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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城259『長野業政同心衆の城?:上飯塚城』

<<   作成日時 : 2018/02/27 08:27   >>

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棟治(宗春)氏が「飯塚城は箕輪城主:長野氏に関係する城だそう
ですよ。」というので、一緒に行った。『群馬県古城累祉の研究補遺篇
上巻P44』山崎一著や『新編高崎市史資料編』に掲載されている。
JR信越線北高崎駅の北850m程にある常福寺が主郭跡である。
常福寺を内郭とし、外郭=東西170m×南北130mの回廊式
の城郭であったらしい。城郭体系・高崎市史では100m×100
m。山崎先生の縄張り図では飯玉神社はふくまれず、「飯塚夫婦薬
師如来」が含まれている。何れにしても井野川から用水路として水
を引いた中世の環濠遺跡に違いない。
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(★『群馬県古城累祉の研究補遺篇上巻P44』山崎一著)
 より引用しました。ありがとうございます。
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【0】飯玉神社(飯塚城の外部=駐車場)
常福寺南の飯玉神社付近は道幅は狭く、道路には駐車できない。
飯玉神社に車を2台駐めた。
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●説明板
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「慶長六年(1601)開基創建された長泉寺の屋敷稲荷として建立さ
 れたのが始まりといいます。後に飯塚村の総鎮守として復興し、
 社殿の彫刻は近郷稀にみる立派なものである・・・・。」
箕輪にも車郷小学校の東に飯玉神社がある。長野直業がいたと
 される。箕輪飯玉神社の崖下には、竹頭院があった。
 神仏混交の戦国期に長泉寺とセットでできた可能性が高い。

●力石


【0】八坂神社
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【1】南〜西
★この道路はかつては外堀であったのだろう。
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【2】西〜北★行っていない。
山崎一氏の縄張り図では、回字型に二重の堀をめぐらされた城郭
  であったようである。
余湖さんHpでは
「西側から進んでいくと、西側を流れる用水路に案内板が立てられ
 ている。
 「この堀は内町堰です。旧飯塚城の西南を流れています」
 と書いてある。
 小川が、かつての堀であることを示している。
 上飯塚城に関する案内板が設置されていたのはここだけである。」 
と書いてあった。
 しかし、行っていない。

【3】北〜東★行っていない。
山崎一氏の縄張り図には
 北東部には50m程、堀が残されている。
 二重堀のようである。
飯塚城は、井野川の支脈を利用している。
余湖さんのHpには
「現在でも水を湛えており、水堀であったことが分かる。
  堀の外側の方が地勢が高くなっているので比高二重土塁の
  ような形状をしていたのかもしれない。」
 とあった。
お久しぶりです。余湖さんのHp参考にさせていただきました。

【●】南東の水堀あと
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【4】主郭部=長野山常福寺
 ★「長野山」とあるので、長野方業?業政?が開基の可能性
 がある。
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常福寺が、上飯塚城の主郭の跡である。
 飯塚城を訪れるには、常福寺を目当てにしていけばよい。
 なんだあ。境内に車を停めておけるじゃない。
 南北40m×東西40m程である。
 二重の内堀が失われてしまっている。
敷地内には城を指し示す表示物はなかった。
『群馬県古城累祉の研究』『中世城館調査報告書集成』では
「常福寺の境内が内郭の西半分に当たる。東半分は民家&畑で
 ある。
 内郭と外郭からなる輪郭式の城であったが、宅地化や畑地化により
 遺構はよく分からない。
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【5】東〜南
「飯塚夫婦薬師如来」(山崎説では城内)
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●案内板
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「病気平癒縁結びの仏様として霊験顕著であり、大永三年(1523)
箕輪城主長野業政によって祀られた。」
在地土豪だった飯塚氏の館として、長野氏が支援したのであろう。

山崎先生の縄張り図では、この部分も城郭の一部である。

飯玉神社の東側の民家脇にも側溝となった堀の痕跡があった。
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 (★山崎先生説では上のゴミ捨てーションの場所が外堀である。)



==============================
◆友達の棟治=宗春氏の説
※大永4年の箕輪城主は左衛門太夫方業とされており、この伝承に諱
である「業正」の名が記されていたとしたら大発見である。おそらく
「信濃守」とあったのではないかと思う。方業が信濃守を名乗ってい
たとしても興味しんしんである。
飯塚城・並榎城・下並榎砦に飯塚氏の居城伝承があることになるが、
これを考察してみるとしよう。
1.飯塚氏は飯塚城を築き、上野一揆衆の一員として領地を支配していた。
2.関東管領上杉憲政が、平井城を退去すると箕輪城主長野業政に同心し
 て着到帳に名を連ねて、並榎氏と共に並榎城の守将を命じられた。
3.その後和田氏が、武田氏に臣従するようになると、その圧力に屈し
 和田氏の配下となって下並榎砦の守将となった。
そして江戸期に常仙寺を建立した。  
                         宗春

   
********************************
≪上飯塚城(北城)の沿革≫箕輪初心:生方編集
・戦国時代
 飯塚城は、大類城、下之城とともに、和田城の3支城の1つであった。
 和田城の北方の守りを固めるための要害であった。
(★『群馬県古城累祉の研究』・『高崎市史』
★詳細は不明である。
飯塚氏と飯塚城の関連は詳らかでないが、後述の並榎城との位置
 関係から、飯塚城がもともと飯塚氏の居城として築かれたとの
 見方ができる。「地名を姓とする」のが一般的であるので、・・・


・大永3年(1523)
箕輪城主長野業政が「飯塚夫婦薬師如来」を建立し祀った。

・????年 長野方業?長野業政は長野山常福寺?を建立した。

★長野業政の初見史料は「天文3年(1534)以降」である。
 もし、大永3年(1523)の「長野業政の名のある」石碑・文書が
 あったら、長野方業と長野業政は別人となり、飯森康広先生の説は
 覆されることになる。
 黒田基樹説が有力になり、長野憲業=養子:厩橋長野方業→子ども
 :長野業政となる。

*******************************
箕輪初心:生方▲箕輪城236長野方業と『戦国のコミュニケーション』
:山田邦明著
http://53922401.at.webry.info/201612/article_10.html

『戦国のコミュニケーション』山田邦明著:吉川弘文館2011年
・大永7年11月17日付「箕輪宛徳雲軒性福書案」(上杉文書所収)
 に登場する人物名は「方斎」ではなく、「方業」が正しい判読で
  あるとしている。
『戦国のコミュニケーション』:山田邦明著が出てきて
上記の説は覆された?混沌としてきた。
1)大永4年(1524)12月16日付 
長尾顕景から長尾為景(上杉謙信父)宛書状
「態(わざ)と啓せしめ候、拠って長野左衛門太夫、色々計義廻らし、
顕景一類滅亡させべき分を持って、福蔵王(徳雲軒説:山田邦明)
引き付け、既にその行(てだて)を成すべきの段、現形の間、
去る七日、福蔵王生涯(★殺害)させ候・・・(中略)・・・・
去る秋、草津に於いて、長念寺(長年寺)長老に対する御出語、
定めて御失念あるべきず候也。その方御意見を持って、(★白井長
尾景誠(★長野業政の姉と白井長野景英の子)より、景顕進退の事、
屋形(★上杉憲房の館)に詫び言の中間にかくの如く長野慮外の
擬(あてがい)、如何と御覚悟候也。顕景一類は、今度滅亡まで
に候。万一遠路故、其の曲なき御様体に至りては、草津に於いて
御出語、諸人事安くこれを存じ、また当地(惣社)大小人も力を
落とし、慥か(たしか)慮外の儀なども出来すべく候条、迷惑に
候。

第一その方(長尾為景様)が平井(上杉憲寛様)へ御申し通ぜられ
候以来、北新(北条氏綱)も思慮の様に候上、結句当方(惣社長尾)
へあい通ぜらるりの由、その聞こえ候。只今は一身までに候条、不
運に候。幾度申し候と、近年の事は、子細あり南方(北条氏綱)と
あい通じ候、去秋以来は、是もその曲なきに趣に候間、一筋にその
方(★長尾為景様)に御前たのみ入る外これなく候。・・・・(中略)
・・・・・
足軽二百、当地警護のため借り預り候らえば、自他国の聞こえ、真
実名字中の好、・・・・・(中略)・・・・
必ず当城に対し要害を取り向くべき義定まり候。厩橋長野宮内大輔、
日夜その稼ぎまでに候。去る此も、彼の一札御披見の為進(まい)
らせ候らいき、所以の外に候。なおなお
足軽二百御合力に預かり候らわば、当地(惣社)万代不朽たるべく
候。・・・・・・(中略)・・・・後生共の御懇志たるべく候。巨細
なお申し付け候。恐々謹言。」
★簡単にいうと、
長尾顕景は私の進退を上杉憲寛様に伺いに行っている間に、長野左
衛門大夫(方業)が攻め込んできました。長尾為景様はどうお考えで
しょうか?私の惣社長尾一族は滅亡してしまいます。遠いからと言っ
て、何もされないというのあれば、草津でのお話は一体何だったので
しょう。みんなががっかりして、とんでもないことが起こってしまい
ます。長野左衛門大夫には迷惑しています。・・・・
惣社長尾は北条氏綱とよしみを通じてきましたが、去年の秋から頼り
にできなくなり、
孤立しています。長尾為景様を頼るしかありません。・・・
足軽200を惣社の警護にお預けください。貸してくだされば、越後
・上野での評判はよくなります。・・・・・
長野左衛門大夫(方業)が惣社城を攻撃するための要害城を構え
工作が進めているようです。日夜、工事を進めています。この前、
厩橋の一札(書状)を証拠としてお届けしました。とんでもない
ことです。とにかく足軽200を派遣してくだされば、惣社が未来
永劫繁栄します。

●長尾顕景の同封の裏切りの証拠の書状2通
総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書1
2)A、大永4年(1524)11月17日付 長野左衛門大夫方業(花押)
「御覚悟の旨、玄(あきらか)に条々承り候間、左衛門(★惣社
長尾顕景)・四郎(白井長尾景誠)進退、ならびにその口所帯方
(その方面の所領)の義、兎も角も任せ申すべく候段、誓詞をも
って申し候らいき。しかるに八木駿河入道所へ誓詞を載せられ承
り候。先ずもって落ち付き申し候。さりながらも、この上におい
ても、直に方業所(箕輪城)へ御誓詞をもって承り候らわば、
いよいよもって忝(かたじけ)なく存ずげく候。八幡大菩薩
・春日大明神・石上布留大明神(★長野氏の御護り守様)御照覧、
誰にても口外瀬しむべからず候。其元(そこもと)に至りては、
御心易かるべく候。御返事到来の上、即時に御陣へ罷(まか)
り出て、御書の事申し調えべく候。恐々謹言。
                長野左衛門大夫                                      方業(花押)
十一月十七日
徳雲軒


★総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書2

3)B、大永4年(1524)12月2日付「徳雲軒性福条書写」
(上杉家文書)米沢上杉博物館蔵、
(群馬県史にも「徳雲軒性福宛長野方業書状」が掲載されている。)

其夜可被仰付事
一、彼の曲輪(くるわ)へ引入れ申し候時、乱妨(らんはう)の事、
※意味・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、乱暴はしないでくれ。

一、其身討捕申時、おのおの嗜(たしな)みの事、
※意味・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、
各自、たしなみ=武器に気をつけてくれ。つまり、夜なので、長い
槍などは使えない。

一、間喧嘩の事
※意味・・・喧嘩してはならない。トラブルを起こしてはならない。
でも、我先にと勝手に先に行ってはいけないの意味かみしれない。

一、此方(★徳雲軒様)の下知に従うべき事、

一、合言葉の事

一、やき(★八木駿河入道)勢によくよく仰せ付けられべく候。
  これも乱妨など心がけ候ら  いては、越度(おっと)
   御座あるべく候。」

一、厩橋(まやはし)殿御人数いそき東口へ火の手あげさせ
   御申しの事
※意味・・・長野宮内大輔(賢忠?)の手の者が東の門付近に火の
   付けて、夜討ちのきっかけの合図にするので宜しくお願い
   します。


一、西南の火の手動(はたら)き・此方のと同前にさせられべき事。
  左様に御座なくして  は、此方の曲輪へ取り懸け申すべく候。
  かの如く首尾あい申し候らば、
八幡大菩薩も御照覧候らえ、いたしそんさし申すべからず候。
このほか行(てだて)の様体の事は、口上に申し候。以上。
徳雲軒
十二月二日 性福
箕輪へ 参る

・12月7日 福蔵王が討たれた。

11月17日と12月2日の書状の外に
左衞門太夫方業(花押)と徳雲軒のやりとりは21通あったそう
である。(★山田邦明著)
 長野方業=業政は同一人花押から推測できる。
長野左衛門大夫方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略した。
長野左衛門大夫方業が箕輪城主として文書を発給している。
   (★徳雲軒の文書)
徳雲軒の裏切りの証拠2通が米沢に残されている。
長尾顕景が密偵から奪った書状である。
ところが、内応が発覚した徳雲斎は長尾顕景に殺害された。
長野宮内大輔(賢忠か?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰めら
れた長尾顕景が既に上杉憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介で降伏
した。

・大永5年(1525)3月 上杉憲房が病死した。
(★『戦国のコミュニケーション』:山田邦明著)

**************************
・享禄3年(1530) 吾妻の戦い
  長野憲業が戦死
   (★みさとの歴史 ★『長年寺本長野系図』) 
墓所は長年寺(群馬県高崎市旧榛名町室田)。
長野業政=業正(=長野方業)説あり・・
 飯森康広先生の説
 *→長野業政40歳?が家督相続 
 (※長尾景虎=上杉謙信が誕生)     
  
・天文3年(1534) ・・・秋本先生・みさとの歴史
長野業政が榛名神社の春祭りに禁令を出す
   (★業政の唯一の古文書・・・・秋本先生)
 
=長野業政が榛名神社に制札を掲げる。
内容@けんか禁止 A逃亡した下人をとらえる行為の禁止
  B押し売り行為の禁止(近藤義雄説)
内容@けんか禁止 A家臣の人身売買為の禁止 
  B押し買いディスカウントの禁止(久保田順一説)


・天文4年(1535)4月
飯森先生
 □(長野方業) 榛名神社に制札を出す。
(★榛名神社文書)
 飯森先生・・・長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城した。

・永禄元戌午正月廿九(29)日改軍着到帳
「並榎の砦住定居、飯塚左衛門丞忠則」
  (★『長野業政着到帳』)

『長野業正家臣録』(群馬県立文書館所蔵)にも、並榎城主
 として飯塚忠則という人物の名がある。

・永禄4年(1561)6月 長野業政が亡くなった。
 
・永禄6年(1563) 武田信玄は和田城を攻略する。
  長野業政の娘婿:和田業繁は跡部勝資の嫡男を養子にした。
  この段階で、飯塚城・上並榎城(天竜護国寺)・下並榎城
 (現常仙寺)・大類城は武田信玄支配下になったと考えられる。

・永禄9年(1566)9月29日箕輪城は武田信玄に攻略された。

・天正10年(1582) 北条氏邦が箕輪城主になった。
 和田城主:和田信業は北条氏政に所領安堵され、支配下と
 となった。

・天正18年(1590) 小田原の役
和田城が開城するとともに飯塚廃城になったものと考えられる。

井伊直政が箕輪城主になった。
 
   
・寛永5年(1628)飯塚常仙 下並榎砦跡(元々山崎一氏推定)に
  並榎山常仙寺を創建した。
(★『中世城館調査報告書集成』高崎市教委:秋本太郎先生)
 飯塚常仙は水運業を営んでいた人物である。


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http://53922401.at.webry.info/201801/article_17.html

箕輪初心:生方井伊直政157『彦根藩主:井伊直孝が6〜7年間?
過ごした安中北野寺』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直政158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直政159『雪の佐和山城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直政160『彦根城に入れなかった井伊直政』前編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直政161『彦根城に入れなかった井伊直政』後編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直政162『@彦根市役所「ひこね城まつり」の話』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_23.html

箕輪初心:生方▲彦根A『大雲寺』上野国出身の第3家老:長野一族開山
http://53922401.at.webry.info/201801/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政163『清涼寺:上野国の愚明正察開山』直政公
の御位牌・墓で礼拝
http://53922401.at.webry.info/201801/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直政165&彦根C『直政が住んだ愛宕→佐和山城
大手口→鳥居本宿』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_26.html

箕輪初心:生方▲彦根D『井伊直弼腹心:長野主膳義言の話→夕食』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_27.html

箕輪初心:生方▲彦根E『彦根龍潭寺と井伊神社』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_28.html

箕輪初心:生方▲井伊直政166&彦根F『箕輪城・高崎城・彦根城
の類似性』復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_30.html

箕輪初心:生方▲彦根G『楽々園→玄宮園→井伊直弼の像』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_31.html

箕輪初心:生方▲彦根I『彦根城博物館の展示品』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政167&彦根J『長純寺』姉:高瀬姫の墓
http://53922401.at.webry.info/201802/article_3.html

箕輪初心:生方▲彦根K「旧鈴木家屋敷→俳遊館」と『蓮華寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政168&彦根L箕輪→高崎→彦根『大信寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_6.html

箕輪初心:生方▲彦根M箕輪→高崎→彦根に移った『紺屋町・鍛冶屋町
・蓮着町?』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_8.html

箕輪初心:生方▲彦根N『善利(せり)の足軽長屋』と箕輪
・高崎類推足軽長屋
http://53922401.at.webry.info/201802/article_9.html

箕輪初心:生方▲彦根O『箕輪安国寺→高崎安国寺→彦根宗安寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_10.html

箕輪初心:生方▲彦根P『近江牛』→『キリスト教会』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_11.html

箕輪初心:生方▲井伊直政170「直政の家臣団形成と彦根藩の家臣団」
http://53922401.at.webry.info/201802/article_12.html

箕輪初心:生方▲彦根Q『彦根城二の丸=2郭の井伊家家老』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_14.html

箕輪初心:生方▲彦根S3郭『埋木舎』&「池田太右衛門家」
・「鈴木権十郎家」
http://53922401.at.webry.info/201802/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直政171&彦根21『木俣守勝と木俣守安』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_17.html

箕輪初心:生方▲井伊直政172彦根22『長野業実』と縁者開山の寺
http://53922401.at.webry.info/201802/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直政173&彦根22『井伊直政の生涯』復刻版
http://53922401.at.webry.info/201802/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直政174「家臣安中氏の歴史」と『井伊直勝と安中城』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直政175『井伊直政正室:唐梅院と安中大泉寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直政176『家臣:里見内蔵丞』と
「安中秋間の里見家の墓の謎」
http://53922401.at.webry.info/201802/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直政177『孫:井伊直好と安中桂昌寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_23.html


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