箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№123三ヶ日町『佐久城』&【浜名氏と上野国長谷寺】

・平成29年(2017)11月2日、浜松市細江町気賀から三ヶ日町に
入った。目的は「佐久城」である。南北朝時代、浜名氏は佐久城を
築いた。
室町時代、浜名左衛門義尊が上野国(群馬県)の板東15
番修験の寺「長谷寺(ちょうこくじ)」を中興した。
永禄5年(1562)
浜名頼広の義兄弟:朝比奈泰朝は掛川で井伊直親を殺害した。永禄
8年(1565)井伊直虎が井伊谷城主になった。井伊直虎や浜名頼広な
どは誰につくか?今川氏真か・武田信玄か、徳川家康かと迷ったで
あろう。永禄11年(1570)11月井伊直虎・関口氏経が連名で徳政
令を出した。井伊家が潰れた。同時に徳川家康は遠江に進軍するた
めに調略を開始した。浜名城主:浜名頼広は甲斐の武田信玄を頼っ
て落ちていった。
長谷寺中興の祖:浜名左衛門義尊の子孫か浜名頼
広の一族か不明であるが、上野国(現高崎市の)長谷寺の住職として
「浜名氏」は継続している。
天正18年(1582)井伊直政が箕輪城に入
った際、長谷寺の住職は「浜名氏」であったようである。ちなみに箕
輪城と長谷寺は道のりで3km程である。

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【2】平成29年(2017)11月2日***********
○06:00 気賀の町中に
○本陣
⑧▲城№887気賀の堀川城
⑨気賀の長楽寺
○(陣屋⇒大河ドラマ館)
⑩井伊直親の墓
⑪蜂前神社
⑫▲城№888刑部城…武田信玄のコース
○気賀の関所…町中十字路近く。
○朝飯…国民宿舎「奥浜名湖」&精算11600円?
⑬気賀近藤氏3400石の陣屋
⑭大河ドラマ館…600円。

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⑮▲城№889三日日の佐久城
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・堀切
・主郭へ
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・土塁
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・土橋
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・堀
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・主郭・・・30m×40m程か?
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▼戻って、副郭に行った。
馬出のように見える。

その前にも郭があったかもしれない?


○「野地城」
 公園になっていた。
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⑯▲城№890三ヶ日の千頭峯城
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)=========



【0】浜松市三ヶ日・井伊谷の歴史
・平安時代
浜名氏は源頼政の末裔と云われ 鵺代:ぬえしろ(浜松市北区)
 の地を治めていた。

井伊氏は井伊谷に入った。

・鎌倉時代

・南北朝時代
・元弘3年(1333) 元弘の乱
後醍醐天皇の画策による元弘の乱で鎌倉幕府が滅亡した。
 建武の新政が開始された。
   
・延元元年・建武3年(1336)頃
 光明天皇を擁立した足利尊氏が建武政権の軍勢を破って
 京へ入り、後醍醐天皇は吉野へ逃れることとなった。
後醍醐天皇は大和国吉野(奈良県)の南朝方となった。
足利尊氏の離反?謀反?によって世の中は
 南北朝時代となった。

 足利尊氏(北朝) VS 後醍醐天皇(南朝)
 
南北朝の対立が本格化した。

●井伊氏が詰め城:三岳城を築いた。

・建武3年(1336) 延元2年
 6代目:香坂心覚が南朝方として牧城(後牧之島城)
   で挙兵した兵を挙げた。
   牧城は攻撃を受けても落城しなかったと伝えられる
   (★『市河文書』・『高梨文書』・・・信濃史料)

・建武4年・延元2年(1337)
 後醍醐天皇は、宗長親王は妙法院門跡を還俗して宗良
 を名乗らせた。
 宗良親王は、(後醍醐天皇の第8皇子(第5皇子?)
 延暦寺天台座主であったが後醍醐天皇の命により伊勢で還俗して、
 宗良親王を名乗った説もある。(宗良親王27歳)
 ①尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸(金ケ崎城)
 等へ向かわせた。
 ②懐良親王を征西将軍に任じて九州へ向かわせた。
 ③宗良親王を東国へ向かわせた。
  井伊氏は南朝方:宗長親王に属した。
 ④義良親王を奥州へ向かわせた。
 各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。

 ▲三方ヶ原の戦い
  南朝方:井伊一族 VS 北朝方:今川範国
井伊氏が敗北し、三岳城に籠城した。
 秋、 宗長親王が一ノ瀬より井伊奥山に入った。
(★『遠江井伊氏物語』:武藤全裕著)
 9月 井伊道政も娘が尹良親王を生んだ。
  (★『遠江井伊氏物語』:武藤全裕著)
   ★年代が合わない?こんな早く子どもは生まれない。)

・暦応元年・延元3年(1338)
★北畠親房は現福島県の霊山寺城から現群馬の新田から本庄に渡り、
 四方田(新幹線本庄駅から100m)を破った。
1月、宗長親王は井伊谷を出て、橋本(新居町)で北畠親房と合流
 した。北畠親房はリーダーとして、宗良親王・義良親王を奉じた。
 後醍醐天皇の皇子達が伊勢に集結した。
 また有力な豪族を集め、日本各地に南朝の勢力拡大を目指して、
 計画した。
 北条時行も、中先代の乱で敗れた後、伊勢に赴き南朝側で戦に
 加わった。
▲美濃青野原の戦い
▲奈良の戦い
▲天王寺の戦い
宗長親王は吉野に入った。

・延元3年建武5年(1338) 9月 伊勢を出発した。
●井伊谷に入った宗長親王********************
1)宗良親王の井伊谷移動過程2説
 ①北畠親房の陸奥国への移動説
 北畠親房は宗良親王・義良親王を伊勢国大湊(三重県伊勢市)
 より陸奥国府=陸奥国霊山=北畠親房の城(現福島県伊達市)
 へ行こうとした。伊勢湾を渡ろうとするが、座礁により遠江国
 白葉(静岡県西部)に漂着し、宗良親王は井伊谷の豪族井伊道政の
 もとに身を寄せた。北条時行も井伊谷城に入った。
(★『遠江井伊氏物語』】武藤全裕著)
②北畠親房は後醍醐天皇の考えに従って宗良親王・北条時行だけ
  を井伊谷から遠江・駿河・信濃・越前・越中・越後を南朝側に
しようと井伊谷城に入った。

2)宗長親王が井伊谷に入った理由
  ①井伊谷と周辺には南朝方:大覚寺統の荘園・御厨が集中して
   いた。井伊氏を南朝方に走らせた要因が既にあった。
(★『遠江の雄:井伊氏』小和田哲男著)
  ②後醍醐天皇は遠江の荘園の存在に着目し、南朝方の拠点を作ろう
  として宗良親王を送り込んだ。

3)井伊氏井伊介は誰か?宗良親王の庇護した井伊氏2説 
①井伊道政説・・・通説
   宗良親王の子:尹良親王の説
  ・尹良親王が井伊城に生まれている(伝)。
  ・尹良親王の母は井伊道政も娘と言われている(伝)。
  ・尹良親王は信濃の浪合で討死した(伝)。
②井伊行直説・・・最近の有力説
  井伊道政は後世の南朝史観による創作人物であると考えられるよう
  になった。
  井伊道政の娘が宗長親王に仕えて尹良親王が生まれた。
  尹良親王は長南朝再起のために戦ったが、信濃の
  「浪合の戦い」で討死したという。
  遠江・信濃・三河で「尹良:ユキヨシ様信仰」があるが、尹良親王
 の存在が伝説であり、井伊道政のことも後世の創作と考えられるように
 なった。(最近の有力説:井伊行直説)。

 ●宗良神社・・・御料には入れない。

4)宗長親王はどこに 宗良親王のいた城2説
①井伊氏詰め城:三岳城
井伊氏は居城:三岳城を修築し、支城群を整備して、
 北朝方の今川氏の攻撃に備えた。
②井伊氏詰め城:井伊谷城 (看板)
井伊道政は遠江介・井伊介とも称した。

・延元3年・建武5年(1338)閏7月2日、▲藤島の戦い
 新田義貞は越前国藤島の灯明寺畷で斯波高経の軍勢と交戦中
 に戦死した。

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」①新田義貞&②木下藤吉郎
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

箕輪初心●福井「杣山城」=新田義貞の最後の城
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html

箕輪初心●新田義貞⑤「若狭に逃亡~福井で38歳没」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
★京都嵐山の檀林寺に首塚がある。


箕輪初心■福井「6回目奥・7回目」=奥の細道番外編
★福井県丸岡市の称念寺に新田義貞の胴塚がある。

箕輪初心▲本庄【金窪城】&新田義貞四天王:畑時能の最後
http://53922401.at.webry.info/201409/article_20.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201409/article_20.html


兄:新田義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落と
 したものの、足利軍に敗れて越前から退いた。
宗良親王を迎えた井伊氏は、井伊谷城・三岳城を修築し、支城群を
 整備して、北朝方の今川氏の攻撃に備えた。



・暦応元年/延元3年(1338) 宗良親王は義良親王とともに北畠親房
 に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(陸奥国
 霊山:現福島県伊達市)行こうと伊勢湾を渡ろうとした。
 座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族:井伊
 道政のもとに身を寄せた。
井伊氏・井伊一族:奥山氏は南朝に属していた。
 井伊道政は 南朝の宗良(むねよし・むねなが)親王を迎えた。
 井伊道政は三岳(みたけ)城の改修工事をした。

 井伊氏は引佐郡を本拠とした井伊谷の三岳城主であった。
 井伊道政は後醍醐天皇の皇子:宗良親王とともに三岳城に籠もった。
 奥山氏は井伊氏の一族で井伊谷の奥山に住んでいた、

 南朝軍は防備を固める際に、千頭峯城、鴨江城、大平(おいだいら)
 城を構築した。

  千頭峯城は奥山氏?によって築かれた可能性も高い。
千頭峯城は三岳城を本城とした西方の支城であった。
千頭峯城は中千頭峯砦、長岩砦、鯉山砦などを従えた城砦群であった。
 
 浜名氏は初めは南朝に属していた。
佐久城(浜名城)が浜名氏によって築かれた。
 佐久城が三岳城と共に南朝方の拠点の一つであった。

 
・暦応2年延元4年(1339)
2月 宗良親王は駿河の阿部城:狩野貞長のもとを辞した。
 
8月頃 富士山麓を廻り甲斐国を経て信濃国へ入った。 
(★井伊谷を語りつぐ会)
 宗長親王は信濃へと敗走したのであった。
 
7月 足利尊氏の執事:高師泰・師兼らが遠江南朝方の鴨江寺城
 を落とした。 
  北朝方の高師泰が三岳城の井伊氏を攻めた。


7月22日 北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、
  高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻した。

7月26日 三岳城の出城と鴨江城が落城した。

8月16日(9月19日) 後醍醐天皇吉野で崩御した。享年52。
  後村上天皇即位した。先帝の崩御は三岳城の宗良親王にも知
  らされた。宗長親王は紅葉を折ってそれに
 「思うには 猶色あさきもみじかな そなたの山はいかが時雨るる」
 という歌を添えて四条隆資のもとに届けた。

10月  佐久城の浜名氏は寝返った。
  北朝方として千頭峯城城を攻めた。

10月30日 高師兼が三ヶ日に千頭峯城を攻撃した。
 千頭峯城が落城した。
 井伊氏の一族:奥山朝藤を守将として浜名神戸荘の官県氏、
大江氏などが籠もった城とされる。

南朝:宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰
・仁木義長 の軍勢が井伊谷に押し寄せてきた。

10月30日 谷津砦・上野砦が落城した。
 支城群は次々と陥落し、ついに三岳城が危機にさらされた。

・暦応3年・興国元年(1340)
 正月30日 三嶽(岳)城が落城した。
 籠城戦は3か月にも及んだが落城した。 
  今川範国・了俊に従属することになる。

 宗良親王は三岳城を逃れて大平城(浜北区)に入った。

8月24日 高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍が大平城を攻撃した。
(★三ヶ日町の大福寺「瑠璃山年録残編裏書」)
   大平城も支えきれず、太平城が陥落した。
 大平城は歴史の上に登場することはなかった。    
  (★小和田哲男著)

・興国2年(1341) 2月 宗良親王は駿河の阿部城狩野貞長のもと
 を辞した。
 8月頃 富士山麓を廻り甲斐国を経て信濃国へ入った。 
(★井伊谷を語りつぐ会)
 宗長親王は信濃へと敗走したのであった。

宗良親王が信濃に居を移されたのちの井伊氏は、北朝方に帰服する者、
 南朝にそのまま臣従を通す者に分かれたようである
宗良親王は北陸の新田氏を頼って落ち延びようとした。
しかし、新田義貞が討ち死にし、脇屋義助も北陸から撤退していた。

中越後の魚沼地方(現十日町市)は新田氏(大井田・田中・新田
 など)、南浦原地方は五十嵐氏の南朝方の勢力範囲である。
信濃川流域の古志・三島地方も小国氏、村山氏などが南朝に属し
ていた。

・興国2年(1341)
 寺泊には五十嵐氏の館(現聚感園:松尾芭蕉の句碑がある。) 


 浜名清政は一時、三ヶ日(当時は別名)を追われ伊勢国→美濃国
 へ逃れていた。
 南朝方の諸城が落ちたことで、北朝の勢力が回復すると三ヶ日に
 戻った。
 浜名清政は諸領を回復するとともに、勢力を大きく拡大した。

・貞和4年・正平3年(1348)浜名清政が佐久城が築いた。
  都筑の西方猪鼻湖岸の要害の地に佐久城を築き、鵺代より移り
 浜名氏の本拠とした。
 以後、現在の三ヶ日地方のほとんどを領し、一族を大谷・駒場・都筑
 ・三ヶ日などに配して、湖北における大勢力となった。
  浜名清政は足利尊氏の奉公衆となった。

 浜名清政のあとは浜名詮政が継いだ。

・天授元年(1375) 3月、浜名詮政は将軍:足利義満の石清水八幡宮参拝
  に供奉した。

・永和4年(1378) 彦部忠春(光春)の打渡状が伝えられた。
 第3代将軍:足利義満に仕えた。

・弘和元年(1381)正月 浜名詮政は足利義満の白節会出仕にも供奉した。
  浜名詮政は彦部足利義満の近臣の一人として、厚い信頼を受けていた。
  浜名詮政のあとは浜名満政が継ぎ、さらに浜名持政が継いだ。
 将軍から一字を賜った。
 浜名氏が代々の足利将軍から信頼を寄せられていた。

・元中9年/明徳3年(1392) 足利義満は南北朝統一を成し遂げた。

・応永4年(1397)  彦部忠春は金閣寺造営の作事奉行を勤めた。
  従5位の下、伊豆守になった。


・戦国時代
   今川氏に井伊谷城も佐久城も千頭峯城も属していた。

・長享元年(1487)、将軍足利義尚が近江の六角高頼を親征した。
  浜名政明が参陣した。

・永正3年(1506) 浜名政明が今川氏親の客将:伊勢長氏に属した
  三河の松平長親の軍と戦った。

・大永2年(1522) 浜名政明が連歌師:宗長を迎えた。
  佐久城において連歌の会を催した。
 
 
 浜名政国は室町幕府の衰退とともに、遠江守護今川氏との関係を深めて
 いった。
子の浜名頼広の妻は掛川城主の朝比奈泰能の娘であった。
 朝比奈泰朝とは義兄弟に当たる。 
 浜松の引馬城主:飯尾乗連は甥に当たる。
  今川氏とは強い因縁で結ばれていった。


・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元の尾張国侵攻で井伊直盛と朝比奈泰朝は織田氏の
  鷲津砦を攻略した。徳川家康のいた大高城を救った。
  しかし、織田信長は本隊の今川義元が急襲した。
  今川義元は桶狭間の討死した。

井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
  井伊家は中野直由が形式上、井伊谷城主になった。
 
  朝比奈泰朝・浜名正国はやむなく戦を放棄し、撤退した。
  生きて帰国した

  遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。
三河国・遠江国の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将
  も出てきた。
浜名正国は間もなく死去した。浜名頼広が跡を継いだ。

  浜名頼広も今川氏真を支える姿勢を貫いた。
     
・永禄5年(1562) 3月、小野正次(道好)の讒言により謀反の
 疑いのかかった。
 朝比奈泰朝は井伊直親を今川氏真の命により殺害した。
浜名頼広の義兄弟:朝比奈泰朝は今川氏真を支える態度を取っ
 ていた。

・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。

 
・永禄11年(1568)
9月 瀬戸方久は今川氏真より、「祝田十郎名」と11ヶ所の金で買った
  土地を安堵された。しかし、新城を築くようにと条件付きであった。
★新城が「堀川新城」・「刑部城の拡大工事」なのか不明である。
 TVでは、堀川城になっていたが、安堵された土地は都田川左岸なので
 刑部城かも知れない???
今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻に備え、刑部城や堀川城の改修
 工事を命じた。
 そして、各地からの牢人両城に集まった。


11月 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受け、徳政令を井伊直虎・関口氏経の連名で発令した。
 小野道好に井伊谷城を奪われた。
★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 (★『鉾前神社古文書』)に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)
 18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。


※今川の西のラインが三河(愛知県新城市~静岡県浜松市三ヶ日)
柿本城(新城市):鈴木重時・重好
長篠城(新城市):奥平
野田城(新城市):野田菅沼3代目当主菅沼定盈
宇利城(新城市):近藤康用の最初の城
比丘尼城(新城市):近藤康用の支城
千頭峯城(浜松市三ヶ日町):
佐久城(浜松市三ヶ日町):浜名頼広

11月 徳川家康が遠江の平定に着手しはじめた。
徳川家康が浜名頼広に徳川方へ転向することを勧めてきた。
 浜名頼広は佐久城で籠城しようとした。掛川の朝比奈家を
 立てなければならなかった。
 
 
 
  菅沼忠久が徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  (野田城)から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
  菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。

 野田菅沼3代目当主の定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時と
 共に徳川家康に属し、所領を安堵された。

 ところが、徳川家康は三ヶ日を通過せず、岡崎から本坂峠を
 越えて湖北へ攻め込んだ。

井伊谷に侵攻した。
  徳川家康は井伊谷城を攻略した。
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。

 刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だった野田城の菅沼新八郎
 定盈(さだみつ)に井伊谷3人衆であった。

 近藤康用は子:近藤秀用を従軍させていた。
 老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた
 からである。
鈴木重時は子:鈴木重好(井伊直政従兄弟)を同行させた。
 菅沼忠久は菅沼忠道を同行させた。

★戦国時代に相手方武将を調略して自軍に引き入れ
 た場合、まずはじめに
 次の戦いの先鋒に投入される。
真田幸綱・昌幸もいつも調略すると、
 ①人質を取る。②戦いに元の味方と戦わせる・・方法を使っていた。
 調略した側としては臣従の誓約がされたからと言って俄かに信
 ずるわけにはいかないのである。
  まず、先鋒をやらせて様子を窺う。自分の配下ではない新参者
  なので、負けても自分の軍には影響がない。
 今までの味方を敵として戦わせることになる。
「昨日の友は、明日には敵なのだ。」
  昨日まで味方だった武将が戦いを挑んでくので戦意も喪失しがち
 になる。調略された者は裏切りの汚名を被ったからには開き直って
 味方になった証しを証明しなければならないし。戦功を挙げなくて
 はならない。

   井伊谷3人衆が井伊谷城から道案内した。

▲刑部城攻め
 今川氏真から離反させて徳川方に流れた「井伊谷三人衆」:菅沼忠久
・鈴木重時・近藤康用に野田菅沼定盈と大将として、刑部城を攻撃
 させた。

今川家臣:新田氏が籠城する兵力は50人程度であった。
刑部城の戦いでは刑部城主は新田氏は逃げたようである。

徳川家康は井伊谷城に次いで刑部城を落城させた。

刑部城には、菅沼定盈の叔父・菅沼又左衛門が城代となっていた。
その後、酒井左衛門尉忠次が入城した。

今川方で近隣の堀江城主:大沢左衛門は徳川家康に抵抗していた。
「堀川城の説明板」
・永禄11年(1558)12月、井伊谷周辺を味方に付けた家康が遠江
 へ侵攻します。気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しま
 した。駿府から敗走した氏真がたてこもった掛川城攻めが長引
 き、武田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の
 動きも活発でした。こうした状況の中、家康は堀川城の兵の目を
 避けて、いったん三河に戻っています。」
(★浜松市教育委員会による現地案内板)
 

新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700
人を集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
しかし、満潮時であったのか?城は攻略できなかった。
  
堀川城は今川氏親・義元の時代には庵原忠良→長谷川秀匡が堀川城
 を守備したという説もある。
 庵原忠良の一族が新野親矩の娘を貰ったのも頷ける。

徳川家康は浜松に侵攻し、浜松を拠点として遠江攻略を進めていった。

武田信玄の動向*************************
・永禄11年(1568) 3月の寿桂尼死後、武田信玄は今川家臣への調略や
 徳川家康のへの接近を模索した。
 12月5日 武田信玄は駿河への侵攻を開始した。
12月13日 武田軍は駿府に入った。
   今川氏真は遠江掛川城の朝比奈泰朝を頼って落ち延びた。
********************************

・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 
3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。
  1000人以上殺され、逃げた農民ら700人の首を刎
  ねられた。
 徳川家康は合計1700人、殺した。
約2000人説もあるようだ。
(堀川城案内板)*******************
体制を立て直して再度遠江へ侵攻した家康は、堀川城を徹底的に
攻め、たてこもった城兵や住民を全滅させ、落城の後も敗残兵を
探し出して処罰しています。さらに捕虜の首を獄門畷にさらした
と伝わります。
家康の生涯における戦さの中でも、もっとも残酷な戦場となりま
した。」
(★浜松市教育委員会による現地案内板)

 堀川城の戦いにて東林寺などが消失した。  

徳川家康の下命を受けて、井伊谷3人衆は堀江城を攻めた。
 今川方の守将:大沢基胤率いる城兵は激しく防戦した。
 反撃された。
 鈴木重時は近藤康用の子:登助(近藤秀用)と競い城門にたどり
 着いた。しかし鈴木重時は、大沢方の攻撃を受けて討ち死にした。
 大沢基胤は結局は和睦する形で降伏した。
 ( 現舘山寺温泉:遊園地浜名湖パルパルや旅館ホテル九重の敷地)

 浜名頼広は、徳川家康が浜松に侵入したことを知った。
伯父:引馬城主:飯尾乗連が討ち死にした。
  浜名頼広は妻の姉弟:朝比奈泰朝も掛川城主も落城したことを知った

 浜名頼広は家臣数人を連れて甲斐武田信玄を頼って落ちていった。
 
 徳川家康は佐久城に兵を進めた。
 佐久城では、浜名一族の長老:大矢政頼が大将となって徳川軍を迎え
 撃とうとした。

・元亀3年(1573) 12月22日(1月25日)「三方ヶ原の戦い」
徳川家康は武田信玄に敗れ、刑部は武田領となった。

 武田信玄は「刑部砦」で越年した。
 武田信玄の軍は2万人以上の大軍であった。
 ★都田川(瀬戸谷川)左岸には武田軍がうじゃうじゃ宿陣していたの
 であろう。
 武田信玄は「刑部城の前」の屋敷で過ごしたのかもしれない。
 まだ、「大陣屋」という場所で過ごしたのかもしれない。


・天正元年(1573) 武田信玄は龍たん寺を焼き、三河国への進軍を再開
 した。
2月 武田軍によって三河国設楽郡の野田城を落とされた。
 城主・菅沼定盈が拘束された。
 武田信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。

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天正元年(1573) 大矢政頼は徳川家康からの降伏勧告を受け入れ、
 佐久城を開城した。佐久城の浜名一族は滅亡したという説もある。
 三ヶ日地方を支配してきた浜名氏は没落した。
 佐久城には、徳川家康の家臣:本多信俊が入った。

 徳川家康は井伊谷・気賀・刑部を武田から取り戻した。
井伊谷には近藤康用が再び入った。

・天正3年(1575長篠の戦い
****************************

天正11年(1681) 本多信俊は佐久城近くに野地城を築いた。
 佐久城は廃城となった。
 本多信俊の子:本多信時が跡を継いだ。
 (★現地案内板)


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★でも、生き残った浜名一族もいたらしい。
 とは言うものの「浜名氏姓が群馬に残っているのは何故だろう?

箕輪初心:生方▲20171028久保田順一先生講演会『中世の白岩長谷寺』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_1.html
http://53922401.at.webry.info/201711/article_1.html

★応永年間 浜名左衛門義尊が遠江国濱名邑より来て諸堂を
 改修し護った(伝)。
大坊35世:覚欣権律師:浜名左衛門義尊は6坊を経営した。

・応永24年(1417) 浜名左衛門義尊卒
 (★『浜名氏本山修験大坊系図』)

・永禄6年(1563) 武田信玄が箕輪城主:長野信濃守業政を
  攻めた時に兵火に遭い長谷寺が焼失した。
  (★『浜名氏本山修験大坊系図』)
(★『関東古戦録』::久保田順一訳)
 長純寺も白岩観音堂も焼いた。
長谷寺の戦いで安藤九郎左衛門が戦死した。
 (★安藤勝道の墓は箕輪龍門寺で松下清景・松下一定の墓の後ろに
  ある。後安藤家は井伊直政に仕えた。
  永平寺座主になった子孫がいる。)
・永禄9年(1566) 9月 箕輪城が武田信玄に攻略された。

・永禄11年?12年(1571)
浜名頼広は家臣数人を連れて甲斐武田信玄を頼って落ちていった。
浜名頼広の一族が浜名左衛門義尊の縁があり、長谷寺の住職にな
 った可能性もある。

・天正8年(1580) 武田勝頼が世無道上人や山内大坊に命じて
  再興された。(現在の観音堂か?)
(★ 「観音堂棟札」)
 実際は内藤昌明が武運長久子孫繁栄のために再建した。
  大旦那は武田勝頼であった。
① 世無道上人…小幡庄神原の人。
②北爪土佐守…後、井伊直政家臣。酒井家次の時、高崎九蔵町の長
③内山播磨守…滝沢寺に墓 ★箕輪軍記では箕輪城の家老?
④清水内記…玉村の川井河岸を開いた。★箕輪の和田山砦に墓がある。
⑤小幡縫殿助…吉井の長根城主
⑥大熊伊賀守・肥前守…★越後箕冠城主→武田家臣:大藪(榛東村)領地。
  箕輪富岡に在住→大熊林庵が高崎桧物町に在住し、商人になった。
 ※久保田順一先生…人が離れていくのを防ぐためであった。


天正18年(1582)井伊直政が箕輪城に入
った際、長谷寺の住職は「浜名氏」であったようである。ちなみに箕
輪城と長谷寺は道のりで3km程である。

内藤昌明の子・北爪土佐守は井伊直政の家老・侍大将クラスになった。
 北爪土佐守は関ヶ原には行ったが佐和山には同行せず、町人になっ
 たようである。


旧榛名の長谷寺は代々、「浜名氏」が住職である。







★明日は千頭峯城かな?

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