箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№122気賀⑥『本陣・復元関所』と【近藤家】

平成29年(2017)11月1日、井伊谷の散策の後、気賀の散策と
なった。気賀では、「姫街道」と「気賀本陣」と「気賀の関所」
を見物した。慶長6年(1601) 徳川家康によって東海道の脇街
道である姫街道の気賀宿の入り口に創設された。姫街道を通行
する旅人を取り締まる重要な場所であった。明治2年(1869)
関所が廃止された。平成2年(1990) 現在の建物が江戸時代の
文献などを参考に復元された。冠木門、本番所、牢屋まで忠実
に再現していた。文書史料も多かった。
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№36【近藤康用→近藤秀用→5近藤】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_14.html
近藤秀用は箕輪城に2年いた。
①近藤秀用の弟妹
用豊、
用成、
用忠、
用政、
娘①中野三信(中野直之の長男:井伊直政家老)の妻
近藤用勝(徳川頼宣家臣)、
娘②中川忠重(井伊下一族)の妻
②近藤秀用の子ども
季用…金指近藤家
用可…気賀近藤家:近藤用可が気賀の関所を守備した。
用宗、
用義、
米倉昌純?の妻(元武田武川衆子孫:箕輪城主:内藤家・
   目付栁澤家・青木家同門)
小笠原権之丞の室(→九鬼長兵衛の妻)、
由良貞繁の室(元上野国太田金山城主:由良国繁&妙印尼の子)
  (★ウィキペディアに加筆)




箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№119気賀②展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117気賀③「長楽寺」・『井伊直親の墓』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№121気賀⑤『刑部城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_25.html




【1】平成29年(2017)11月1日***************
07:00 家→駐車場
07:58 高崎 ⇒08:52着東京09:03発⇒10:31着 
 2時間33分 12,070円 お土産を買った。
JR北陸新幹線 あさま606号 東京行
JR東海道新幹線 ひかり465号 岡山行
☆石原さんにTEL
10:40 南口のトヨタレンタカー
①三方ヶ原古戦場跡  
  犀ヶ崖資料館には行かなかった。
12:00 井伊谷
   昼食「昌盛館」…中華丼・台湾味噌ラーメン
   石原さんの誕生日祝いだった・
②井伊谷遺産センター
③自耕庵と妙雲寺:直虎の位牌・南渓の位牌
●自耕庵と直虎の墓伝説
・永禄4年(1561)5月、桶狭間の戦い
 井伊直盛が戦死した。娘であった井伊直虎(次郎法師)が
「自耕庵」を造立した。龍潭寺二世の南渓和尚を講じて開山した。
井伊直虎は龍たん寺の南の一角に住んでいた。晩年は「自耕庵」
に住んだ。井伊直虎の死後、井伊直虎の塗りの位牌に記された
『妙雲院殿月舩祐圓大姉』あったことから「妙雲寺」と改められた。
●臨済宗妙心寺派「浩徳山妙雲寺」
檀家の方が平日なのに石原さんの依頼で特別に開けてくださった。
「大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送が決まってから、妙雲寺で
まず、歴代住職の位牌が並んでいる場所の一番奥から見つかりました。
普段は位牌を全部取り出すことがないので全く気が付かなかったの
ですが、大掃除の時に発見しました。
 南渓の肖像画は私がここから発見しました。
と障子戸の上の所をさして教えてくださった。
歴代住職の肖像画が保管されていますが、全部は開いてません。
どんなお宝が出てくるかは分かりません。
●直虎のお位牌
●南渓のお位牌
●南渓谷の肖像画
●青面金剛


④渭伊神社と天白磐座遺跡
  井伊直虎の遊ぶ場所・撮影にも使われた。
 
⑤井伊谷宮・・・3回目

⑥龍潭寺・・・・・3回
  ★龍たん寺の現和尚様:武藤某様は大學の同期か一つ下らしい。

⑦気賀の「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」
本のプレゼント「浜松市の銅鐸」
 ・企画展「井伊谷の歴史パネル」

○細江神社
○万葉の里…歌碑が多い。
○展望台…気賀の眺めが最高。
○国民宿舎「奥浜名湖」

○石原氏宅…たくさんに本をいただいた。
・「井伊家傳記」訳本上下:たちばな会著
  ・「井伊氏ゆかりの石塔」
  ・「井の国物語」谷光洋著、版画家でもある。
  ・「気賀と万葉歌碑」
  ・「高崎史帳」森田秀策著
  ・その他資料。
○19:00国民宿舎「奥浜名湖」
 ・「花の舞酒造」の「奥浜名湖」を飲んだ。
和食料理
 
【2】平成29年(2017)11月2日***********
05:30 起床
06:00 気賀の町中に・・・
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○本陣
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○寺入り口
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○関所跡
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⑧▲城№887気賀の堀川城

⑨気賀の長楽寺

○(陣屋⇒大河ドラマ館)
★陣屋は開いていなかった。
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⑩井伊直親の墓
⑪蜂前神社
⑫▲城№888刑部城…武田信玄のコース
○気賀の関所…町中十字路近く。入り口が小さく、駐車不可
  慶長6年(1601) 徳川家康により創設された姫街道の関所である。
○朝飯…国民宿舎「奥浜名湖」&精算11600円?

⑬気賀近藤氏3400石の陣屋
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⑭大河ドラマ館…600円。★NHKの宣伝で、歴史好きの人には?
・気賀街歩きはしなかった。


⑮▲城№889三日日の佐久城
⑯▲城№890三ヶ日の千頭峯城
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
⑰▲城№891比丘尼城(近藤康用の支城)
⑱▲城№892宇利城(近藤康用の最初の城)
⑲▲城№893野田城(菅沼氏の最初の城)
⑳▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物・
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城№894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城№895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の実家
 昼飯は精進料理のうな重は1200円。
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
◆俺は帰りながら、閃いた。
 K大學の吹奏楽団の「祐太郎君」に会いてえな?・・・
★浜松泊まりを決定。東京大田区泊まり・群馬駆け戻りをやめた。
 
○GS…1900円
○トヨタレンタカー 約15000円
★可愛いお姉さんがビジネスホテルを教えてくれた。
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
「祐太郎」君にTEL…「明日、8:30に会うことになった。」
★祐太郎の声を聞けて、良かった。
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅

【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城№897二俣城
29▲城№898鳥羽山城
30▲城№899大平城(おいひら城)
31▲城№900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。祐太郎君のおごり
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家


【●】「姫街道と気賀の歴史」
愛知県御油宿から静岡県見付宿の間を浜名湖の北岸経由で結ぶ東海道
の脇街道である。正式には本坂通と呼ばれている。
愛知県と静岡県の境にある本坂峠は姫街道の難所である。

・弥生時代
  銅鐸文化で栄えた。当然、米生産をしている。

・古墳時代
  前方後方墳が造られた。(北大岡古墳など)
  古墳の文化はかみつけの国(群馬県)にも伝えられた。

・奈良時代
 奈良官道(東海道)は、湖北(浜名湖の北)を通っていた。
 気賀を通る。
 防人も此処を通って奈良・九州に行かなくてはならなかった。
 『万葉集』には、「引佐細江のみおつくし」等、湖北の地名や風景を
 詠み込んだ防人歌が載せられている。
ここから先は死ぬか生きるかの山道が待っていた。
 気賀から見る浜名湖は絶景であったのであろう。
 東山道の高崎付近と同じで歌を詠む場所であったのだろう。
  「伊香保路(榛名山)」が9首ある。
愛知県側の国名が「穂の国」(三河の国・宝飯郡)であった。
「穂の坂」または「穂の境」がなまって「本坂」になったと言われる。
 奈良時代の浜名湖は現在の広さの半分であった。
 北半分で、湖水は浜名川によって遠州灘(太平洋)へ流れ出ていた。
 「引佐郡伊福郷」が気賀である。

・平安時代
「井伊谷」井伊氏が入ってきた。井伊氏の館があった。

・鎌倉時代
湖南(浜名湖の南)で窯業が発達すると、東海道は湖南に移り、湖北
 の本坂越えの道は「ひね街道」(「ひね」は遠州弁で「古い」の意)、
 江戸時代に「姫街道」(「ひめ」は「ひね」の転訛。異説あり)と呼ば
 れたそうである。

・鎌倉時代末期
 井伊谷に詰め城として井伊谷城と6つの砦が築かれた。

・南北朝時代
・南北朝時代初期 強力な詰め城として三岳(三嶽)城が造られた。

・建武4年(1337)、三方ヶ原の戦い
 宗良親王は難破し、井伊谷に行った。
 南朝:井伊氏 VS 北朝:足利系今川範国・了俊

 井伊一族は南朝方:宗長親王にに加勢し、今川範国と戦ったが、
 敗戦を喫した。


・暦応2年・延元4年(1339)~暦応3年・興国元年(1340)南朝:
宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰・仁
木義長ら の軍勢が現浜松・井伊谷に押し寄せてきた。三岳城に
籠もったが、攻略され、更に大平城で敗北した。宗良親王
は信濃に逃亡した。井伊谷は今川了俊の支配下になった。以後、
敵対していた今川氏支配下に置かれ、井伊氏は受難の時代が続く。
(★平成28年(2016)6月に石原さんが送ってくださった資料)

箕輪初心:生方▲大草城&大河原城*宗良親王&香坂高宗
http://53922401.at.webry.info/201606/article_12.html
 ★宗長親王は信濃の大草城・大河原城を拠点とした。



・室町時代
・文明13年(1481) 中村家14代正實(まさざね)が、今川氏から
遠江国磐田郡大橋郷に領地を与えられた。
中村家は源氏の源範頼の末裔である。
   源範頼は、源頼朝の弟・源義経の母違いの兄である。

・明応7年(1498)?、 明応8年(1499)?
  超巨大地震が発生した! 
  浜名川が山津波で塞がれると、浜名湖の水が溢れ、新たな湖水の
 排出路ができた。
 ※排出路を「今切(いまぎれ)」と言った。

  地震が収束すると、浜名湖の面積は倍に広がり、今切口は広く
 なってしまった。
 淡水湖であった浜名湖は汽水湖となった。
浜名湖と遠州灘が大きく切られてから舟で渡るようになった。
 東海道も「舟を使うのは不便」だとして、湖北(本坂越え)に
 戻った。
 「交通の要地」として吉村湊(後気賀湊)と気賀は再び注目された。
 
・戦国時代
中村家は今川家の家臣として代官を勤めたいた。
中村家はTV大河ドラマ『おんな城主直虎』では商人であったが、
  史実では武士である。中村与太夫は、実在の人物である。
  今川家から浜名湖で自由に航行する権限もらい、船輸送・貿易を
  管理していた。
  
  井伊谷は、本坂越え街道・鳳来寺信濃道に通じる中継地であった。
  井伊家の財源は、運輸業が中心であった。
主な貿易輸入・運送品は、「三河塩」・「木綿」だったと考えられる。
主な貿易輸出・運送品は、「陶器」であったと思われる。

  そこで、井伊家は貿易業(吉村湊からの水上輸送)に目を付けた。
 
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が戦死した。
  井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
井伊家は中野直由が形式上、井伊谷城主になった。
遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。

 今川家の力が弱くなったのにつけ込み、密かに気賀に集まる者も
 増えていった。
 
 井伊直盛時代の「井伊谷七人衆」の1人であったが、「桶狭間の戦い」
後、独立して気賀領主となったと伝えられている
「遠州気賀領主新田左衛門入道喜兼(元直平ノ家臣也)」
  (★『井伊直平公一代記』)
井伊家は貿易業(吉村湊からの水上輸送)に目を付けた。
気賀には新田友作・家臣の石田党、丸井党、蒲生党、中村党が
集まっていた。

山村修理、尾藤主膳、竹田高正などもいた。


・永禄5年(1663)
井伊直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、今川氏真
 から松平元康(徳川家康)との内通の疑いを受けた。
 今川家の縁戚でもあり、井伊直盛の妻:祐椿尼は妹であった新野親矩
 の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かうことになった。

・12月14日(1563年1月8日)…3月2日説
  井伊直親は掛川で今川家の重臣:朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害
  された。享年27。

・永禄7年(1564) 中野直由が戦死した。
  中野直之があとを継いだ。
  奥山六左衛門はひよ(井伊直政の母・中野直之の妻の姉)の姉弟で
  あった。
 井伊家にはダレも跡継ぎがいなくなった。


・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。

・永禄11年(1568) 今川氏真が瀬戸方久に出した徳政令を免じる
  安堵状を出した。条件は新城の備蓄を賄うようにち付帯事項が
 付いていた。
 ※新城が刑部城・堀川城と見られている。
 今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻に備え、刑部城や堀川城の改修
 工事を命じた。
 そして、両城に集まったのは、各地からの牢人である。

 
・永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受け、徳政令を井伊直虎・関口氏経の連名で発令した。
小野道好に井伊谷城を奪われた。
18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に、浜松城
  (旧引馬城)主となっていた徳川家康が加担した。
徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込んだ。
 徳川家康は井伊谷城を攻略した。
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。
 次いで刑部城を落城させた。
 今川方で近隣の堀江城主:大沢左衛門は家康に抵抗していた。
 新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700人を
  集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
  
・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。

・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城に入城した。
★井伊谷3人衆も世代交代し、近藤秀用・菅沼忠道・鈴木重好
 が井伊家家老として、ついていった。家老は16~17人いた。
 外に、新野家から親戚:木俣・三浦・鈴木
 外に、奥山家から親戚:奥山・中野・庵原・
   ★中野直之長男:中野三信(妻は近藤秀用の娘
   ★中野直之次男:松下一定
 外に、井伊直政の姉の夫:川手良則
 外に、井伊直政養父:松下景清と養子:松下一定
 など
 旧武田家臣や旧北条家臣
  孕石・石原・宇津木・岡本
 外の付家老
  椋原・西郷など

近藤家は現高崎市箕郷町富岡に所領があったと考えられる。
   (富岡の高橋家の場所である。)

・慶長元年(1592)近藤康用の子:秀用は 箕輪城から2年で戻った。
近藤秀用ら徳川直臣に戻りたかった家臣は徳川家康に直訴しようと
  していたが、井伊直政は徳川家康に頼み、妨害した。
   (★『井伊軍志』:井伊達夫著)
近藤秀用は井伊直政から暗殺されそうになり、出奔して伊勢へ逃れた。
井伊家の重臣の人事権は、徳川家康が持っていた。
 従って、徳川家康への反抗とみなされた。
(★『譜代大名の創出と幕藩体制』小宮山敏和著 吉川弘文館2015年)


※「慶長元年申年二月より金指に市場始り申候」
 (★『都田村年代手鑑』金原:下都田村の庄屋文書)


・慶長5年(1600) 関は原の戦い
 服部忠次が刑部城主になった。
  服部忠次領内巡視中に姫街道「長坂」で暗殺されてしまった。

 松下常慶が金指・刑部などの天領の6000石の代官になった。
 松下常慶が「最後の刑部城主」とされている。
 松下常慶の一族などが刑部城を守備した。

 井伊直政が高崎城から近江佐和山に移封になった。

・慶長6年(1601) 気賀の関所は本坂道を監視するためにに徳川幕府
  によって設けられた。
  東海道の箱根の関所、今切(新居)の関所とともに江戸に対する
  重要拠点となった。

・慶長7年(1602)井伊直政が佐和山で亡くなった。
  徳川家忠に近藤秀用は許された。
   槍奉行となって上野国青柳(前橋市青柳ではなく、邑楽館林の
   青柳)に5000石の所領を与えられた。
※館林市青柳町654 青柳藩陣屋跡

・慶長8年(1603) 池田輝政の仲介で徳川家康の勘気が解かれた。

・慶長10年(1605) 気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失した。
  関所は被災を免れた。

・慶長19年(1614) 近藤秀用は相模国で1万石に加増された。
   青柳5000+小田原付近5000
  小田原城の城番となった。
 近藤秀用は大坂の陣に参陣して武功を挙げた。

・元和5年(1619) 近藤秀用は井伊谷へ転封となった。
  近藤秀用は1万5,000石の大名として井伊谷藩を立藩した。
青柳藩は廃藩となった。
  林業に力を入れた。後、2009石加増。
  

・寛永8年(1631) 所領を子息たちに分知し、五近藤家が成立した。
気賀の関所は気賀の近藤用可が入った。
 (明治になるまでの約250年間、12代にわたり、3,500石余りの
  旗本として気賀関所を預かった。
気賀近藤家の墓は長楽寺の近くにあるとパンフレットにあったが
   行けなかった。
  金指近藤家は近藤季用が陣屋や初山宝林寺を建立した。


・宝永4年(1707) 東海地方を襲った大地震のため今切渡船場が破壊
され通行不能となった。
  交通は本坂通に集中した。

・宝永5年(1708) 東海道は復旧した。
  幕府は本坂通の通行を禁止した。
  しかし、旅人の多くは本坂通を利用した。

・明和元年(1764) 幕府は本坂通を東海道の別道として認め道中奉行の
支配下においた。
 
・明治2年(1869) 新政府は諸道の関所を廃止した。


★明日は浜松市三ヶ日町の「佐久城=浜名城」かな?

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