郷』・『小さな鳩』・『幼なき頃
  のスケッチ』などに描かれている。

・明治19年(1886)14歳の時、一家は上京した。

・明治22年(1889)17歳の頃、松浦辰男に和歌を学んだ。

・明治23年(1890)18歳の時 、柳田國男を知った。
英語を学びながら西欧文学に触れた。

・明治24年(1891)19歳の時、尾崎紅葉を訪ねた。
  田山花袋は新しい文学を試み、小説「瓜畑」を発表した。

明治26年(1893) 21歳の時、草津温泉に来て1泊した。

10月24日 信州の渋温泉から渋峠を越して白根山(お釜)
  に登った。
  草津温泉に泊まった。
  (★「草津」『一日の行楽』)

10月?日 暮坂峠を越えて、四万から伊香保へ行った。

(★「草津」『一日の行楽』田山花袋大正7年)


・明治27年(1894) 22歳の時、和歌を「文学界」に投稿した。

・明治29年(1896) 24歳の頃、島崎藤村・国木田独歩に出会う。

明治30年(1897)8月、
須坂⇒菅平⇒鳥居峠⇒万座⇒草津に来た。

  浅間六里ヶ原⇒軽井沢へ出た。
  (★「浅間横断記」(『続南船北馬』博文館、1910年)

・明治32年(1899) 27歳の時、 太田玉茗の妹:りさと結婚した。
   博文館に入社した。編集部に配属になった。
 4月 『野の花』を発表した。
  

・明治35年(1902) 30歳の時、『重右衛門の最後』を発表した。

・明治37年(1904) 32歳の時、 日露戦争第二写真班員として
   従軍した。
3月29日、広島市大手町の宿に泊まっていた軍医部長:森鴎外
   を訪ねた。
 8月15日に発熱した。9月20日に帰郷するまでの間
  森鴎外と頻繁に会っていた。

▲明治40年(1907) 35歳の時『蒲団』を発表し、自然主義文学
  の代表となる。
「一
 小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして
渠(かれ)は考えた。『これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。
三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考へたかと思ふ
と、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だらう
か。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋では
なかったろうか」

~~~(中略)~~~~~~~~~~~~~~~~
十一
 さびしい生活、荒涼たる生活は再び時雄の家に音信(おとず)れた。
子供を持てあまして喧(やかま)しく叱る細君の声が耳について、不
愉快な感を時雄に与えた。
 生活は三年前の旧(むかしの旧字)の轍(わだち)にかへったので
ある。
 五日目に、芳子から手紙が来た。いつもの人懐しい言文一致でなく、
礼儀正しい候文で、
「昨夜恙なく帰宅致し候儘御安心被下度(くだされたく)、此の度はま
ことに御忙しき折柄種々御心配ばかり相懸け候うて申訳も無之、幾重にも
御詫び申上候、御前に御高恩をも謝し奉り、御詫も致し度候いしが、兎角
は胸迫りて最後の会合すら辞いなみ候心、お察し被下度候、新橋にての別
離、硝子戸(ガラスど)の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候ようの心
地致し、今猶まざまざと御姿見るのに候、山北辺より雪降り候うて、湛井
(たたい)よりの山道十五里、悲しきことのみ思い出いで、かの一茶が
『これがまア つひの住家か 雪五尺』の名句痛切に身にしみ申候、父よ
りいずれ御礼の文奉り度存じ居り候えども今日は町の市日にて手引き難く、
乍失礼(しつれいながら)私より宜敷(よろしく)御礼申上候、まだまだ
御目汚し度きこと沢山に有之候えども激しく胸騒ぎ致し候まま今日はこれ
にて筆擱(お)き申候」と書いてあった。
 時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思い遣っ
た。別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの
余り、微かに残ったその人の面影を偲ぼうと思ったのである。武蔵野の
寒い風の盛さかんに吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音が凄じく
聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を一枚明けると、光線は流るる
ように射し込んだ。机、本箱、罎(びん)、紅皿、依然として元のま
まで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われ
る。時雄は机の抽斗(ひきだし)を明けてみた。古い油の染みたリボンがそ
の中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂いを嗅かいだ。暫くして立
上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡げて
あって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団ふとん――萌黄唐草
(もえぎからくさ)の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重
ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗
のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟えりの
天鵞絨(びろうど)の際立って汚れているのに顔を押附けて、
心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
 性慾と悲哀と絶望とが忽たちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団
を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨(ビロード)の襟に顔を埋
めて泣いた。
 薄暗い一室、戸外には風が吹暴ふきあれていた。



※明治40年に発表した『蒲団』は自然主義文学の始まりと言われている
 私には何が自然なのかは分からないが、フランスから輸入された自然
 主義文学「自然の事実を観察し、真実を描くために美化を否定すること」
 日本的な解釈で持ってを「現実を赤裸々に描写するもの」という意味に
 変えてしまったのかもしれない。

 簡単に言うと、
 ①起…弟子として家に下宿させていた女学生:芳子に恋をした36歳の
  時男(作家で妻子あり)が「俺は師匠だから」と気持ちを押し殺
  して我慢している。
 
 ②承…女学生に同志社大学の彼氏ができてしまう。
 ③転…怒った時男は郷里の父親を呼びつけ、女学生を破門にして田舎へ帰
 らせる。
  ★芳子の手紙の文面がなかなかいい。
 ④芳子がいなくなると恋しさのあまり・・・40km離れた懐かしの
 家に行く。
 ★ そして、女学生が付けていたリボン・寝ていた蒲団や夜着の香りを
  クンクン・スーハースーハーしながら
「くっそー、抱いときゃよかった!Hしときゃよかった。」
  と思いながらも、恋しさのあまり、涙・涙・涙でるでる。
  シティハンターのもっこり男の「冴場遼ちゃん」みたいである。 
  衝撃のラストシーンは「蒲団の臭いをかきながらの現実的な気持ち、
  真実の葛藤・複雑な気持ち」を表現している。
  そうか、こういう落としどころ「おち」が「蒲団」だったのかあ? 
私小説ってやつかもね。
 作品の時男のモデルは田山花袋、女学生:芳子のモデルがいた。
『蒲団』の主人公は田山花袋本人で、下宿していたモデルは牧子は
 『草津に来た実在の内弟子:水野仙子じゃないの?』と勝手に想像
 した。
旧館林城内にある『田山花袋記念文学館』び市政60周年企
 画展の冊子では「内弟子:岡田美知代」であるとしている。

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・明治41年(1908)36歳の時『生』を発表した。

・明治42年(1909)37歳の時、『妻』『田舎教師』を発表した。

・明治43年(1910)38歳の時、『縁』を発表した。

・明治45年(1912)40歳の時、博文館を退社した。

・大正5年(1916)44歳の時、『時は過ぎゆく』を発表した。

・大正6年(1917)45歳の時、『一兵卒の銃殺』・『東京の三十年』
    を発表した。

▲大正6年(1917)45歳の時、『山水小記』を書いた。
「一
  ひろい高原から、荒漠とした平野から、乃至は連互した山巒の
 峠から、或いは湖水を隔て、或いは碧い海を越して、遙かに地
 平線上に名山の望んだ時ほど、それほど旅情の動くことはなか
 った。私は彼方此方から種々の名山を望んだ。そして、私は特に
 それを眺める位置に注意した。
   ある時、私は岩手山の姿・・・・・(後略)」
(★『田山花袋全集』より)
★山容の景色のいい場所を探していたようである。

大正7年(1918)2月「草津」『一日の行楽』博文館より刊行された。
 東京から一日で行ける程度の場所を基準に、三浦半島、鎌倉・
 江ノ島、房州、赤城山、草津、諏訪湖、伊香保温泉など数多く
 の名所を紹介した。

大正7年(1918)7月 「草津方面への旅」を書いた。
 (★『田山花袋研究 年譜・索引篇』)

大正7年(1918)46歳の時、『温泉めぐり』を書いた。

・大正13年(1924)52歳の時『源義朝』を発表。

大正15年(1926) 54歳の時、「温泉めぐり」を発表した。

・昭和5年(1930)58歳。5月13日没、東京多磨墓地に葬られた。





【2】 田山花袋の「草津」

●大正7年(1918)2月「草津」『一日の行楽』博文館より刊行された。
 東京から一日で行ける程度の場所を基準に、三浦半島、鎌倉・
 江ノ島、房州、赤城山、草津、諏訪湖、伊香保温泉など数多く
 の名所を紹介した。
 大正12年(1923)『東京近郊 一日の行楽』(博文館)
平成3年(1991) 『東京近郊 一日の行楽』 (現代教養文庫1991)

●大正7年(1918)7月 「草津方面への旅」
 (★『田山花袋研究 年譜・索引篇』)

●大正7年(1918)46歳の時、『温泉めぐり』を書いた。
 大正15年(1926)54歳の時、「温泉めぐり」(博文館)を発表した。
平成?年     『温泉めぐり』(新潮文庫)
 平成29年(2017) 『温泉めぐり』(岩波文庫)

●大正10年(1921)『温泉周遊東の巻』(金星堂)


 田山花袋は草津は3度行ったとしてしている。

1)明治26年(1893 ) 信州の渋から峠を越して白根に登り、
 草津に一泊した。暮坂峠を越えて、四万から伊香保へ行った。

 ①「明治26, 田山花袋, 作家, 「田舎教師」・「蒲団」・「温泉めぐり」
  草図有(★草津温泉観光協会)とある。」
②『温泉めぐり』
 24章 吾妻の諸温泉
  「そして、ここ(川原湯)に一夜泊まって、明くる日は長野原
   に出て、それから小雨川を遡って、草津に行く。
 25章 草津から伊香保
「 草津の夜の明けないくらいに出発した私は行く高原の上の黎明
 (しののめ)のシインを眺めながら下った。
  それはもう二十五年前のことであるけれども、その時の爽やか
 な印象は今だにはっきりと私の眼に残っていた。それは9月の末
 で秋の冷気が山に遍(あまね)く、路傍(みちばた)の高原には
 百花乱れ咲くという頃であったが、私は信州渋温泉から、上下八
 里の険しい草津峠を越して、白根の噴火口を見て、草津に1泊し
 て、、そのあくる日は、伊香保まで十五、六里の山路を突破しよう
 というのであった。
大正7年(1918)46歳の時、『温泉めぐり』を書いた。
 46歳ー25年前=21歳⇒明治26年となる。
③「草津の熱湯の湧き出している池の中に娘が落ちたとき」
  草津にいた。
  明治26年(1893)10月24日「草津の美人釡茹となる」と報
  じた。(★『読売新聞』)

2)明治30年(1897) 8月 須坂から峠を越して、万座から草津に来た。
 六里ヶ原を越して軽井沢へ出た。
  ①「浅間横断記」(『続南船北馬』博文館、1901年)
  ②「26章 草津温泉」『草津めぐり』
「 私は……草津からやって来て、浅間に登ったところが、運悪く鳴
 動しているえらい目に逢ったことがあった。其の時分にはあそこを
 電車が走ろうなどとは思いもかけなかった。」とあるので、明治30
 年には電車が通っていなかった。

3)大正7年(1918) 7月 「草津方面への旅」
 川原湯から草津へ行って、同じ路を引き返して来た。
『田山花袋研究 年譜・索引篇』大正7年(1918)



●大正7年(1918)2月 46歳の時、「草津」『一日の行楽』を
 博文館より出版した。
大正12年(1923) 『東京近郊一日の行楽』(博文館)が
 再版された。
 東京近郊 一日の行楽 (現代教養文庫))アマゾンで購入 

◆ 「草津」表現

「草津の熱湯の湧き出している池の中に娘が落ちた。」

「草津には、大きな旅館が庇を並べてゐる。皆な二階三階建てゞあ
 る。町中には熱湯が流れてゐて、湯気は凄じく立つてゐる。烈しい
 温泉といふことを誰も感ぜずにはゐられまい。それに、硫黄泉の烈
 しい臭が町中に漲(みなぎ)つてゐる。女などには余り向かない温
 泉である。」

「こゝで有名なのは、例の熱の湯で、一時間以上もかき廻して、そし
 て軍隊的組織で、一斉に入つたり出たりするのがある。頗る奇観で
 ある。」
  
「兎に角、草津は一度は行つて見るべき温泉場である。十月以後
 は、戸を閉ぢて了(しま)ふやうな温泉場である。」

「無論設備は、熱海、箱根、修善寺などには及ばない。女中も気がき
 いていない。料理も旨いという方には行かない。」

「何方と言えば、陰気である。」

「ただすぐれているのは草津温泉だけである。」

「草津のあの烈しさ、またあの分量の豊富さ、いかにも温泉はこうな
くてはならないような気がする。その熱度の烈しいのも、体にヒリリ
と来て心地が好い。」


●大正7年(1918)46歳の時、『温泉めぐり』を書いた。
 ・大正15年博文館から出版)
『温泉めぐり』 田山花袋著 新潮文庫
『温泉めぐり』 田山花袋著 岩波文庫2017年 ★購入
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 田山花袋は北海道以外(北海道は伝聞調で登別温泉を賞賛)が、
青森から鹿児島まで日本縦断の全国各地の温泉をレポートしている。
田山花袋の目を通した温泉地の様子・印象や感想が綴られている。
それは、現在でも、結構、メジャーな温泉地である。関東地方で
は、箱根・伊豆のメジャーな温泉地のほか、群馬では、草津、伊
香保、四万といったメジャーな温泉地15~16ヶ所の温泉地を書
いている。また、長野県での秘湯:白骨温泉、中房温泉、赤倉温泉
も出てくる。

※『温泉めぐり』の冒頭は、「温泉というものは、なつかしいものだ」
という一文の書き出しで始まる。「明治26年(1893)21歳の時、 草
津温泉に来た。~大正7年(1918)46歳の時、『温泉めぐり』を書い
た。つまり、田山花袋は明治時代中期から大正時代中期の25年分の
「温泉旅行記」を書いたことになる。25年間の懐古的な紀行文なの
で、懐かしいのだろうとも思われる。また、温泉に対して、「なつか
しいもの」は「日本の原風景」という温泉文化の要素をもっているの
かもしれない。



● 『温泉めぐり』≪草津温泉≫の部分************
1)『温泉めぐり』 田山花袋著 岩波文庫2017年 
24章 吾妻の諸温泉
 「…(略)
  そして、ここ(川原湯)に一夜泊まって、明くる日は長野原
  に出て、それから小雨川を遡って、草津に行く。この間も、
 山が深く、嵐気が多く、清泉処々に湧出して、夏など暑さを
 知らぬような処が多い。
  それに、田舎の温泉で好いなら、ここかた草津に行く間にも、
 沢山の小さな温泉がある。そういうところに一夜寝て、山の民
 の生活を目にするのも、また旅の捨て難い興ではないか。

25章 草津から伊香保
「 草津の夜の明けないくらいに出発した私は行く高原の上の黎明
 (しののめ)のシインを眺めながら下った。
  それはもう二十五年前のことであるけれども、その時の爽やか
 な印象は今だにはっきりと私の眼に残っていた。それは9月の末
 で秋の冷気が山に遍(あまね)く、路傍(みちばた)の高原には
 百花乱れ咲くという頃であったが、私は信州渋温泉から、上下八
 里の険しい草津峠を越して、白根の噴火口を見て、草津に1泊し
 て、、そのあくる日は、伊香保まで十五、六里の山路を突破しよう
 というのであった。私は前夜に朝早く起きて貰うことを頼んで置
 いて、暁の4時に起きて、手拭を持って浴槽に出かけた。まだ夜
 は暗いが欄干から覗くと、秋の夜空は燦爛(さんらん)としてい
 る。若い旅好きの心は躍るように湧き上がった。私は静かな湯に
 一人浸って、滅多に味わうことが出来ないような好い心持ちに満
 たされて、小声ですきな歌などを口ずさんだが、室に帰って来て
 からも頼んで置いた女中を何遍か起こして、漸く朝飯に有附いて
 大きな握り飯を3つつくって貰って、そして、そして、脚絆をつ
 け草鞋(わらじ)を履いて勇ましく出かけた。
深く沈んだ高原の朝の霧、その上からひとつひとつの山鑾があ
 らわれ出してくるさまは何とも言われなかった。そして、それが
 茜色に染まって微(ほの)白く明けかけてきた高原には、尾花、
 萩、刈萱などが山の朝霧に項垂れてさびしく並んでいるのがそれ
 と微かにほの見えた。星はまばきらきら光っていて、路傍の民家
 では誰も起きた者はなかった。私は朝の爽やかな空気を心ゆくば
 かり呼吸しつつ、韋駄天のように一里二里を走るように歩いた。
 …(略)…
 草津を出てから何の苦も無く一二時間で沢渡(さわたり)に達し
 た。…(略)…
・・・その日の午後4時にはもう、伊香保の人家が蜃気楼のよう
 に万山の中に発見することはできたが、今ではとてもあんな芸当
 は打ちたくても打てなくなった。旅は若い時だとつくづく思わず
  にはいられまい。」

26章 草津温泉
「草津は昔からきこえた温泉場だけあつて、感じがわるくなかつ
 た。想像してゐたのとは違つて、何方(どっち)かと言へば、
 ひらけた広濶(こうかつ)とした位置にあるけれども、また
 その展け方が伊香保や箱根の強羅あたりとは違つて、高原の
 上にありながら平野の中にあるやうな気がするけれども、それ
 でも高燥な気があたりに漲つて、有馬とか、道後とか、城の崎
 とかいふ温泉のやうな世間に近い感じはしなかつた。開けたや
 うで、そして何処か山の中といふ感じを持つた温泉であつた。」
  草津の全盛期は今ではなかった。…(略)…
  ・・・浴客は、少くとも五十日や六十日はそこに淹留(えんり
 ゅう)する準備をして、遠い山路を五日も六日もかゝつてはる
 ばるやつて来るのであるから、何しても今のやうに一夜泊つて
 翌朝すぐ立つて行くやうな客とは、客としての気分が違ふ。
 …(略)…。何でも昔の人の話では小判を沢山持った客が来ると
 すぐに旅舎にそれを預けたが、その小判がザラザラと一杯旅舎の
 金庫に充ちていたという話だ。
  歴代の武将の中でもわざわざ湯治にやって来た人はかなりある
 らしい。頼朝も、秀吉もやって来たという記録が今日まで残って
 いる。であるから、昔の道中記には、草津街道というものがちゃ
 んと国道か何かのように詳しく書いてあって、…(略)…」
 「つまり温泉そのものの性質、癩病とかまたは今の所、謂 ゆる
 花柳病とか、昔の医薬では何うすることも出来なかつたような
 患者が『草津に行つて来れば、治るものは治る、いけないもの
 はいけない』と言ふ信仰を持つて、そして皆なそこに出かけて
 行つたので、それでさういふ風に、その遠い山の温泉が世間の
 人々を惹いたのである。…(略)…
 『医者でもてんしも草津の湯でも恋の病は治りやせぬ。』こうした
 俗謡のなどもそうしたところから唄われた。草津の繁昌は一度行
 って、材料を調べたり、里人から聞いたりしたら、面白い記録が
 出来るであろう。十返舎一九なども、後にその好評に『膝栗毛』
 に草津を舞台にして書いている位だから・・・。」
  しかし、今とて、草津は決して衰へた温泉場ではない。浴舎も三
 層二層相連るといふ風で、設備はかうした遠い山の中とは思はれ
 ないほどすぐれてゐる。それに、湯が烈しくつて好い。道後や、
 有馬や、城の崎のやうなあんな衰へた温泉ではない。また伊香保、
 塩原、箱根のやうな女性的な温泉ではない。飽くまで男性的であ
 る。新しい手拭いを一週間も使うと、色が変わってボロボロにな
 ってしまう。金でさえ真っ黒になる。ちょっと行っただけでは、
 余り烈しすぎるので、気味がわるくなるくらいである。皮膚の乾
 きも早いことは、天下無比と言っても過言ではない。
  日本ではこの地の他に、これと趣きを同じにしているのは、羽
 前、東北の草津と言われる高湯温泉があるくらいのものである。
 …(略)…」
 「 この烈しい湯に、更に少しもうすめずに、ある一定の期間、
 軍隊組織の懸声で入浴すのであるから、人間の病気を治したいと
 なると、随分無茶なことをやるものだなどと私は思った。
  しかし、沓掛方面からの軌道で入っていくと、草津は上州の温
 泉という感じはせずに、信州の温泉という感じがする。…(略)…
 私は……草津からやって来て、浅間に登ったところが、運悪く鳴
 動しているえらい目に逢ったことがあった。其の時分にはあそこを
 電車が走ろうなどとは思いもかけなかった。」

27 白根登山
「…(略)…
 草津の湯治客に取っては、この白根登山は、その散策が最も重要な
 ものの一つでとされていた。現に、文政年間に、当時の大儒であっ
 た安積艮斎は草津遊浴中に、門人や土地の有志たちと一緒に一日こ
 こまでやって来て、一篇の紀行を草している。…(略)…
  草津から白根まで三里半。」

28 草津の奧
「 草津の北に横たわっている山地は、信州に属しているが、
 …(略)…山東京山が…(略)…鈴木
 牧之という人ももとに行って、…(略)…『北越雪譜』という本を
 書いたのが最初であるが、…(略)…
 

29 草津越え
「 草津から信州の渋に越えて行く間は、日本でも有数の大きな峠である。
 …(略)…上州に面した方は・・・土も半ば赤茶けた灰のような路で歩
 くのも非常に骨が折れた。つまり、白根の噴火の址であるからである。
 昔の本に…(略)…この途中に毒水が流れていて、旅客が知らずに飲ん
 で命をおとしたことなどが書いてあったが、そうした毒水の所在地は
 …(略)…発見することが出来なかった。
 …(略)…  
(★『温泉めぐり』)


****************************
★平成28年(2018)・・・明治26年(1893)の草津ということは
 今から125年も前のことであった。
鉄道や道路の交通網が発達していなかった不便な時代に、手甲に脚絆姿
で日に十数里も行く温泉めぐりの旅をしていた。
草津からは生須~暮坂峠~(下りは細い道で現在の自動車道ではない)
実際に徒歩で移動しなければいけないところも多々登場します。
沢渡からは駕籠・馬もあったが、・・・徒歩で頑張った。

田山花袋は、小説『蒲団』での印象と異なり、淡々と風景や温泉を
語っている。

一般的には『蒲団』・『田舎教師』は自然主義文学と言われているが、
人間の内面の自然という観点からは分からないではない。しかし、
本来のヨーロッパ流の自然主義文学ではないかもしれない。
ジャン・ジャック・ルソーも自然主義と言われているが、・・・

『山水小記』・『温泉めぐり』では目的地・温泉地にたどりつくまでの
道中や景色についてもいきいきとした描写がされている。
私には、田山花袋の景色・様子の表現、自由な感想表現と言った意味
では、自然主義作家といった感じに映ってしまう。
日本を縦断旅行には、相当な時間とお金を使ったのであろう。





●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************

●『草津に来たりし100人を動画で説明』




箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』①「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』②「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』③「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』④木曾義仲・⑤巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』⑥蓮如と番外編「孫:顕如」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_27.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』⑦「長野業尚:榛名鷹留城主」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_30.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人⑧長尾為景:上杉謙信の父
http://53922401.at.webry.info/201710/article_1.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人⑨大光宗猷禅師=曇英恵応:林泉寺創建
http://53922401.at.webry.info/201710/article_2.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』番外編:万里集九『梅花無尽蔵』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_3.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』№10『横瀬成繁』太田金山城主
http://53922401.at.webry.info/201710/article_8.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人:連歌師『⑪宗祇』&番外編『宗長』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_9.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人『草津管理人:湯本善太夫』
と『真田ブログ一覧』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_10.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人ー№12『甘楽国峰城主:小幡信貞』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_11.html

箕輪初心:生方:▲草津に歩みし100人:『戦国時代の草津温泉ブーム創作編』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_12.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣⑬丹羽長秀】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_13.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣⑭堀秀政】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_14.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣⑮多賀常則】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_15.html

箕輪初心:生方▲草津100人『№16(近衛晴嗣→前嗣→前久→)近衛龍山
http://53922401.at.webry.info/201803/article_9.html

箕輪初心:生方▲草津100人『№17朝日姫・№18豊臣秀次・
幻の豊臣秀吉&井伊直政』
http://53922401.at.webry.info/201803/article_10.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人№19『依田(松平)康国』
:豊臣秀次の饗応役
http://53922401.at.webry.info/201803/article_11.html

箕輪初心:生方▲草津温泉100人№20『真田幸繁親戚:大谷吉継
とハンセン氏病療養』
http://53922401.at.webry.info/201803/article_12.html

箕輪初心:生方▲草津100人『№21:前田利家』死の予感?
http://53922401.at.webry.info/201803/article_13.html

箕輪初心:生方▲草津100人『№22真田支配116年』&真田ブログ一覧
http://53922401.at.webry.info/201803/article_14.html

箕輪初心:生方▲草津100人№23『徳川将軍への「御汲湯」の歴史』
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箕輪初心:生方▲『草津100人№24林羅山』三名泉
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箕輪初心:生方▲草津100ー25『小林一茶』と「草津:望雲」と「上州」
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箕輪初心:生方▲草津100-№26『十返舎一九と草津温泉:望雲』
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箕輪初心:生方▲草津100--№27『清水浜臣』:高崎に移住した国学者
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箕輪初心:生方▲草津100人-28『良寛』:
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箕輪初心:生方▲草津100ー29『高野長英と上州の弟子たち』
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箕輪初心:生方▲草津100ー30【田川鳳朗・一夏庵坂上竹烟&松尾芭蕉句碑】
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箕輪初心:生方▲草津100人ー31『安積艮斎(ごんさい)』
&小栗上野介のブログ一覧
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箕輪初心:生方▲草津100人ー32『佐久間象山』:目的は火薬づくり?
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箕輪初心:生方▲草津100人ー33『藤田東湖』:『西郷どんに登場しなかった。』
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箕輪初心:生方▲草津100人ー34『堀秀成』:草津繁昌記著者
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箕輪初心:生方▲草津温泉の日帰り温泉の割引き券の話
http://53922401.at.webry.info/201804/article_15.html

箕輪初心:生方▲草津100人ー35『清河八郎』:将軍を守る浪士隊⇒尊皇攘夷論者
http://53922401.at.webry.info/201804/article_17.html

箕輪初心:生方▲草津100-36『平沢旭山』:漢学者・国学者
http://53922401.at.webry.info/201804/article_18.html

箕輪初心:生方▲草津100ー40番外編『鈴木牧之』:「北越雪譜」著者
http://53922401.at.webry.info/201804/article_19.html


●明治時代****************************
箕輪初心:生方▲草津100ー41『尾崎行雄:咢堂(がくどう)』:憲政の神様
M5、S15

箕輪初心:生方▲草津100ー42番外編『デシャルム大尉』フランス軍人:M6
http://53922401.at.webry.info/201804/article_21.html

箕輪初心:生方▲草津100ー番外編『43マーシャル教授』
『44ディヴァバーズ教授』 M8
http://53922401.at.webry.info/201804/article_23.html

箕輪初心:生方▲草津100ー44番外編『テオドール・ホフマン』
:ドイツ人医師M8?
http://53922401.at.webry.info/201804/article_24.html

箕輪初心:生方▲草津100ー46:アーネストサトウ:イギリスM10,M15
http://53922401.at.webry.info/201804/article_26.html

箕輪初心:生方▲草津100ー47「大槻文彦」M12&『言海』の編集の困難さ
http://53922401.at.webry.info/201804/article_37.html

箕輪初心:生方▲草津100ー番外編45ウォルトン教授:米人医師M12
と「草津温泉図書館」
http://53922401.at.webry.info/201804/article_25.html

箕輪初心:生方▲草津100ー46「小野湖山」M10:尊皇攘夷論者
http://53922401.at.webry.info/201804/article_36.html

箕輪初心:生方▲草津100ー『37ベルツ博士と38ベルツ花』M12~度々
と群馬の温泉
http://53922401.at.webry.info/201804/article_16.html

箕輪初心:生方▲草津100ー37「ベルツ博士」復刻版「5ヶ所のベルツ」M12
http://53922401.at.webry.info/201804/article_27.html

箕輪初心:生方▲草津100ー41『スクリバ』:ベルツと共同研究:M24
http://53922401.at.webry.info/201804/article_20.html

箕輪初心:生方▲草津100-49ノルデンショルド:北極圏⇒横浜⇒草津M12
http://53922401.at.webry.info/201805/article_1.html

箕輪初心:生方▲草津100-50『E・ナウマン』地質学者M15
&「フォッサマグナ」
http://53922401.at.webry.info/201805/article_2.html

箕輪初心:生方▲草津100-51『松浦武四郎』M19
&「蝦夷地探検とロシアとの外交史」
http://53922401.at.webry.info/201805/article_3.html

箕輪初心:生方▲草津100ー52番外編「H・S・パーマーM19」英国人将校
&水道工事
http://53922401.at.webry.info/201805/article_4.html



箕輪初心:生方▲草津100ー54「長塚節(たかし)M30」&短命の中で?
http://53922401.at.webry.info/201805/article_9.html

箕輪初心:生方▲草津100-56『大町桂月M41』旅・山・温泉を愛す
酒仙文学者・番外編57『下屋学』
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草津100ー番外編58『坪谷水哉(すいさい)M39』「草津入浴記」著
http://53922401.at.webry.info/201805/article_12.html





★明日も草津関係だ。

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