箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№127愛知県③『野田城』:菅沼定盈

平成29年(2017)11月2日、浜松市細江町気賀から三ヶ日町→
宇利峠越えて愛知県に入った。目的は近藤康用の「宇利城」・
野田菅沼定盈「野田城」・井伊虎松がいたとされる「鳳来寺」
鈴木重時の「柿本城」であった。野田城は菅沼定盈であるが、
武田信玄が存命中、最後に攻めた城として有名である。
5年
前に行きそびれた「野田城」に行けてよかった。
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【1】平成29年(2017)11月1日***************

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html



【2】平成29年(2017)11月2日***********
○06:00 気賀の町中に・・・
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№119気賀②展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117気賀③「長楽寺」・『井伊直親の墓』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№121気賀⑤『刑部城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№122気賀⑥『本陣・復元関所』と【近藤家】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_26.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№123三ヶ日町『佐久城』
&【浜名氏と上野国長谷寺】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_29.html

箕輪初心:生方▲浜松市三ヶ日町『千頭峯城遠望』&【井伊谷・三ヶ日の歴史】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_1.html


===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==========

⑰▲城№891比丘尼城(近藤康用の支城)
箕輪初心:生方▲愛知県①『比丘尼城』:【足利直冬→・熊谷重実→近藤満氏】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_3.html

⑱▲城№892宇利城(近藤康用の最初の城)
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№125愛知県②『宇利城』と【近藤康用・秀用】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_4.html

⑲▲城№893野田城(菅沼氏の城)
・スマホナビに従い、豊川にかかる大きな橋を渡り、あぜ道
をに入り、踏切を渡った。

・近所の方に場所を聞いた。
 正面の山だった。
「右折して・・・」

○案内板の近くに車を駐めた。
○案内板
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○大手口
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○三の丸
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 物凄い藪で数歩踏み込んで退散した。

二の丸入口にある看板


○二の丸
  整備されていた。
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○本丸との間の空堀と土橋
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 土橋・・・両側は空堀となっている。



○野田城本丸

○石碑
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○左回りで奥にいった。
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○神社…土塁の上にあった。
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○特設ステージ…Hp「野田城伝」で笛をふく?
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○奥…本丸下
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○井戸
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○信玄狙撃場所

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5年前、火縄銃を見たなあ?

●後でHpで調べた。
野田城の道を挟んで西側下に仏性寺がある。
①法性寺のある場所は当時は沼地で天然の堀になっていた。
②法性寺に移築された「野田城の門」がある
③法性寺に西側の高台に「信玄が狙撃された場所」がある(伝)。
  武田信玄が鉄砲傷が元でで亡くなったのかな?

⑳▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城№894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城№895柿本城(鈴木重時の城)

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№ 126『柿本城』&【鈴木重時→鈴木重好】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_5.html


===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の場所
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。
○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
○GS…1900円…2日で190km走ったのか?
○トヨタレンタカー 約15000円
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅
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【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城№897二俣城
29▲城№898鳥羽山城
30▲城№899大平城(おいひら城)

箕輪初心:生方▲浜松市『大平(おいだいら)城遠望』
&【井伊道政・宗良親王】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_2.html

31▲城№900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。
 祐太郎君のおごり。ありがとう。
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家

  


●「野田・宇利・長篠・宇利・井伊谷」の歴史

・永享6年(1434) 土岐定直は長篠の作手菅沼に進出した。
  菅沼俊弘を討ち、土岐定直は菅沼定直に改名した。
 愛知県長篠に2家に別れた。 

・永正5年(1508) 長篠菅沼満成の子:元成が長篠城を築城した。
※山家三方衆・・
①作手の奥平(上州吉井の奥平の子孫が移住)
②田峯の菅沼・・土岐=菅沼定直の長男:定成系
③長篠の菅沼・・菅沼定直の子:定信系
+富永氏から野田を委託。・・菅沼定信の分家。
※3家は結婚で、勢力保持。

●永正5年(1508) 菅沼定則が野田城を築城した。
  菅沼定則→菅沼定村→菅沼定盈の居城であった。

・享禄3年(1530) 岡崎城の松平清康(徳川家康の祖父)は三河統一を
 進めていた。
 宇利城の熊谷備中守実長を攻めるために兵3000余で軍を進めた。
野田城の菅沼定則、作手城の奥平貞勝はすでに松平清康に従っていた。
 菅沼定則は先陣として豊川渡渉の道案内をつとめ、奥平貞勝も松平
 清康軍に合流した。
松平清康軍は宇利城に迫った。
 松平清康が宇利城を攻めた折、近藤満用は松平氏に臣従したようで
 ある。近藤満用は宇利村の一部を領していたと思われる。

 菅沼定則に内通した岩瀬庄右衛門(子孫が「幕末3俊:岩瀬 忠震)
 が火を放った。
城主の熊谷実長は裏山伝いに落ち延びた。
  
松平清康の三河の統一が成し遂げられた。
戦功第一となった菅沼定則に山吉田が与えられた。
 
近藤氏は松平清康方として奮戦し、熊谷備中守を討ち取り、
  宇利城を賜るとなっている。
(★『近藤氏系譜』
近藤満用は宇利城主(現新城市中宇利)となった。

・天文5年(1536) 今川義元が家督を継いだ。
井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
今川義元の西進が始まった。

・天文11年(1542)▲三河田原城攻撃 姫の祖父:井伊直平の子:
  14代(19代)井伊直宗が野伏により討死した。

天文11年(1542) 菅沼定盈が生まれた。(1542~1604):63歳)
 父:野田菅沼定村。
 母:深溝松平忠定の娘。


●弘治2年(1496) 父:菅沼定村の死により菅沼定盈が家督を継いだ。
 菅沼定盈は弟:菅沼虎之助が兄:菅沼定盈を謀殺しようとしたた
 め弟を幽閉した。

・永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
   織田信長 VS 今川義元
  3月19日 (次郎法師父:)井伊直盛ら16人が今川側で戦死した。
  井伊直盛が桶狭間で討死のとき、「遺領は中野越後守に預ける」
  と遺言した。
 従って、井伊谷は中野中野越後守直由・(次郎法師)が預かった。
   (★『井伊家伝記』・『井伊直虎物語』浜松歴女隊編)

 ★徳川家康・関口氏経は大高城にいた。
箕輪初心★【織田信長①尾張の大うつけ→尾張統一】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

箕輪初心★『織田信長②桶狭間前哨戦=家康の信長攻撃』
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html

箕輪初心★【織田信長③桶狭間~清洲同盟】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html

・永禄4年(1561)2月19日 井伊直親の長男:井伊虎松
  (直政)が祝田生まれた。

●永禄4年(1561)
 菅沼定盈は桶狭間の戦いの後、今川氏を離反し徳川家康に属した。
  菅沼定盈は、従兄弟の西郷清員と共に三河国の松平家康(後徳川)
  に帰属した。
近隣の近藤康用・奥平らにも徳川家への帰属を働きかけた。
 今川氏真の怒りを買った。

●永禄4年(1461) 7月29日 
 今川氏真の命で、小原鎮実を大将に・牧野氏:戸田氏:伊奈氏
 ・本多氏・飯尾氏が出陣した。野田城を攻囲された。
 合戦の末、菅沼定盈らは今川方の勧告を受け入れて開城降伏した。
 菅沼定盈らは隣の八名郡の親戚:西郷清員の許へ逃れた。
  小原鎮実の主力が遠江に向かった。
 

●永禄5年(1562) 6月2日菅沼定盈が夜襲した。
  今川方の稲垣氏俊を討ち、野田城を奪回した。
 
野田城は損壊の激しかった。
  菅沼定盈は、仮本拠を大野田城に定めた。
  菅沼定盈の修築工事を開始した。
  古砦に二の丸、三の丸を増築し、改修工事の終えた。

・永禄6年(1563) 2月、大野田城は完成した。
防御力の劣る大野田城を手直しした上で仮本拠と定め、同時に
 野田城の修築にも努めなければならなった。

・永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させ
 て、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
 ★この時、「井伊直虎」と名を変えた説もある。
 

●永禄9年(1566)4月19日、菅沼定盈の正室:長沢松平6代政忠
  の娘が没した。(江戸時代、子孫が高崎城主として7代)
  松平政忠の妻は松平清康(徳川家康の祖父)の娘であった。

・永禄11年(1568)
?月 井伊家筆頭家老:小野但馬が井伊領を横領した。
龍潭寺2世:南渓瑞聞は 井伊虎松(井伊直政)を
 鳳来寺に移住させた。

11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 『鉾前神社古文書』に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)
★関口親永の妻は今川義元の妹婿説・井伊直親の叔母説がある。
 

・永禄11年(1568)
 11月 徳川家康が遠江の平定に着手
●菅沼定盈は遠江攻めで調略を担当することになった。
  徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  から都田菅沼忠久が今川家離反の誘いを受けると、承諾した。
  都田菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。

 
12月12日 菅沼定盈は調略の功から加増を受けた。
  菅沼定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時や近藤康用は
  徳川家康に属し、所領を安堵された。
 徳川家康は誓紙と人質を出させた。出陣に備えた。

12月13日、徳川家康も三河から遠江攻めが開始された。
 菅沼定盈は徳川家康軍を宇利で出迎えた。
 「井伊谷3人衆」は姿を見せなかった。
 菅沼定盈は先鋒を命じられた。後備えを牧野康成に命じられた。
 
 徳川家康は奥山の方広寺で戦勝を祈願した。
 井伊谷で「井伊谷3人衆」を合流した。
 鈴木重時と近藤康用は柿本城から来たのである。
 菅沼忠久は都田から来たのである。
 「井伊谷3人衆」は菅沼定盈の配下勢に加えられた。

 遠州切り取りの第一歩、刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だっ
 た野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)に「井伊谷3人衆」であった。

 
12月15日  徳川家康の井伊谷侵攻。
 徳川家康に内通した井伊谷三人衆(菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用)
の道案内で徳川軍が井伊谷に攻めた。
井伊谷3人衆(近藤・鈴木・菅沼)は井伊谷城を先導した。
 井伊谷城は井伊谷3人衆の攻撃にさらされた。
ところが、代官:小野但馬守政次(道好)は攻撃が始まる前に
井伊谷城を捨てて逃げた。

徳川家康は小野政次(道好)の専横に対し、
  近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷
  を奪還させた。
徳川家康は井伊谷城を攻略した。
井伊谷は3人衆の支配下に置かれた。
  井伊谷3人衆は小野但馬守の探索を徳川家康に願い出た。
  ①小野但馬守は菅沼忠久の兵に見つかって捕えられた。
  ②近隣の淵の「龍ヶ淵」洞窟に潜伏していたが近藤秀用に
   捕えられた説もある。
 
 菅沼定盈と「井伊谷3人衆」は掻上城を落とした。

 ▲刑部城攻め
 「井伊谷三人衆」:菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用に野田菅沼定盈と
  大将として、攻撃させた。

 刑部城も陥落した。
 
 酒井忠次は白須賀城、宇津山城を落とした。
 井伊谷3人衆(近藤・鈴木・菅沼)は井伊谷から曳馬(引馬)城攻めの
 案内をした。
 徳川家康は曳馬城を攻め落とした。

********************************
・永禄11年(1569)
▲武田信玄の第一次駿河侵攻
 武田信玄は駿河侵攻にあたって、徳川家康と今川領分割の密約を
 結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞ
 れ攻め取ることにした。

12月6日、武田信玄は1万2000の軍勢を率いて駿河侵攻を開始
 した。
 今川氏真は重臣の庵原忠胤に1万5000の軍勢を預けて迎撃させた。
 武田軍が進軍を開始すると、今川軍は退却し始めた。
 北条氏康は武田信玄との同盟破棄した。


12月12日 ▲薩埵峠の戦い
 今川氏真は武田軍を迎撃するため、興津の清見寺に出陣した。
 武田信玄は今川氏の有力家臣である瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、
 葛山氏元らを調略した。
 結果として21人の武将が武田信玄に内通して裏切ったのである。
 北条氏政は駿河に援軍に向かった。伊豆三島に対陣するに留まった。

12月13日 武田軍は駿府に入った。
 今川氏真は駿府城を捨てて遠江掛川城の朝比奈泰朝を頼って落ち延びた。
小野但馬守政次(道好)は井伊谷城に戻ってきた。

*********************************


井伊谷城や白須賀城→曳間城(浜松城の前身)を落とした。

12月27日 徳川家康は掛川城を包囲した。

・永禄12年(1569)
1月17日、総攻撃が開始された。
1月23日、天王山の戦い
  徳川家康 VS 今川氏真・朝比奈
  掛川城外の天王山で両軍が激突した。
  菅沼定盈は久能城の備えとなり、出陣はしなかった。
  掛川城は堅城である。
  朝比奈泰朝が守っていた。
  戦いは長期戦の様相を見せ始めた。

2月 徳川家康は付城を築かせて兵糧攻めに切り替えた。
3月5日 徳川家康自身が出馬した。
  大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めた。

3月7日 菅沼定盈も加わった。
  掛川城下の西宿と天王山下で激しい攻防戦が繰り広げられた。
 徳川・今川両軍に死傷者が出た。

 武田信玄の手が遠江にまで伸びてきた。
 徳川家康は戦いを長引かせては・・・・考えた。
 徳川家康は、和睦を協議することにした。

3月15日 掛川城が開城となった。
 今川氏真は妻の実家:北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと落ちて
 いった。

●3月19日 堀江城攻めは目付:渡辺高綱と副目付:菅沼定盈となった。
3月27日、再び堀川城を攻めた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。
  1000人以上殺され、逃げた農民ら700人の首を刎
  ねられた。
 徳川家康は合計1700人、殺した。
約2000人説もあるようだ。
 

3月25日 徳川家康の下命を受けて、井伊谷3人衆は堀江城を攻めた。
●徳川勢からは目付:渡辺高綱と副目付:菅沼定盈が派遣された。

 今川方の守将:大沢基胤の率いる城兵は激しく防戦した。
 鈴木重時は近藤康用の子:登助(近藤秀用)と競い城門にたどり
 着いた。しかし鈴木重時は、大沢方の攻撃を受けて討ち死にした。
 鈴木重好が跡を継いだ。14歳であった。

4月12日、 堀川城で和議が成立した。

4月7日 小野政次(道好)は偽りの密告をした罪で処刑された。
 
6月 小野政次(道好)の息子2人も斬罪となった。
 ※元亀元年(1570)説もある。
 井伊谷蟹渕・・・小野但馬守が処刑された。


●元亀元年(1570)12月28日、田峰菅沼家、長篠菅沼家が武田
 家臣:秋山信友に敗れた。


●元亀2年(1571) 4月 武田信玄が遠江・三河侵攻した。
 田峰菅沼家が秋山信友に降伏した。
 秋山信友VS 西郷氏、設楽氏

4月 武田家臣:山県昌景・小笠原信嶺らが大野田城を攻撃した。
 菅沼定盈は討死覚悟で籠城すべきとしたが、家臣の説得により、
 西郷氏を頼り落ち延びることとした。
 武田の攻撃で大野田城は炎上した。
  
●12月、菅沼定盈は修築中の野田城を再び本拠とした。

・元亀3年(1572)
  武田信玄は室町幕府15代将軍足利義昭の信長包囲網に呼応した。
武田信玄は西上作戦を展開していた。
12月19日 武田軍は遠江の要衝である二俣城を陥落させた

 12月、三方ヶ原の戦い
武田信玄は徳川家康を破った。
  武田信玄は、形部村で越年した。

 武田信玄は井伊谷龍たん寺を焼いた。
 徳川家康は三方ヶ原の戦いによる大敗で、援軍を出せる状態では
   なかった。

・元亀4年(1573)
 武田信玄は井伊谷龍たん寺を焼いた。
  徳川家康は三方ヶ原の戦いによる大敗で、援軍を出せる状態では
   なかった。

1月10日 武田信玄は出発した。
   三ヶ日佐久城を攻略した。
   浜名頼広は既に武田信玄に臣従していたので、
   浜名城の残った家老がすぐに降服した。
   宇利峠から三河へと進攻してきた。
   豊川を渡った。

●山家三方衆:は武田家臣・山県昌景に従軍した。
   老体の奥山貞能も加わった。 
1月、菅沼定盈は堀の水を増やすなど防衛策を練った。
 城兵は援軍を併せても500名弱であった。
 
・1月中旬  武田信玄は野田城を包囲した。
野田城は『三河物語』において「藪のうちに小城あり」と言われる
  ほどの小さな城であった。
  野田城は河岸段丘の地形を利用しているため、攻め口が西に限られ
  ていた。南は沼地であった。
  大軍を相手に籠城するには有利な構造となっていた。

  武田勢は30000の軍勢であった。
  武田方の有利は変わらなかった。
  武田軍は力攻めは行わず、甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、
  水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。
野田城は約1ヶ月持ちこたえた。
  武田軍に水の手を断たれた。

  簡単に落とせたと思える野田城の攻略に、約1ヶ月も費やした。
  ★武田信玄の病状がかなり重い状態だったと推測される。

▲野田城の戦い
野田城から武田信玄を狙撃した
【野田城の看板「狙撃伝説」】
武田信玄が野田城を攻めた時、城から聞こえる笛の音に聴き惚れて
 いた。近寄ってきたら、鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡した
 との伝説が書かれたあった。
「夜陰での鉄砲狙撃後に武田陣中が騒々しくなった」
 命中したか不明である
  (江戸時代の『菅沼家譜』)
 ※武田側での記述は発見されていない。
 黒澤明の映画『影武者』は、伝説を元に制作された。
 鉄砲は設楽が原の博物館にある。

 菅沼定盈は武田勢に囲まれたため、使者を出して徳川家康に援軍
 を要請した。徳川家康は織田信長に援軍を要請したが、断られて
 しまい、3000余名を率いて出陣した。
 徳川家康が後詰に現れたが、豊川の対岸まできたが。三方ヶ原合戦
 での敗北から合戦を避け、撤退してして引き返してしまった。
   (『菅沼家譜』)
野田城では援軍到着により志気を高めていたが、徳川家康の撤退を
 知ると大いに落胆したという。
2月10日、武田軍が能満寺住職を使者にたて、
 ①「菅沼定盈の自刃と引き替えに城兵の助命する。」
 ③「浜松に預けた武田人質との交換を条件に菅沼定盈の助命を行う。」
 と伝えた。
 

2月16日 、菅沼定盈は開城した。
 城兵の助命を条件にして、菅沼定盈は武田の人質となった。
 菅沼定盈は捕虜として武田軍に連行された。
 菅沼定盈は座敷牢に入れられた。
 山県昌景から仕官を勧められたが断った。

  野田城が落ちたことで、徳川家康の三河防衛網が一角は崩壊し、
  徳川の吉田城や岡崎城が危機に陥った。
  しかし、武田軍は武田信玄の病状が悪化したため侵攻を止めて、
  長篠に撤退した。
  武田信玄は野田城を落とした直後から度々喀血が酷くなった
  武田信玄は長篠城で療養していた。

3月10日野田郷内で山家三方衆の人質と菅沼定盈の交換が成立した。
  菅沼定盈は返された。
 菅沼定盈は解放されたが、野田城には武田軍が入城しているため、
 従兄弟:西郷清員の下條村へ移った。 

3月?日 武田軍は近習・一門衆の合議で4月初旬には遂に甲斐に
 撤退することになった。

4月12日、武田軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去した。
  享年53  「駒場説」が有力説。


●徳川家康は岡崎城に危機が迫り、奥三河における武田勢力を牽制する
 ため平を味方に引き入れようと奥平貞能に使者を送った。
  奥平貞能の答は「御厚意に感謝します」と色よい返事をしない。
  徳川家康は織田信長に相談した。
 織田信長は「家康の長女・亀姫を定能の長男・貞昌に与えるべし」
 との意見を伝えてきた。
 徳川家康は奥平貞能に
 ①亀姫と嫡男:貞昌の婚約
 ②領地加増
 ③貞能(定能)の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させること
 を提示した。
1.亀姫と貞昌の婚約
2.領地加増
3.定能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させること
を提示した。

6月22日、奥平貞能(定能)は徳川家康に
①信玄の死は確実なこと
②定能親子は徳川帰参の意向であること
を伝え、再び徳川家康の家臣となることを約束した。

7月 武田軍は長篠城の救援に向かった。
元亀4年(1573) 7月28日→天正元年(1573)7月29日 
8月 長篠城主・菅沼正貞は降伏し、長篠城を明け渡した。
   菅沼正貞は、徳川と通じているとの疑念をもたれ、武田軍に
   身柄を拘束された。

8月21日、奥平一族郎党は亀山城を退去し、徳川方に走った。
8月26日 奥平次男:仙千代をはじめとした人質3人が処刑された。
(★ウィキペディアより)

奥平貞能は長男:貞昌(信昌)に家督を譲って隠居し、徳川家康の許で
 奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたと言われている。

徳川家康は武田軍の撤退が始まり、武田信玄の死が広まった直後に
長篠城を奪還した。菅沼定盈は長篠城攻めに参加した。


・天正2年(1574) 菅沼定盈は野田城を奪還した。
 菅沼定盈が再度城主として入城した。


・天正3年(1575) 5月長篠の戦い
織田信長・徳川家康連合軍 VS 武田勝頼
菅沼定盈も参戦した。
 菅沼定盈は酒井忠次の率いる鳶ヶ巣山奇襲隊の一員として小宮山信近
 を討つ戦功を挙げた。
 野田城を奪われた武田軍への雪辱を果たした。

・天正8年(1580)10月、高天神城攻め
  徳川家康は5000の軍勢を率いて高天神城奪回を図った。
  徳川家康は力攻めではなく、城を囲んで周囲に鹿垣をつくり、
  兵糧攻めを行った。菅沼定盈も遠州高天神城攻めに参加した。
  井伊直政は初陣で、忍者を取られたという。

・天正10年(1582) 菅沼定盈と「井伊谷3人衆の息子たち」は甲州攻めに
  参加した。

箕輪初心:生方▲【武田信玄の動向】と
井伊直虎・直政№70第18話「あるいは裏切りという名の鶴」
http://53922401.at.webry.info/201705/article_7.html

箕輪初心:生方▲遠江:『三方ヶ原の戦い』徳川家康VS武田信玄
http://53922401.at.webry.info/201610/article_8.html

箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城①「吉井陣屋他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_11.html
★天正18年(1590) 菅沼家が吉井に入った。

箕輪初心●群馬安中【菅沼城=下山城】&磯部温泉
http://53922401.at.webry.info/201211/article_18.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201211/article_18.html

★明日は「長篠城」かな?

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