箕輪初心★源頼朝25【武闘派:加藤景廉①】狩野茂光甥:山木兼隆を討つ

加藤景廉(かげかど)は暗殺で歴史を変えた偉人?かもしれない」
・治承4年(1190)8月17日、源頼朝が挙兵した。加藤景廉は
伊豆国目代:山木兼隆を討ち取るという歴史に残る偉業を挙げた。
しかし、平家から見れば、とんでもないことをした人物である。

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●長倉書店で道を聞いた。

【1】加藤景廉の本領:牧之郷


【2】加藤館の遠望
加藤氏館跡と推定される玉洞院


【3】加藤景廉の墓&一族の墓
 ★明日に掲載


【4】パンフ
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★★ 加藤景廉(かげかど)の生涯 ★★
【1】加藤氏の出自
藤原北家魚名流→藤原利仁の流れを汲む。
※藤原利仁:従四位下。鎮守府将軍:藤原利仁の子孫を称した。
利仁流藤原氏の末裔を名乗る家系は多数あり、加藤氏の場合も
系図の真偽は不明である。
1)加藤氏の祖:初代の藤原景道
藤原景道( 加藤景廉の祖父)が河内源氏の2代棟梁:源頼義
(源頼朝4代前)に仕えた。
藤原景道源頼義の郎党であった。
源頼義七騎の1人として勇名を馳せた人物である。
藤原景道が加賀介となった。
一時期は加賀国に住んだ経緯から加賀の藤原加藤を名乗った
と伝えられている。
加賀の藤原を「加藤」と略したことから加藤氏が始まった
説もある。

2)伊勢加藤一族の祖:加藤景清に始まる。
伊勢国目代に任じた。.
加藤氏は伊勢国を本拠としていた。
伊勢加藤氏の館は安濃津(伊勢の長野氏)の近くの下部田
(現三重県津市南羽所)にあったと言われている。

3)加藤五景員
加藤景清の嫡子(嫡孫):加藤五景員が伊勢神宮領の管理を
務めていた。
藤原為憲→藤原時理→維永:宮藤太夫→藤原維景→藤原維職
→狩野維次→●狩野家次・・・?鹿野祐隆・・・
●工藤系図・狩野家次系図②
①長男:祐家→宇佐美祐親→長男:祐泰→曽我祐成
曽我時政
次男・祐清
|・・・・・
比企尼娘
②2男:伊東祐継=次→工藤祐経
             |
            万劫(宇佐美祐親の娘)
             |
            土肥実平

③3男:狩野茂光・・長男:狩野親光・・・狩野宗茂
次男:狩野宗茂・・・狩野宗時
3男:家茂
4男:これ光
長女??・初婚:源仲成の子:源信成
  再婚:曽我祐泰の子
次女??
 |・・・田代冠者信綱
源為綱

3女??・天野遠景説あり

長女:狩野茂光妹
   | ・・・・ →長男:加藤光員 次男:加藤景廉
  加藤景員


●加藤五景員の子ども
嫡男:加藤太光員(光胤)
次男:加藤次景廉
加藤光員と加藤景廉の生母は不明。
※産まれた場所が伊勢国か伊豆国なのかも不明・・・。



加藤景員は伊勢国でのトラブルから平家の武士を殺して逐電した。
平氏との争いにより父:加藤景員に従って伊豆国に下った。
伊豆に逃れて伊豆の最大勢力:狩野茂光の庇護を受けた。
狩野茂光の支配下にあった官牧(狩野荘内牧の郷・狩野の牧)の
管理などに任じたと考えられる。
  (★源平盛衰記)
 .


・嘉応2年(1170) 保元の乱
源為朝が敗れた。
 源為朝が配流先の伊豆大島で勢力を伸ばした。
 
 狩野茂光を大将・北条時政を副将とする源為朝討伐に従軍した。
 加藤景廉は討伐軍に加わった。

 源為朝が大敗して自刃した。
 加藤景廉は源為朝の首をはねて、戦功を挙げた(伝)。


・治承元年(1177) 頃? 29歳
源頼朝は韮山の北条館に行った。
★おそらくは北条時政から
「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行ってね。」
と言われたのであろう。
●北条館=北条時政の館=伝:堀越公方館

●蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)


・治承2年(1178)頃 30歳
※源頼朝は蛭ヶ小島からいろいろな場所を訪ねたであろう
〇箱根・・・箱根神社
①三島・・・三島神社
②函南・・・安達盛長邸&比企尼邸・仁田忠行邸・肥田邸
③韮山・・・北条時政館・江間館・江川(宇野源氏)邸?
④修善寺・・修善寺・加藤景廉邸・工藤系狩野茂光邸
⑥河津・・・白浜神社
⑦松崎・・・円通寺
⑧東伊豆・・阿多美・伊豆山神社

良橋太郎入道の娘:亀ノ前とできちゃった。
→また、ひと悶着あった。



~~~北条政子との出会い~~~~~~~
※北条時政の娘
①長女:北条政子21歳・・・一番美人
②次女:19歳・・・・やや不器量。源頼朝は恋文を書いた。
③3女:17歳・・・・やや不器量。
〇長男:北条泰時=江間小四郎


●「蛭ヶ小島公園」の源頼朝&政子夫妻の像
源頼朝31歳
北条政子21歳
がであった
源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
長女:大姫をもうけた。

治承3年の政変に伴う知行国主の変更により、坂東各地では
新知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方目代により
旧知行国主系の豪族達が圧迫されていった。
 

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◆◆ 山木兼隆
 生年不詳~治承4年(1180)8月17日(19月8日))

・桓武平氏系伊勢平氏の流れ・・・
  大掾氏の庶流和泉守:平信兼の子である
平兼隆または大掾兼隆(だいじょう かねたか)ともいう。

・治承3年(1189) 検非違使少尉=判官であった父:平信兼
  訴え伊豆国山木郷に流罪となった。
   詳しい事情は不明・・・。

・治承3年の政変
   伊豆知行国主:平時忠により伊豆国目代に任ぜられた。
   という説があるが、この時、平時忠は伊豆知行国主
ではなかった。
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●源頼朝は文覚上人(遠藤盛遠)から挙兵を促されていた。
 文覚上人のいた場所
説①伊豆国の奈古屋説・・★こっちかな?
説②松崎の円通寺説
 「源頼朝が挙兵した場合、旧知行国主系豪族の協力が見込ま
  れることが予想できる。」
 と密かに心構えを説いた。
 
北条時政は次第に北条政子&源頼朝を許す考えになって
 いった。

・治承4年(1180)

4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

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伊豆国は平時忠の知行国になった。
※平時忠(????~1189)
「平家にあらずんば人にあらず」
 と言った平清盛の義理の弟にあたる人物である。
①平清盛の妻:時子は平時忠の妹である。
②後白河法皇の后の建春門院滋子は平時忠の妹であった。

 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
うようになっていった。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。
また、山木兼隆は源頼朝の監視も命じられていた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
  胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 

 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
①反対派
 山内首藤経俊は
 「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
 鼠が猫をとるようなものだ」
 と嘲笑した。
②迷った派
波多野義常は返答を渋った。
③賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。この一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。

  
●源頼朝は挙兵に対して、慎重に行動した。
①期日
 源頼朝は8月17日早朝をもって挙兵することを決めた。
  8月17日は三嶋大社の祭の夜であったからである。
②ターゲット
 まず手始めに伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
 源頼朝は最初の標的を伊豆国目代・山木兼隆と定めた。
そして、後見人:堤信遠と決めた。

8月4日~
③周辺見取り図&屋敷の見取り図
 源頼朝は藤原邦通に命じて地図を書かせた。
 ※藤原邦通は元大和判官であったが、伊豆に
 流され、源頼朝の祐筆(代筆人)になっていった。

 藤原邦通は和歌の歌会に山木兼隆から呼ばれて
 数日間滞在した。
 藤原邦通は館の内部や建物の見取り図・
 周囲の地形を絵地図に書いた。
★「尾根の張り出した一部を削って、屋敷を設け
入口は中世の虎口風になっていること。・・」
200m奥は香山寺で、ここも要害になっている。」
★これは私の創作である。・・・

8月6日~
④安達盛長から知らせを受けて、味方に付いてくれそうな
 相模や伊豆の豪族たちに連絡しておいた。
中伊豆・・工藤系狩野茂光、加藤景廉(かとう かげかど)・天野遠景
仁田忠常:肥田??
東伊豆・・土肥実平・宇佐美祐茂    
相模・・・岡崎義実、
     渋谷重国宅居候:佐々木盛綱
の中から・・・

一人一人を招いて個人面接し、計画を打ち明けた。
「まだ、誰にも話していないのだが、そなたを頼りに思う故、
 打ち明けるのじゃ。わしは葉月17日に挙兵する。
 山木兼隆を討とうと思うが、いかがじゃ?」
★源頼朝は裏切りを恐れ、そして、真の忠義の武士として
 確かめながら、確実な家臣を得ていった。

⑤藤原邦通は源頼朝のもとへ持ち帰りった。
 源頼朝は信頼できる北条時政を招いて相談した。
③襲撃コース
山木(平)兼隆の館は、北条館から真東300m程の所にある。
   蛭ヶ小島~江川館経由で5km程の所にある。
蛭ヶ小島からなら、2km程の場所にある。
山木(平)兼隆の開山の香山寺はさらに200m程先にある。
山木兼隆の館は現江川館東300mの要害の地にある。
 蛭ヶ小島~江川館経由では馬が通るのが大変な場所であった。

8月11日
 源頼朝は岡崎義実と息子:佐那田与一義忠に 
「土肥実平と一緒に参上せよ。」
 と、命じた。

8月16日  決行の前日の夜。
佐々木定綱・経高・盛綱・高綱
佐々木四兄弟の到着が遅れていた。
「佐々木兄弟はまだか?」
 雨が降りしきる中、源頼朝は焦りを感じながら
 北条館?蛭ヶ小島館で待っていた。

 もしや佐々木兄弟が裏切ったのではないだろうか?
渋谷重国に諭されたかな・・・
 9日には、大庭景親が渋谷重国邸の佐々木秀義を
 訪ねて、警告を発しているしな~~~?
挙兵が発覚したのだろうか?
しかし、最も頼りにしている近江源氏:佐々木秀義の
 息子達である。絶対に裏切るわけがない。・・・。

 源頼朝は疑心暗鬼心になっていった。



8月17日 
●早朝・・・源頼朝は襲撃は朝駈けを考ええていたが、
  佐々木兄弟の遅参によって計画がくるってしまった。


●未の刻:午後2時頃 やっと佐々木四兄弟が到着した。
兄 「佐殿(頼朝様)、只今、着き申した。・・・
 頼朝「おお、よくぞ、参った。これで、100人力・・・・」
 兄「遅参の段、ひらにお許し下さい。」
 弟 「何とお詫び申し上げてよろしいやら
   酒匂川の洪水で道をはばまれておりました。」

 頼朝「そなたたちが遅れたので、挙兵ができなかった。」

  四兄弟は許された。

●夕方・・・・山木兼隆の雑色男=召使が源頼朝の家の下女と
     恋仲で今日もゲートをしに来た。
     源頼朝は用心のため生け捕った。


●深夜・・源頼朝の命を下した。
 源頼朝は
(「明日を待っていては敵に気付かれてしまう。
 そうなっては手遅れになる。)
  「時は今じゃ。」
 「明朝を待たず、直ちに山木館を襲撃すべし。」
 「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。」
 「山木の館を放火すべし。それをもって襲撃の成否を
  確認すべし。」
と命じた。
 
  源頼朝を応援する武士の士気を上がった。
「いよいよですな?」
「ようし、・・・」


 北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに、牛鍬大路は
  人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがあり申す。
  間道の蛭ヶ島通を通ってはいかがか?」
  と進言した。源頼朝は
 「余も最初はそう思った。しかし、挙兵の始まりである。
  間道は用いるべきではない。王道を通るべし。
  ・・・また、蛭ヶ島通では騎馬が難渋する。
  あえて牛鍬大路から行くべきであろう。」
  と命じた。
 北条時政は
 「あい、わかり申した。」
こうして牛鍬大路を進むことに決まった。
 ★慎重の源頼朝は正面攻撃を命じたのであった。 
簡単に言うと、元の狩野川の支流などがあるので、
北条館~原~肥田を右折・・・仁田方面へ・・・
  近藤国平の館もあった。

●北条時政一行は出発。
 「では、・・・」
 源頼朝は
 「兼隆を討つとったあかつには、家に火を
  放ってくだされ。」
 と頼んだ。

 北条時政は手勢40騎程を率いて正面の牛鍬大路を北
 に進んだ。
北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
 「山木兼隆の後見役:堤信遠は猛者であるので、心して
  堤を討て。道案内をつけよう。」
 と命じた。


①仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ
 ★おそらく、畑毛温泉近くの山木の北のはずれにあった? 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かった。
佐々木兄弟は堤信遠の館を。

 ・子の刻(午前0時)堤信遠の館前に着いた。

 長男:佐々木定綱と4男:佐々木高綱は館の裏手に
 まわり、次男:佐々木高経は庭にすすみ、矢を放った。
 キリキリキリ・・・・
 ピューーーーーーン。


 次男:佐々木経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り・・。(伝)
 新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
 堤信遠の郎従が応戦してきて矢戦になった。
 
 佐々木経高は矢を捨てた。
 「かかれっ。」
 佐々木経高は太刀を取って突入した。
 堤信遠が縁側から庭に飛び出し、
 「何奴じゃ。」

 「我こそは、佐々木秀義が次男、
 佐々木次郎経高
 堤信遠殿、あなたに恨みはないが、
  わけあって、その命もらいうける。」

 「何、佐々木の子とな?」

堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
 佐々木経高 VS 堤信遠。
一騎打ち・・・カン、カン、キーン。
火花が飛び散った。
 
 遠矢が佐々木経高の肩にズボッ 。
 「ゲッt・・・」
 ★いたいよ~ん

その時、
「加勢するぞ。」
と長男:佐々木定綱、4男佐々木伊高綱が参戦した。
 「兄上、・・、頼みましたぞ。・・・」
 
 激闘の末に堤信遠を討ち取った。

※佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
 高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
   (★吾妻鏡)


②北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ


 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木兼隆の舘の前の天満坂まで
  来ると、矢を放った。
 キリキリキリ・・・・
 ピューーーーーーン。
 ブスッ。

 山木館は騒然となった。
 その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
 出払っていた。さらに沼津の黄瀬川の宿で酒宴を行って
 いた。
 しかし、山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  

 「兼隆を、討ち入れ・・・。」
と、北条時政の本隊は虎口に登って、なだれ込んだ。
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 しばらくして、堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も
 加わり、激戦がさらに続いた。
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 しかし、容易に勝敗は決しない。・・・・・
 山木の手勢は実際には10数名程であった。
北条時政のわずか30数名の手勢は苦戦を強いられた。
(★伊豆武将物語:小野眞一著)
 
 源頼朝は北条時政の北条館(★後の伝:堀越御所かな?)
 から様子をうかがっていた。
 
 配下の者を北条館の南:守山下の八幡神社の木の上から
 見晴らせていた。
 が、報告がない。

 山木館から火の手は一向に上がらない。
 「う~ん。まだか・・・・。」
 イライラ~~~~~。
 源頼朝は、焦り始めた。
 そして、だんだん不安が募ってきた。

 
 源頼朝はついに自分の警護に残っていた加藤景廉・佐々木
 盛綱・堀親家3名を山木館へ向かわせることにした。
 「すぐに山木館に赴き、加勢せよ。」
 3人は
「心得ました。」
 と答えた。
 「あいや、景廉、待て。・・・」
 北条館を駆け出そうとした加藤景廉を
 源頼朝は呼び止めた。
 「はっ、・・・。」 
 そして、加藤景廉に薙刀を渡しながら、
 「これで、兼隆の首を取り、持参せよ。」
  と命じた。
 
 加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家は蛭ヶ島通りを走り、
 山木兼隆の館に到着した。
 大鎧は20kgのあるしろものだから、息が絶え絶え
 になった。それでも走った。
 ※当時なかった現韮山高校・韮山城を右に見ながら、江川
 館のを右に見ながら、走った。
やっと3人は山木館に着いた。

 激しい戦いの最中であった。

 「加藤景廉、着き申した。」
 「佐々木盛綱、加勢~~ッ。」
「堀親家じゃ。兼隆はどこじゃ。」
★ってな感じで、加勢に3人が加わった。

 加藤景廉は館の中に駆け込んでいった。
そして、一目散に兼隆の居場所を探した。
 山木兼隆は、屋敷の一段上の館にの
 部屋に閉じこもっていた。
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 太刀を構えてて、震えていた。
「どうして、頼朝はわらわを狙うのじゃ?」


 加藤景廉は、縁側づたいに進んだ。
 部屋の中に山木兼隆の影が見えた。
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 加藤景廉は兜を脱ぎ、薙刀の先に兜を吊るし
 てかかげた。

山木兼隆は(むざむざとやられはせぬぞ。)
 と思いながら、太刀を振りかざした。
「え~いっ。」
 太刀が欄間の鴨井に突きささった。
 「しまった。・・・ううん、ぬけ~ん。」

 山木兼隆が焦っている所へ、
 加藤景廉が襖を蹴飛ばして、入ってきた。

 薙刀で、なで斬りした。
  バサッ・・・・と倒れた。
 「げっ。」
 さらに腰刀を抜き、・・・・
ブスブス、ブス~~~~~とさした。
 
 さらに、首をかっ切った。
 
 襖の上に血が飛び散った。

 加藤景廉は山木兼隆の首を薙刀の先にさし、
  高くさし上げて、・・・叫んだ。
 「加藤景廉、山木兼隆を討ち取ったり。~~~」

 
 そして、加藤景廉は佐々木盛綱に頼んだ。
 「早く、館に火を・・・・。」
 佐々木盛綱達は館に火をつけた。

 しばらくして、館から火が・・・火柱となった。
 勝利の印・・・火が上がった。

 八幡神社の木の上の見張りが火を確認した。
 「伝令・・・火が、煙が上がりましたあ。」
 と報告した。

 「勝った。してやったり・・・。」

 やがて、北条館からも
 (★八幡神社と政子の産湯付近または伝:堀越公方館
 付近が源頼朝館があったのではないだろうか。)

   
 韮山の向こうに火の手が上がっていくのが見えた。
 「ついに 勝ったぞ。」
★実際には韮山城があるので、煙だけかもしれない。

  山木館が ~~~悉く燃え尽きた。

★三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため、
 山木兼隆は満足に戦うことができず、加藤景廉によって
  討たれたのだった。


8月19日
 襲撃隊は暁に帰還した。

 早朝、源頼朝は山木兼隆と郎党たちの首を庭にならべさせた。
 源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。
 集まった伊豆・相模の武士たち40騎余り(46人?)・・・。
 
 皆は源頼朝の旗揚げを喜んだ。

 
 源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚
 での非法を停止させる命令を発給した。
 (★『吾妻鏡』)
 「関東御施政の始まりである。」と特記している。

 ※源頼朝は山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。


※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆一国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。

~~~河内源氏~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【1】源氏系図
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国
:八幡荘』前編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

箕輪初心★源義朝(源頼朝の父)の生涯
http://53922401.at.webry.info/201501/article_22.html

箕輪初心★平治の乱『源義朝&鎌田政清の最後』
=長田忠致の裏切り
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do


~~~源頼朝&伊豆シリーズ~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心★源頼朝①伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心★源頼朝②伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html

箕輪初心★源頼朝③【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

箕輪初心★源頼朝④「治承4年(1180)8月17日の挙兵
~19日石橋山の合戦前」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_25.html

神奈川▲源頼朝⑤【治承4年(1180)8月19日~22日土肥館】&
土肥実平の生涯
http://53922401.at.webry.info/201412/article_26.html

箕輪初心▲源頼朝⑥【治承4年(1180)8月23日石橋山の戦い
&佐那田神社】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_27.html

箕輪初心▲源頼朝⑦治承4年(1180) 8月24日逃亡~梶原景時
~土肥城~箱根神社
http://53922401.at.webry.info/201412/article_28.html

箕輪初心▲源頼朝⑧治承4年(1180)8月27日【荒井城】&
【詠い坂】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_29.html

箕輪初心▲源頼朝⑨【治承4年(1180)8月28日:岩からの源氏
再興の舟出】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝10:埼玉【阿保氏館跡】&「阿保氏の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_6.html

箕輪初心★源義朝(源頼朝の父)の生涯
http://53922401.at.webry.info/201501/article_22.html

箕輪初心★平治の乱『源義朝&鎌田政清の最後』=長田忠致の
裏切り
http://53922401.at.webry.info/201501/article_23.html

箕輪初心◆源頼朝12:『治承4年(1180)8月29日房総
~関東平定』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心▲源頼朝13【挙兵~関東平定&坂東武者の思惑】
素案
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心★源頼朝14【乳母:比企尼(ひきのあま)】
http://53922401.at.webry.info/201501/article_29.html

箕輪初心★源頼朝15【愛のキューピッド:安達盛長】
:鴻巣放光寺→伊豆→甘縄→高崎八幡
http://53922401.at.webry.info/201501/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝16【仁田忠常】&伊豆函南【仁田館】
http://53922401.at.webry.info/201501/article_31.html

箕輪初心▲源頼朝17【肥田宗直】&伊豆函南「肥田館」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_32.html

箕輪初心▲源頼朝18【治承3年の政変~以仁王&源頼政の
思惑~源頼朝の挙兵】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_1.html

箕輪初心★源頼朝19【北条時政の思惑①】&伊豆長岡【北条館】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_2.html

箕輪初心▲源頼朝20【北条時政の思惑②】&伊豆【願成就院】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_3.html

箕輪初心★源頼朝21【正妻:北条政子】結婚~恐妻~尼将軍
http://53922401.at.webry.info/201502/article_4.html

箕輪初心★源頼朝21【義弟:北条義時】:武家政権確立&
伊豆『北条寺』
http://53922401.at.webry.info/201502/article_5.html

箕輪初心★3代目執権【北条泰時】:御成敗式目の作成
http://53922401.at.webry.info/201502/article_6.html

箕輪初心★鎌倉幕府の執権:北条氏一覧
http://53922401.at.webry.info/201502/article_7.html

箕輪初心▲源頼朝21【狩野茂光】&伊豆【狩野日向館】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_9.html





★明日は加藤景廉の続きである。

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