箕輪初心:生方▲浜松市三ヶ日町『千頭峯城遠望』&【井伊谷・三ヶ日の歴史】

平成29年(2017)11月2日、浜松市細江町気賀から三ヶ日町に
入った。「佐久城」・「野地城」から「千頭峯城」に向かった。
トンネルの手前に駐車場があった。「縄張り図」と「歴史」が書か
れていた。「千頭峯城は、山頂部の一の曲輪を中心に西と東に
向けて曲輪が配置されている。一の曲輪の南側にも三段に分
かれた南の曲輪群がある。と案内板の縄張り図に書かれている。
千頭峯城は南北朝時代に造られた城であった。

車を置いて案内板にしたがってまず下りはじめ、トンネル脇を登
り始めた。でも、愛知県新城市の城巡りをせねば・・・と断念した。
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№119気賀②展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117気賀③「長楽寺」・『井伊直親の墓』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№121気賀⑤『刑部城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№122気賀⑥『本陣・復元関所』と【近藤家】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_26.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№123三ヶ日町『佐久城』
&【浜名氏と上野国長谷寺】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_29.html





【1】平成29年(2017)11月1日***************
07:00 家→駐車場
07:58 高崎 ⇒08:52着東京09:03発⇒10:31着 
 2時間33分 12,070円 お土産を買った。
JR北陸新幹線 あさま606号 東京行
JR東海道新幹線 ひかり465号 岡山行
☆石原さんにTEL
10:40 南口のトヨタレンタカー
①三方ヶ原古戦場跡  
  犀ヶ崖資料館には行かなかった。
12:00 井伊谷
   昼食「昌盛館」…中華丼・台湾味噌ラーメン
   石原さんの誕生日祝いだった。
②井伊谷遺産センター
③自耕庵と妙雲寺:直虎の位牌・南渓の位牌
④渭伊神社と天白磐座遺跡
⑤井伊谷宮・・・3回目
⑥龍潭寺・・・・・3回目
 ★龍たん寺の現和尚様:武藤某様は大學の同期か一つ下らしい。
⑦気賀の「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」
本のプレゼント「浜松市の銅鐸」
○細江公園&細江神社
○万葉の里…歌碑が多い。
○展望台…★気賀はかつては海がもっと迫っていたのであろう。
○国民宿舎「奥浜名湖」
○石原氏宅…たくさんに本をいただいた。
・「井伊家傳記」訳本上下:たちばな会著
  ・「井伊氏ゆかりの石塔」
  ・「井の国物語」谷光洋著、版画家でもある。
  ・「気賀と万葉歌碑」
  ・「高崎史帳」森田秀策著
○19:00国民宿舎「奥浜名湖」…★景色は最高。
・「花の舞酒造」の「奥浜名湖」を飲んだ。

【2】平成29年(2017)11月2日***********
○06:00 気賀の町中に・・・
○本陣
⑧▲城№887気賀の堀川城
⑨気賀の長楽寺
○(陣屋⇒大河ドラマ館)
⑩井伊直親の墓
⑪蜂前神社
⑫▲城№888刑部城…武田信玄のコース
○気賀の関所…町中十字路近く。入り口が小さく、駐車不可
  慶長6年(1601) 徳川家康により創設された姫街道の関所である。
○朝飯…国民宿舎「奥浜名湖」&精算11600円?
⑬気賀近藤氏5000石の陣屋
⑭大河ドラマ館…600円。★NHKの宣伝で、歴史好きの人には?
・気賀街歩きはしなかった。
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⑮▲城№889三日日の佐久城

⑯▲城№890三ヶ日の千頭峯城

●三ケ日原人は最近?になって縄文時代の人骨とされんだっけ、
 


●パンフレット
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●途中はミカン畑が続いている。
ミカンしか栽培できないないような痩せた土壌であった。
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三ヶ日ミカ・・・メジャーだったのか?ブランド品?
去年、2月 長野の道の駅で三ヶ日みかんを買ったっけ・・・
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●ナビが千頭峯城を指した。

●「千頭峯城」の駐車場に着いた。
千頭峯トンネルの手前の南側に、千頭峯城の案内板が立て
られている。駐車場も設置されている。
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●案内板
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「この城山は、大福寺の古記録瑠璃山年録残篇に記されている千頭
 峯城で、この城は南北朝の昔宗良親王を奉じて奮戦した井伊氏の
 西方における南北朝最大の拠点、千頭峯本城の跡である。
 守将は井伊氏一族の奥山朝藤といわれ南朝方の廷臣や浜名神戸
 庄庄官県氏、大江氏を始め勤王の将士数百騎で籠城した。
 北朝方の武将、高師兼は大軍を率いて三ヶ月間の攻撃を加え、
 暦応二年(1339)十月三十日落城した。
 本城は昭和十五年に専門家の合同調査により鶴翼型の典型的な山
 城で、規模も大きく、当時の塹壕塁段砦井戸などはっきりと残って
 おり、山城跡としては、全国的にも代表的なものといわれる。」
   三ヶ日教育委員会 千頭峯城史蹟保存会 
●縄張り図
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★登る価値があるかHpで調べた。
余湖さん
「1郭までの比高は50mほどであり、遊歩道を進んでいけば5分ほど
で城域に到達することができる。思ったよりもお気楽に到達できる山城
である。」
  
「みかん畑沿って、一直線の急な登城道。結構、道はきつい。
一気に一の曲輪まで直登も出来るが、大手口~東の曲輪~井戸曲輪
~一の曲輪~二の曲輪~西の曲輪~南の曲輪~大手口(逆も可)と
一回りすることをお勧めする。それぞれの曲輪には、周囲をめぐる低
い土塁が良く残っている。 また、西の曲輪と二の曲輪の間にある空
堀(堀切?)は、なかなか見応えがある。
★遠そうだ。止めた。1人だし、・・・



★この後、愛知県の新城市に行かなくてはいけない。迷った。
あそこまでかあ?と山頂を見る。止めたっと・・・・。


●最終日、浜松駅で「三ヶ日みかんタルト」を買った。旨かった。
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●後で、Hpを見ると
https://kojodan.jp/castle/1223/
①千頭峰トンネルを抜けた先の駐車場を利用。山城としての
遺構は良好だと思います。(2017/10/09)
② 天下布武 東曲輪から本曲輪、南曲輪、西曲輪、井戸曲輪と
見て回った。土塁で囲まれた曲輪にしっかりとした竪堀、虎口等
の遺構が見所。(2017/08/09)
③まるにおもだか 山城。曲輪がいくつもよく残ってる。大給城
に近いレベル。訪れる人少ないからか適度に荒れているのも良し。
入口のわかりづらさにめけず登る必要がある。(2017/06/03)
④みやこや 縄張りがしっかり残っています。西と南の曲輪は土塁
で囲まれています。中世の山城の好きな人お薦めです。(2017/02/16)
⑤トーダイ 千頭峯トンネル南側の城址駐車場を利用、数分の登城
 口から本曲輪まで整備された登城路で約10分、東西曲輪・井戸
 曲輪・虎口など遺構が良く維持されている。(2017/01/19)
⑥ S 説明板、石碑なども設置されていますし、草刈りもしっかり
 とされていますので見学しやすいのですが、メリハリがあまり感
 じられません。古い時代のお城なのかなあ。



===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
⑰▲城№891比丘尼城(近藤康用の支城)
⑱▲城№892宇利城(近藤康用の最初の城)
⑲▲城№893野田城(菅沼氏の最初の城)
⑳▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物・
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城№894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城№895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の実家
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
◆俺は帰りながら、閃いた。
 K大學の吹奏楽団の「祐太郎君」に会いてえな?・・・
★浜松泊まりを決定。東京大田区泊まり・群馬駆け戻りをやめた。
 
○GS…1900円
○トヨタレンタカー 約15000円
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
「祐太郎」君にTEL…「明日、8:30に会うことになった。」
★祐太郎の声を聞けて、良かった。
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅

【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城№897二俣城
29▲城№898鳥羽山城
30▲城№899大平城(おいひら城)
31▲城№900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。祐太郎君のおごり
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家
★次に浜松に行くときは
浜松市内では、楽器博物館・浜松基地・宿蘆寺
浜松井伊谷では、三岳城(三嶽城)・渋川館・初山窯・都田城・奥山城
浜松の山奥では、犬居城・高根城
隣の市では【舟ケ谷城】直虎を支えた新野氏の居城・横須賀城
宿泊するなら「舘山寺温泉」国民宿舎紅竹 6000円


【0】浜松市三ヶ日・井伊谷の歴史
・平安時代
浜名氏は源頼政の末裔と云われ 鵺代:ぬえしろ(浜松市北区)
 の地を治めていた。
井伊氏は井伊谷に入った。

・鎌倉時代

・南北朝時代
・元弘3年(1333) 元弘の乱
後醍醐天皇の画策による元弘の乱で鎌倉幕府が滅亡した。
 建武の新政が開始された。
   
・延元元年・建武3年(1336)頃
 光明天皇を擁立した足利尊氏が建武政権の軍勢を破って
 京へ入り、後醍醐天皇は吉野へ逃れることとなった。
後醍醐天皇は大和国吉野(奈良県)の南朝方となった。
足利尊氏の離反?謀反?によって世の中は
 南北朝時代となった。

 足利尊氏(北朝) VS 後醍醐天皇(南朝)
 
南北朝の対立が本格化した。

●井伊氏が詰め城:三岳城を築いた。

・建武3年(1336) 延元2年
 6代目:香坂心覚が南朝方として牧城(後牧之島城)
   で挙兵した兵を挙げた。
   牧城は攻撃を受けても落城しなかったと伝えられる
   (★『市河文書』・『高梨文書』・・・信濃史料)

・建武4年・延元2年(1337)
 後醍醐天皇は、宗長親王は妙法院門跡を還俗して宗良
 を名乗らせた。
 宗良親王は、(後醍醐天皇の第8皇子(第5皇子?)
 延暦寺天台座主であったが後醍醐天皇の命により伊勢で還俗して、
 宗良親王を名乗った説もある。(宗良親王27歳)
 ①尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸(金ケ崎城)
 等へ向かわせた。
 ②懐良親王を征西将軍に任じて九州へ向かわせた。
 ③宗良親王を東国へ向かわせた。
  井伊氏は南朝方:宗長親王に属した。
 ④義良親王を奥州へ向かわせた。
 各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。

 ▲三方ヶ原の戦い
  南朝方:井伊一族 VS 北朝方:今川範国
井伊氏が敗北し、三岳城に籠城した。
 秋、 宗長親王が一ノ瀬より井伊奥山に入った。
(★『遠江井伊氏物語』:武藤全裕著)
 9月 井伊道政も娘が尹良親王を生んだ。
  (★『遠江井伊氏物語』:武藤全裕著)
   ★年代が合わない?こんな早く子どもは生まれない。)

・暦応元年・延元3年(1338)
★北畠親房は現福島県の霊山寺城から現群馬の新田から本庄に渡り、
 四方田(新幹線本庄駅から100m)を破った。
1月、宗長親王は井伊谷を出て、橋本(新居町)で北畠親房と合流
 した。北畠親房はリーダーとして、宗良親王・義良親王を奉じた。
 後醍醐天皇の皇子達が伊勢に集結した。
 また有力な豪族を集め、日本各地に南朝の勢力拡大を目指して、
 計画した。
 北条時行も、中先代の乱で敗れた後、伊勢に赴き南朝側で戦に
 加わった。
▲美濃青野原の戦い
▲奈良の戦い
▲天王寺の戦い
宗長親王は吉野に入った。

・延元3年建武5年(1338) 9月 伊勢を出発した。
●井伊谷に入った宗長親王********************
1)宗良親王の井伊谷移動過程2説
 ①北畠親房の陸奥国への移動説
 北畠親房は宗良親王・義良親王を伊勢国大湊(三重県伊勢市)
 より陸奥国府=陸奥国霊山=北畠親房の城(現福島県伊達市)
 へ行こうとした。伊勢湾を渡ろうとするが、座礁により遠江国
 白葉(静岡県西部)に漂着し、宗良親王は井伊谷の豪族井伊道政の
 もとに身を寄せた。北条時行も井伊谷城に入った。
(★『遠江井伊氏物語』】武藤全裕著)
②北畠親房は後醍醐天皇の考えに従って宗良親王・北条時行だけ
  を井伊谷から遠江・駿河・信濃・越前・越中・越後を南朝側に
しようと井伊谷城に入った。

2)宗長親王が井伊谷に入った理由
  ①井伊谷と周辺には南朝方:大覚寺統の荘園・御厨が集中して
   いた。井伊氏を南朝方に走らせた要因が既にあった。
(★『遠江の雄:井伊氏』小和田哲男著)
  ②後醍醐天皇は遠江の荘園の存在に着目し、南朝方の拠点を作ろう
  として宗良親王を送り込んだ。

3)井伊氏井伊介は誰か?宗良親王の庇護した井伊氏2説 
①井伊道政説・・・通説
   宗良親王の子:尹良親王の説
  ・尹良親王が井伊城に生まれている(伝)。
  ・尹良親王の母は井伊道政も娘と言われている(伝)。
  ・尹良親王は信濃の浪合で討死した(伝)。
②井伊行直説・・・最近の有力説
  井伊道政は後世の南朝史観による創作人物であると考えられるよう
  になった。
  井伊道政の娘が宗長親王に仕えて尹良親王が生まれた。
  尹良親王は長南朝再起のために戦ったが、信濃の
  「浪合の戦い」で討死したという。
  遠江・信濃・三河で「尹良:ユキヨシ様信仰」があるが、尹良親王
 の存在が伝説であり、井伊道政のことも後世の創作と考えられるように
 なった。(最近の有力説:井伊行直説)。

 ●宗良神社・・・御料には入れない。

4)宗長親王はどこに 宗良親王のいた城2説
①井伊氏詰め城:三岳城
井伊氏は居城:三岳城を修築し、支城群を整備して、
 北朝方の今川氏の攻撃に備えた。
②井伊氏詰め城:井伊谷城 (看板)
井伊道政は遠江介・井伊介とも称した。

・延元3年・建武5年(1338)閏7月2日、▲藤島の戦い
 新田義貞は越前国藤島の灯明寺畷で斯波高経の軍勢と交戦中
 に戦死した。

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」①新田義貞&②木下藤吉郎
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

箕輪初心●福井「杣山城」=新田義貞の最後の城
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html

箕輪初心●新田義貞⑤「若狭に逃亡~福井で38歳没」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
★京都嵐山の檀林寺に首塚がある。


箕輪初心■福井「6回目奥・7回目」=奥の細道番外編
★福井県丸岡市の称念寺に新田義貞の胴塚がある。

箕輪初心▲本庄【金窪城】&新田義貞四天王:畑時能の最後
http://53922401.at.webry.info/201409/article_20.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201409/article_20.html


兄:新田義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落と
 したものの、足利軍に敗れて越前から退いた。
宗良親王を迎えた井伊氏は、井伊谷城・三岳城を修築し、支城群を
 整備して、北朝方の今川氏の攻撃に備えた。



・暦応元年/延元3年(1338) 宗良親王は義良親王とともに北畠親房
 に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(陸奥国
 霊山:現福島県伊達市)行こうと伊勢湾を渡ろうとした。
 座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族:井伊
 道政のもとに身を寄せた。
井伊氏・井伊一族:奥山氏は南朝に属していた。
 井伊道政は 南朝の宗良(むねよし・むねなが)親王を迎えた。
 井伊道政は三岳(みたけ)城の改修工事をした。

 井伊氏は引佐郡を本拠とした井伊谷の三岳城主であった。
 井伊道政は後醍醐天皇の皇子:宗良親王とともに三岳城に籠もった。
 奥山氏は井伊氏の一族で井伊谷の奥山に住んでいた、

 南朝軍は防備を固める際に、千頭峯城、鴨江城、大平(おいだいら)
 城を構築した。

  千頭峯城は奥山氏?によって築かれた可能性も高い。
千頭峯城は三岳城を本城とした西方の支城であった。
千頭峯城は中千頭峯砦、長岩砦、鯉山砦などを従えた城砦群であった。
 
 浜名氏は初めは南朝に属していた。
佐久城(浜名城)が浜名氏によって築かれた。
 佐久城が三岳城と共に南朝方の拠点の一つであった。

 
・暦応2年延元4年(1339)
2月 宗良親王は駿河の阿部城:狩野貞長のもとを辞した。
 
 
7月 足利尊氏の執事:高師泰・師兼らが遠江南朝方の鴨江寺城
 を落とした。 
  北朝方の高師泰が三岳城の井伊氏を攻めた。


7月22日 北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、
  高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻した。

7月26日 三岳城の出城と鴨江城が落城した。

8月16日(9月19日) 後醍醐天皇吉野で崩御した。享年52。
  後村上天皇即位した。先帝の崩御は三岳城の宗良親王にも知
  らされた。宗長親王は紅葉を折ってそれに
 「思うには 猶色あさきもみじかな そなたの山はいかが時雨るる」
 という歌を添えて四条隆資のもとに届けた。

10月  佐久城の浜名氏は寝返った。
  北朝方として千頭峯城城を攻めた。

10月30日 高師兼が三ヶ日に千頭峯城を攻撃した。
 千頭峯城が落城した。
 井伊氏の一族:奥山朝藤を守将として浜名神戸荘の官県氏、
大江氏などが籠もった城とされる。

南朝:宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰
・仁木義長 の軍勢が井伊谷に押し寄せてきた。

10月30日 谷津砦・上野砦が落城した。
 支城群は次々と陥落し、ついに三岳城が危機にさらされた。

・暦応3年・興国元年(1340)
 正月30日 三嶽(岳)城が落城した。
 籠城戦は3か月にも及んだが落城した。 
  今川範国・了俊に従属することになる。

 宗良親王は三岳城を逃れて大平城(浜北区)に入った。

8月24日 高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍が大平城を攻撃した。
(★三ヶ日町の大福寺「瑠璃山年録残編裏書」)
   大平城も支えきれず、太平城が陥落した。
 大平城は歴史の上に登場することはなかった。    
  (★小和田哲男著)

8月頃 富士山麓を廻り甲斐国を経て信濃国へ入った。 
(★井伊谷を語りつぐ会)
 宗長親王は信濃へと敗走したのであった。

宗良親王が信濃に居を移されたのちの井伊氏は、北朝方に帰服する者、
 南朝にそのまま臣従を通す者に分かれたようである
宗良親王は北陸の新田氏を頼って落ち延びようとした。
しかし、新田義貞が討ち死にし、脇屋義助も北陸から撤退していた。

中越後の魚沼地方(現十日町市)は新田氏(大井田・田中・新田
 など)、南浦原地方は五十嵐氏の南朝方の勢力範囲である。
信濃川流域の古志・三島地方も小国氏、村山氏などが南朝に属し
ていた。

・興国2年(1341)
 寺泊には五十嵐氏の館(現聚感園:松尾芭蕉の句碑がある。) 

浜名清政は一時、三ヶ日(当時は別名)を追われ伊勢国→美濃国
 へ逃れていた。
 南朝方の諸城が落ちたことで、北朝の勢力が回復すると三ヶ日に
 戻った。
 浜名清政は諸領を回復するとともに、勢力を大きく拡大した。

・貞和4年・正平3年(1348)浜名清政が佐久城が築いた。
  都筑の西方猪鼻湖岸の要害の地に佐久城を築き、鵺代より移り
 浜名氏の本拠とした。
 以後、現在の三ヶ日地方のほとんどを領し、一族を大谷・駒場・都筑
 ・三ヶ日などに配して、湖北における大勢力となった。
  浜名清政は足利尊氏の奉公衆となった。

 浜名清政のあとは浜名詮政が継いだ。

・天授元年(1375) 3月、浜名詮政は将軍:足利義満の石清水八幡宮参拝
  に供奉した。

・永和4年(1378) 彦部忠春(光春)の打渡状が伝えられた。
 第3代将軍:足利義満に仕えた。

・弘和元年(1381)正月 浜名詮政は足利義満の白節会出仕にも供奉した。
  浜名詮政は彦部忠春は足利義満の近臣の一人として、厚い信頼を受
  けていた。
 
 浜名詮政のあとは浜名満政が継ぎ、さらに浜名持政が継いだ。
 将軍から一字を賜った。
 浜名氏が代々の足利将軍から信頼を寄せられていた。

・元中9年/明徳3年(1392) 足利義満は南北朝統一を成し遂げた。

・応永4年(1397)  彦部忠春は金閣寺造営の作事奉行を勤めた。
  従5位の下、伊豆守になった。


・戦国時代
   今川氏に井伊谷城も佐久城も千頭峯城も属していた。

・長享元年(1487)、将軍足利義尚が近江の六角高頼を攻撃した。
  浜名政明が参陣した。

・永正3年(1506) 浜名政明が三河の松平長親の軍と戦った。

・大永2年(1522) 浜名政明が連歌師:宗長を迎えた。
  佐久城において連歌の会を催した。
 
  浜名氏は室町幕府の衰退とともに、遠江守護今川氏との
 関係を深めていった。

 浜名頼広の妻は掛川城主の朝比奈泰能の娘であった。
  浜松の引馬城主:飯尾乗連は甥に当たる。
  今川氏とは強い因縁で結ばれていた。


・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が亡くなった。
井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
  井伊家は中野直由が形式上、井伊谷城主になった。
 
  浜名正国は今川義元に従軍していたが、生きて帰国した

  遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。
浜名正国は間もなく死去した。
 
・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。

・永禄11年(1568) 今川氏真が瀬戸方久に出した徳政令を免じる
  安堵状を出した。条件は新城の備蓄を賄うようにち付帯事項が
 付いていた。新城が刑部城・堀川城では、と見られている。
 今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻に備え、刑部城や堀川城の改修
 工事を命じた。
 そして、各地からの牢人両城に集まった。


・永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受け、徳政令を井伊直虎・関口氏経の連名で発令した。
小野道好に井伊谷城を奪われた。
18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。

・永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受けた。小野正次(道好)に井伊谷を奪われた。

9月 瀬戸方久は今川氏真より、「祝田十郎名」と11ヶ所の金で買った
  土地を安堵された。しかし、新城を築くようにと条件付きであった。
★新城が「堀川新城」・「刑部城の拡大工事」なのか不明である。
 TVでは、堀川城になっていたが、安堵された土地は都田川左岸なので
 刑部城かも知れない???


11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 (★『鉾前神社古文書』)に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)
 
18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。

※今川の西のラインが愛知県新城市~静岡県浜松市三ヶ日・・・
柿本城(新城市):鈴木重時・重好
長篠城(新城市):奥平
野田城(新城市):野田菅沼3代目当主菅沼定盈
宇利城(新城市):近藤康用の最初の城
比丘尼城(新城市):近藤康用の支城
千頭峯城(浜松市三ヶ日町):
佐久城(浜松市三ヶ日町):浜名氏

11月 徳川家康が遠江の平定に着手
  菅沼忠久が徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  (野田城)から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
  菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。

 野田菅沼3代目当主の定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時と
 共に徳川家康に属し、所領を安堵された。
 
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)も浜松城
  (旧引馬城)主となっていた徳川家康に加担することになった。

・永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受け、徳政令を井伊直虎・関口氏経の連名で発令した。
小野道好に井伊谷城を奪われた。
18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。

・永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受けた。小野正次(道好)に井伊谷を奪われた。

9月 瀬戸方久は今川氏真より、「祝田十郎名」と11ヶ所の金で買った
  土地を安堵された。しかし、新城を築くようにと条件付きであった。
★新城が「堀川新城」・「刑部城の拡大工事」なのか不明である。
 TVでは、堀川城になっていたが、安堵された土地は都田川左岸なので
 刑部城かも知れない???


11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 (★『鉾前神社古文書』)に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)
 
18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。

11月 徳川家康が遠江の平定に着手
  菅沼忠久が徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  (野田城)から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
  菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。

 野田菅沼3代目当主の定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時と
 共に徳川家康に属し、所領を安堵された。
 
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)も浜松城
  (旧引馬城)主となっていた徳川家康に加担することになった。

 遠州切り取りの第一歩、刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だっ
 た野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)に井伊谷3人衆であった。

 近藤康用は子:近藤秀用を従軍させていた。
 老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた
 からである。
鈴木重時は子:鈴木重好を同行させた
★戦国時代に相手方武将を調略して自軍に引き入れ
 た場合、まずはじめに
 次の戦いの先鋒に投入される。
真田幸綱・昌幸もいつも調略すると、
 ①人質を取る。②戦いに元の味方と戦わせる・・方法を使っていた。
 調略した側としては臣従の誓約がされたからと言って俄かに信
 ずるわけにはいかないのである。
  まず、先鋒をやらせて様子を窺う。自分の配下ではない新参者
  なので、負けても自分の軍には影響がない。
 今までの味方を敵として戦わせることになる。
「昨日の友は、明日には敵なのだ。」
  昨日まで味方だった武将が戦いを挑んでくので戦意も喪失しがち
 になる。調略された者は裏切りの汚名を被ったからには開き直って
 味方になった証しを証明しなければならないし。戦功を挙げなくて
 はならない。

 徳川家康が浜名頼広に徳川方へ転向することを勧めてきた。
 浜名頼広は佐久城で籠城しようとした。掛川の朝比奈家を
 立てなければならなかった。
 
 ところが、徳川家康は三ヶ日を通過せず、岡崎から本坂峠を
 越えて湖北へ攻め込んだ。
 
 徳川家康は井伊谷城を攻略した。
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。

 井伊谷3人衆が井伊谷城から道案内した。

▲刑部城攻め
 今川氏真から離反させて徳川方に流れた「井伊谷三人衆」:菅沼忠久
・鈴木重時・近藤康用に野田菅沼定盈と大将として、刑部城を攻撃
 させた。

今川家臣:新田氏が籠城する兵力は50人程度であった。
刑部城の戦いでは刑部城主は新田氏は逃げたようである。

徳川家康は井伊谷城に次いで刑部城を落城させた。

刑部城には、菅沼定盈の叔父・菅沼又左衛門が城代となっていた。
その後、酒井左衛門尉忠次が入城した。

今川方で近隣の堀江城主:大沢左衛門は徳川家康に抵抗していた。
「堀川城の説明板」
・永禄11年(1558)12月、井伊谷周辺を味方に付けた家康が遠江
 へ侵攻します。気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しま
 した。駿府から敗走した氏真がたてこもった掛川城攻めが長引
 き、武田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の
 動きも活発でした。こうした状況の中、家康は堀川城の兵の目を
 避けて、いったん三河に戻っています。」
(★浜松市教育委員会による現地案内板)
 

新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700
人を集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
しかし、満潮時であったのか?城は攻略できなかった。
  
堀川城は今川氏親・義元の時代には庵原忠良→長谷川秀匡が堀川城
 を守備したという説もある。
 庵原忠良の一族が新野親矩の娘を貰ったのも頷ける。

徳川家康は浜松に侵攻し、浜松を拠点として遠江攻略を進めていった。
・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 
3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。
  1000人以上殺され、逃げた農民ら700人の首を刎
  ねられた。
 徳川家康は合計1700人、殺した。
約2000人説もあるようだ。
「堀川城案内板)*******************
体制を立て直して再度遠江へ侵攻した家康は、堀川城を徹底的に
攻め、たてこもった城兵や住民を全滅させ、落城の後も敗残兵を
探し出して処罰しています。さらに捕虜の首を獄門畷にさらした
と伝わります。
家康の生涯における戦さの中でも、もっとも残酷な戦場となりま
した。」
(★浜松市教育委員会による現地案内板)

 堀川城の戦いにて東林寺などが消失した。  

徳川家康の下命を受けて、井伊谷3人衆は堀江城を攻めた。
 今川方の守将:大沢基胤率いる城兵は激しく防戦した。
 反撃された。
 鈴木重時は近藤康用の子:登助(近藤秀用)と競い城門にたどり
 着いた。しかし鈴木重時は、大沢方の攻撃を受けて討ち死にした。
 大沢基胤は結局は和睦する形で降伏した。
 ( 現舘山寺温泉:遊園地浜名湖パルパルや旅館ホテル九重の敷地)

 浜名頼広は、徳川家康が浜松に侵入したことを知った。
伯父:引馬城主:飯尾乗連が討ち死にした。
  浜名頼広は妻の父:朝比奈泰能も掛川城主も落城したことを知った

 浜名頼広は家臣数人を連れて甲斐武田信玄を頼って落ちていった。
 
 徳川家康は佐久城に兵を進めた。
 佐久城では、浜名一族の長老:大矢政頼が大将となって徳川軍を迎え
 撃とうとした。

・天正元年(1573) 大矢政頼は徳川家康からの降伏勧告を受け入れ、
 佐久城を開城した。佐久城の浜名一族は滅亡したという説もある。
 三ヶ日地方を支配してきた浜名氏は没落した。
 佐久城には、徳川家康の家臣:本多信俊が入った。

・天正11年(1681) 本多信俊は近くに野地城を築いた。
 佐久城は廃城となった。
 本多信俊の子:本多信時が跡を継いだ。
 (★現地案内板)


★明日は浜松「大平城」かな?

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