箕輪初心:生方▲前橋:富士見【岡城支城:漆窪(うるくぼ)城】

前橋富士見支所で「富士見村誌」の城をコピーした。城の縄張り
図は山崎一先生の「群馬県の古城累祉の研究」をベースにしてあ
った。山崎一氏・富士見村誌を全て信じる気にはならない。群馬
県史などから【漆窪城】は大胡氏配下→由良氏配下→厩橋長野氏
配下→(大胡長野氏)→上杉謙信配下→長尾憲景の支配→真田昌
幸の支配→北条氏邦支配に影響を受けた城であると思われる。特
に、大東文化大学教授:里見繁美先生・真田丸時代考証:黒田基樹氏
は長野氏系図=石井泰太郎系図で「長野業正の養子:里見義樹=
石井義樹=石井信房」がいる系図に着目している。つまり、里見義
樹(里見から石井に改姓)&長野氏第2家老:下田正勝の縁者と石
井の岡城の居住した。現在、下田氏の子孫が名主として石井の「岡
城」内に住んでいる。「下田家」は農地解放まで「石井」・・・富士
見中学校まで含む広大な土地を持っていた。このことから漆窪城は
長野業正の養子:石井氏の支城になったか、長野業正の甥っ子の養
子:長尾憲景の息のかかった城であったと考えるのが妥当であろう。
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【漆窪(うるくぼ)城】富岡武蔵氏(かつての陶芸仲間)   
http://tomioka.at.webry.info/201412/article_5.html



【0】旧富士見村の城

①▲岡城 旧富士見村石井字岡

箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】&箕輪城№181
長野業正養子:里見義樹=石井信房
http://53922401.at.webry.info/201512/article_5.html


②▲漆窪城 前橋市富士見町漆窪 旧富士見村漆窪字上城

③▲田島城 前橋市富士見町田島字森山
旧富士見村田島鉄炮林 (漆窪城の支城?)
箕輪初心▲前橋:富士見支所→【田島城】→珊瑚寺&赤城山の思い出
http://53922401.at.webry.info/201608/article_18.html

④▲九十九山砦 前橋市富士見町村原之郷九十九山
★訪問記・・・20100627船津伝次平調査
箕輪初心◆◆「労農:船津伝次平」&剣豪:疋田文五郎
http://53922401.at.webry.info/201106/article_11.html

⑤×金山城 旧富士見村岡之郷岡
⑥×茶釜屋敷 旧富士見村小暮
⑦×丸山城 旧富士見村米野丸山
⑧×新井館 旧富士見村田島新井
⑨×引田城=森山城 旧富士見村引田森山
 *引田氏1560年、長尾景虎の第一次関東出兵の幕注文で、
  厩橋城の長野の家臣として参列
 (通説:「上泉伊勢守の門人として有名」)
  (峰岸純夫説:上泉伊勢守)
⑩×皆沢城 旧富士見村皆沢城の堀
⑪×横室寄居 旧富士見村横室寄居




【1】漆窪城
≪アクセス≫
「田島」交差点を赤城山方面に北上する。富士見支所を右に見な
がら県道34号線を進む。細ヶ沢川の手前(GSの手前)50m
に「漆窪(うるくぼ)」への標識が出ているので、ここで左折
する。細ヶ沢川に沿って山に進むと、「長桂寺」への案内標識
がある。
地元の方に場所を聞く。
「長桂寺の東に漆窪城がある。」

・何となく、この辺だが、・・見つからない。東へ進む。
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※場所・・・群馬県勢多郡富士見村漆窪字上城

●長桂寺


●赤城神社
・赤城神社から100m程東の畑に漆窪城の石碑を発見。
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※「北緯36度さん」のHpを見た。
上から
・群馬用水赤城幹線
①3の郭
・堀・・・現在地の道
②主郭&櫓台
③主郭&2の郭の堀
④2の郭
⑤堀
⑥西の竪堀
漆窪城は北から南に向かって突出した舌状台地の末端に、4つの堀切
をもって3つの郭を設けた縄張りになっている。+変形の小郭を設け
た4つの郭からなっている。
◆参考サイト
北緯35度・北緯36度さんのHp
http://yaminabe36.tuzigiri.com/gunma/akagi_fujimi.htm


●石碑
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●富士見カルタ
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・すぐ下の畑地が主郭であった。
●主郭
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●主郭&2の郭の西の堀跡
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※主郭下と2の丸下の切岸は比高2m程ある。
遺構の残りも非常によい。


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●2の郭の西の堀跡
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●2の郭の櫓跡や土塁跡
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※2の郭の削平地・・・★馬場かなあ?
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★眺めは良い。
富士見村誌では、堀がある。でも
4つの郭の周囲の濠は畑も道になっていて、全てなくなって
いた。
●上の3の郭
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●主郭東の堀
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●群馬用水赤城幹線
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≪アクセス2≫
交差点「米野」を北に上っても行ける。北東1km位に長桂寺
があるので目指す方法もある。





【2】◆◆ 漆窪城の歴史 ◆◆
◆◆ 漆窪城の歴史 ◆◆
・????年 築城年代不明。
※「群馬県古城塁祉の研究」
前橋風土記に「長尾大膳が居る所なり。」と記されているが、大膳
は石倉城主長尾景善の弟で、長尾大膳の養子となって石倉からここ
に移り、大膳を襲名したのだと上野伝説にある。古城祉の中にはそ
の付近の人々から忘れ去られようとしているものも少なくないが、
この城は地方の人々によく知られている。」
とあった。
しかし、富士見村誌には最後は真田昌幸の家臣になった長尾憲景
の文書が多く残されている。 


*天文年間
【岡城】【漆窪城】は大胡氏配下→由良氏配下→厩橋長野氏
配下→(大胡長野氏)→上杉謙信配下→長尾憲景の支配→真田昌
幸の支配→北条氏邦支配に影響を受けた城であると思われる。

●二松学舎教授:里見繁美先生・真田丸時代考証:黒田基樹氏
は長野氏系図=石井泰太郎系図で「長野業正の養子:里見義樹=
石井義樹=石井信房」がいることに着目している。


◆◆ 石井左京大夫讃岐守信房 ◆◆

・享徳3年(1454)~ 享徳の乱
 南総里見八犬伝は千葉県館山市を舞台に繰り広げられている。
「南総里見八犬伝」(★江戸時代:滝沢馬琴著)

・ 文明年間(1469~1487)
 長野業尚(尚業:なりなお)が室田鷹留城(高崎市下室田町)を築いた。

・文明5年(1474)頃  箕輪城が築かれた。
  ★箕輪初心説・・
   ①長野氏の箕輪の菩提寺:石上寺の石どうの銘が1474年
   ②長野氏の神社:箕輪の東向八幡宮石どう(せいどう)1474年
   従って、寺より家の方が先に作られるのが当然であるから、
   1474年以前に箕輪城が築城された。

・????年 長野憲業の娘が里見義尭に嫁いだ。

・????年 子持:長尾景英の長野業正の姉が正室?として嫁いだ。
(★通説)

・大永4年(1524) 子持:長尾景英が既に嫡男:長尾景誠に家督を
  譲っていたとみられている。
(★黒田基樹説)
  ①長尾景英の娘は成田長泰の正室:白井局となっている。
(長野業正の姪っ子)
①長野業正の姪が成田長泰の娘である・
②長野業正の娘が惣社長尾に嫁ぎ、成田長泰
 総社長尾顕方が山内上杉憲寛の家宰職を足利長尾景長に
  奪われたことを恨んで北条氏綱と内応した。
  関東管領:上杉憲寛が長尾顕方は廃し、惣社:長尾顕景を
  当主にした。

・大永7年(1527) 惣社:長尾顕景も白井:長尾景誠とともに
  長尾為景と通じた。
  上杉憲寛の命を受けた箕輪城?厩橋城?:長野業正に攻め
  られて降伏した。
  ①長野業正は嫡男:吉業に長尾景誠の娘を正妻にさせた。
  長野業正は姉の子=甥っ子であり、嫡男の長野吉業の
  妻の父である子持:長尾景誠から支援を受けるようになった。
  
 12月5日 子持:長尾景英が暗殺された。

・大永8年(1528) 子持:長尾景誠が家臣に討たれてしまった。
 山内上杉家は上杉憲寛と憲政の家督争いの中にあった。
 子持:長尾景誠の死も上杉家の争いに関わっているとみられて
 いる。
(★黒田基樹説)
②長野業正は惣社:長尾顕景の嫡男:憲景を子持:長尾
 景誠の養子にさせた。
 総社:長尾家出身の長尾憲景が子持:長尾家を継いだ。

惣社長尾氏・子持長尾氏は次第に長野業正に圧迫される
   ようになった。

・享禄3年(1530)? 長野業正が箕輪長野氏を継承した。

・享禄4年(1531) 関東享禄の乱
上杉憲寛+長野業正
    VS
上杉憲政+小幡+安中+高田
 (★中世の西上州など:黒田基樹著)  
 
 結果・・・ 上杉憲寛+長野業正が敗北。
 上杉憲寛は小弓公方:足利義明のところに
 逃げ込んだ。


●天文2年(1533) 里見氏始祖義俊から16代目:安房稲村城主
 (館山市)の里見義堯の次男として里見義樹が生まれた。
 母は箕輪城主:長野憲業の娘であった。
  
  幼名を文悟丸と言った。→里見義樹と名乗った。
  
・天文2年(1533) 安房天文の内訌(稲村の変)
  7月27日 里見義豊が叔父:里見実堯と一族:正木通網
   を殺害したことから勃発した。
   ★里見氏の内紛である。
   ★里見義堯の妻は長野業正の父と言われている長野憲業
   の娘:即ち長野業正の妹である。
   (★黒田基樹説では、長野憲業の養子:長野方業の子
    が長野業正としている。)

・天文3年(1534)
 4月6日 里見実堯の実子:里見義堯が、後北条氏の力を得て、
  里見義豊の籠もる稲村城を攻め、里見義豊を自害に追い込
  んだ。
  父:里見義豊を殺された里見義堯が里見義豊を討つという
  里見氏内の全面抗争であった。
  里見義堯が第5代当主となり、家督を継いだ。
  
  ※天文の内訌は、里見分家:里見実堯・義堯父子による宗家
  に対する下克上であったとの見方が強まっている。
   (★ウィキペデイアの説)
  第5代当主:里見義堯はその後は後北条氏と手を切り、
  再び小弓公方方についた。後北条氏や上総武田氏と
  交戦した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心○千葉【大巌寺館・生実城】&「生実城と小弓城の関係」
http://53922401.at.webry.info/201404/article_12.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★小弓公方:足利義明の庇護下の前関東管領:憲寛は
  長野業正の養子ととして、里見義樹を斡旋・仲立ち
  可能性がある?
  

・????年 長野業正の養子となり、長野信房を名乗った。
①里見義樹:長野信房は長野業正の甥?に当たる。
②里見義樹:長野信房は長野業正の養子となった。
★安房里見家は危険な状態のため、里見義樹を長野業正に養子と
 して預かって貰った可能性が高い。
また、長野業正が身内として、喜んで養子にした可能性が高い。
 里見義樹:長野信房は後に長野業正の娘を結婚し、養子
となったのかもしれない。


・天文7年(1538) 第一次国府台合戦
  北条氏綱2万 VS 小弓公方:足利義明・里見義堯など
 小弓公方:足利義明が戦死した。
  里見義堯が大敗した。
  北条氏綱による安房攻めで苦境に陥った。
  
  越後守護:上杉定実と里見義堯が同盟を結んだ。
  
 里見義堯は上総に勢力を伸張した。
安房国の里見義堯は真里谷氏の弱体化により空白地帯となった
 上総国南部に進出した。真里谷氏の配下だった久留里城、大多
 喜城などを攻略し、房総半島での勢力を拡大していった。

・天文13年(1544)長野業正2男:長野氏業(業盛)が生まれた。

・天文15年(1546) 川越の合戦
  長野業正の長男:長野吉業が負傷・・・
長野吉業の妻は長尾景誠も娘であった。
(通説であると長野業正の孫を妻にしたことになる。)
  やがて、長野吉業は没した? 
  
・天文18年(1549) 里見義光が没した。 

・????年 富士見:石井岡城主:石井信房(現前橋市富士見)
  となった。
   里見義樹は長野業政の養子になったが、長野業盛が生まれた
   ので行くことになった。
 ★石井岡城は石井信房が築城したのか、下田大膳の一族が先に
   住んでいたのか不明である。
  現在は下田氏が住んでいるが・・?

▲岡城・・・・・石井義樹
▲漆窪城・・・・おそらく、下田一族
▲引田城・・・・上泉伊勢守の親戚:引田氏


・天文20年(1551) 長野信業が没した。
 (★黒田基樹先生説では長野信業は存在しない。)
 (★近藤義雄先生説では長野憲業=長野信業なので1530年没)
 (★長年寺の墓に長野信業はない。) 
 (★長年寺系図などでは長野業正の兄である。)


 2月 長野(石井)信房が鷹留城守将となった。
     鷹留城主は長野業氏であった。
    石井讃岐守信房と名乗った説もある。

・天文21年(1552)
3月  山内上杉憲政は平井城から逃れた。
     
・天文?年 上杉憲政が越後に逃れた。

・永禄元年(1558) 石井信房が鷹留城主となった。

・永禄3年(1560) 里見義堯が長尾景虎に越山要請した。
   (★正木家文書)
 長尾景虎の第一次関東出兵

・永禄3年(1560)箕輪城着到帳(★江戸時代に作られた)
客分筆頭に、石井左京大夫讃岐守信房:鷹留城主とある。


*永禄3年(1560) 長尾景虎の第1次関東出兵
(越後も関東だけど・・)
長野業正&長尾憲景は真っ先に長尾景虎に味方した。
長尾憲景は上杉謙信の味方(同族)であった。・・
春日山城からの明珍の鎧作りの出張もあった。

*永禄4年(1561) 白井城は山内上杉氏の名跡を継いだ
  上杉政虎(長尾景虎)の勢力下に入った。


*永禄9年(1566)
 9月29日 箕輪城が武田信玄に攻略された。


*永禄10年(1570)
3月6日  武田信玄→真田昌幸への書状
真田一徳斎(幸隆・幸綱)の(白井城を攻略した)
   功績を褒め、・・・
 3月8日付 武田信玄→真田昌幸への書状
 真田昌幸は箕輪城代になった。・・・
 
 ★長尾憲景は大変だった。
 越後の上杉謙信の許へ逃れた。
 上杉謙信に従って各地を転戦した。

・元亀3年(1572) 真田一徳齊(幸隆・幸綱)に白井城を攻められて
  八崎城(旧北橘村・現渋川市)に逃れた。
  長尾憲景は長尾輝景に家督を譲った。

・元亀4年(1573) 越相同盟が結ばれた。
  長尾憲景は白井城に戻った。 

*天正6年(1578) 上杉謙信の死→御館の乱
 御館の乱で上杉憲景は後北条氏につき、上杉景虎に与して敗れた。

・天正7年(1579) 上杉景虎が敗死した。
 上杉景勝は武田信玄と甲越同盟を結んだ。
 これに伴って、長尾憲景は敵対していた武田勝頼に臣従した。
 
真田昌幸の家臣に近い状態であった。 
真田昌幸家臣・長尾憲景は箱田城にいて、旧富士見の城を治めて
 いたようである。
 ★書状も多い。

*天正10年(1582)
2月? 長尾憲景は真田昌幸家臣として、北条氏政に味方する手紙
    を出していた。2人は北条家臣になる手紙を出した。
真田って、2重~3重に生き残り作戦を考えていた。

3月11日 武田氏滅亡
3月24日以降 長尾憲景が滝川一益に臣従した。
厩橋城:北条高広は片貝城に移った。
6月2日  織田氏滅亡

6月19日・20日 神流川の戦い
 滝川一益が負け、逃げ帰った。

厩橋・富士見は北条の支配下になった。
北条高広・長尾憲景は北条氏に臣従したのである。


★明日は前橋の城一覧リニューアル版?

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