箕輪初心▲源頼朝21【狩野茂光】&伊豆【狩野日向館】

治承4年(1180)8月17日 源頼朝が挙兵した際に狩野茂光も参陣
した。★「治承3年の政変」の影響で、治承4年(1180)5月には、山
木兼隆が伊豆目代に就任し、旧在庁官人だった狩野介茂光が不
利益を被ったことによると考えられる。今まで自分の領地の産物が
山木兼隆の命で召し上げられていったからだった。8月17日、源
頼朝の挙兵=山木判官兼隆を襲撃に参加した。それから、6日後、
8月23日、石橋山の合戦で、源頼朝500騎VS 平氏の軍勢3000
騎が戦った。しかし、源頼朝は大敗を喫した。おそらく、24日、狩
野茂光は戦死した。函南の大竹に北条宗時&狩野茂光の墓があ
るという。
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【1】狩野館=日向堀の内館
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 (★伊豆蕪城物語より)
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 ・近所の方2人に聞いた。発掘調査の場所も
  教えてくださった。場所が確定した。
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・一回り
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・南の境・・・土塁?
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・館部分
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・発掘調査・・・館跡の田んぼ
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 (★狩野日向館から狩野城を望む)


【2】狩野工藤介茂光の墓・・函南大竹の神戸坂
  2基の五輪塔は北条宗時と狩野茂光の墓と言われている。

【3】狩野城=子孫の城・・・大柿木
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 ★狩野城掲載は後日・・・

【4】本
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◆◆ 狩野一族 ◆◆
【1】狩野氏の出自
・天武天皇(681)7月 伊豆国は駿河国の東部二つの郡を割いて
 成立した。
 天城山をはじめ多くの山に囲まれた山国であった。
 伊豆国の荘園は冷泉院~白河上皇~鳥羽上皇~後白河
 上皇の院政期に本格な発展を遂げた。

当時狩野荘は後白河院の御領地で、後に蓮華王院領となった。
・天慶3年() 平将門の乱
 藤原鎌足10代の孫:藤原為憲は討伐の功があった。
 藤原為憲は駿河守に任じられた。

藤原為憲→藤原時理→維永:宮藤太夫→藤原維景→藤原維職
→狩野維次→鹿野祐隆・・・
狩野氏茂光・宇佐美祐次・伊東祐家となるようだ。


藤原為憲の3代孫:宮藤太夫維永・4代駿河守維景にかけて、
国衙の在庁官人を兼ね、この蓮華王院を本所として狩野荘に
所職を持ち、院の受領層として狩野荘に居住した。
やがて伊東七郷(伊東荘前身)にもつながりを強めた。
という説もあるようだ。
その孫:藤原維景は任を辞して、狩野郷日向堀内に来住し、
初めて狩野を姓とした。

狩野維職が京から下向し伊豆国の狩野荘に移り住んだ。
維職の子:維次は、狩野を名乗り「狩野九郎」と称された。
いう説もあるようだ。
 
狩野維職は駿河守・伊豆国押領使であった。
維景の子維職とその子維次が狩野の土地を選択した大きな理由
①田地の開拓が進んだ。
②牧場が盛んな土地である。
伊豆を代表する牧草地:牧之郷を領有し、良馬を多数有した
伊豆半島最大の勢力を築くこととなった。
③材木の調達ができた。材木は造船用に珍重された。
④海運に恵まれた。
勢力は狩野、伊東、宇佐美、河津の各荘&伊豆諸島まであった。
当然、伊豆大島も所領としていた。 

※狩野茂光は藤原南家の流れを汲む工藤家次の子説、工藤家次兄弟
説がある。狩野維職&子:維次が京から下向し伊豆国の狩野荘に
移り住み、狩野を名乗った。狩野城は、狩野氏の祖:狩野維景が造
ったと考えられている。
藤原為憲→藤原時理→維永:宮藤太夫→藤原維景→藤原維職
→狩野維次→●狩野家次・・・?鹿野祐隆・・・
●工藤系図・狩野家次系図②
①長男:祐家→宇佐美祐親→長男:祐泰→曽我祐成
曽我時政
次男・祐清
|・・・・・
比企尼娘
②2男:伊東祐継=次→工藤祐経
             |
            万劫(宇佐美祐親の娘)
             |
            土肥実平

③3男:狩野茂光・・長男:狩野親光・・・狩野宗茂
                 外孫:田代信綱
次男:狩野宗茂・・・狩野宗時
3男:家茂
4男:これ光
長女??・初婚:源仲成の子:源信成
  再婚:曽我祐泰の子
次女??
 |・・・田代冠者信綱
源為綱

④長女:狩野茂光妹
   | ・・・・ →長男:加藤光員 次男:加藤景廉
  加藤景員
(★伊豆武将物語:小野眞一著)


【2】狩野氏茂光  
狩野川右岸の日向堀に内の日向館は平坦で要害にはならない。
狩野氏茂光は狩野川対岸の本柿木城山の地を選んで、館&城砦を
築いた。堀を廻らし、天嶮の地形を巧みに利用した城に移り住んだ。

全国に八家の「介」という称号を用いていた。
 伊豆及び伊豆諸島は領地として治めていた。
 狩野氏の権力は伊豆で最大であった。

・嘉応2年(1170) 狩野茂光は源為朝を討った。
伊豆大島に流されていた源為朝は藤井忠重を脅して、税を狩野
茂光に払わなくなった。
4月下旬、狩野茂光は兵舟20余隻に500余命を分乗させた。
伊東祐親、宇佐美祐茂、加藤光員&景廉、北条時政、沢宗家、
仁田忠常、天野遠景などがいた。


・保元元年(1156))7月保元の乱
皇位継承問題や摂関家の内紛
後白河天皇方 VS 崇徳上皇方
「保元の乱」狩野茂光は源義朝に加勢し、一族は源氏に重く
 用いられた。

 源鎮西八郎為朝は保元の乱に敗れ伊豆大島に流された。
 狩野茂光は伊豆大島に流罪となった源為朝の監視役となった。
 
 やがて源為朝が流人の身でありながら周辺諸豪族を従えて
 自立の動きを見せた。

・嘉応2年(1170)  狩野介茂光は後白河上皇の命により、源為朝
  を攻撃に向かった。
狩野介茂光は、兄弟の伊東祐家・祐親&宇佐美祐清、
  加藤光員&加藤景廉、新田=仁田忠常、沢宗家、
  北条時政、天野遠景などを従えて出陣した。
  狩野茂光は源為朝を大島に追討し、自害に追い込んだ。
  首を切ったののは、妹婿の子:加藤景廉であった。
 結果・・源為朝退治は、狩野介茂光の名前を天下に轟かせた。
   伊豆における狩野氏の存在を不動のものにした。
 

●源頼朝の旗揚げと石橋山の戦い

・治承4年(1180)
4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

伊豆国は平時忠の知行国になった。
 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
うようになっていった。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
   胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 
 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
①反対派
 山内首藤経俊は
  「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
  鼠が猫をとるようなものだ。」
  と嘲笑した。
②迷った派
  波多野義常は返答を渋った。
③賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
 ※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。
佐伯一族も永江一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。
風雲急を告げた。・・・・・

源頼朝は北条時政に相談した。
  平家打倒の挙兵の打ち合わせに大日堂=現願成就院の地が
  使われたらしい。北条館の100m東は八幡神社で、その
東隣が現願成就院~旧願成就院である。

  源頼朝は8月17日をもって挙兵することを決めた。
  まず手始めに、伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
  源頼朝は最初の標的は伊豆国目代:山木兼隆と定めた。


8月4日 源頼朝は祐筆:大和判官邦通に山木邸付近の
見取り図を書かせた。

8月6日~□□日? 源頼朝の挙兵裏工作開始
 源頼朝は工藤系狩野茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美祐茂
 (すけもち)・天野遠景・佐々木盛綱、加藤景廉らを招集し、
 一人ずつ私室に呼び、個別にそれぞれと密談を行い、意見
 を聞き、賛同を得た。
 「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって
 話す。」
 と言い、自分だけが特別に頼りにされていると錯覚させた。

8月11日 源頼朝は岡崎義実&子:佐奈田義忠に使いを送
 った。
 「8月17日、土肥実平と参上せよ。」

8月16日
 挙兵の前日に至るが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら
 佐々木兄弟が参じなかった。
 源頼朝は佐々木盛綱に計画を漏らしたことに疑心暗記に
 なり、後悔した。


●源頼朝の挙兵の地?
1)北条時政館説?
2)源頼朝館=蛭ヶ小島説? 
8月17日
 山木館の襲撃は朝駈けを図っていたが、佐々木兄弟の遅参
 によって計画がくるってしまった。
 源頼朝は
 「明朝を待たずに直ちに山木館を襲撃すべし。
  山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。
山木の館を放火すべし。・・・
 と決意を述べた。
 襲撃の成否を確認したいと配下に相談した。。

 北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が
  満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭
 島通を通ってはどうか。」
 と進言した。
 源頼朝は
 「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用
 いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。
 大道を通るべし」
 と命じた。

 源頼朝は三島神社祭礼に安達盛長を名代として参列させ
 ていた。

 挙兵当日の8月17日(新暦9月8日)佐々木兄弟が
 急ぎ疲れた体で参着した。
「洪水により遅れた。」
 源頼朝は涙を流してねぎらった(伝)。


夜、・・・・
 山木兼隆の雑色男=召使いが源頼朝の家の下女と恋仲で、
 北条館に来た。
 源頼朝は「多くの武者の集まっている。」
 と告げ口される恐れがあるので用心のため生け捕った。


 
源頼朝の命で進軍した。
深夜一行は進発。
北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けて
これを討て。」
と命じた。
①仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、子の刻に佐々木
経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り・・。(伝)
  新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
  堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を
  捨てて太刀を取って突入。
  堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
  佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
  高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
  
②北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。
  その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
  出払たっていて、さらに黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。
  山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  
  堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も加わり、激戦と
  なった。・・・容易に勝敗は決しなかった。

  源頼朝は山木館から火の手は上がらないのいで、
  焦った。
  源頼朝は警護に残っていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家
  を山木館へ向かわせた。
  加藤景廉には長刀を与え、
 「これで兼隆の首を取り持参せよ。」
  と命じた。
  加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込んでいった。
  遂に山木兼隆を討ち取った。
  山木館に火が放たれた。~~~悉く燃え尽きた。
  襲撃隊は暁に帰還した。
  源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。

8月19日 
  源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚で
  の非法を停止させる命令を発給した。
 『吾妻鏡』はこれを「関東御施政の始まりである」
 と特記している。

 山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。

※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆1国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。

  三浦義澄・和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  途中、弟の大庭景親の党類の館に火を放った。 
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
  源頼朝は相模の三浦一族を頼みとしていたがなかなか参着
  してこなかった。

  大庭景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦
  を仕掛けることにした。
  闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかった。

  北条時政 VS 大庭景親
「言葉戦い」をした。
大庭景親は
  「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
  と名乗った。
  北条時政が
  「かつて、源義家に従った鎌倉景正の子孫ならば、
   なぜ源頼朝公に弓を引くのか。」
   と言い返した。
  大庭景親は
  「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
   海よりも深い。」
  と応じた。
 (★『平家物語』)
★北条時政は先陣だった。


8月20日 源頼朝は相模へ~~~~ 
  しかし、来援を約束していた三浦勢がなかなか来なかった。

  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  相模国土肥郷(神奈川県湯河原)を目指した。
  従った者は
  北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・
  佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らである。 
  ★新田四郎忠常・・ほかに新田(仁田)の名が見られ
   ないので単独参加なのだろうか?
  (★吾妻鏡)
  三浦軍との合流前・・・

  これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、
  海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向か
  った。
 
8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い  
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。
①源頼朝の郎党・・・安達盛長、小中太光家
②伊豆の武士・・・・平氏系北条一族4
           藤原流工藤景狩野茂光父子・
           天野遠景父子・天野光家、
           宇佐美政光・実政(狩野の甥)
           新田(仁田)忠常、
     藤原系加藤景員(狩野娘婿)・光員・景廉父子           
     堀親家・助政、
     大見家秀、近藤七国平、、奈古谷頼時
     沢宗家・義勝房成尋、中惟重・惟平、鎌田俊長
③近江源氏・・佐々木一族4兄弟
④相模の武士・・中村景平・盛平(土肥同族)
        土肥実平一族5
       岡崎義実&佐那田義忠父子、
平佐古為重(横須賀市平作)
★つまり、源頼朝の挙兵の従った相模の武士団のほとんどは
 父:源義朝時代から関係のあった者達であった。
⑤駿河の武士・・・鮫島宗家・宣親父子
⑥敵将の兄・・・大庭景親、豊田景俊、


源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎+伊東300騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
   山内首藤経俊・
   伊東祐親(狩野茂光弟)300ら・・・

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が遅参した。

大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを
決行した。
源頼朝軍が衆寡敵せず、分散して、退却することにした。
 頼朝主従5人は、やっと朽木の洞に身を潜めることができた。
 

  この日は大雨となった。
  三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされた。
 源頼朝軍への合流ができなかった。

 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
  
源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
  ・・源頼朝は大敗北した。
  (★『平家物語』、『源平盛衰記』)
  
8月24日
  狩野茂光は戦死した。
平家方の大庭景親・伊東祐親(狩野茂光甥)らと交戦。
  戦いに敗れ、自害して果てた。
  狩野茂光は肥満体であったため思うように走ることができず、
  周囲の足手まといになることを嫌って外孫:田代信綱に懇願
  して介錯されたともいう。
◆狩野茂光の子ども
 狩野宗茂
 狩野行光
 狩野五郎親光
 娘・・・田代伊豆守為綱の室 ・・・孫:田代信綱

~~~狩野茂光が戦死~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
  飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
 
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。

  源頼朝は数日間の山中逃亡・・・死を逃れた。

8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい頼朝の元に集まった。
  土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。源頼朝一人ならば
   命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよう。」
   と雪辱の機会を期すよう進言した。
   皆これに従って涙を流して別れた。
 北条時政と2男の:義時は甲斐国武田に向かった。
 しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かったが、伊東祐親の
  軍勢に囲まれて討ち死にした。

 
 
 大庭軍は山中をくまなく捜索した。
  大庭軍の梶原景時が源頼朝の居場所を突き止めた。
 


 しかし、梶原景時は
  「・・・・・・・」
  が知って知らぬふりをした。梶原景時は
 「人跡なく、向こうの山が怪しい。」
  と大庭景親を導き、源頼朝の命を救ったのである。


「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無しと
 称し、景親の手を曳いて傍峯に登る。」
 (★『吾妻鏡』)


 源頼朝&土肥実平の一行は箱根権現社別当:行実に匿われ
 た後に箱根山から真鶴半島へ逃れた。

8月25日 箱根神社泊

8月26日 しとど窟泊
 ※土肥実平の妻が夕飯を届けたと言われてている。

8月27日 岩海岸の洞窟泊


8月28日 源頼朝らも土肥の真鶴岬の岩から小舟に乗って
 安房に向かった。
・源頼朝・・・・源氏の嫡流
 ・安達盛長・・・京都から伊豆に着いてきた家臣
 ・岡崎義実・・・藤沢の豪族:三浦一族
 ・新開忠氏・・・秦河勝の子孫。新開荒次郎忠氏
          (埼玉県深谷市新戒)
         新開忠氏は土肥実平の2男:実重が養子。
 ・土肥実平・・・東伊豆:湯河原~早川~小田原の豪族
 ・土屋宗遠・・・土肥実平の実弟
 ・田代信綱・・狩野茂光の娘&後三条天皇の子孫:源有
        仁の4代孫:源為綱の子どもである。
  7名が真鶴から舟出したメンバーである。

~~~三浦義澄 VS 畠山重忠~~~~~~~~~~
8月25日 小坪の合戦
  三浦義澄 VS 畠山重忠
 
8月26日 三浦義澄は、衣笠城に籠城した。
  三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、船で
  安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。
 

その後、源頼朝は関東の武将を集め軍団を建て直した。


10月20日 富士川の戦い
 源頼朝+武田信義ら VS 京 平維盛軍
源頼朝は平氏勢を撃破した。
 
 大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎでた。
 平維盛軍には、斉藤氏もいた。
 「関東武士は強い。・・・」
 などと言ったという。
 水鳥に驚いて退却したという話もある。
 目立った交戦もないまま、平氏軍は敗走した。

10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と
  劇的な再会をした。


※この後、佐竹氏、新田などの源頼朝に従わぬ豪族達と
 の対立を制して、源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立して
 いくことになる。

・元暦元年(1184)宇治川の合戦
   源頼朝は弟:源範頼、源義経を派遣して木曾義仲を滅ぼした。
★木曾義仲の墓…滋賀県大津の義仲寺

   一ノ谷の戦い
  源範頼と源義経は平氏に大勝した。
  狩野宗茂 (茂光の子) は、一ノ谷戦いで捕虜した平氏の総大将
  :平重衡を預かった。
  源頼朝が狩野氏を信頼していたのだ。
 
・元暦2年(1185) 3月 壇ノ浦の戦い
源義経は平氏を滅ぼした。
狩野宗茂は各地に転戦し、武功をたてた。
  狩野宗茂は重く用いられた。

  平氏滅亡後、頼朝と義経は対立した。
  源義経は郎党や妻妾を連れて都を落ち。平泉に向かった。

・文治2年(1186)  源義経の愛妾:静御前が捕らえられた。
  
  
・文治5年(1189)4月、源義経は藤原泰衡に攻められ自害した。
  源頼朝は奥州征伐のため出陣した。
  狩野親光は奥州藤原氏攻めの総大将として参戦した
  が、戦死した。
 
  源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。

  ※富士川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに
  平氏を破り、奥州の藤原氏を倒して全国を支配した。


 
・建久元年(1190)源頼朝は大軍を率いて入京。
  後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。

・建久3年(1192) 源頼朝は鎌倉幕府を開いた。
源頼朝は征夷大将軍に任じられた。
 北条政子は千幡(後の3代将軍:源実朝)を生んだ。

狩野親光の子:親成は鎌倉幕府に仕え、狩野城を再建した。
 狩野地方に勢力を張った。




・建久4年(1193) 富士の巻狩りを催した。
三原→那須→富士・・・
★源頼朝は軍事訓練の一貫として、各地区の武士団の
 状況を把握しようとしたのであろう。
源頼家が鹿を獲った。
 
●曾我兄弟の仇討ち
  富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ
  事件が起きた。
  鎌倉では源頼朝が殺されたとの流言があり、北条政子は心配
  した。
  鎌倉に残っていた源範頼が
  「源氏には私がおりますから御安心ください。」
   と政子を慰めた。
  源頼朝は鎌倉に帰った時、源頼朝が政子から
  源範頼の言葉を聞いて猜疑心を起こした。
土肥実平に源範頼は伊豆修善寺に送らせた。
管理は狩野宗茂が行った。
  源範頼は修善寺に幽閉されて殺された。


・建久6年(1195) 源頼朝と北条政子は上洛した。
 
・建久10年(1199) 1月 源頼朝落馬が元で急死した。

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長男:源頼家が家督を継いだ。
 北条政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれる。

 6月 三幡僅か14歳で死去した。

  源頼家の独裁性の強い専制政治を抑制すべくに御家人たちの
  反発が起きた。

・正治2年(1200) 大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条
 義時ら老臣による13人の合議制が定められた。長は安達盛長が
 務めた。

源義家 VS 老臣
 ①源頼家が安達景盛(安達盛長の子)の愛妾を奪う不祥事が起きた。
  源頼家は安達景盛が怨んでいると知らされた。
  源頼家は兵を発して討とうとした。
  北条政子は調停のため、安達景盛の邸に入り、使者を送って頼家を
  強く諌めた。
 「安達景盛を討つならば、まず、私に矢を射ろ。」
  と申し送った。
  北条政子は双方の騒ぎを収めさせた。

②梶原景時の変
  源頼家は梶原景時を失脚させて滅ぼした。
  
  源頼家は遊興・・・蹴鞠を好んだ。

・建仁3年(1203)
③比企能員の変
  源頼家は乳母の夫:比企能員を重用した。
  比企能員の娘は源頼家の長子:一幡を生んで、
  外戚として権勢を誇っていた。
  比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。

源頼家が危篤に陥った。
  
  北条政子と父:北条時政は一幡と実朝で日本を分割することを決め
  た。
  比企能員は病床の源頼家に北条氏の専断を訴えた。
  源頼家は北条氏討伐を命じた。

  北条政子は、使者を父:北条時政に送った。
  時政は策を講じて比企能員と一幡も比企氏とともに殺した。

  源頼家は回復したが、主導権は北条氏に完全に握られていた。

  源頼家は母:北条政子の命で出家させられて将軍職を奪われた。
  伊豆の修善寺に幽閉されてしまった。
  狩野氏の管理下となった。
  源頼家は後に暗殺された。

  3代将軍に源実朝がなった。
   父の北条時政が初代執権に就任した。
   北条時政と妻:牧の方は政権を独占しようと図った。

  
 


★明日は

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