箕輪初心:生方▲西伊豆⑫『江梨鈴木氏館=海蔵禅寺&航浦禅寺』
大瀬崎ダイビングの途中で寄った。沼津城→獅子浜館→三津城→
長浜城から西に湾岸沿いを走る。西浦ミカンや漁業の集落を越えて、
車で走ること20分。駿河湾に突出する大瀬崎の手前に江梨の集落
がある。鈴木繁伴は初めは大瀬崎の神池の隣に住んでいたが、子孫
は江梨の海蔵寺&航浦禅寺の場所に住んだ。沼津市西浦江梨には、
江梨鈴木氏歴代の居館跡=鈴木氏館がある。水運のよい地に居館
があったことになる。江梨には、明治になるまで陸路がなかったそう
である。
【1】海蔵寺(鈴木氏館)
静岡県沼津市西浦江梨161-1
鈴木市居館は海蔵寺の境内(伝)
★遺構は全く残っていないようである。
墓石を見せて貰うのを忘れた。
【2】航浦禅寺(鈴木氏館?→菩提寺)
北条家の水軍武将の一人である鈴木氏代々の館跡である。
【3】江梨湾・・・鈴木一族が利用した湊
●▲■ 鈴木氏の歴史 ■▲●
・元弘元年(1331)後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗を挙げした。
熊野藤泊当主:鈴木繁伴は鎌倉幕府14代執権の北条高時の
命により熊野に来た大塔宮:護良親王と戦った。
新田義貞に鎌倉幕府は倒されて窮地に陥った。
・正慶2年(1333)
鈴木繁伴は郎党30余人を率いて、海路で伊豆大瀬崎に来て
立て籠もった(伝)。潜伏した。
・建武3年(1336)
足利尊氏により、後醍醐天皇の建武の新政が崩壊すると、
本拠の紀伊国熊野藤白に戻った。
(★ウィキペディア)
・正平5年(1351) 観応の擾乱・・・薩埵山の合戦
兄:足利尊氏 VS 弟:足利直義方
鈴木繁伴は足利直義派に付いて敗れた。
伊豆江梨の山中に隠れた。
鈴木繁伴の四天王は渡邉氏、加藤氏、武氏、秋津氏である。
家臣に木島法印という熊野山伏などがいた。
「鈴木繁伴館」(★大瀬崎の先端部にある)を建築した(伝)。
※鈴木重伴が江梨村に来住した際に築いた初期の居館とされる。
江梨の大瀬神社で祭祀にいそしんだとされる。
鈴木氏は熊野を信仰していた。
★天狗は熊野の天狗か?
鈴木繁伴は大瀬崎~江梨に勢力を伸ばした。
伊豆守護:上杉憲顕に土地の管理を許された。
・貞治7年 (1367) 鈴木繁伴は鎌倉公方:足利氏満に伊豆・相模両国
の水軍の大将を命ぜられた。
・貞和5年(1439)?南北朝時代
足利基氏からの海賊衆11人への書状
①土肥高谷城主:富永肥前守・・佐々木源氏の末裔?
②田子小松城主:山本飛騨守・・清和源氏山本義経の末裔?熊野水軍
③中立石坂城主:小沢隼人正・・?
④松崎沢谷城主:渡辺伊代守・・下田田牛
⑤雲見上山城主:高橋丹後守・・雲見の土豪
⑥青野摩原城主:鈴木大和守・・江梨鈴木家の分家?
⑦見作堤坂城主:進士美濃守・・箕作の土豪
⑧三根金原城主:笹本豊後守・・峯の土豪
⑨本郷氏島城主:志水長門守・・下田の土豪(伯耆国から?)
⑩月崎池原城主:御簾日向守・・長津呂の土豪
⑪長津呂白水城:御簾三河守・・長津呂の土豪
(★土肥神社『源基氏伝帖』=足利基氏)による城跡が記され
ている。)(★伊豆水軍物語P80-~84)
熊野から伊豆にやってきた海賊はたくさんいた。
戸田・・・塩崎氏・野田氏・高田氏など
田子・・・山本氏・椿氏
仁科・・・渡辺氏
松崎・・・佐藤氏
伊東・・・浜野氏
などほとんどは熊野水軍であった。
伊豆は紀伊同様、海岸線は複雑で港も開港できる。
遠州灘に比べると、穏やかであった。
熊野神社を建て崇拝した。
海賊は山伏でもある。伊豆の人々からも畏敬の念を持たれ、
受け入れられた。熊野信仰も受け入れられた。
海賊・山賊は航海術や漁業・採掘&製鉄技術、ゲリラ戦術
等に優れていた。
・文安年間(1444~49)鈴木兵庫助繁用が亡き父:繁郷のために
航浦禅院を創立した(伝)。
鈴木氏の菩提寺となっている。
さらに、裏山に熊野神社を建てた。
(★伊豆水軍物語P63~66)
・延徳3年(1491) 足利政知の死→堀越御所の内紛
・明応2年(1493) 北条早雲満37歳明応の政変
管領:細川政元が10代将軍義材(義稙)を追放した。
茶々丸弟:清晃を室町殿(実質上の将軍)を擁立した。
足利清晃は還俗して、義遐→義澄と名乗った。
足利義遐=義澄は母と兄:茶々丸の敵討ちを命じた。
足利義澄は伊勢宗瑞(北条早雲)に茶々丸討伐を命じた。
→伊勢新九郎(=北条早雲)は「不孝者・茶々丸の成敗」を
大義名分に、伊豆の武士団を味方につけた。
伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵入を招いた。
①興国寺城説
伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆堀越御所足利政知の子:茶々丸を
急襲した。
②駿河の丸子城説
「伊豆討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国
の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と
今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船
に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸した。」
(★北条五代記)
住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。
(★伊豆水軍物語P86)
伊勢新九郎家臣・・約200
今川氏親の家臣・・約300
葛山氏は今川氏に命じられて援軍として参加している。
その後、伊勢宗瑞=北条早雲の次男:氏時を養子にむかえた。
+触れを出した。西伊豆の水軍のメンバー以下の通りである。
①三津の松下三郎右衞門
②江梨の鈴木兵庫助(元熊野水軍)
③土肥の富永政直
④田子の山本太郎左衛門(元熊野水軍)
⑥雲見の高橋将監
⑥妻良の村田市之助
達の水軍が加わった。
陸では、大見の3人衆:梅原・佐藤・上村などが加わった。
大見3人衆
大見:梅原杢右衞門
大見:佐藤四郎兵衛
大見:上村玄蕃
であった。
(★土肥の富永一族:土肥町教育委員会)
鈴木繁宗は三津の松下氏や大見の三人衆らとともに堀越公方から離反
していち早く馳せ参じ、足利茶々丸攻めに参加した。
伊勢盛時(北条早雲)が伊豆国に討ち入り堀越御所を焼き滅ぼした。
その後は後北条氏配下の伊豆水軍(北条水軍)を率いる武将のとして、
伊豆衆21家の1人に数えられた。
また、
「其郷(江梨)不入子細者、早雲寺殿様駿州石脇御座候時より申合」
(★江梨鈴木文書:ウィキペディア)
北条早雲江梨郷が鈴繁宗に木不入の特権が発給された。
・明応3年(1494)
韮山城を居城とした。
伊豆国内で四公六民の税制などを行い、領民の支持を得た。
富永政直は興国寺城代になった。
(★富永一族の歴史:土肥町教育委員会)
北条早雲は伊豆:韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として
伊豆国の統治を始めた。
高札を立ててた。北条早雲は
「味方に参じれば本領を安堵する。参じなければ作物を荒らして
住居を破壊する。」
と布告した。
分国法=早雲寺21ヶ条を制定し、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、
病人を看護するなど善政を施した。
※漫画:北条早雲では、風土病があったので、薬を配った。
→暴君:茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち
北条早雲に従った。
(★漫画:北条早雲)
※「堀越公方家の重い税制を廃して四公六民の租税を定めたので、
領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われるが、
江戸時代の軍記は違っていた。
北条早雲に5年かかって、全伊豆を平定したのは事実だった。
・明応6年(1497) 伊勢氏と狩野氏との間に激しい戦い
結果・・伊勢方の大見3人衆の働きにより勝利。
・北条早雲は、鈴木氏の軍を家臣として迎え入れた。
江梨の他4ヶ村を支配した。
北条早雲は熊野社を保護して、伊豆に熊野神社が造らせた。
・明応7年(1498) 房総半島から紀伊半島での大地震
鈴木居館は海蔵寺の境内(伝)に移転。
地震・津波のため、移転せざるを得なかった。
鈴木繁伴は江梨に江梨城=鈴木氏館(現海蔵禅寺)を築城
した。「鈴木重伴」から「鈴木繁伴」と名乗った。
※以来、鈴木氏の館となった。
・・・遺構は全く残っていない。
鈴木繁宗の次男・鈴木繁時は同じ伊豆国内の賀茂郡稲取村へ移住
し、伊豆水軍に加わったとされる。
鈴木繁時-繁則-元繁-方繁と続いた。
※菩提寺:航浦院は、鈴木繁允(兵庫頭)の3世とされる鈴木繁郷
(杉本左京大夫)の開創と伝えられる。
※初代北条早雲は小田原を支配。
~~~略~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2代氏綱・3代氏康は武蔵から下総まで侵攻。
※北条氏康はは水軍を組織を整備した。
①三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織。
→江戸湾から里見氏の勢力を駆逐。
②宇佐美・福浦・岩を中心に東伊豆の水軍を組織。
③長浜・獅子浜・江梨(大瀬崎)・土肥を中心に西伊豆の水軍を組織。
三津浜:松下三郎右衞門尉
江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁宗
土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
雲見:高橋将監
妻良:村田市之助
鈴木氏は以後、北条氏麾下の伊豆水軍の一翼を担った。
鈴木氏は紀伊熊野水軍の末裔である。
鈴木繁宗は、伊豆国江梨村の江梨城(鈴木氏館)を本拠に
江梨五ヶ村を支配した。
狩野氏総領家の当主:狩野道一は伊勢新九郎の伊豆制圧に
4年間立ちはだかった。
小田原北条氏の家臣で西伊豆の水軍の将の1人であった。
①長浜城・・・・・・大石兵庫
②江梨の鈴木館・・・鈴木氏
③高谷城・丸山城・・富永氏
鈴木丹後守繁定は江梨村のほか、久料、足保、古宇、立保を含めた
江梨5ヶ村を支配しちた、北伊豆随一の有力武門へと成長
していった。
・天文24年(1555) 第2次川中島の戦い
鈴木丹後守繁定の子:鈴木繁朝は武田方として参戦した。
武田信玄から感状を賜っている。
(★鈴木家文書)
・永禄12年(1569) 甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻。
北条氏の砦跡地に三枚橋城が建設された。
御館の乱により敵対することになった北条氏に対する
武田氏の駿河・伊豆国境の最前線の拠点である。
・元亀・天正年間(1570~92) 鈴木丹後守繁定が当主であった。
鈴木丹後守繁定は北条氏政から武田信玄に対する駿河湾沿岸警備
の司令を受けていた。
・元亀元年(1570)
武田信玄の三枚橋城築城説(有力説)
城将は高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)
・堀内政豊等であった。
武田氏の駿河における拠点の一つが三枚橋城として
機能し始めた。
武田信玄が三島や韮山城に攻め込んだ。
※武田水軍は海上から物資の支援をした。
・元亀2年(1571)
●武田水軍
小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)
VS
■北条水軍
北条水軍の総裁は玉縄城代:間宮康俊であった。
間宮康俊の子:間宮武兵衛・間宮造酒丞もいた。
三津浜:松下、江梨・大瀬崎:鈴木、戸田:北条幻庵
等であった。
結果・・・北条水軍の負け
間宮武兵衛・間宮造酒丞は武田信玄に1500貫文の知行で
配下になった。
・元亀3年(1572)
●武田水軍
間宮武兵衛:10艘・・・(玉縄城代間宮康俊698貫の子)
間宮造酒丞:5艘・・・・(玉縄城代間宮康俊の子)
小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)
・・・計53艘
徳川水軍とも対戦した。
・元亀4年(1573) 北条氏政から鈴木家への発給文書
7月16日、北条氏政から江梨+4ヶ村:立保、古宇、足保、久料
を支配する文書が発給された。
、
・天正2年(1574) 7月10日 北条氏政から鈴木丹後守への発給文書
「武田氏からの船手判を示し、今後は駿河船はこの印のある手形を
持つことに加え、不審な船があれば取り押さえ報告するように
・・」
と命じた朱印状が現存している。
(★伊豆水軍物語)
・天正4年(1576)北条氏政の大石越後守直久(北条氏照の義弟の子)
が獅子浜城代となって守備した。
甲斐武田氏が沼津に進攻して以降、獅子浜城は西伊豆海岸防備
の拠点となった。
獅子浜城には、港がなく、水軍城ではないが、水軍援護基地と
して重視された。
★武蔵:滝川城にいた大石一族・・・北条氏康の2男:
北条氏照が大石一族に婿養子の形を取って、八王子付近を
手に入れた。
・天正5年(1577)
武田勝頼が三枚橋城築城説。
●武田氏の三枚橋城
高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)・堀内政豊
~~狩野川を挟んで~~~~~~
■後北条氏の戸倉城:笠原政尭(政晴=松田憲秀長男:笠原家養子)
泉頭城:笠原範定
武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻撃
した。
武田勝頼は獅子浜城の動向も気になっていた。
・天正8年(1580) 重須沖の駿河湾で海戦。
武田水軍 VS 北条水軍
・天正9年(1581)
10月 三枚橋城主:曾根昌長から内応を持ちかけられ、
笠原政尭・笠原範定が北条氏を離反した。
笠原政尭・笠原範定が武田勝頼の支援を受け、義弟:笠原照重
(笠原康勝の実子)を攻めて敗死させた。
戸倉城は武田勝頼の所領となった。
黄瀬川の戦い
武田 VS 北条
忍者対決もあった。
武田乱破 VS 風魔一族200人(足柄郡+伊豆)
・天正10年(1582)
2月29日 武田氏の城:戸倉城が北条氏の攻撃により落城
した。
三枚橋城の守備兵が動揺し自落した。
3月21日 武田勝頼・信勝父子が天目山(景徳院)で自害。
武田氏が滅亡。
★2ヶ月後には景徳院の墓を紹介できると思う。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
江梨鈴木氏は後北条氏に従って戦ったが敗退した。
7月5日 後北条氏が小田原城開城
7月11日 後北条氏が滅亡。
江梨鈴木氏は北条氏と運命を共にした。
江梨城主・鈴木繁脩の弟:鈴木繁氏は陸奥国糠部郡葛巻村
小屋瀬(現岩手県岩手郡葛巻町小屋瀬)に移住し、小屋瀬
鈴木家の祖となった。
★明日は、江梨大瀬崎の初代:鈴木繁伴館などを紹介する。
長浜城から西に湾岸沿いを走る。西浦ミカンや漁業の集落を越えて、
車で走ること20分。駿河湾に突出する大瀬崎の手前に江梨の集落
がある。鈴木繁伴は初めは大瀬崎の神池の隣に住んでいたが、子孫
は江梨の海蔵寺&航浦禅寺の場所に住んだ。沼津市西浦江梨には、
江梨鈴木氏歴代の居館跡=鈴木氏館がある。水運のよい地に居館
があったことになる。江梨には、明治になるまで陸路がなかったそう
である。
【1】海蔵寺(鈴木氏館)
静岡県沼津市西浦江梨161-1
鈴木市居館は海蔵寺の境内(伝)
★遺構は全く残っていないようである。
墓石を見せて貰うのを忘れた。
【2】航浦禅寺(鈴木氏館?→菩提寺)
北条家の水軍武将の一人である鈴木氏代々の館跡である。
【3】江梨湾・・・鈴木一族が利用した湊
●▲■ 鈴木氏の歴史 ■▲●
・元弘元年(1331)後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗を挙げした。
熊野藤泊当主:鈴木繁伴は鎌倉幕府14代執権の北条高時の
命により熊野に来た大塔宮:護良親王と戦った。
新田義貞に鎌倉幕府は倒されて窮地に陥った。
・正慶2年(1333)
鈴木繁伴は郎党30余人を率いて、海路で伊豆大瀬崎に来て
立て籠もった(伝)。潜伏した。
・建武3年(1336)
足利尊氏により、後醍醐天皇の建武の新政が崩壊すると、
本拠の紀伊国熊野藤白に戻った。
(★ウィキペディア)
・正平5年(1351) 観応の擾乱・・・薩埵山の合戦
兄:足利尊氏 VS 弟:足利直義方
鈴木繁伴は足利直義派に付いて敗れた。
伊豆江梨の山中に隠れた。
鈴木繁伴の四天王は渡邉氏、加藤氏、武氏、秋津氏である。
家臣に木島法印という熊野山伏などがいた。
「鈴木繁伴館」(★大瀬崎の先端部にある)を建築した(伝)。
※鈴木重伴が江梨村に来住した際に築いた初期の居館とされる。
江梨の大瀬神社で祭祀にいそしんだとされる。
鈴木氏は熊野を信仰していた。
★天狗は熊野の天狗か?
鈴木繁伴は大瀬崎~江梨に勢力を伸ばした。
伊豆守護:上杉憲顕に土地の管理を許された。
・貞治7年 (1367) 鈴木繁伴は鎌倉公方:足利氏満に伊豆・相模両国
の水軍の大将を命ぜられた。
・貞和5年(1439)?南北朝時代
足利基氏からの海賊衆11人への書状
①土肥高谷城主:富永肥前守・・佐々木源氏の末裔?
②田子小松城主:山本飛騨守・・清和源氏山本義経の末裔?熊野水軍
③中立石坂城主:小沢隼人正・・?
④松崎沢谷城主:渡辺伊代守・・下田田牛
⑤雲見上山城主:高橋丹後守・・雲見の土豪
⑥青野摩原城主:鈴木大和守・・江梨鈴木家の分家?
⑦見作堤坂城主:進士美濃守・・箕作の土豪
⑧三根金原城主:笹本豊後守・・峯の土豪
⑨本郷氏島城主:志水長門守・・下田の土豪(伯耆国から?)
⑩月崎池原城主:御簾日向守・・長津呂の土豪
⑪長津呂白水城:御簾三河守・・長津呂の土豪
(★土肥神社『源基氏伝帖』=足利基氏)による城跡が記され
ている。)(★伊豆水軍物語P80-~84)
熊野から伊豆にやってきた海賊はたくさんいた。
戸田・・・塩崎氏・野田氏・高田氏など
田子・・・山本氏・椿氏
仁科・・・渡辺氏
松崎・・・佐藤氏
伊東・・・浜野氏
などほとんどは熊野水軍であった。
伊豆は紀伊同様、海岸線は複雑で港も開港できる。
遠州灘に比べると、穏やかであった。
熊野神社を建て崇拝した。
海賊は山伏でもある。伊豆の人々からも畏敬の念を持たれ、
受け入れられた。熊野信仰も受け入れられた。
海賊・山賊は航海術や漁業・採掘&製鉄技術、ゲリラ戦術
等に優れていた。
・文安年間(1444~49)鈴木兵庫助繁用が亡き父:繁郷のために
航浦禅院を創立した(伝)。
鈴木氏の菩提寺となっている。
さらに、裏山に熊野神社を建てた。
(★伊豆水軍物語P63~66)
・延徳3年(1491) 足利政知の死→堀越御所の内紛
・明応2年(1493) 北条早雲満37歳明応の政変
管領:細川政元が10代将軍義材(義稙)を追放した。
茶々丸弟:清晃を室町殿(実質上の将軍)を擁立した。
足利清晃は還俗して、義遐→義澄と名乗った。
足利義遐=義澄は母と兄:茶々丸の敵討ちを命じた。
足利義澄は伊勢宗瑞(北条早雲)に茶々丸討伐を命じた。
→伊勢新九郎(=北条早雲)は「不孝者・茶々丸の成敗」を
大義名分に、伊豆の武士団を味方につけた。
伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵入を招いた。
①興国寺城説
伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆堀越御所足利政知の子:茶々丸を
急襲した。
②駿河の丸子城説
「伊豆討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国
の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と
今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船
に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸した。」
(★北条五代記)
住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。
(★伊豆水軍物語P86)
伊勢新九郎家臣・・約200
今川氏親の家臣・・約300
葛山氏は今川氏に命じられて援軍として参加している。
その後、伊勢宗瑞=北条早雲の次男:氏時を養子にむかえた。
+触れを出した。西伊豆の水軍のメンバー以下の通りである。
①三津の松下三郎右衞門
②江梨の鈴木兵庫助(元熊野水軍)
③土肥の富永政直
④田子の山本太郎左衛門(元熊野水軍)
⑥雲見の高橋将監
⑥妻良の村田市之助
達の水軍が加わった。
陸では、大見の3人衆:梅原・佐藤・上村などが加わった。
大見3人衆
大見:梅原杢右衞門
大見:佐藤四郎兵衛
大見:上村玄蕃
であった。
(★土肥の富永一族:土肥町教育委員会)
鈴木繁宗は三津の松下氏や大見の三人衆らとともに堀越公方から離反
していち早く馳せ参じ、足利茶々丸攻めに参加した。
伊勢盛時(北条早雲)が伊豆国に討ち入り堀越御所を焼き滅ぼした。
その後は後北条氏配下の伊豆水軍(北条水軍)を率いる武将のとして、
伊豆衆21家の1人に数えられた。
また、
「其郷(江梨)不入子細者、早雲寺殿様駿州石脇御座候時より申合」
(★江梨鈴木文書:ウィキペディア)
北条早雲江梨郷が鈴繁宗に木不入の特権が発給された。
・明応3年(1494)
韮山城を居城とした。
伊豆国内で四公六民の税制などを行い、領民の支持を得た。
富永政直は興国寺城代になった。
(★富永一族の歴史:土肥町教育委員会)
北条早雲は伊豆:韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として
伊豆国の統治を始めた。
高札を立ててた。北条早雲は
「味方に参じれば本領を安堵する。参じなければ作物を荒らして
住居を破壊する。」
と布告した。
分国法=早雲寺21ヶ条を制定し、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、
病人を看護するなど善政を施した。
※漫画:北条早雲では、風土病があったので、薬を配った。
→暴君:茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち
北条早雲に従った。
(★漫画:北条早雲)
※「堀越公方家の重い税制を廃して四公六民の租税を定めたので、
領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われるが、
江戸時代の軍記は違っていた。
北条早雲に5年かかって、全伊豆を平定したのは事実だった。
・明応6年(1497) 伊勢氏と狩野氏との間に激しい戦い
結果・・伊勢方の大見3人衆の働きにより勝利。
・北条早雲は、鈴木氏の軍を家臣として迎え入れた。
江梨の他4ヶ村を支配した。
北条早雲は熊野社を保護して、伊豆に熊野神社が造らせた。
・明応7年(1498) 房総半島から紀伊半島での大地震
鈴木居館は海蔵寺の境内(伝)に移転。
地震・津波のため、移転せざるを得なかった。
鈴木繁伴は江梨に江梨城=鈴木氏館(現海蔵禅寺)を築城
した。「鈴木重伴」から「鈴木繁伴」と名乗った。
※以来、鈴木氏の館となった。
・・・遺構は全く残っていない。
鈴木繁宗の次男・鈴木繁時は同じ伊豆国内の賀茂郡稲取村へ移住
し、伊豆水軍に加わったとされる。
鈴木繁時-繁則-元繁-方繁と続いた。
※菩提寺:航浦院は、鈴木繁允(兵庫頭)の3世とされる鈴木繁郷
(杉本左京大夫)の開創と伝えられる。
※初代北条早雲は小田原を支配。
~~~略~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2代氏綱・3代氏康は武蔵から下総まで侵攻。
※北条氏康はは水軍を組織を整備した。
①三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織。
→江戸湾から里見氏の勢力を駆逐。
②宇佐美・福浦・岩を中心に東伊豆の水軍を組織。
③長浜・獅子浜・江梨(大瀬崎)・土肥を中心に西伊豆の水軍を組織。
三津浜:松下三郎右衞門尉
江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁宗
土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
雲見:高橋将監
妻良:村田市之助
鈴木氏は以後、北条氏麾下の伊豆水軍の一翼を担った。
鈴木氏は紀伊熊野水軍の末裔である。
鈴木繁宗は、伊豆国江梨村の江梨城(鈴木氏館)を本拠に
江梨五ヶ村を支配した。
狩野氏総領家の当主:狩野道一は伊勢新九郎の伊豆制圧に
4年間立ちはだかった。
小田原北条氏の家臣で西伊豆の水軍の将の1人であった。
①長浜城・・・・・・大石兵庫
②江梨の鈴木館・・・鈴木氏
③高谷城・丸山城・・富永氏
鈴木丹後守繁定は江梨村のほか、久料、足保、古宇、立保を含めた
江梨5ヶ村を支配しちた、北伊豆随一の有力武門へと成長
していった。
・天文24年(1555) 第2次川中島の戦い
鈴木丹後守繁定の子:鈴木繁朝は武田方として参戦した。
武田信玄から感状を賜っている。
(★鈴木家文書)
・永禄12年(1569) 甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻。
北条氏の砦跡地に三枚橋城が建設された。
御館の乱により敵対することになった北条氏に対する
武田氏の駿河・伊豆国境の最前線の拠点である。
・元亀・天正年間(1570~92) 鈴木丹後守繁定が当主であった。
鈴木丹後守繁定は北条氏政から武田信玄に対する駿河湾沿岸警備
の司令を受けていた。
・元亀元年(1570)
武田信玄の三枚橋城築城説(有力説)
城将は高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)
・堀内政豊等であった。
武田氏の駿河における拠点の一つが三枚橋城として
機能し始めた。
武田信玄が三島や韮山城に攻め込んだ。
※武田水軍は海上から物資の支援をした。
・元亀2年(1571)
●武田水軍
小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)
VS
■北条水軍
北条水軍の総裁は玉縄城代:間宮康俊であった。
間宮康俊の子:間宮武兵衛・間宮造酒丞もいた。
三津浜:松下、江梨・大瀬崎:鈴木、戸田:北条幻庵
等であった。
結果・・・北条水軍の負け
間宮武兵衛・間宮造酒丞は武田信玄に1500貫文の知行で
配下になった。
・元亀3年(1572)
●武田水軍
間宮武兵衛:10艘・・・(玉縄城代間宮康俊698貫の子)
間宮造酒丞:5艘・・・・(玉縄城代間宮康俊の子)
小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)
・・・計53艘
徳川水軍とも対戦した。
・元亀4年(1573) 北条氏政から鈴木家への発給文書
7月16日、北条氏政から江梨+4ヶ村:立保、古宇、足保、久料
を支配する文書が発給された。
、
・天正2年(1574) 7月10日 北条氏政から鈴木丹後守への発給文書
「武田氏からの船手判を示し、今後は駿河船はこの印のある手形を
持つことに加え、不審な船があれば取り押さえ報告するように
・・」
と命じた朱印状が現存している。
(★伊豆水軍物語)
・天正4年(1576)北条氏政の大石越後守直久(北条氏照の義弟の子)
が獅子浜城代となって守備した。
甲斐武田氏が沼津に進攻して以降、獅子浜城は西伊豆海岸防備
の拠点となった。
獅子浜城には、港がなく、水軍城ではないが、水軍援護基地と
して重視された。
★武蔵:滝川城にいた大石一族・・・北条氏康の2男:
北条氏照が大石一族に婿養子の形を取って、八王子付近を
手に入れた。
・天正5年(1577)
武田勝頼が三枚橋城築城説。
●武田氏の三枚橋城
高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)・堀内政豊
~~狩野川を挟んで~~~~~~
■後北条氏の戸倉城:笠原政尭(政晴=松田憲秀長男:笠原家養子)
泉頭城:笠原範定
武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻撃
した。
武田勝頼は獅子浜城の動向も気になっていた。
・天正8年(1580) 重須沖の駿河湾で海戦。
武田水軍 VS 北条水軍
・天正9年(1581)
10月 三枚橋城主:曾根昌長から内応を持ちかけられ、
笠原政尭・笠原範定が北条氏を離反した。
笠原政尭・笠原範定が武田勝頼の支援を受け、義弟:笠原照重
(笠原康勝の実子)を攻めて敗死させた。
戸倉城は武田勝頼の所領となった。
黄瀬川の戦い
武田 VS 北条
忍者対決もあった。
武田乱破 VS 風魔一族200人(足柄郡+伊豆)
・天正10年(1582)
2月29日 武田氏の城:戸倉城が北条氏の攻撃により落城
した。
三枚橋城の守備兵が動揺し自落した。
3月21日 武田勝頼・信勝父子が天目山(景徳院)で自害。
武田氏が滅亡。
★2ヶ月後には景徳院の墓を紹介できると思う。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
江梨鈴木氏は後北条氏に従って戦ったが敗退した。
7月5日 後北条氏が小田原城開城
7月11日 後北条氏が滅亡。
江梨鈴木氏は北条氏と運命を共にした。
江梨城主・鈴木繁脩の弟:鈴木繁氏は陸奥国糠部郡葛巻村
小屋瀬(現岩手県岩手郡葛巻町小屋瀬)に移住し、小屋瀬
鈴木家の祖となった。
★明日は、江梨大瀬崎の初代:鈴木繁伴館などを紹介する。
この記事へのコメント
松崎の佐藤氏出てましたね。
佐藤氏の早雲伊豆攻略終わりからの 佐藤氏の歴史教えて 下さい。
お願い申し上げます。
御便り致します。お願い申し上げます。
松崎町の歴史ホームページ見たら
佐藤氏は 20将衆
こちらのブログ21と 成ってます。
正しいの 判りません。
教えて下さい。
松崎町に 住み着いた佐藤氏の 伊豆統一からの 徳川時代迄を 教えて下さいませ。
お願い申し上げます。