箕輪初心▲源頼朝26【田代冠者信綱】狩野茂光外孫&伊豆の田代砦

治承4年(1180)8月17日、源頼朝の挙兵時に、田代冠者信綱は、
祖父:狩野茂光と一緒に加わった。田代冠者とあるのは、後三条
天皇の子孫:源有仁の4代孫:源為綱と狩野茂光の娘が結婚して
できた子どもだからである。狩野茂光の孫:田代冠者信綱が住ん
でいた田代砦は、「狩野日向館」から4km程の距離にある。その
先は「大見城」がある。田代の集落の裏山に築城されている。道
路から城跡へは石碑&説明板がある。その後、田代冠者信綱はお
そらく、安達盛長のいた函南桑原・大竹の田代砦・田代城に住ん
だ。現在残っている狩野の田代砦は戦国時代の後北条氏の遺構で
ある。 
画像

 (★田代信綱の墓)




【0】「殿のお城」
狩野茂光の「日向館」からは西は狩野城・北に「柏久保城」が見えた。

北の水田がある。田代信綱の館跡ではないかと思った。


【1】叢林寺:田代信綱菩提寺
画像

画像

画像



・場所を和尚さんに教えていただいた。

【2】田代砦 (伊豆国)
叢林寺から200m~250m程先の左手に入口に「田代砦入口」の
石碑と説明板が見えた。
携帯アンテナの脇に車を停めておけるスペースがある。
右手に駐車場がある。3台駐められる。

①石碑
画像

②説明版
画像

「史跡 田代信綱の墓と砦跡 (平成11年)」という案内板
「田代冠者信綱が地頭職としてこの田代郷に住居を構え、この地域を
 治めた・・・」
(★田代城址保存会)
さて案内板を見て、いざ出発。
 
③民家・・・「田代砦を見学させて下さい。」
「お邪魔しま~す。」と通らせていただいた。
ちょうど寄合が開かれるようで、BBQ男性が4人いた。

民家のの脇を通って山道を進んだ。
山道は最初、東の山すそを通っていく。
50m程の場所からは沢の小川を右に渡って、
城の方に向かっていく。

④古い墓=史蹟の田代信綱の墓
 民家から1分もかからず削平した墓地があった。
 2基の宝篋印塔と1基の五輪塔。
  完全な状態ではなかった。
案内板はない。
画像
 
宝篋印塔と五輪塔
画像



⑤墓所を後にして登る3~4分。
 沢沿いに道を上がって行く。
 堀切が見えた。


⑥堀切
画像


⑦主郭・・・15m×10m程度 。小さな郭である。
画像

  祠が1つ祭られていた。
画像

  城塁の縁ぎりぎりにある。傾いている。
画像

かなりきれいに削平されている。
  土塁・・・防御構造が見られる。
  郭の南には高さ1.5m程の土塁の痕跡があった。
  北と東は土塁が見当たらなかった。



⑧主郭&2郭との間の堀切

⑨2郭 草木が茂っている。 
  帯曲輪状の小郭
画像


 下には2段ほどの腰曲輪が配置されている。


⑩2郭と3郭との間の堀切
 田代砦は連郭式山城であった。

⑪堀切の先は山道となった。

⑪4郭   

▼下山
田代砦は、南の山から北の郷に向けて突き出た尾根上に曲輪を
直線状に並べた連格式の城である。明確な郭は2つであった。
田代砦には城としての遺構規模は小さな砦であった。

●トラクターのおじさん
「伊豆武将物語」の小野先生はここの出身です。
凄く教養の高い方であった。



★★ 田代冠者信綱の生涯 ★★
【4】藤原流工藤系
【平氏の横暴から領地を守ろうとした源頼朝にかけた】
藤原為憲→藤原時理→維永:宮藤太夫→藤原維景→藤原維職
→狩野維次→●狩野家次・・・?鹿野祐隆・・・
●工藤系図・狩野家次系図②
①長男:祐家→宇佐美祐親→長男:祐泰→曽我祐成
曽我時政
次男・祐清
|・・・・・
比企尼娘
②2男:伊東祐継=次→工藤祐経
             |
            万劫(宇佐美祐親の娘)
             |
            土肥実平

③3男:狩野茂光・・長男:狩野親光・・・狩野宗茂
                 外孫:田代信綱
次男:狩野宗茂・・・狩野宗時
3男:家茂
4男:これ光
長女??・初婚:源仲成の子:源信成
  再婚:曽我祐泰の子
次女??
 |・・・田代冠者信綱
源為綱

④長女:狩野茂光妹
   | ・・・・ →長男:加藤光員 次男:加藤景廉
  加藤景員
        



・平安末期
中納言源為綱が伊豆の国司になった。
狩野茂光に伊豆を任せていた。
 三島神社参内のおり、狩野茂光の娘と仲良くなった。

 田代冠者信綱が生まれた。
 父:後三条天皇の子孫:源有仁の4代孫:源為綱
 母・狩野茂光の娘と結婚してできた子どもである。

中納言源為綱はしばらく伊豆にいたが、都に帰った。
 狩野茂光は「日向館」に住んでいた。
 ※西は狩野川の対岸に後の狩野城
 ・北に北条早雲は造った「柏久保城」が見える。
 狩野茂光は養育した。

・源頼朝の伊豆流刑
  狩野茂光は孫:田代信綱を源頼朝に会わせた。
  源頼朝はすぐに側近にした。


・治承4年(1180) 8月17日源頼朝の挙兵
  祖父:狩野茂光と一緒に加わった。


8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い  
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。
①源頼朝の郎党・・・安達盛長、小中太光家
②伊豆の武士・・・・平氏系北条一族4
           藤原流工藤景狩野茂光父子・
           天野遠景父子・天野光家、
           宇佐美政光・実政(狩野の甥)
           新田(仁田)忠常、
     藤原系加藤景員・景廉父子(狩野娘婿)
           堀親家・助政、
     大見家秀、近藤七国平、奈古谷頼時
     沢宗家・義勝房成尋、中惟重・惟平、鎌田俊長
③近江源氏・・佐々木一族4兄弟
④相模の武士・・中村景平・盛平(土肥同族)
        土肥実平一族5
       岡崎義実&佐那田義忠父子、
       平佐古為重(横須賀?)
★つまり、源頼朝の挙兵の従った相模の武士団のほとんどは
 父:源義朝時代から関係のあった者達であった。
⑤駿河の武士・・・鮫島宗家・宣親父子
⑥敵将の兄・・・大庭景親、豊田景俊、


源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎+伊東300騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
   山内首藤経俊・
   伊東祐親(狩野茂光弟)300ら・・・

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が遅参した。

大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを
決行した。
源頼朝軍が衆寡敵せず、分散して、退却することにした。
 頼朝主従5人は、やっと朽木の洞に身を潜めることができた。
 

  この日は大雨となった。
  三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされた。
 源頼朝軍への合流ができなかった。

 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
  
源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
  ・・源頼朝は大敗北した。
  (★『平家物語』、『源平盛衰記』)

   大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
  飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
 
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。

  源頼朝は数日間の山中逃亡・・・死を逃れた。

8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい頼朝の元に集まった。
  土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。源頼朝一人ならば
   命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよう。」
   と雪辱の機会を期すよう進言した。
   皆これに従って涙を流して別れた。
 北条時政と2男の:義時は甲斐国武田に向かった。
 しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かったが、伊東祐親の
  軍勢に囲まれて討ち死にした。


  狩野茂光は肥満だったため、「足手まとい」になると考え、
  田代信綱に首を落とさせた。
・・・(★吾妻鏡)
  函南大竹で切られた説もある。


  大庭軍は山中をくまなく捜索した。
  大庭軍の梶原景時が源頼朝の居場所を突き止めた。
 


 しかし、梶原景時は
  「・・・・・・・」
  が知って知らぬふりをした。梶原景時は
 「人跡なく、向こうの山が怪しい。」
  と大庭景親を導き、源頼朝の命を救ったのである。
●土肥の椙山の「しとどの窟」
  ・・エピソード=伝説の地として伝わっている。

「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無しと
 称し、景親の手を曳いて傍峯に登る。」
 (★『吾妻鏡』)

 源頼朝&土肥実平の一行は箱根権現社別当:行実に匿われ
 た後に箱根山から真鶴半島へ逃れた。

8月28日 真鶴岬の北の付け根:岩から船で安房国へ
  脱出した。
  真鶴岬の岩(神奈川県真鶴町)から出航・・・・。
  北条時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と
 合流し、安房国を目指して落ち延びた。

~~~三浦義澄 VS 畠山重忠~~~~~~~~~~
8月25日 小坪の合戦
  三浦義澄 VS 畠山重忠
 
8月26日 三浦義澄は、衣笠城に籠城した。
  三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、船で
  安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
8月28日 源頼朝らも土肥の真鶴岬から小舟に乗って安房に
  向かった。
 
石橋山の戦いで北条政子の長兄・北条宗時が討死した。
北条政子は伊豆山に留まり、源頼朝の安否を心配して不安の
日々を送ることになった。


◆◆源頼朝の関東平定 ◆◆
8月29日
 源頼朝は安房国の平北郡猟島(現勝山付近)へ上陸した。
  北条時政・和田義盛・三浦義澄らの出迎えを受けた。
 
 源頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請
 すべく使者を派遣した。
 源頼朝は江戸湾に沿って南下し洲崎明神に参詣した。

9月3日 源頼朝は勝山から使者を送り、味方の参陣を待つこと
  にした。
  上総介広常の元には和田義盛が派遣された。  
  千葉介常胤の元には安達盛長が派遣された。

  小山朝政ら下野・下総・武蔵の有力豪族にも使いを
  送った。
  甲斐・信濃の豪族にも北条時政を派遣した。

9月9日、千葉介常胤から
  「先祖以来の故地で、要害の地鎌倉にお入りを」
  という使者が来た。


9月13日 源頼朝は安房国を出て上総国に向かった。

9月17日 源頼朝は下総国府で千葉介常胤と合流した。


9月19日 源頼朝は上総広常と会見した。
  上総広常は大軍を率いて参上したのだった。
  
安房においては頼朝は再挙した。
  安西氏、千葉氏、上総氏などに迎えられた。
  房総半島を進軍して武蔵国へ入った。
  平氏方の目代に圧迫されていた千葉氏、上総氏などの東国武士
  が平氏方目代や平氏方豪族を打ち破りながら続々と参集した。
  
  1か月かけて数万騎の大軍に膨れ上がった。

源頼朝は北条時政&義時とともに再挙し、東国の武士たちは続々
  と源頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がった。


 
9月19日 源頼朝は下総と武蔵の境の隅田川で、上総介広常
  の2万騎を迎えた。
  しかし、源頼朝は上総広常の遅参を厳しく責めた。
  源頼朝の「許容の気無し」の態度に
  鍛冶佐広常は「害心を変じ、和順」
  (日和見を改め、頼朝に服属)した。
  傲慢な千葉介常胤をしかった。

10月2日 上総・千葉両氏の支持を受けた源頼朝は、
  太井川・隅田川の両河を渡った。
  武蔵国に入った。
  源義経の傘下に葛西清重、足立遠元が入った。
江戸城の江戸重長も源頼朝の傘下に入った。
  源頼朝は三浦義澄の敵:畠山重忠の参陣を許した。
一度は敵対した秩父平氏氏系畠山重忠・河越重頼・
  江戸重長らも従えることになった。
  
★源頼朝は度量の大きさでもリーダーとしての風格を持って
  いると言える。

10月6日 源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」
  という大軍を率いて、鎌倉に入った。
 
源頼朝はかつて父:源義朝と兄:義平の住んだ
  鎌倉へ入った。
  大倉の地に大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。
  源氏ゆかりの地:鎌倉に入り居を定めた。
  北条政子も鎌倉に移り住んだ。

  また、先祖の源頼義が京都石清水八幡宮を勧請した鶴岡
  八幡宮を移した。
  父:源義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行った。

10月20日 富士川の戦い
 源頼朝+武田信義ら VS 京 平維盛軍
源頼朝は平氏勢を撃破した。
 
※この後、佐竹氏、新田義重などの源頼朝に従わぬ豪族達と
 の対立を制して、源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立して
 いくことになる。

10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と
  劇的な再会をした。
 

10月25日
 源頼朝と合流すべく三浦半島を出た三浦義澄、和田義盛ら
 三浦一族500騎は丸子川(酒匂川)の辺りまで来ていた。
 しかし、豪雨の増水のために渡河できなかった。
 源頼朝軍の敗北を知り、引き返した。

 三浦一族は鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇
 した。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。
 
※小壺坂合戦、小坪合戦
 和田義盛の弟:和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
源頼朝は富士川の戦いで勝利し、関東を制圧した。

       
田代信綱は源頼朝の代官として源義経と共に平家追討の戦いに加わり
一ノ谷や屋島を転戦した。

~~~義経の実像一の谷合戦における鵯越の逆落とし~~~~
http://www2.ocn.ne.jp/~umeno87/
★兵庫歴史研究会 会長梅村伸雄さんのHpが凄い。



・寿永3年(1184)・元暦元年(1184) 宇治川の戦い
  東別府に居住した別府義行は源頼朝の木曽義仲追討の時に
  源範頼に従った。

2月4日 鎌倉方(:源頼朝軍)は矢合せを7日と定めた。
  ①源範頼が大手軍5万6千余騎
  ②源義経が搦手軍1万騎?・・・2万余騎とも?
   京を出発して摂津へ下った。
 
  平氏は福原に陣営を置いて、外周に強固な防御陣を築いて
  待ち構えていた。
①東の生田口
  ②西の一ノ谷口 
  ③山の手の夢野口
・・・
  
 2月4日同日
  源義経宮奈搦手を率いて丹波路を進んだ。
 ①三草山の戦い・・・
  平氏方の平資盛・平有盛・平師盛が播磨国三草山の西に
  布陣した。
  源義経は東方に陣をとり、源平両軍が三里ほどの至近距離
  で対峙した。
  三草山は、交通の要所であり平氏の荘園の地であった。
  平氏に地の利があるとして選ばれたと見られている。

※『平家物語』の「三草合戦」
 源義経は土肥実平を呼び、今晩夜討ちをかけるか、明日の合戦
 とすべきかを問う。
 田代冠者信綱(★源頼家&狩野茂光の娘の子
  伊豆の国市田代)・・
 が進み出て
 「明日の合戦となれば、平家の軍勢は増すので、数の上で有利
 な今、夜討ちをかけるべきです。」
 と進言した。源義経はそれを受け入れ、夜討ちを決行するべく
 民家に火を放って進撃した。

 平氏は夜討ちを予想していなかった。
 平氏軍は武具を解いて休息していた。
 源氏軍の夜討ちにあわてふためいて敗走した。
 あっけなく源氏軍の勝利となった。

 平資盛・有盛は高砂より海路で屋島に渡った。
 平師盛は福原の平氏本隊へ戻った。

 源義経軍は播磨国・三草山の平資盛、有盛らの陣に夜襲を
 仕掛けて撃破した。
 
 源義経軍は前哨戦に勝利した。
源義経は2万余騎を2手に分けた。
 土肥実平・田代冠者両人大将軍として7千余騎を付けて、
 一ノ谷の西木戸口へと向かわせた。

 敗走した平資盛、有盛らを土肥実平に追撃させた。
 一方、源義経は3千余騎にて、一の谷の後、鵯越(ひよどりごえ)
 を落とそうと、丹波路から搦め手へと向かって山道を進撃した。

2月6日 福原で平清盛の法要。
  平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告した。、
  「源平は交戦しない。」よう命じた。

 平氏一門が信用して警戒を緩めた。
 源義経は知らなかった。
 

 源義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を2分した。

①安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて・・・平通盛・教経
  の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせた。
※山梨県放光寺・・・恵林寺の北に高橋山放光寺がある。
  元暦元年(1184) 安田義定が放光寺を建立した。
ここの和尚さん曰く、
 「鵯越えの絵の隣にいるのが安田義定である。」
★どうなんでしょうね?

②源義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。
兵達は、
「ここは有名な悪所、同じ死ぬのなら、良き敵に会って
 死にたいものよ。」
 「岩場に落ちて死ぬのは、御免こうむりたい。」
 「誰か良き道案内は居ないものか。」
 と言った。

 すると、武蔵の平山季重が進み出て、
 「この季重、この山を存じて候。私めにお任せあれ。」
 と言った。源義経が、
 「汝は東国育ちのはず・・・今日始めて見るこの山を
  案内できるとは、到底信じられぬ。」
 と申すとと、季重は重ねて、 
 「例えば、歌人は、吉野泊瀬の花を見もせずに、吉野の
  歌を詠み、剛の武者は、敵が立籠もる城内を知ると申
  すではありませぬか。」
  と、言った。
※平山季重・・・多西郡(多摩郡)船木田庄平山郷
  (京王線平山城址公園駅付近)
 
 次に、武蔵の別府小太郎清重は
 「我が父にて、義重法師が教えには、例えば山越えの狩
  であれ、或いは敵に襲われた時であれ、深山にて道に迷
  った時は、老馬に手綱を付けて、先を歩ませよ。自ずと道
  は通じると教えられました。」
  これを聞いた源義経は
 「これは良いことを申した。雪道は老馬に聞けと申すたとえ
  もある。」
  ・・・早速、老馬に鞍を付けて、未だ知らぬ深山へ入った。

  山路で日が暮れた。その日は、そこで陣を張った。

 そこへ、武蔵坊弁慶が、老人と若者を伴って現れた。
 源義経が 
 「その者は、如何なる者ぞ?」
 とお尋ねになられた。弁慶は
 「この山の猟師に候。」
 と答えた。源頼経は
 「それなら、山のことに詳しいであろうのう?」
 とお尋ねになられた。弁慶は
 「知らないことはござらぬようで・・・」
 と答えた。
源義経は
 「老人よ、平家の一ノ谷を攻め落とさんと思うが、
  如何に?」
 と老猟師にお尋ねになられた。老猟師は
 「それは叶いませぬ。おおよそ30丈の谷と、10丈の
  岩がそびえております。・・・。
  馬など思いもよりませぬ。・・・無理でございます。」
 と答えた。源義経は
 「そうか、して、その道は鹿は通うか?」
 と問われると、老猟師は
 「鹿は通います。夏は、草を食べんと丹波路へ、冬には雪の
  浅い播磨へ、・・・この道を越えて渡りまする。」
 と答えた。源義経は
 「さて、・・・鹿の通う道を馬が通えぬはずはなし。
  ならば、汝が案内せよ。」
 と仰せになられた。しかし、老猟師は
 「私は年老いて叶いませぬ。・・・・」
 
 そして、猟師:鷲尾庄司竹久の子:熊王と申す18才の
 子冠者が道案内することとなった。
   

※『平家物語』では
 源義経の郎党:武蔵坊弁慶が道案内を探し、猟師の若者が
 これを引き受けた。
 源義経は
 「鹿は、この道を越えらるるか。」
 と問うと、鷲尾義久は
 「冬場に鹿は越えられまする。」
 と答えた。源義経は
 「鹿が通えるならば、馬も通えよう。」
 と兵たちを励ました。
源義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と
 名乗らせた。「義経」の「義」を下賜した。
 鷲尾義久が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路である
 と説明した。
(※鷲尾三郎義久は奥州の平泉衣川で源義経とともに討ち死
 した。)

 源義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。
 断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していな
 かった。

2月7日 開戦・生田の戦い
払暁・・・先駆けせんと欲して、源義経の部隊から抜け出した・
 熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口
 の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。
  平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討
 ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。
 熊谷直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時
 に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。

午前6時・・平知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の
 陣の前には源範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍
 5万騎が布陣・・・。
 源範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、
 逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。
 平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ坂東武者をひるませる。
 平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開した。
 源範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出し
 攻めあぐねた。
 そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢
 の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。

 源義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を
 攻撃した。

生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激し
く抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。
 


源義経は精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に
立った。源義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。

※『平家物語』
源義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう
1頭は無事に駆け下った。
源義経は
「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ。」
と言うや、先陣となって駆け下った。
坂東武者たちもこれに続いて駆け下りる。
二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となって
おり、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が
「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ。」
と言うや、真っ先に駆け下った。
源義経らもこれに続く。
大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け
下った。

※『吾妻鏡』
 畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、源義経の軍勢には
 いなかった。
●鵯越の逆落とし・・・
先陣が平山季重&熊谷次郎直実であった。
※平山季重・・・多西郡(多摩郡)船木田庄平山郷
  (京王線平山城址公園駅付近)
 
※熊谷次郎直実
箕輪初心★熊谷:熊谷次郎直実&熊谷寺
http://53922401.at.webry.info/201408/article_25.html

★愛馬「三日月」を背負う畠山重忠の銅像
 (埼玉県深谷市川本)
箕輪初心■埼玉川本【畠山重忠公史跡公園】:畠山重忠
公生誕の地
http://53922401.at.webry.info/201407/article_16.html


崖を駆け下った源義経らは平氏の陣に突入する。
予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱
となった。
源義経はそれに乗じて方々に火をかけた。
平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。

※『吾妻鏡』
「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山
(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)
ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通
れぬ険阻である)において攻防の間に、(平氏は)商量を
失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは
船で四国の地へ向かおうとした。」


※『玉葉』九条兼実の日記
「搦め手の源義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷
を落とした。大手の源範頼は浜より福原に寄せた。多田行綱は
山側から攻めて山の手:夢野口を落とした。」
 ・・・源義経が一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、
「逆落しの奇襲をかけた。」とは書いていない。


●平敦盛を呼び止める熊谷直実
 
 平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。
逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。

副将の平重衡が 生田口の東城戸に8000騎を率いて
 安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口
(山の手=大手口)の救援に向かった。

午前11時頃 源範頼は一ノ谷から煙が上がるのを見た。
 源範頼は大手軍に総攻撃を命じた。
 平知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を
 始めた。
 安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の平宗盛
 は敗北を悟って屋島へ向かった。

 西城戸の将:平忠度は逃れようとしていたところを岡部忠澄
 に組まれて負傷し、覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ね
 られた。


●熊谷直実は合戦の一番乗りの功名を果たした敵を探している
 と、馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする平氏の武
 者を見つけて
 「返せ、返せ」
 と呼びかけた。武者はこれに応じて、陸へ引きかえして熊谷
 次郎直実と組むが、勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せ
 られた。
 熊谷直実は首を取ろうとするが、武者の顔を見ると薄化粧を
 した美しい顔立ちの少年だった。
①『源平盛衰記』
  武者は清盛の弟:平経盛の子:敦盛16歳と名乗った。
 ②『平家物語』
武者は名乗らなかった。
『平家物語』・・・・・
 一の谷の戦いで良き敵を探し求めていた熊谷直実は、波際を
 逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止
 めて一騎打ちを挑む。直実がむんずと取っ組んで若武者を馬
 から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐ
 らいの齢だった。直家はこの戦いの直前に矢に射抜かれ深手
 を負っていたので、直実はその仇討ちとばかりにこの若武者
 に挑んだのである。直実が
 「我こそは熊谷の住人:熊谷次郎直実である。あなた様はど
 なたであるか?」 
 と訊くと、平敦盛は 
「名乗る程の者ではない。首実検すれば分かることだ。」
 と健気に答えた。

★平敦盛は自分の命がない事を覚悟した。
 「私の首を取っ行け。大手柄になるだろう。・・・」
 と言ったのかもしれない。これの方がぴったしくる
 だろう。吾妻鏡は変かも? 
 
 これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃が
 そうとしたが、背後に味方の手勢が迫りくる。
 熊谷直実は
 「・・・・直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をい
 たしましょう。」
 と答え、泣く泣くその首を切った。

 その後、首実検をすると、清盛の甥:平敦盛と判明した。
 齢17(実際は16歳)だった。討ち死にの折に帯びていた
 笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた平敦盛の
 祖父:平忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという。
 これ以後直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思い
 はいっそう強くなったという。
 (★『平家物語』)・・・・
 
 熊谷直実の息子:直家も同じ16歳で、憐れに思い逃そうとす
 るが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることは
 できまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。
 熊谷直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登った。
 ※『平家物語』の名場面である。


 平重衡は敗走したが、梶原景季と庄家長(埼玉県本庄)に
 よって捕らえられた。
 ※①『吾妻鏡』では、児玉党の武将:庄太郎家長
  ②『平家物語』では、庄四郎高家に捕らえられたとある
  (★家長説が有力説)

 ●平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、
  戦いは鎌倉方の勝利に終わった。
 (★ウィキペディアより編集)

・元暦2年(1185)3月24日 壇ノ浦の戦い
  平家一門が滅亡した。
  源頼朝は雑色の吉枝が使者として源頼朝の手紙を携え田代冠者
  信綱に遣わされた。
  源頼朝から田代信綱は
 「廷尉(義経)は関東の意を受けて御家人と共に西国に派遣された
  にも拘らず勝手な振る舞いが見受けられる。関東の事を大事に考
  える者は安易に義経に従って行動しないよう、内々に伝えるよう
  に。」と。・・・つまり、
 「安易に源義経に従ってはならない。」
  との旨の書状が送られた。
  (★吾妻鏡)
 

 ※この時点の頼朝には既に義経排除の計画があったのだろう。
.
  平家追討から凱旋した後は改めて狩野荘田代郷の所領を安堵された。
  同時に函南の平井から日金山に通じる主要道の傍らにも領地を得て
  現函南町に田代城を構えた。

・建久3年(1192) 鎌倉幕府
  田代信綱は鎌倉比企ヶ谷に白花山田代寺を創建した。
尊乗上人を開山とした。
 、現鎌倉大町祇園山安養院田代寺となっている。

・建久4年(1193) 5月28日(6月28日) 源頼朝の富士の巻狩り
  曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った。

「伊東祐清の手勢は激戦の末に八幡三郎を討ち取った。心卑しい
  大見小藤太は逃げ出したが、狩野境に追い詰めて首を刎ねた。」
  とある。
  (★ 曾我物語) 
  狩野川本流に沿った赤丸「日向館」が狩野境であろう。
  柿木へ移る前の狩野氏の本拠だった。
  
  
・承久3年(1221)承久の変
武家政政権 VS 公家政権
  後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた。
  田代信綱は功績を挙げた。
  和泉国大島郷の地頭にも補せられた。2男:田代頼綱が
継いだ。
  
 結果、鎌倉幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限された。
  鎌倉幕府が皇位継承などに影響力を持つようになっていった。

.
 田代信綱は観音菩薩を深く信仰した。
 歴戦を生き延びた加護の恩に報いるため、叢林寺に田代観音堂
 が建てられた。田代信綱の守本尊:千手観音が祀られている。

 

・????年 田代信綱は本拠地を函南町の田代城に移した。


  現伊豆市田代の田代砦の宝きょう印塔2&五輪塔と石塔1は田代
  信綱とその一族の墓と伝わっている。




★参考文献資料
・漫画:源義経:学研など多数
・「中世武蔵人物列伝」
・伊豆武将物語:小野眞一著
★参考サイト
・ウィキペディア
・兵庫歴史研究会Hp




箕輪初心▲源頼朝21【狩野茂光】&伊豆【狩野日向館】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_9.html

箕輪初心★源頼朝25【武闘派:加藤景廉①】&伊豆の墓
http://53922401.at.webry.info/201502/article_10.html

箕輪初心★源頼朝25【武闘派:加藤景廉②】&伊豆の墓
http://53922401.at.webry.info/201502/article_11.html



箕輪初心★那須一族の歴史=~2代:那須与一宗隆~31代
http://53922401.at.webry.info/201401/article_19.html



★明日は大見氏&大見城かな?天野遠景かな?

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック