箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117気賀③「長楽寺」・『井伊直親の墓』

平成29年(2017)11月1日、井伊谷の散策の後、気賀の散策と
なった。気賀では、「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」に
行った。細江神社→万葉の里・展望台、そして国民宿舎「奥浜名
湖」に泊まった。11月2日は、朝飯前に、堀川城から『長楽寺』
に行った。朝、6時30分では寺が開いているはずもない。古刹
の雰囲気を味わってから、気賀の町中を通って、都田川にかかる
橋の手前の堤防を200m程走った。『井伊直親の墓』に着いた。
合掌。・・・墓碑前の灯籠は嘉永4年(1851)大老:井伊直粥が先祖
を思って寄進したものだそうである。(★案内板)
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箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政№15【井伊直親の逃走~2人の
子ども~井伊谷帰国】資料編
http://53922401.at.webry.info/201701/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201701/article_26.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№115井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№116『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№118気賀「姫街道と銅鐸の資料館」
の直虎パネル
http://53922401.at.webry.info/201711/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政№119気賀②展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html




【1】平成29年(2017)11月1日***************
07:00 家→駐車場
07:58 高崎 ⇒08:52着東京09:03発⇒10:31着 
 2時間33分 12,070円 お土産を買った。
JR北陸新幹線 あさま606号 東京行
JR東海道新幹線 ひかり465号 岡山行
☆石原さんにTEL
10:40 南口のトヨタレンタカー
①三方ヶ原古戦場跡  
  犀ヶ崖資料館には行かなかった。
12:00 井伊谷
   昼食「昌盛館」…中華丼・台湾味噌ラーメン
   石原さんの誕生日祝いだった・
②井伊谷遺産センター
③自耕庵と妙雲寺:直虎の位牌・南渓の位牌
●自耕庵と直虎の墓伝説
・永禄4年(1561)5月、桶狭間の戦い
 井伊直盛が戦死した。娘であった井伊直虎(次郎法師)が
「自耕庵」を造立した。龍潭寺二世の南渓和尚を講じて開山した。
井伊直虎は龍たん寺の南の一角に住んでいた。晩年は「自耕庵」
に住んだ。井伊直虎の死後、井伊直虎の塗りの位牌に記された
『妙雲院殿月舩祐圓大姉』あったことから「妙雲寺」と改められた。
●臨済宗妙心寺派「浩徳山妙雲寺」
檀家の方が平日なのに石原さんの依頼で特別に開けてくださった。
「大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送が決まってから、妙雲寺で
まず、歴代住職の位牌が並んでいる場所の一番奥から見つかりました。
普段は位牌を全部取り出すことがないので全く気が付かなかったの
ですが、大掃除の時に発見しました。
 南渓の肖像画は私がここから発見しました。
と障子戸の上の所をさして教えてくださった。
歴代住職の肖像画が保管されていますが、全部は開いてません。
どんなお宝が出てくるかは分かりません。
●本尊:虚空蔵菩薩

●直虎のお位牌
●南渓のお位牌
●南渓谷の肖像画
●青面金剛

④渭伊神社と天白磐座遺跡
⑤井伊谷宮・・・3回目

⑥龍潭寺・・・・・3回
  ★龍たん寺の現和尚様:武藤某様は大學の同期か一つ下らしい。

⑦気賀の「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」
本のプレゼント「浜松市の銅鐸」


①三遠式銅鐸、近畿式銅鐸(弥生時代)
都田川流域は全国有数の銅鐸出土地である。
 浜名湖周辺では約26個の銅鐸が出土しているそうである。
 銅鐸7点や発掘当時の展示もあった。
  資料は400円であった。
 もちろん、群馬県にはない代物である。

  銅鐸は弥生時代の青銅製のベルである
  米の豊作を祈る祭器説
  外敵や異なる神の侵入を防ぐために使われた説。
  鹿や鳥の絵が描かれたものもあった。

②姫街道の往来と諸道具(江戸時代)

③藺草(いぐさ)生産にかかわる道具(江戸時代)
畳表として生産されたイ草に関わる資料

④浜名湖用の漁船

⑤産屋(移築保存)(江戸時代)

⑥企画展「井伊谷の歴史パネル」



○細江神社
○万葉の里…歌碑が多い。
○展望台…気賀の眺めが最高。
○国民宿舎「奥浜名湖」

○石原氏宅…たくさんに本をいただいた。
・「井伊家傳記」訳本上下:たちばな会著
  ・「井伊氏ゆかりの石塔」
  ・「井の国物語」谷光洋著、版画家でもある。
  ・「気賀と万葉歌碑」
  ・「高崎史帳」森田秀策著
  ・その他資料。
○19:00国民宿舎「奥浜名湖」
  ★景色は最高。

 ・「花の舞酒造」の「奥浜名湖」を飲んだ。

 ★体裁のよい和食料理で、酒飲みには物足らなかった。
  浜松・浜名湖の味である浜松駅前より安い「うなぎ」を堪能
  できず、残念。鰻屋・鰻屋・・・・。夕食は別にすれば良かった。



【2】平成29年(2017)11月2日***********
05:30 起床
06:00 気賀の町中に・・・
○本陣

⑧▲城№887気賀の堀川城

⑨気賀の長楽寺
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○(陣屋⇒大河ドラマ館)

⑩井伊直親の墓
ナビセット

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合掌
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説明版によると「お墓は200メートルほど東にあったのですが
堤防移築のために昭和52年(1977)12月に現在地へ移転されました。」
とのこと
⑪蜂前神社
⑫▲城№888刑部城…武田信玄のコース
○気賀の関所…町中十字路近く。入り口が小さく、駐車不可
  慶長6年(1601) 徳川家康により創設された姫街道の関所である。
○朝飯…国民宿舎「奥浜名湖」&精算11600円?
⑬気賀近藤氏5000石の陣屋
⑭大河ドラマ館…600円。★NHKの宣伝で、歴史好きの人には?
・気賀街歩きはしなかった。


⑮▲城№889三日日の佐久城
⑯▲城№890三ヶ日の千頭峯城
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
⑰▲城№891比丘尼城(近藤康用の支城)
⑱▲城№892宇利城(近藤康用の最初の城)
⑲▲城№893野田城(菅沼氏の最初の城)
⑳▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物・
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城№894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城№895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の実家
 昼飯は精進料理のうな重は1200円。
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
◆俺は帰りながら、閃いた。
 K大學の吹奏楽団の「祐太郎君」に会いてえな?・・・
★浜松泊まりを決定。東京大田区泊まり・群馬駆け戻りをやめた。
 
○GS…1900円
○トヨタレンタカー 約15000円
★可愛いお姉さんがビジネスホテルを教えてくれた。
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
「祐太郎」君にTEL…「明日、8:30に会うことになった。」
★祐太郎の声を聞けて、良かった。
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅

【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城№897二俣城
29▲城№898鳥羽山城
30▲城№899大平城(おいひら城)
31▲城№900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。祐太郎君のおごり
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家
★次に浜松に行くときは
浜松市内では、楽器博物館・浜松基地・宿蘆寺
浜松井伊谷では、三岳城(三嶽城)・渋川館・初山窯・都田城・奥山城
浜松の山奥では、犬居城・高根城
隣の市では【舟ケ谷城】直虎を支えた新野氏の居城・横須賀城
宿泊するなら「舘山寺温泉」国民宿舎紅竹 6000円


箕輪初心:生方▲大草城&大河原城*宗良親王&香坂高宗
http://53922401.at.webry.info/201606/article_12.html
 ★宗長親王は信濃の大草城・大河原城を拠点とした。


【●】「姫街道と気賀の歴史」
愛知県御油宿から静岡県見付宿の間を浜名湖の北岸経由で結ぶ東海道
の脇街道である。正式には本坂通と呼ばれている。
愛知県と静岡県の境にある本坂峠は姫街道の難所である。

・弥生時代
  銅鐸文化で栄えた。当然、米生産をしている。

・古墳時代
  前方後方墳が造られた。(北大岡古墳など)
  古墳の文化はかみつけの国(群馬県)にも伝えられた。

・奈良時代
 奈良官道(東海道)は、湖北(浜名湖の北)を通っていた。
 気賀を通る。
 防人も此処を通って奈良・九州に行かなくてはならなかった。
 『万葉集』には、「引佐細江のみおつくし」等、湖北の地名や風景を
 詠み込んだ防人歌が載せられている。
ここから先は死ぬか生きるかの山道が待っていた。
 気賀から見る浜名湖は絶景であったのであろう。
 東山道の高崎付近と同じで歌を詠む場所であったのだろう。
  「伊香保路(榛名山)」が9首ある。
愛知県側の国名が「穂の国」(三河の国・宝飯郡)であった。
「穂の坂」または「穂の境」がなまって「本坂」になったと言われる。
 奈良時代の浜名湖は現在の広さの半分であった。
 北半分で、湖水は浜名川によって遠州灘(太平洋)へ流れ出ていた。
 「引佐郡伊福郷」が気賀である。

・平安時代
「井伊谷」井伊氏が入ってきた。井伊氏の館があった。

・鎌倉時代
湖南(浜名湖の南)で窯業が発達すると、東海道は湖南に移り、湖北
 の本坂越えの道は「ひね街道」(「ひね」は遠州弁で「古い」の意)、
 江戸時代に「姫街道」(「ひめ」は「ひね」の転訛。異説あり)と呼ば
 れたそうである。

・鎌倉時代末期
 井伊谷に詰め城として井伊谷城と6つの砦が築かれた。

・南北朝時代
・南北朝時代初期 強力な詰め城として三岳(三嶽)城が造られた。

・建武4年(1337)、三方ヶ原の戦い
 宗良親王は難破し、井伊谷に行った。
 南朝:井伊氏 VS 北朝:足利系今川範国・了俊

 井伊一族は南朝方:宗長親王にに加勢し、今川範国と戦ったが、
 敗戦を喫した。

・暦応2年・延元4年(1339)~暦応3年・興国元年(1340)南朝:
宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰・仁
木義長ら の軍勢が現浜松・井伊谷に押し寄せてきた。三岳城に
籠もったが、攻略され、更に大平城で敗北した。宗良親王
は信濃に逃亡した。井伊谷は今川了俊の支配下になった。以後、
敵対していた今川氏支配下に置かれ、井伊氏は受難の時代が続く。
(★平成28年(2016)6月に石原さんが送ってくださった資料)

・室町時代
・文明13年(1481) 中村家14代正實(まさざね)が、今川氏から
遠江国磐田郡大橋郷に領地を与えられた。
中村家は源氏の源範頼の末裔である。
   源範頼は、源頼朝の弟・源義経の母違いの兄である。

・明応7年(1498)?、 明応8年(1499)?
  超巨大地震が発生した! 
  浜名川が山津波で塞がれると、浜名湖の水が溢れ、新たな湖水の
 排出路ができた。
 ※排出路を「今切(いまぎれ)」と言った。

  地震が収束すると、浜名湖の面積は倍に広がり、今切口は広く
 なってしまった。
 淡水湖であった浜名湖は汽水湖となった。
浜名湖と遠州灘が大きく切られてから舟で渡るようになった。
 東海道も「舟を使うのは不便」だとして、湖北(本坂越え)に
 戻った。
 「交通の要地」として吉村湊(後気賀湊)と気賀は再び注目された。
 
・戦国時代
中村家は今川家の家臣として代官を勤めたいた。
中村家はTV大河ドラマ『おんな城主直虎』では商人であったが、
  史実では武士である。中村与太夫は、実在の人物である。
  今川家から浜名湖で自由に航行する権限もらい、船輸送・貿易を
  管理していた。
  
  井伊谷は、本坂越え街道・鳳来寺信濃道に通じる中継地であった。
  井伊家の財源は、運輸業が中心であった。
主な貿易輸入・運送品は、「三河塩」・「木綿」だったと考えられる。
主な貿易輸出・運送品は、「陶器」であったと思われる。

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・天文4年(1535) 井伊直親(井伊直政の父)が生まれた。
・天文5年(1536) 井伊直虎(井伊直政の養母)が生まれた。
 (★小和田哲男説では2人とも、天文5年(1536)頃説)
母:新野親矩の妹
井伊宗家21代井伊直平→22代井伊直宗→23代井伊直盛→
姫が生まれた。
姫の許嫁は姫の父:井伊直盛の従兄弟:井伊直親と決まった。
・天文5年(1536) 今川義元が家督を継いだ。
井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
今川義元の西進が始まった。

・天文11年(1542)▲三河田原城攻撃 姫の祖父:井伊直平の子:
  14代(19代)井伊直宗が野伏により討死した。

・天正11年(1583) 松岡貞利は80騎の武将であった。
 約500人の家臣がいた。
(★『長野県高森町史』)


・天文13年(1544)
12月14日 連歌師:宗牧が井伊谷の小野和泉守政直宅に
 訪れた。井伊次郎宅ではない。
 「姪直盛いまだに年若しと雖、末々子なきにをいては、直満
 が男直親を嗣とせむことを契約せしところ、直盛が家臣小野
 和泉某もとより直満と不和なりしかば、これをきらひて今川
 義元に讒し、直満・直義兄弟逆意ありと訴ふ。義元これを信じ
 天文十三年十二月、兄弟を駿府にめして、糾問す。直満申解
 と雖も、和泉様々に讒言をかまへ、二十三日つゐに冊第せらる。」
(★『東国日記』連歌師:宗牧著)

12月23日
「天文十三年十二月二十三日 (井伊直宗の子)井伊彦二郎直満・
 同平次郎直義が小野和泉守の讒言により、今川義元のため生害
 (自害)された。」
 (★『井伊家伝記』)
理由は 1)「養子之儀二付遺恨」
   2)「両人私之軍謀相企」
  ①井伊家・・・武田信玄の家臣によって井伊領が横領されるのを
防ぐため。『井伊家伝記』には無理がある。
説①通説・・・小野家は形式上では井伊家筆頭家老であった。
  小和田説では、小野和泉守政直は仕切っていて、ほかの家老
  親戚衆・引き付け衆を仕切っていた説であるが、・・・
井伊家乗っ取りを企んだ。
 (TVも2回目でそうに解説している。)
新野左馬助の目付と別に、今川からの第2の目付的な要素があった。
説②・・・井伊氏が鈴木重時と結ぼうとしていた説
説③・・・北条氏綱が奥平貞昌に井伊を取ったら500貫あげるね説。
裏で井伊直満が動いていた。
説④・・・井伊直満が井伊直盛にかわって井伊家の主導権を握ろう
  とした説である。北条ろ小野和泉守は井伊直満の謀反を防ぐために
  今川家に訴えたとことになる。
  TVでも、「井伊直盛がそれらしいことを言って、井伊直平の小野の
   手打ちを止めさせている。・・何の証拠もありません。
★何れにしても
「井伊直満を死に追いやったと思われているにも関わらず井伊家が
 処分しないのはおかしいが、今川からの回し者要素があるので、
 今川を無視して勝手に井伊家が家老の小野和泉守を裁くことが
 できなかったのあろう。」


●『井伊家伝記』「亀之丞信州落ちの件并今村籐七郎に忠節の事」
(井伊直平の子:直満(井伊直政祖父)・直義が今川氏に殺害された。
井伊直宗の弟直満・直義が殺された後、小野和泉守が駿河より
 帰国した。「直満の実子亀之丞を殺すように」との今川義元の
 命令を伝えてきたので、
 亀之丞(井伊直親:井伊直政父)にも追ってがかかり、井伊直満の
 家老:今村藤七郎正実は亀之丞を叺(かます)に隠した。
 それを背負って黒田に逃れた。小野和泉守が探索したので、近所に
 隠すことは困難と判断し、龍潭寺の南渓和尚と相談し、信濃の伊那郡
 市田郷の松源寺に隠すことにした。松源寺は南渓和尚の師だった
 黙宗和尚ゆかりの寺だったからである。南渓和尚から手紙が行き、
 亀之丞は松源寺で生活することになった。

●『井伊家遠州渋川村古跡事』
・天文13年(1544) 12月29日 黒田から渋川郷の東光院に逃れた。
・天文14年(1545) 1月3日夜、亀之丞は東光院住持能仲の案内
  で信濃にむかった。

★伊那郡市田村(現高森町)の松源寺へ逃れた。
 信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師のいた
 寺であった。


*******************************
●井伊直親の伊那での息子
①『亀之丞と飯田井伊氏』→「井伊直虎」小和田哲男著で引用
 「亀之丞は島田村の代官:塩沢氏の女との間に一子:吉直を設け、
 帰国の際、一振りの短刀を託した。吉直はこの地に留まって、
 塩沢家で養育されたが、・・・数代後、飯田城下に出て、麹屋を
 創業した。旧井伊氏を名乗り、吉右衛門を世襲し、島田屋を屋号と
した。家紋が「丸○に橘」である。」
(『亀之丞と飯田井伊氏』:木村昌之著)
②「剣と紅」戦国の女領主・井伊直虎~高殿円著 文春文庫
直親が信濃に逃げていた時にに、出会ったきぬも魅力的に表現され
ている。直親ときぬの間に息子ができた。

③「井伊直虎~その謎と魅力」石田雅彦著
井伊直親の失踪
井伊直満の一子、直親は龍潭寺開山以来縁を結ぶ松岡家の庇護を受
け、長野県下伊那郡高森町の松源寺での10年にも及ぶ隠棲を余儀
無くされ、隠棲先の島田村の代官塩沢氏の娘との間に井伊直政の兄
や姉に当たる一男一女を儲けている。
★ちなみに、井伊直政の姉:高瀬姫(春光院)は、武節貫治こと川手
主水の正室であった。川出良則は山県昌景の家臣であったが、天正
10年(1582) 9月~10月 井伊直政の家臣となった。
関ヶ原の戦いでは、家老:川出良則は井伊直政の居城高崎城
留守居役であった。川手主水は彦根藩でも家老である。
 (★後日、井伊直政の箕輪城・高崎城で紹介したい。)

★井伊直親の結婚は、井伊直親の失踪を悲しんだ許嫁:井伊直虎が出
家をしたと言う知らせを聞いたからということのようであるが、史料
は違うようである。

◆弘治元年(1555) 亀之丞は松源寺を離れ、井伊谷に戻り、
  15代(23代)井伊直盛の養子となり、井伊直親と名乗った。
  次郎法師の養子となった。「井伊直親」と名乗った。
(NHK大河ドラマの流れであると思われる。)
 井伊直親は家臣:奥山朝年の娘と結婚した。今川義元に復帰した。

◆弘治2年(1556)南渓禅師(龍潭寺2世)に相談し次郎法師
  を名乗った説もある。

●『寛政重修諸家譜』
「女子 直親が婚を約すと雖も、直満害せられ、直親信濃国の走り
 数年にしてかへらざれば、尼になり、次郎法師と号す。」
●『井伊家伝記』「次郎法師と申名の事」
「直盛には娘が1人あった。両親の考えでは、ゆくゆくは亀之丞を
 養子に迎え、夫婦にする約束でいた。ところが、信濃に落ちてい
 ってしまったため、彼女は菩提の心深く、南渓和尚の弟子になっ
 て、剃髪し、出家してしまった両親は嘆き、『一度は亀之丞を夫婦
 と思っていたのに、このようになってしまって』。と、尼の名はつ
 けさせたくない』と南渓に申し出た。一方、彼女の方は。『出家し
 たのだから、是非、尼の名前をつけて欲しい』ろ、親子で意見が
分かれてしまった。そこで、南渓和尚が考えたのは次郎法師という
 名前であった。」
・?年 姫は許嫁:井伊直親が殺害されたと思っていた。
 姫は祖父の弟:南渓禅師から「次郎(井伊家跡継ぎ長男名)法師」を名乗
 ることが許された。井伊直政が幼年であったため、井伊家家督となり、
 地頭職を嗣いだ。」  
 (★享保15年(1730)『井伊家伝記』龍潭寺所蔵:2次史料)

●『井伊家伝記の史料的性格』野田浩子著
「私的感情では主家は認められない。・・婿が出家したので、出家し
た。」と考えるのが妥当である。

・天文年間 井伊直盛が二宮神社を再建した。
 
◆天文23年(1554)小野和泉守が没した。
   龍泰寺(現龍潭寺)に埋葬した。
龍谷山正泉寺が開創された。開山は慧湛和尚である。

・弘治元年(1555) 亀之丞は松源寺を離れ、井伊谷に戻り、
  15代(23代)井伊直盛の養子となり、井伊直親と名乗った。
  次郎法師の養子となった。「井伊直親」と名乗った。

●『井伊家遠州渋川村古跡事』 
「・天文二十三年((1554)寅年、小野和泉守病死。これにより
 直盛から信濃に使いをやろ、亀之丞は今村藤七郎同伴で、弘治
 元年二月に帰国することができた。その時、当寺(東光院)に
 滞在し、三月三日に寺を出て、井伊谷に到着した。しぐに、直盛
 の養子になることが決まり、井伊肥後守直親を名乗り、奥山因幡
 守朝利の娘(★本当は妹)と縁組みし、祝田(ほうだ)村に居住
 することになった。
★これだけを信じるわけにはいかない。
 武田晴信の伊那侵攻との関わりを考えるべきだと思っている。

●結論・・・
・『井伊家遠州渋川村古跡事』の天文14年(1545) 1月4日~
 弘治元年(1555)2月に帰国することができた。
 前松岡城主:松岡貞正の実弟:文叔と松岡城主:松岡貞利が亀之丞
 (井伊直親)を12年間、庇護した。
(★『井伊家伝記』)
 と思っていたが、10年と1ヶ月のようでである。
①文叔の弟:正英和尚が松岡城主:松岡貞利が庇護した。
②今村藤七郎が10年間、養育した。  
井伊直盛は小野政直の死によって信濃国に逃れていた
亀之丞(直親)を呼び戻すこととした。

・弘治元年(1555) 今川義元の許しを得て井伊直親を改めて嗣子
 として迎え入れた。

●井伊直親は家臣:奥山親朝の娘と結婚した。
(『寛政重修諸家譜』)
★『寛政重修諸家譜』は間違いで、奥山親朝の子:朝利の娘である・
 新野左馬助親矩の妹が井伊直盛の妻で、次郎法師の母である。

◆井伊直親と奥山朝利の娘の結婚理由
次郎法師が還俗し、井伊直親と結婚する方法もあったが、採れなか
ったのが現状であった。今川氏の侵攻のほかに、武田氏の侵攻も視野
に入れる必要が
あった。奥山一族は鎌倉時代の赤佐井伊氏の末裔であった。井伊家で
一番の力を持っていたので、井伊家主家筋のバックとして味方に引き入
れようとした。
その後、井伊直親は今川義元に復帰した。復帰せざるをえなかったので
あろう

 
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が戦死した。
  井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
井伊家は中野直由が形式上、井伊谷城主になった。
遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。

土地の人々が砦を築き、地名から堀川城と名付けた。
  都田川の対岸にも刑部城を築いた。
 
 徳川家康の遠江侵攻に備えた。
 しかし、未だ今川氏の勢力下であった。

 今川家の力が弱くなったのにつけ込み、密かに気賀に集まる者も
 増えていった。
 
 井伊直盛時代の「井伊谷七人衆」の1人であったが、「桶狭間の戦い」
後、独立して気賀領主となったと伝えられている
「遠州気賀領主新田左衛門入道喜兼(元直平ノ家臣也)」
  (★『井伊直平公一代記』)
井伊家は貿易業(吉村湊からの水上輸送)に目を付けた。
気賀には新田友作・家臣の石田党、丸井党、蒲生党、中村党が
集まっていた。

山村修理、尾藤主膳、竹田高正などもいた。


・永禄5年(1663)
井伊直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、今川氏真
 から松平元康(徳川家康)との内通の疑いを受けた。
 今川家の縁戚でもあり、井伊直盛の妻:祐椿尼は妹であった新野親矩
 の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かうことになった。

・12月14日(1563年1月8日)…3月2日説
  井伊直親は掛川で今川家の重臣:朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害
  された。享年27。
墓は金指の都田川の右岸の河川敷いある。
 
 東光院にも井伊直親の墓がある。東光院は、井伊直虎の許嫁
であった亀之丞(井伊直親)が一時身を寄せた寺院である。


********************************
・永禄7年(1564) 中野直由が戦死した。
  中野直之があとを継いだ。
  奥山六左衛門はひよ(井伊直政の母・中野直之の妻の姉)の姉弟で
  あった。
 井伊家にはダレも跡継ぎがいなくなった。
 
・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。

・永禄11年(1568) 今川氏真が瀬戸方久に出した徳政令を免じる
  安堵状を出した。条件は新城の備蓄を賄うようにち付帯事項が
 付いていた。新城が刑部城・堀川城では、と見られている。
 今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻に備え、刑部城や堀川城の改修
 工事を命じた。
 そして、両城に集まったのは、各地からの牢人である。

 
・永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受け、徳政令を井伊直虎・関口氏経の連名で発令した。
  (★蜂前神社文書)
小野道好に井伊谷城を奪われた。
18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に、浜松城
  (旧引馬城)主となっていた徳川家康が加担した。
徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込んだ。
 徳川家康は井伊谷城を攻略した。
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。
 次いで刑部城を落城させた。
 今川方で近隣の堀江城主:大沢左衛門は家康に抵抗していた。
 新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700人を
  集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
  

・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。

 4月 小野政次(道好)は井伊谷の蟹渕で獄門となった。
 5月 小野但馬守正次の2人の子供も殺された。


******************************

・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城に入城した。

・慶長元年(1592)近藤康用の子:秀用は 箕輪城から2年で戻った。

※『都田村年代手鑑』(金原:下都田村の庄屋文書)に
「慶長元年申年二月より金指に市場始り申候」
「寛保二年戌年気賀に市場初り候」

・慶長6年(1601) 気賀の関所は本坂道を監視するためにに徳川幕府
  によって設けられた。
  東海道の箱根の関所、今切(新居)の関所とともに江戸に対する
  重要拠点となった。

・慶長7年(1602)井伊直政が亡くなった。
  徳川家忠に近藤秀用は許された。
近藤秀用は井伊谷1万石となった。
  林業に力を入れた。
  近藤5家に分かれた。気賀の関所にも近藤家が入った。

・慶長10(1605) 気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失した。
  関所は被災を免れた。

  ・宝永4年(1707) 東海地方を襲った大地震のため今切渡船場が破壊
され通行不能となった。
  交通は本坂通に集中した。
・宝永5年(1708) 東海道は復旧した。
  幕府は本坂通の通行を禁止した。
  しかし、旅人の多くは本坂通を利用した。

・明和元年(1764) 幕府は本坂通を東海道の別道として認め道中奉行の
支配下においた。
 
・明治2年(1869) 新政府は諸道の関所を廃止した。


★明日は蜂前神社かな?

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