箕輪初心:生方▲箕輪城187【雉郷城】&武田信玄の長野業正の親戚衆への攻撃・調略

『里見一族』里見義成著では永禄年間(1558~)初期に里見城主:里見
河内守によって築かれたともいわれているが、無理がある。根拠は、
①長野憲業の娘は里見義尭に嫁ぎ、生まれた里見義樹は長野業正の
養子になっている。(黒田基樹氏・里見繁美氏説)、従って、永享
~天文初期には箕輪近辺に戻ってきている。★桐生仁田山城・大間
々要害から里見築城説には無理がある。②箕輪城着到超帳では「高
橋氏」となっている。③『関東古戦録』:久保田順一訳では安中景
繁が秋間の礼応寺城・辻城を落とし、雉郷城に迫り、那波無理之介
が若田原から出陣し雉子ヶ峠がら雉郷城を攻略した。とある。
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秋間川:飽間→秋間・・・・・・・板鼻・八幡
   茶臼山城・内出城・・礼応寺城・辻城
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲若田原・八幡
  明神砦・かぎかき城・・御嶽山の砦・雉郷城・』
烏川:倉渕~~~~~榛名~~~~~~~~大島・剣崎・

上流から
【1】御嶽山の砦

【2】雉郷城
雉郷城=八重巻の砦 
榛名町上里見の梨園の上



①山崎一氏
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②宮坂武雄氏
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雉郷城は雉子ヶ尾峠と浅間山間にある標高373.7mの山に築かれて
いる。
遺構は素材置き場&梅園の5つの郭&山頂部7つの郭から
 なる。
 (★境目の城:上州編:宮坂武雄著)
・遠景
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  (★右が浅間山砦?・真ん中が雉郷城)
・12郭
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・11郭
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・10郭
・9郭
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・8郭

・鋭角に曲がる。
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・7郭
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・6の腰郭兼武者走り?
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・1の郭&2の郭の間の空堀
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・2の郭
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山頂の主郭部から南東へ伸びた尾根に堀切と小郭が
連続している。

・3の郭
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・4の郭

・5の郭・・・浅間神社方面
 笹薮が続く。尾根が浅間神社に繋がる。
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・1の郭&2の郭の間の空堀
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・南は直立の崖・・・
・主郭=1の郭
 カモシカのうんち・・・吾妻から榛名越え・・ここまできたか
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・1の郭&6の郭の間の空堀
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・7の郭の南
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・8~11の眺め



【3】浅間山砦
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  (★私説)砦ではないかもなあ?
  上里見の梨園を安中秋間方面に向かう。
  山頂近くの「浅間神社入り口」の看板を右折する。
  農業道路を3~4分で桜山公園に着く。
     ★南の安中秋間の下秋間カントリークラブ入り口から望むこと
   もできる。
  武田信玄の家臣になった那波氏はこの辺りから雉郷城を攻撃した
   のであろう。


【4】猪土手=獅子土手(★榛名町誌のみ記載)
  雉郷砦~浅間山~天神山 =雉郷砦の東南の山伝いの土手
  「長野時代の連絡通路」
  (★榛名町誌:久保田順一先生説・・・榛名町誌のみ記載)
 *雉郷城の北西1kmの所。榛名梅林の山頂。


【5】天神山砦説(★私説)
  里見城と尾根の間の???ガーデンが(3月6日)最盛期だった。
  ★榛名のパラグライダーパークもある。 

【6】堂尾根砦 (山崎一氏の説)  南は八幡霊園
  ★東山道を見下ろす絶好の場所である。



箕輪初心●群馬伊勢崎【那波城&那波無理之介」
http://53922401.at.webry.info/201301/article_13.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ47鷹留城②歴史&長年寺・榛名神社
http://53922401.at.webry.info/201011/article_15.html


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【1】長野業正の娘婿・親戚衆→同心衆
★長野系図は17ある。

1)ウィキペディアの説
長野吉業
長野業盛
長野正宣・・・武田信玄に仕え、53貫文の地を拝領した。
長野業朝・・・不明。
娘(木部範虎の正室)
娘(上杉憲政の正室)・・・★16長野系図に出てこない。
娘(和田業繁の正室)
娘(安中景繁の正室)・・・
娘(高田繁頼の正室)・・・★大井貞清からの娘婿:養子。
   16系図には1回も出てこない。
   娘(長野業固の正室)・・・★あり得るかも?
娘(倉賀野直行の正室)・・★倉賀野淡路守(金井淡路守)説もある。
娘(安中忠政の正室)・・・★安中景繁の父なのだ。
黒田基樹説では、・・・沼田顕泰の娘(長野業正の母妹)の娘
    長野業正の養女となり、安中忠政(重繁)にできた子は
①安中忠成(景繁)+甘利昌忠の娘、②高田繁頼の妻
娘(沼田顕泰の正室)・・・★一般的に長野業正の母は沼田顕泰だ。

★何か、怪しい気もするのだ。時代的にマッチしない人もいるし・・

彦根藩の記録によると、長野業親なる人物が業正の子としてあり、
業親の子・伝蔵が井伊直政に仕え次席家老となったという。
ただし業親は長野氏の系譜に全くみえず、庶子か養子とみられる。
(『高崎市史 通史編2』)。


2)「浜川系図」(長野弾正系図)によれば12人。
ただし、城主の実名は記載されていない。
比定は原則として『箕輪城と長野氏』(近藤義雄1979年)
に依拠した。
小幡城主小幡信貞室(長女)
国峰城主小幡景定室(次女)
忍城主成田室(三女)・・・・
  忍城学芸員は、「史料がない。」とおっしゃった。
  ★岩付城を築城した成田正等の養子は総社長尾長尾忠景の3男
  :成田顕泰である。成田顕泰→成田親泰→成田長泰→成田氏長
               ・小田朝興
               ・成田泰季→成田長親(のぼう)
  となるので、成田長泰か成田泰季に嫁いだ可能性もある。
  時代背景を考える必要かあるかもしれない。
山名城主木部定朝室(四女)
大戸城主大戸左近兵衛室(五女)
和田城主和田業繁室(六女)
倉賀野城主金井秀景室(七女)
羽尾城主羽尾修理亮室(八女)
浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室(九女)
厩橋城主・長野氏室(十女)
板鼻鷹巣城主・依田氏室(十一女)
室田鷹留城主・長野業固室(十二女)

箕輪初心:生方▲箕輪城№180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

箕輪初心★箕輪城132『長野業政の系図&長野一族』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_4.html

箕輪初心●箕輪城130「長野業正の生涯」=武田信玄を悩ませた人物
http://53922401.at.webry.info/201405/article_2.html

箕輪初心:生方▲箕輪城№182初日の出&【長野業正の親戚:成田一族】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_2.html


3)「浜川系図」(長野正弘氏系図)によれば12人。
城主の実名は記載されていない。
小幡城主小幡信貞室(長女)
国峰城主小幡景定室(次女)
忍城主成田室(三女)・・・・・・・★あり得ない。
山名城主木部定朝室(四女)・・・・★木部貞朝=木部業虎
大戸城主大戸左近兵衛室(五女)
和田城主和田業繁室(六女)
倉賀野城主金井秀景室(七女)・・・★金井は永禄8年に城主
羽尾城主羽尾修理亮室(八女)
浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室(九女)
厩橋城主・長野氏室(十女)
板鼻鷹巣城主・依田氏室(十一女)
室田鷹留城主・長野業固室(十二女)
(★『箕輪城と長野氏』近藤義雄著1979年)

4)【系図2「安中秋間の石井泰太郎氏の長野氏系図】
①長野業行→長男:業高
      ②次男:憲業=信業→③業政→女子12人 
              妹=安中忠政妻
妹=里見義堯妻
女=和田重能妻
     女=倉賀野為広妻        
藤井定俊
●藤井定俊(=藤井豊後守友忠:一般的には)
「石井泰太郎氏所有の長野氏系図」には藤井定俊は長野憲業の
  弟と記されている。浜川城主。
 *黒田基樹氏・・・長野憲業の弟は諏訪某のみ・・・
・永禄6年(1563) 若田ヶ原合戦
住吉城(高崎市沖町)より500騎を率い、武田信玄の家臣:
 内藤昌秀を安中まで撤退させた。
●藤井友安 (?~?) 藤井定俊の長男である。
●藤井忠安 (?~?)藤井定俊の次男である。

※長野憲業=長野信業家督は次男業政が継いだ。
  長野業政の子どもは①女=娘11人・・・
女:和田新兵衛朝常妻・・・★和田城
女:長尾弾正正景妻・・・・★厩橋城・・忍城へ養子?
女:沼田万喜斎入道妻・・・★沼田城・・業正の母が沼田顕泰。変
女:岡本兵部少輔持村妻・・★群馬サファリ。熊井戸姓なので変
女:小幡尾張守信定妻・・・★小幡館&国峰城
女:小幡図書之助妻・・・・★宮崎城・神成城
女:木部弾正宮内少輔妻・・★高崎堀の内&山名城
女:倉賀野淡路守妻・・・・★倉賀野城・・金井姓なので時代が合わない。
女:安中越前守妻・・・・・★松枝城(松井田城)かなりの爺で変
  ②義樹・・・(養子・信房)・・★石井城(現前橋市富士見)
     石井讃岐守・・・・・★鷹留城(旧榛名町)
  ③業盛→曽平之進
女:・・・舞鶴姫
④宗誉

●石井義樹=里見義樹(1533~1563) 
「石井泰太郎氏の所有長野氏系図」には長野業正の養子
と記される。安房稲村城主:里見義堯の次男:文悟丸である。
系図は長野業正の妹を里見義堯室としている。
★この縁で養子縁組みしたのかもしれない。
 里見繁美氏はこの説を強調している。
・里見義樹は長野業政の養子になったが、業盛が生まれた。
・???石井城主石井城(現前橋市富士見)→
・天文20年(1551) 2月 鷹留城守将となった。
  石井讃岐守信房と名乗る。
・永禄6年(1563)2月21日、討死。31歳。
***************************************************
箕輪初心●箕輪城№81「大塚實氏&里見繁美氏の講演会」
http://53922401.at.webry.info/201209/article_12.html

箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】
&箕輪城№181長野業正養子:里見義樹=石井信房
http://53922401.at.webry.info/201512/article_5.html

箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_2.html
・関東享禄の乱で長野業正が上杉憲政を推す小幡・安中・高田
に敗戦。
長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁(忠政)に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
  (★「西上州の中世」:黒田基樹著)

****************************************************

●宗誉・・・★長年寺の僧になったのだろうか。

・永禄元年(1558) 着到帳
①一般家臣・・・509人 
②準特別職・・・・83人
②家老・・・・・・・5人
③客分高家・・・・12人
合計・・・・・・609人
★騎馬は4人1組で1500人と推定されている。



【2】「雉郷城」への侵攻

・天文10年(1541) 那波宗俊は厩橋城主:長野賢忠らと共
  に金山城:横瀬泰繁(由良氏)を攻撃。
  →那波宗俊は境=小柴城主:小柴長光の離反により敗死。
 那波宗元が家督を継いだ。 
 ①長男:那波宗安=名和宗安=那波無理之助=縄無理介
  縄を編んだ羽織を鎧の上からまとい、無理を押し通す
  ことから無理之介と異称されたという。(某Hpより)
 ②次男・那波顕宗(甥説もある)→長男:那波俊広がいる。

・弘治3年(1557) 武田晴信(信玄)による西上州侵攻が開始。
 ※箕輪城主:長野業政は鷹留城など支城網を駆使して、
  撃退した。

・永禄3年(1560)の那波宗元の勢力範囲
足利義氏、北条氏康の勢力を背景に以下の城を領有。
①那波城(堀口城)・・・伊勢崎市立第2中学校の北西
②今村城・・・・・・・・・・・広瀬川右岸(西岸)稲荷町
③赤石城(後伊勢崎城)・・・伊勢崎市立北小学校周辺


・永禄3年(1560)8月 長尾景虎の第1次関東出兵 
12月 長尾景虎(=後上杉謙信)の伊勢崎攻撃
  今村城及び赤石城・那波城が落城。
 那波宗元&次男:那波顕宗は降伏し、長尾景虎家臣となった。
●長男:那波無理之助は、那波城を脱出し、武田信玄の下へと
  逃れて、武田信玄の臣下となった。(永禄5年説もある。)      
★と言われているが、・・・・・
 那波宗元&北条(きたじょう)高広は先祖が大江一族である。
9月 北条高広は那波城に入った。

・永禄4年(1561)『由良成繁』が那波城主に抜擢。
  上杉謙信の命により、那波一跡を知行として支配する
  こととなった。
  由良成繁は、戦勝は『伊勢神宮』の御加護であるとし、
  赤石郷を伊勢神宮へ寄進した。
  ※伊勢崎の「伊勢」の発祥ではないかと考えられている。
 ★しかし、那波氏は旧領安堵ではなかったから、悔しかった
   であろう。

・永禄3年(1600)に従兄弟の小幡図書之介に国峰城を乗っ取られ
 てから、武田晴信に臣従した。従って、南牧の笹の平城にいて、
  武田信玄命令で市川一族を家臣団に取り入れた。
   (★真田三代:平山優著)
・5月6日付 武田家朱印状写 
 小田切・高野(佐久市小田切・佐久穂町)120貫
  ■田・桑山(佐久市)80貫
  海瀬・三分(佐久市)130貫
  崎田(佐久穂町穂積)70貫  
  所領充行・・・
  市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿
(北佐久郡浅科村:五郎兵衛記念館市川家文書)
★ここでも、小幡信実は馬生産が行った。

・同永禄4年(1561)6月 長野業政が死去。
  →長野氏業(=業盛)が嗣いだ。
遺言で「死を隠せ。」と言ったが、すぐばれた。

 武田信玄は国峰城:長野業政2女の娘婿の小幡図書介を攻略
 した。
・同永禄4年(1561) 
 →①長野業政長女の娘婿:小幡重貞(図書介従兄弟)が国峰
  城主に返り咲いた。 
 小幡信貞は国峰城を取り戻して貰ってからは、武田信玄の
 上野国の家臣団として、南牧の市川一族を同心として
 配下に加え、山県昌景同等クラスの騎馬軍団に成長して
 いった。市川家は佐久で馬の管理をしていたからである。
当時、モンゴル馬も唯一管理していたそうである。
  モンゴル馬は日本馬より大きく、タフで速かった。
(五郎兵衛記念館:根沢氏の話・・・根沢氏も南牧出身)
箕輪初心:生方▲武田晴信の天文15年(1546)の隠れた上州侵攻
&武田家臣:市川氏
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201605/article_14.html     

箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町②国峰城=武田24将:小幡重貞
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html
★24将ではなかった。根澤館長は武田晴信の騎馬軍団では
 小幡信貞が最強であった。馬が圧倒的に多かった。

箕輪初心●群馬の城「宮崎城→神成城」=小幡図書之介の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_16.html

・永禄4年(1561)武田信玄の平井城攻撃
武田信玄→小林監物宛の手紙
「味方になれば、所領安堵する。」
高山行重・高山定重・高山衆・
小林平八郎監物は武田信玄に臣従した。
 藤岡を支配下に置いた。
箕輪初心▲群馬:【高山館&高山城】&高山氏の戦国時代
http://53922401.at.webry.info/201505/article_20.html
★世界遺産:高山社は平時の館跡
★小林館の写真は消滅してしまった。

・永禄5年(1562)北条(きたじょう)高広を厩橋城代とし、
   那波城・伊勢崎城を支配した。
北条高広はこのあと30年近く、厩橋城・片貝城にいた。
(★『大江・毛利の一族』:関久著)

・永禄6年(1563)  
 那波顕宗(あきむね)が北条高広の妹を正室にした。
 ★政略結婚ではあるが、2人とも先祖は大江一族である。
  
 長男:那波無理之助=名和宗安は武田信玄の家臣として
  箕輪城攻撃に参加していた。
 
・永禄6年(1563)武田信玄の吉井攻撃
箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城①「吉井陣屋他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_11.html

箕輪初心●群馬の城:高崎吉井38城②「多胡館他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_12.html
 
箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城③「一郷山城・奥平城他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_13.html

武田信玄は甘楽・多野地方を掌握。   
吉井:長根50騎(長根氏+小河原氏)+多比良氏  
 

▲若田原(高崎市八幡町)の戦い・
 長野氏業の家老藤井友忠が中心になって反撃した。
※箕輪城の城兵は板鼻、若田ヶ原などで反撃した。

・永禄7年(1564)
  武田信玄が替佐城(中野市)を築城した。
  武田信玄が上杉謙信側の壁田城(中野市)を乗っ取った。
 城将は小幡信貞・・・
 ★市川氏も入った可能性が高い。


・永禄7年(1564)和田城大改修 
武田信玄は馬場信房(信春)に命じて、上杉謙信側の
  倉賀野城に対抗するため、和田城の大改修を行った。
(★新編高崎市史)
 ★おそらく、幅20mの堀が4つ・・・

・同永禄7年(1564 松井田城・安中城:落城。
  →②長野業政の叔父の娘婿:安中忠政・安中忠成が
  武田信玄の支配下となった。
安中忠成は甘利昌忠の娘を貰った。
以後、安中景繁を名乗ったようである。

・永禄8年(1565) 倉賀野城:倉賀野八郎?直行が落城。
  倉賀野尚行(直行)上杉謙信を頼った。
 →倉賀野16騎の筆頭:金井小源太秀景が倉賀野城主となった。
  武田信玄の命令で、倉賀野淡路守秀景と名乗った。

 ※箕輪城は孤立・・・丸裸状態。
●真田幸綱(幸隆)の調略により敵となった長野業正の娘婿・親戚衆
①長野原の羽根尾城:羽尾幸全・海野幸光など
②東吾妻の大戸城:大戸真楽斎・大戸浦野氏
③東吾妻の大柏木城:羽田氏
★長野弾正系図でいうと、①②③は元々、海野一族

●武田信玄の攻略により敵となった長野業正の娘婿・親戚衆
①旧妙義の高田城:高田繁頼(父は妻が安中重繁娘)・高田直政
②安中の松井田城:安中重繁(長野業正の叔母の娘の婿)
 安中の安中城:安中景繁(甘利昌忠の娘婿) 
 &家臣:松本・須藤・・・後閑の萩原
  甘利の配下・見張りとして共に行動したようである。
  ただし、秋間攻めは単独行動かもしれない。
③小幡の国峰城:小幡信貞(業正娘婿)(重貞→信貞→信実)
 &小幡城:熊井戸(後、岡本姓)
 小幡重貞は武田信玄推薦の2人目の妻を断った。
 武田信玄の「信」の字を貰った。
 ・天文16年(1546)頃から3重契約(上杉憲政・北条氏康
  ・武田晴信)をしているが、武田に比重が高かった。
 ・永禄3年(1600)に従兄弟の小幡図書之介に国峰城を乗っ取られ
 てから、武田信玄の臣従し、た。  
 (★真田三代:平山優著)
従って、南牧の笹の平城にいて、市川一族を家臣団に取り入れた。
・永禄4年(1561)国峰城を取り戻して貰ってからは、武田信玄に
 臣従した。箕輪城攻略後には約4万石程度の所領があった。
その後、替佐城・壁田城(北信濃中野市)の城代も兼ねた。
④高崎の和田城:和田業繁(業正娘婿)&和田信業=跡部勝資長男5歳
小宮山・馬場の配下・見張りとして共に行動したようである。
⑤高崎の山名城:木部範虎(業正娘婿)はいなかったかも? 
 木部10騎
大井貞清の配下・見張りとして共に行動したようである。
⑥高崎の倉賀野城:倉賀野秀景等倉賀野16騎
伴野助十郎の配下・見張りとして共に行動したようである。
⑦伊勢崎の那波宗安=無理之助・・・
⑧吉井:長根50騎(長根氏+小河原氏)+多比良氏など
⑧藤岡の高山行重・高山定重・高山衆・小林平八郎監物



・永禄9年(1566)
  那波無理之助=名和宗安は武田信玄の先方となった。

?月・・・武田信玄の作戦命令


5月・・・武田信玄は二万の大軍で侵攻・・・
○信州余地峠→南牧→下仁田→高田→安中八幡陣城
○伊勢崎の那波無理之助宗安が先発隊で秋間(飽間)の
  蔵人城:島崎蔵人や礼応寺城:赤見藤九郎などを攻撃し、
  攻略した。
 (★箕郷町誌)
安中忠政は秋間の八貝戸・内出・蔵人・礼応寺を攻略した。
  (★上毛古戦記)
○那波無理之助宗安が200~250で雉子ヶ尾峠を夜間に越えた。
    高浜砦を急襲。奪取。
○武田方の飯富(おぶ)・小宮山(こみやま)隊が里見城・雉郷城
 を陥落させた。
 ※茗荷沢砦(=御嶽山砦)・雉郷城・里見城は
  里見河内宗義の支配であった。    
○安中忠政・小宮山・飯富隊は烏川北岸の長野業通弟:業勝を攻撃。
 突破し、那波無理之助が高浜城に火をかけた。
 (★上毛古戦記)
鷹留城将の長野業通は弟:業勝・業固ら数百の手勢で迎撃。
 (★箕郷町誌)
武田軍の小幡信貞らの一隊を一時は烏川南岸に押し戻すなど善戦。
   しかし、業勝は討ち死。
  (★上毛古戦記)
○那波無理之助は白岩まで進軍した。
   白岩観音堂(=長谷寺)で狼藉。
 長谷寺の僧が仏像・教典を持って箕輪城に逃亡した。
○箕輪城から高浜城主:鷺坂(匂坂)長信・安藤九郎左衛門勝通・
  青柳金王丸らが高浜城奪還を目指して進軍。
  (★上毛古戦記)
○安藤九郎左衛門勝通100と那波無理之助200が激突。
→安藤九郎左衛門勝通が戦死。
 「老の身は いずこの土に なるとても
   君がみのわに 心とどまる 」
 (★上毛古戦記・上州治乱記巻之三)
○青柳金王丸・新波新左衛門ら200は白岩から高浜城・烏川の
 南岸まで那波勢を追い返した。
○翌日、飯富・小宮山隊は神戸から白岩を占領した。
 神戸(ごうど)城:桜沢伊賀守(榛名町神戸)はいち早く、武田
  の支配下になった。
 →遠北の陣屋(榛名町高浜)を設置し、箕輪城と鷹留城を分断した。
○鷹留城の長野業通・業固は覚悟を決め、山県昌景隊に突入した。
★既に鷹留城は落ちていた。
○武田方の応援の内藤昌豊・馬場信房隊に包囲された。
○長野方の利根木隊の救援で辛うじて、小幡重貞隊の囲みを突破し、
 鷹留城に戻ろうとした。
○しかし、このとき小幡重貞の鷹留城内の内応者、男蟹谷直光らによって
 鷹留城内に火が放たれ、鷹留城は落城した。(伝)
 武田信玄は馬場・山県隊と穴山・小山田隊などを出撃させていた。
 →箕輪城・鷹留城を分断。
○長野業通らはやむを得ず吾妻の長野原火打花に逃げ延びた。
○高浜砦(榛名町)・白岩砦を占領した。鷹留城は箕輪城と分断された。
  武田信玄は、本隊を東の若田原(高崎市)へ向け、進軍した。

【1】蓑輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏
 武田信玄は那波無理之助に秋間の城(口碑によれば、蔵人城
 主:島崎蔵人、礼応寺城主:赤見藤九郎)を攻略させた。
 那波無理之助は夜暗を利用して、二百の少勢をもって雉ヶ尾
峠を越え、雁又、茗荷沢、雉郷、里見の各砦に配した長野方、
 里見河内等の警戒網の間隙を縫い、烏川を渡って高浜の砦に
 襲い掛かった。
砦の将、鷺坂常陸守介長信はあたかも箕輪城にあって
「留守の家人防戦するも、敵は目にあまる大軍なれば、
 留守部隊は敗れ・・」と各戦記は記している。

 
※ここからは、近藤義雄氏の意見~~~~~
 もし無理之介が、雉郷城か里見城にかかって里見河内と一戦
 していたとすれば、鷺坂は急遽高浜の砦に帰り、箕輪からも
 援兵が加わって砦を固めていたはずである。
 この砦から東、白川が烏川に合する地点に至る間には、所
謂本郷崖の絶壁が続いていて渡河点はなく、以西は鷹留城の
防御範囲であって、そこからの進撃は、鷹留城の強力な反撃
を受けやすい。その切際部を固めた高浜の砦は、箕輪方が放
棄するわけがなく、事実、この砦の失陥が箕輪の落城を早め
たのである。
 無理之介の行動は、その名の如く無理な作戦であって、これ
が成功したことから、雉ヶ尾峠突破は夜間行動であり、任務は
強行偵察を兼ねていたものと判断される。しかも、精強な武田
勢は機を失せず、戦果を利用し、突破口を拡大するため、那波
隊の直後に飯富、小宮山の有力部隊を進めていたのである。
那波隊が砦に突入放火し、守兵が箕輪に向かい敗走した頃には、
飯富、小宮山勢は雉ヶ尾里見両城に攻めかかり、背後の高浜の
砦にあがった火の手を見て、動揺した城兵を圧倒してたちまち
城を占拠したと思われる。
このことは、箕輪城に関するどの戦記にも記されていないが当
 然のあるべき戦況かと考えられよう。
  雉郷峠の失陥が、この稜線に備えた第一戦防衛陣の無力化を
 意味する。
 『敵は目に余る大群』というのは、200の那波軍を呼ぶにはあ
 まりな誇張であるが、砦を焼いた那波隊は、白岩に向かって
 突進した。
(★箕輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏)

【2】上州治乱記→上毛古戦記:山崎一氏
 武田信玄は安中忠成を先鋒として秋間の諸城を攻略した。
 八貝戸、内出、蔵人、礼応寺の諸砦は追い落とされ、里見河内
 の守る雉郷、里見の両城も落ちて鷹留城は正面から敵を受ける
 ことになった。
 武田方先鋒は烏川北岸に備えた長野業勝(業通弟)の軍を突破
 して渡河に成功した。那波無理之助は手勢250余騎を率い、
 高浜の砦を襲った。砦将、匂坂常陸守介は箕輪城にあって
 留守の小部隊は防戦のあと、砦を捨てた。那波無理之助は
 ・・・(中略)・・・
那波無理之助は白岩砦に進んだとき、箕輪城から出撃した
 安藤九郎左衞門の100余騎と遭遇。白岩観音堂付近で激戦と
 なった。安藤九郎左衞門は戦死した。・・・那波勢が観音堂の
 仏像や教巻などを担いで・・・
 そこで、青柳金王・新波新左衛門は200の兵を率いて、白岩に
 向かった。・・那波勢を破って、烏川の南岸まで追いやった。
(★上毛古戦記:山崎一氏)

★若田ヶ原から里見河内守の城:高橋隼人正の守る
 雉郷城(旧榛名町)を攻撃した。
 武田信玄に家臣になった安中忠成(甘利昌忠の娘婿か妹婿)
 は旧支配下の礼応寺城(安中市秋間)などを攻略した。
 箕輪城の大支城:鷹留城(旧榛名町)は正面に見えるよ
 うになった。
★武田信玄の「箕輪城攻略作戦」は、
  まず、箕輪城(旧箕郷町)&鷹留城(旧榛名町)の分断。
次に、鷹留城を先に攻略。と考えたのであろう。
侵入経路は
  ①雉郷砦→里見城・上里見城→西からの鷹留城攻撃→
  ②雉郷砦→高浜砦→三ツ子沢砦→神戸砦→駒寄砦→
       南からの鷹留城攻撃
       →宮沢砦→東からの鷹留城攻撃
       高浜砦→白岩砦→箕郷の童子砦・・箕輪城
※白岩から箕輪城まで、3km程である。

5月 鷹留城が落城した。

9月29日(=新暦11月2日)箕輪城を攻略。
 以後、16年、箕輪城は武田信玄の支配下になった。

■参考文献
・群馬県史
・新編高崎市史 
・箕郷町誌(近藤義雄執筆)・・・ベース
・「箕輪城と長野氏」
・近藤義雄先生の論文・講演会
・榛名町誌(久保田順一共著)
・関東古戦録(久保田順一訳)  
・上毛古戦記(山崎一著)
・群馬の古城(山崎一著)
・境目の城(宮坂武雄著)
・「戦国期の上杉・武田氏の上野支配」:栗原修著
・「真田三代」:平山優著
・「真田四代と幸繁」丸島和洋著
・・・などなど多数。
  
関係ないけど・・・・
・天正18年(1590) 8月 井伊直政が箕輪城移封。
井伊直政の家老・・・
 ①箕輪長野氏系子孫・・・・井伊家家老№3の禄高
鷹留長野氏系・・・・・・僧侶で彦根まで
 ②内藤昌月の次男系
③和田信業の子ども
④里見河内守の子ども
⑤安中の萩原
★もったいないので、詳しくは「井伊直政シリーズ」 で
⑤山県昌景の配下で井伊家家老になった者
・広瀬・三科・孕石・(石原)など




★明日は鷹留城6回目かな?

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