箕輪初心:生方▲津和野【西周(あまね)&山本覚馬→新島譲】&【森鴎外&羽鳥千尋】

森鴎外の家には昭和63年の盛夏・平成27年の初冬に行った。
西家も森家も亀井家の御典医の家柄である。西周は森林太郎
(森鴎外)の曾祖父の次男:森覚馬が西家を継いで生まれた
子で親戚である。西周は東京に森林太郎を呼び、林太郎を一
時下宿させた人物である。西周は山本覚馬や群馬県人?(父
が安中藩):新島譲と繋がりがあり、同志社大学設立に至った。

森鴎外は群馬県人:『羽鳥千尋』を陸軍軍医学校に入学を紹介
した人物である。

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~~~2015年島根・山口・広島~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心:生方▲津和野・萩温泉&秋吉台・岩国・宮島の予定表
http://53922401.at.webry.info/201512/article_6.html

箕輪初心:生方▲津和野・萩・秋吉台・防府・岩国・宮島のグルメ旅?
http://53922401.at.webry.info/201512/article_7.html

箕輪初心:生方▲島根【百名城66:津和野城】今回も登城できなかった
天空の城の歴史
http://53922401.at.webry.info/201512/article_8.html

箕輪初心:生方▲島根【津和野城下町:殿町2回目】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_9.html

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★★ 森鴎外の生家 ★★
○看板
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★津和野城の本丸石垣は見える。
 いきてえなあ。
○門
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○案内板
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○碑
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○家
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○家の中
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○便所・・
 ガイドさんの話
 「便所は臭いです。・・でも、今はシャネルの931番を使かって
 いるので臭くありません? 」
 客は
「どういう意味ですか?・・・」
 
すぐ、気づいた。931=「臭い」ってしゃれだ。


○ガイドさんの話
養老館前の森鴎外の遺書
「大正11年7月6日・・・死の3日前、
森鴎外は死の3日前に、親友の賀古鶴所に遺書を書きとらせ、
拇印をしています。その一節に「余ハ石見人森林太郎トシテ死
セント欲ス」とあります。10歳で東京に行ってから、一度も故郷
:津和野に戻っていないのです。でも、自分を育ててくれたのは
津和野であり、墓石に地位も名誉も書かせなかったようです。」

 ★森鴎外の生き方の一端?考え方が見える。

  
○文学館?・・★津和野城の本を買った。




【1】西周 の生涯+山本覚馬&新島譲
《文政12年(1829) 2月3日(3月7日)~明治30年(1897)1月31日》

・文政12年(1829) 2月3日(3月7日)
・津和野(現島根県津和野町)で生まれた。
 父:西時義(森覚馬)は森高亮の次男であった。
 西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。
 
 森高亮・・・長男:森??→森静男→森鴎外
  次男:西時義→西周
森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、森鷗外の母方の祖父母
 及び父が養子であったため血のつながりはないことになる。


※西家は津和野藩主:亀井家の御典医の家柄であった。
 幼名は経太郎であった。

・幼少 漢学を学んだ。
※西の生家に勉学に励んだという蔵が保存されている。

・天保12年(1841) 藩校:養老館で蘭学を学んだ。

・安政4年(1857) 蕃書調所の教授並手伝となった。
  津田真道と知り合って、哲学・西欧の学問を研究した。

・文久2年(1862) 幕府の命で津田真道・榎本武揚らとともに
 オランダに留学した。
 フィセリングに法学・カント哲学・経済学・国際法などを学んだ。
 
・文久4年(1864) オランダのライデンでフリーメイソンリーの
「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会した。

・慶応元年(1865)12月 西周は2年間、オランダ、フランスに派遣
 が終わり、横浜に帰国した。
西周は目付に就任した。

 ・慶応2年(1867)
京都に移った将軍:徳川慶喜に招かれ京都市内に移った。
  徳川慶喜の側近として活動した。
 徳川慶喜にフランス語を教えた。
  さらに、『万国公法』を訳し、徳川慶喜にも講義した。
西洋哲学について体系的思考を固めていた。
  
  西周は兵庫開港の対英仏の交渉にも当たっていた。

・慶応3年(1868) 西周39歳。
 2月、西周は四条通大宮西入ルの更雀寺に居
  を移し、洋学塾を開いた。
 洋学塾には会津藩、桑名藩、津藩、福井藩、備中松山藩などの
 藩士500人が集まってきたという。
 山本覚馬40歳は西周に出会った。
 山本覚馬など幕末の武士たちの多くが英学や『万国公法』
 という西洋法学、国際法を学んだ。
『万国公法』の中で『百一新論』の話を聞くことになった。
 『百一新論』の講義で日本で最初に「哲学」という言葉を使ったと
 される
 

山本覚馬は西周の『百一新論』の影響を受けた。
  山本覚馬が「常に国家につくしたい」と願い、法律(政治)による
  改革を考えた。
  山本覚馬はわからないことがあると、佐久間象山か西周のところに
 聞きに行ったという。佐久間象山の亡きあと、山本覚馬にとって西周
 の存在は欠かせない人物となった。
  
・慶応4年(1868) 王政復古
西周は徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任した。
 『万国公法』を訳刊した。

・明治3年(1870) 明治政府に出仕した。
  以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任した。

  軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備と精神の
  確立につとめた。

※明治4年(1871)11月12日(12月23日)~明治6年(1873)9月13日
岩倉使節団・・・アメリカ→ヨーロッパへ
 アメリカにいた新島譲は、岩倉使節団の一員だった木戸孝允・森有礼
 らと面会し通訳となった。
後、新島譲は木戸孝允から山本覚馬・牧村京都知事を紹介された。



・明治6年(1873) 明六社の設立
  森有礼(文部大臣)発起人。
  西周・福澤諭吉(中津藩:慶應義塾)・加藤弘之(出石藩:東大初代校長)
 ・中村正直(同人社:西国立志編)・西村茂樹・津田真道らと共に
  明六社を結成した。
 ※元津和野藩主:亀井茲監もいた。

杉田玄端(慶應義塾医学所附属診療所主任)
杉浦弘蔵(開成学校長)
秋山恒太郎(慶應義塾塾長)
前島密(報知新聞社長)
長与専斎(東京医学校校長)
早矢仕有的(慶應義塾、丸屋商社設立)
エドワード・ハリス(大学南校教授)
奥平昌邁(旧中津藩主)
荘田平五郎(慶應義塾)
沼間守一(嚶鳴社設立者)
古沢迂郎(大阪日報社長)
福地源一郎(東京日日新聞主筆)
島地黙雷(浄土真宗本願寺派)
吉原重俊(日本銀行総裁)
四屋純三郎(慶應義塾)
藤野善蔵(慶應義塾塾長)
松田道之(東京府知事)
亀井茲監(旧津和野藩主)
伊達宗城(旧宇和島藩主)
高橋是清(日本銀行総裁、大蔵大臣)
石川舜台(浄土真宗本願寺派)
久保田譲(慶應義塾)
サミュエル・ロビンス・ブラウン(宣教師、神学塾設立)
植木枝盛(立志社設立者の一人)
勝安芳(外務大丞、海軍大輔)
南条文雄(梵語学者)
菊池大麓(東京帝国大学総長、第18代文部大臣)
外山正一(東京帝国大学総長)
箕作佳吉(東京帝国大学理科大学学長)
渡部温(東京外国語学校校長)
浅井晴文(左院五等議官)
ウィリアム・グリフィス(大学南校・開成学校教授)
大槻文彦(国語学者)
柏原孝章(旧適塾塾頭、駿府病院二等御医師)
加藤弘之(蕃書調所教授)
神田孝平(文部少輔)
九鬼隆一(帝室博物館総長)
阪谷朗廬(岡山興譲館初代館長)
清水卯三郎(洋書医療器械販売業「瑞穂屋商店」店主)
杉亨二(蕃書調所教授)
世良太一(統計学社副社長)
高木三郎(駐米弁務使館書記官)
田中不二麿(文部大輔)
辻新次(大学南校長、初代文部次官、大日本教育会長)
津田仙(学農社農学校開設)
津田真道(蕃書調所所属)
富田鐵之助(日本銀行総裁)
中村正直(昌平坂学問所教授)
西周(沼津兵学校初代会長)
西村茂樹(文部大書記官)
畠山義成(鹿児島開成学校校長)
肥田昭作(慶應義塾)
福澤諭吉(慶應義塾創立者)
古川正雄(慶應義塾)
箕作秋坪(蕃書調所教授手伝)
箕作麟祥(和仏法律学校初代校長)
森有礼(初代文部大臣)
 (★ウィキペディア)
 

・明治7年(1874) 機関紙『明六雑誌』を発行し始めた。
  啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くこと
  に尽力した。

アメリカから帰国した新島襄に山本覚馬を紹介したのは、勝海舟だと
いわれている。勝海舟や松平容保や老中:板倉勝静(備中松山藩主。
安中藩主:板倉勝尚の兄・・北海道行きの船に新島譲を乗せてくれた)
も助力してくれていた。つまり、勝海舟+松平容保+板倉勝静
→新島襄と山本覚馬と繋がってくる。

 

山本覚馬が西周の講義内容『百一新論』を出版した。
 山本覚馬や南摩綱紀、会津藩の聴講生が「速記録」
 を作っていて、明治6年に西周に見せて出版許可を貰っていたと
 いう。
 序文は山本覚馬が書いている。
『教えというのは人の道を教えるということであり、その中には人
 を治める道、つまり正しい法の道がふくまれる。』

西周の『百一新論』で百の教え・・・東洋西洋を問わず、あらゆ
 る宗教・道徳はすべて一に帰す。という論理に感動した山本覚馬は、
『百一新論』を出版した。キリスト教を中心とする道徳・宗教的な
 方法での日本の精神的革命を考えていた。山本覚馬は新島襄にキリ
 スト教系の学校を京都につくれ、と強くすすめた。
 西周→山本覚馬→新島譲と繋がってくる。

・明治8年(1875)11月29日 新島譲が同志社英学校を開校
  公家華族の高松保実より屋敷(高松家別邸)の約半部を借り
 受けて校舎を確保し、京都府知事:槇村正直、府顧問:山本覚馬
 の賛同を得て官許:同志社英学校を開校し初代社長に就任した。
 開校時の教員は新島譲とジェローム・デイヴィスの2人・・・
 生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。

・明治9年(1876)1月3日、山本覚馬の妹:八重と結婚する。
 10月20日、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、
 徳富蘇峰、不破惟次郎ら熊本バンドの青年達が同志社英学校に入学
 した。
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◆◆ 箕輪初心★『新島襄1』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄2』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_1.htm

箕輪初心★爽やかな秘話『新島八重子回想録』の紹介
http://53922401.at.webry.info/201302/article_10.html

◆◆箕輪初心★新島襄:安中&新島八重:会津若松 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_26.html

◆◆ 箕輪初心◆会津:新島八重を巡る旅 ◆◆
  山本覚馬・新島八重の実家跡&山本家の墓を掲載
http://53922401.at.webry.info/201304/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★京都の新島襄宅&八重さんの墓 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_13.html

◆◆ 箕輪初心★八重周辺③「湯浅治郎&八重さんの醤油」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_8.html

◆◆ 箕輪初心★『伊香保を愛した徳冨蘆花』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_6.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄&徳富蘇峰』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_7.html

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・明治12年(1879) 6月 西周は東京学士会院(現日本学士院)第2代
会長になった。

・明治14年(1881) 獨逸学協会の創立に参画した。
・明治15年(1882)西周は東京学士会院第4代会長となった。

・明治16年(1883) 獨逸学協会学校(現獨協学園)の開校。
  初代校長に就任した。
  西周は獨逸学協会学校開校式の演説において
  「そもそも、学をなす道はまず志を立つるにあり」
  「志を立てて学問に従事すれば、これに次ぐものは勉強にあり」
  と述べた。

・明治17年(1884)頃~ 西周は右半身が麻痺しはじめた。

・明治20年(1887) 西周は健康上の理由により文部省・陸軍省・学士
 会院会員の公職を辞職した。

 
・明治23年(1890) 貴族院議員に任じられた。
  10月20日 錦鶏間祗候となった。

・明治24年(1891) 体の衰弱が著しくなり貴族院議員を辞職した。

・明治25年(1892) 大磯の別邸に移った。
歩行は不自由で外出は不可能であった。
  学問の研究は続けられ、西洋の心理学と東洋の儒教・仏教の思想
  を統一した新しい心理学の体系を書き続けた。
  『生性発蘊』は、遂に未完に終わってしまった。

・明治30年(1897) 明治天皇は西周の功績に対し、勲一等瑞宝章、
  男爵の位を授けた。
 1月31日に死去。享年68。
 ※墓所は東京都港区の青山霊園。





【2】森鴎外の生涯+羽鳥千尋
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・文久2年(1862) 1月19日(2月17日)
石見国鹿足郡津和野町町田村(現島根県津和野町)で生まれた。
森家は代々津和野藩主:亀井家の御典医を務める家柄であった。
  父:津和野藩の藩医:森静泰(後森静男)
  母:森峰子
  長男として生まれた。
  森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の
  跡継ぎ誕生であった。
・慶応3年(1867)11月~ 4歳  村田久兵衛に論語を学ぶ。
・明治元年(1868)3月~  5歳 米原綱善に孟子を学ぶ。
・明治2年(1869) 6歳藩校:養老館で四書を一から復習した。
・明治3年(1870) 7歳藩校で五経、オランダ語を学ぶ。
・明治4年(1871) 8歳 藩医:室良悦にオランダ語を学ぶ。

・幼年時代  論語や孟子・オランダ語などを学んだ。
・少年時代   養老館では四書五経を復読した。
  ※9歳で15歳の学力と推測されている。
  (★ボランティアガイドさん)

・明治5年(1872) 廃藩置県
 ※西周が東京に出て来るように勧めた。
  (★バスガイドさん)
森林太郎は10歳で父と上京した。
 6月  父とともに津和野を発った。
 8月 東京向島小梅村に住んだ。
  その後、墨田区向島曳舟通りに転居した。
10月、 森林太郎はドイツ語を習得するため、私塾の
  本郷の進文学社に入った。
  政府高官の親戚:西周の邸宅に寄食した。
  東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への
  入学に備えた。

・明治6年(1873) 11歳
6月 津和野に残っていた森家の家族は住居などを売却して
  津和野を離れ、祖母、母などが上京した。
 父が経営する医院のある北千住に移った。

11月、第一大学区医学校予科(東京医学校→現東京大学医学部)に
  入学した。

・明治10年(1877) 15歳
  東京医学校は、東京開成学校と合併して東京大学
医学部に改組された。
  森林太郎は本科生になる。

・明治13年(1880) 18歳
  本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移った。

・明治14年(1881) 19歳
3月、下宿先が火事になった。講義ノートなどを失われた。
  4月? 肋膜炎にかかった。
 7月  東京大学医学部を卒業。
  父:森静男の経営する南足立郡千住町の橘井堂医院に転居した。
  ※現在、北千住には森鴎外ゆかりの碑がある。
   戸籍も東京に移した。
 

 8月 明治政府に軍医として仕えることにした。
  ★森鴎外は衣食住のある所を選んだという。
     (★ガイドさんの説明)

 9月 ▲『河津金線君に質す』が読売新聞に採用される。
   ★森鷗外の初めて公にされた文章であるという。

 12月 東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医副の任務につく。


・明治15年(1882) 20歳
2月 第一軍管区徴兵副医官:中尉相当になり、従七位の位階を
   授かった。
 5月   陸軍軍医本部課僚になった。
   プロシア(ドイツの帝国)の陸軍衛生制度の調査に参加した。

・明治17年(1884) 22歳
 6月  陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を
     陸軍より命じられる。
 10月  ドイツに到着。
    ライプツィヒ大学でホフマン教授などに学ぶ。
   『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。

・明治18年(1885) 23歳
1月 ▲ハウフの童話を翻訳した「盗侠行」を発表した。
2月   ▲「日本兵食論」「日本家屋論」を執筆した。
    ドイツ語で書いた。
5月  陸軍一等軍医:大尉相当に昇進した。
10月  ドレスデンに移った。

・明治19年(1886) 24歳
3月 ミュンヘンに移った。
   ミュンヘン大学衛生部に入学し、ペッテンコーフェルに
   衛生学を学んだ。

・明治20年(1887) 25歳
4月 ベルリンに移った。
  5月 北里柴三郎とともにコッホを訪ねた。
    コッホの研究所衛生試験所に入った。

・明治21年(1888) 26 歳
3月 プロシア近衛歩兵第2連隊の軍隊任務に就いた。
    海軍中将:赤松則良の長女:登志子と結婚した。
   夏に根岸から下谷区上野花園町11番地に住んた。
  ※現在、水月ホテル鴎外荘に保存されている。

 7月 ベルリンを出発してロンドン、パリを経由して
 9月  日本に帰国。
   エリーゼも来日、築地精養軒に入った。
10月   陸軍大学校教官に就任。
12月  ▲『非日本食論将失其根拠』を自費出版した。

・明治22年(1889) 27 歳

・明治23年(1890) 28歳
1月 ▲「舞姫」を発表した。
舞姫はベルリン時代の精算だろうか?
9月 長男:於菟(おと)生まれた。
   妻:登志子と離婚した。

10月 本郷駒込千駄木町57番地に転居した。
  ※後に夏目漱石もロンドンから帰国して明治36年(1903)~
   2年半、この家は住んだ。現在明治村にある。
 
・明治24年(1891) 29歳
 8月 医学博士となる。

・明治25年(1892) 30歳
1月 本郷駒込千駄木21番地に転居した。
   父母、祖母と同居した。以後死ぬまでここに住んだ。
  ※現文京区立鴎外記念図書館となっている。

・明治26年(1892) 31歳
・明治27年(1892) 32歳

・明治28年(1894)33歳
6月 台湾総督府陸軍局軍医部長となる。
10月 軍医学校長として東京に戻った。。

・明治29年(1896) 34歳
4月 父:森静男が死去。

・明治30年(1897) 35歳
・明治31年(1898) 36歳

・明治32年(1899) 37歳
6月 第12 師団軍医部長として小倉に赴任した。

・明治33年(1900) 38歳
1月 旧妻:赤松登志子が死去。

・明治34年(1903) 39 歳

・明治35年(1902) 40 歳
1月 判事:荒木博臣の長女:茂子(志け)と結婚した。
   どちらも再婚。

・明治36年(1903) 41歳
 1月 長女:茉莉生まれた。

・明治37年(1904) 42歳
・明治38年(1905) 43歳
・明治39年(1906) 44歳

・明治40年(1907) 45 歳
8月 次男:不律が生まれた。

・明治41年(1907) 46 歳
2月 次男が死去した。

・明治42年(1909) 47 歳
5月 次女:杏奴が生まれた。
 7月 ▲文学博士となった。
▲「ヰタ・セクスアリス」掲載の『スバル』が発売禁止
    になった。

・明治43年(1910) 48 歳
  9月 ▲「青年」を発表した。

・明治44年(1911) 49 歳
2月 3男:類が生まれた。
 9月 ▲「雁」を発表した。
  
・明治45・大正元年(1912) 50歳
1月  ▲「かのように」を発表した。
12月 ▲『中央公論』に「羽鳥千尋」を発表した。

・大正2年(1913) 51 歳
1月 ▲「阿部一族」を発表した。

・大正3年(1914) 52 歳
1月   ▲『中央公論』に「大塩平八郎」を発表した。

・大正4年(1915) 53歳
1月  ▲『中央公論』に「山椒大夫」を発表した
    ▲『心の花』に「歴史其儘と歴史離れ」を発表した。
10月  ▲『中央公論』に「最後の一句」を発表した。

・大正5年(1916) 54歳
1月 ▲「高瀬舟」を発表した。
 3月 母:森峰子が死去した。

・大正6年(1917) 55歳
 12月    帝室博物館総長に就任した。
・大正7年(1918) 56歳
・大正8年(1919) 57歳
9月  帝国美術院の初代院長に就任した。

・大正9年(1920) 58歳
・大正10年(1921) 59 歳

・大正11年(1922) 60 歳
4月  イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の旅行
    に行った。途中、何度か病臥した。肝臓病だった。

7月6日 遺言書・・友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼んだ。
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※森鷗外の遺言
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス  大正十一年七月六日
        森 林太郎 言(拇印)
        賀古 鶴所 書

  森 林太郎
      男     於莵

    友人
      総代   賀古鶴所
            以上
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7月9日、死の寸前
「森鴎外は
「馬鹿馬鹿しい。」
と呟いたといいます。なんのことを指して呟いたのか、正確なことは
わかりませんが・・・。」

自分は医者なのに、自分が肺結核で死ぬなんて、・・・
 羽鳥千尋と同じ。・・・と思ったのかもしれない。


7月9日午前7時  肺結核で亡くなった。
   向島の弘福寺に埋葬。
   後に、三鷹の禅林寺に改葬される。
      分骨されて津和野町永明寺にも墓がある。






【3】 「羽鳥千尋」

明治45・大正元年(1912) 
12月 ▲森鴎外50歳が中央公論に「羽鳥千尋」を発表した。
 「羽鳥千尋は実在の人物である。惜しい事には、今では実在の人物
 であったと云はなくてはならない。明治四十三年の夏であった。
 己の所に一封の手紙が届いた。」
  と書き出しているとおり、実在の人物であった。
 ★もし、森鷗外がこの短編小説を書くことがなかったなら、おそらく
  その名も世の中に知られることはなかったであろう。


羽鳥千尋(はとり ちひろ)
(明治19年(1886)~・明治45・大正元年(1912)
 森鴎外の小説「羽鳥千尋」モデルとなった人物である。

・明治19年(1886)群馬県佐波郡玉村町に生まれる。
  父は陸軍軍医の羽鳥文作である。
明治19年?明治20年?群馬県群馬郡滝川村大字板井
 に生まれた。
 小さい頃から学業成績が優秀であった。
 
・明治28年(1894) 上州玉村(現群馬県玉村町)の玉振学舎で
   漢文の句読を授けられた。
   師は漢学者の中島竦(中島敦の伯父)である。

・明治30年(1896) 父:羽鳥文作が台湾へ赴任した。
   しかし、風土病にかかり帰国した。

・明治33 年(1899) 父:羽鳥文作が小倉衛戍病院一等軍医心得となるが、
容態が悪化して35歳で没した。
  高崎中学(現群馬県立高崎高等学校)を首席で卒業した。
  ★高崎中学校を主席で卒業するくらいなら、順調にいけば、
  第一高等学校(一高)などへ進んだだろうが・・・。
  高崎高校の東大合格は上位10番くらいであろうか?
  福田赳夫元総理も主席であった。
 
 ところが、軍医であった羽鳥の父親は既に亡くなっており、さらに丁度
 その頃、家は親類の事業の失敗し、負債をかかえてしまい、進学を断念
 せざるを得なかった。
そこで、当時あった医学校を経ずに医師になる道、医術開業試験
 つまり、学歴なしに受験できた医師国家試験=現在の大検?を目指
 した。
 
 一年半の独学で・・・・、
 そして、前期試験は主席で合格した。
 ところが、後期試験には実技試験があり、実地の勉強をする必要が
 出てきた。

・明治43年(1910) 実地試験である後期試験準備のため、父親と同じ
 軍医であった森鷗外に、実地の勉強のできるところを紹介して欲し
 い旨の長文の手紙を書いた。
 
 
 森鴎外のコネで陸軍軍医学校で働きながら試験準備を行うことに
 になった。
 しかし、肺結核をわずらった。

明治45・大正元年(1912)6月 羽鳥千尋が肺結核の悪化により
  26歳で死去。

後に鷗外は、この手紙を元にして、短編「羽鳥千尋」を書いた。


●短編小説の主人公:羽鳥千尋という人は、森鷗外が
『羽鳥千尋は實在の人物である。惜しい事には、今では實在の人物
であつたと云はなくてはならない。明治四十三年の夏であつた。
己の所に一封の手紙が屆いた。それは己の所へ多く屆く種類の
手紙の一つに過すぎない。己の内に書生に置いてくれと云
ふ手紙である。併しそれを書いた羽鳥千尋と云いふ、當時二十二
歳の青年は一つの注意すべき履歴を持つてゐる。羽鳥は明治四十一
年の夏、貧と病との爲めに、兼ねて大學へ這入らうと思つてゐた志
を飜へして、醫術開業試驗を受けようと思ひ立つた。そして半年
許り獨學をして、翌く四十二年の春前期試驗に及第した。それから
又一年許り獨學をして、己に手紙をよこした四十三年の春、
後期學説試驗に及第してゐる。醫學と云ふものがどんなものだか、
夢にも知らなかつた青年が、僅か一年半で政府が醫師に向かつて
要求する丈の知識を攫得してゐる。そこで後期實地試驗を受ける
準備がしたい。それは田舍の家の机の上では出來きない。羽鳥は
當時上野國群馬郡瀧川村大字板井と云ふ所の家にゐた。その準備
として診察や治療の實地を見る爲めに、東京に出てゐたいと云ふ
のである。同じ種類の手紙が己の所へは多く屆くが、羽鳥のやうな
履歴を持つた手紙の主は少すくない。・・・後略・・・。』
  (Hp羽鳥千尋より引用)



・明治45・大正元年(1912) 50歳。
12月 ▲ 森鴎外が『中央公論』に「羽鳥千尋」を発表した。



★参考文献
・高崎の偉人伝:吉永哲朗著。
・森鴎外:長島 要一著(岩波新書)
・森鴎外:日本文学全集


★参考サイト
・西周・森鴎外:ウィキペディア
・百一新論:同志社大学
・羽鳥千尋


★明日は萩城かな?

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