箕輪初心★源頼朝15【愛のキューピッド:安達盛長】:鴻巣放光寺→伊豆→甘縄→高崎八幡

★安達盛長・・元暦元年(1184)の頃から上野国の奉行人となり、
現群馬県高崎市の八幡神社の近く屋敷に一時住んだ。
河内源氏5代&新田義重の館があった場所である。
建久元年(1190)比企能員に受け継がれたが、行かなか
ったようだ。安達盛長が継いだ。(★群馬県史・高崎市史)。
安達盛長は源頼朝の流人時代からの側近として物心両面
から支えとなって生きた人物である。女好きの源頼朝の手
紙届や恋の橋渡しも大変だったろう。
安達盛長は源頼朝・北条政子・有力御家人の間で潤滑油
となった。結果として鎌倉幕府の誕生に繋がったのでろう。
安達盛長は伊東のどこか→函南の桑原大竹→鎌倉の甘縄
→上野国の八幡に住んだ。武蔵にも家があった。
静岡県伊豆市修禅寺温泉場~梅林の入り口に墓がある。
埼玉にも鴻巣:放光寺に墓がある。
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 (★伊豆修善寺の安達盛長の墓)




【1】京の安達盛長館
 

【2】伊豆国(函南)の桑原大竹の安達盛長館
★候補地は4つである。
①田代城Ⅲ 山城 ・・・・・・・後、田代信綱の城
 函南町桑原字大芝原

②田代城Ⅱ 平山城 ・・・・・・・後、田代信綱の城
 函南町田代字大田原

③田代城Ⅰ 山城・・・・・・・後、田代信綱の城
函南町桑原字国見岳

④田中城 山城
函南町桑原字丸山

全部が安達館であった可能性がある。
安達盛長は上野国の奉行人になったため、函南の館は
田代信綱に譲られた可能性が高い。
 この説は、誰も言っていない新説の可能性があるが、
伊豆の歴史家が謎解きをしているかもしれない。



【3】武蔵国=鴻巣市糠田の安達盛長館=放光寺
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【4】甘縄館=鎌倉甘縄神明神社



【5】上野国八幡の安達盛長館
★高崎の八幡神社付近。
・元暦元年(1184)の頃から上野国の奉行人となった。
 群馬の高崎の八幡神社の近く屋敷があった。
 河内源氏5代&新田義重の館があったのだ。
 比企能員に受け継がれた。さらに、安達盛長が継いだ。
 東山道・鎌倉上道の合流点に当たる。




【6】墓シリーズ
①静岡県伊豆市修禅寺温泉場
   梅林登り口立体交差上50m
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②愛知県蒲郡市五井町岡海道・・・長泉寺

③埼玉県鴻巣市糠田1560・・・・放光寺 
 安達盛長館跡と推定される放光寺には安達藤九郎盛長の
 復元された墓所がある。昭和58年に伊豆修善寺町にあ
 った墓石を移設したものだそうである。また、放光寺に
 は埼玉県指定文化財の安達盛長の木像もあるそうだ。
 「鴻巣市史」では足立郡糠田の在地領主である奴加田氏
 と考えている。
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◆◆ 安達藤九郎盛長の生涯 ◆◆
【1】安達氏の出自
安達盛長以前の家系は系図によって異なり、出自ははっきりし
ていない。
足立遠元は年上の甥にあたる説もある。
『尊卑分脈』では、安達盛長が「安達六郎」で、
足立遠元の父:遠兼が「安達藤九郎」と記されている。
安達盛長は安達遠兼の兄としている。

安達盛長は晩年から安達の名字を称した。



★★ 安達盛長の生涯 ★★
【保延元年(1135)~正治2年(1200)】

・保延元年(1135)安達盛長が生まれた。
 父:藤原氏魚名流:小野田三郎兼広、または、小野田兼盛
(★『尊卑分脈』)
 母:不明・・・

・久安3年(1147) 源頼朝が誕生
  乳母は比企尼であった。 

・平治元年(1159) 12月9日、『平治の乱』
父:源義朝が尾張で戦死。
源頼朝は尾張の熱田神宮で平清盛の配下に捕えられた。
源頼朝は京の六波羅へ送られた。
  処罰は死刑が当然視されていた。・・・
 『平治の乱』・・源頼朝は、平清盛に敗北した。

・???? 頼朝の乳母:比企尼の娘:丹後内侍は
     安達盛長の妻となった。


・永暦元年(1160) 源頼朝は捕縛された。

・平治2年・ 永暦元年(1160) 2月9日
平清盛の継母:池の禅尼の命乞いで、死一等を減ぜられて
  伊豆に流刑となり、助けられた。
 3月11日 伊豆国の蛭ヶ小島へと流された。
  大炊御門経宗・葉室惟方・源希義も伊豆流刑になった。
  
 ※源頼朝が伊豆国へ流罪となった。
 伊豆国に配流とのみ伝わっているので、本当に蛭ヶ小
   島に流されたのかどうかは不明である。
源頼朝が平清盛により最初に流されたのは、
  現在の伊東市の基を作った伊東祐親の管理下であった。
(★曽我物語)

源頼朝は伊東祐親に預けられ、伊東祐親の管理下に置かれた。
★おそらくは、流人とはいえ、母の弟:伊東祐範や源頼朝の乳母:
比企尼&夫:比企遠宗や娘夫婦から援助を受け、狩りを楽しむな
ど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。身の回りの
世話・食料調達をしてもらったのであろう。ある程度自由であっ
たが、謹慎の身の上、源氏一族の冥福を祈った。走湯権現(伊豆
山神社)や箱根権現にも参詣した。深く帰依して読経をおこたら
なかった。また、祈祷師を招いて法事も行った。地方武士として
敬虔な日々を送っていた。この敬虔な態度が平氏方の伊東氏や北
条氏の信用を得ていった。
(★ウィキペディアより引用)

治承4年(1180)の秋まで20年間に渡り。伊豆国流人・源頼朝に
 仕送りを続けた。
(★「吾妻鏡」)
比企尼は武蔵国比企郡の所領から源頼朝に米を送り続け、3人の
  娘婿に源頼朝への奉仕を命じていた。

・???? 頼朝の乳母:比企尼の娘:丹後内侍は
     安達盛長の妻となった。



※比企尼の3人娘達
  比企掃部允と比企尼の間には男子はなく娘が3人いた。

長女:安達盛長の妻・・函南の桑原・大竹地区・本領武蔵
丹後内侍(たんごのないし)は惟宗広言(これむねのひろこと)
 と密かに通じて、島津忠久を産んだとされる。(源頼朝説あり)
 その後、坂東(★おそらくは埼玉滑川の三門館)へ下って安達盛長
 (★おそらくは鴻巣の放光寺)に再嫁し、安達盛長は源頼朝の
 側近となった。
  (★源範頼の系譜『吉見系図』)
 比企尼の婿である安達盛長が側近として仕えることになった。
 比企尼も函南に住んだという説もある。
 
安達盛長が日本史の表舞台に登場するのは、源頼朝の乳母
:比企尼の娘:丹後内侍を妻としたことである。
 しかし、丹後内侍と婚姻した経過や時期も定かではない。
 安達盛長&妻:丹後内侍は源頼朝が伊豆の流人になった時から
 仕えた。

 
 妻:丹後内侍(天皇の世話係)は宮中で女房を務めていたので、
藤原邦通など京に知人が多く、京都の情勢を源頼朝に伝えていた
と言われている。

※丹後内侍の娘・・・源頼朝の実弟・源範頼(のりより)の妻

②次女:河越尼・・河越重頼の妻・・武蔵河越
河越尼の娘・・・異母弟:源義経に嫁いだ。
源頼家の乳母となった。

③3女:伊東祐親の次男:祐清の妻
伊東祐親(すけちか)の嫡男:伊東祐清(すけきよ)に嫁いだが、
  死別した後は源氏一族:平賀義信(よしのぶ)の室となった。
源頼家の乳母となった。

④比企尼の養子・・・比企能員
 比企掃部允は源頼朝の旗揚げ前に死去した。
  男子に恵まれなかったので、比企氏の家督は甥の比企能員
  (ひきよしかず)を比企尼の猶子(養子)として迎え、跡を
  継がせた。後に比企能員が源頼朝の嫡男頼家(2代将軍)の
  乳母父となって権勢を握った。


~~~伊豆での協力者~~~~~~~~~~~~~~~
⑤伊東祐親の長男:祐泰の妻は狩野茂光の娘

⑥比企朝宗の娘:北条義時の妻

⑦源氏方に従ったため所領を失って放浪中の近江源氏佐々木定綱
 四兄弟が従者として奉仕した。

⑧京の乳母の甥:三善康信から定期的に京都の情報を得ていた。




※安達盛長&妻:丹後内侍は配流先で源頼朝の世話をする
 こととなった。正確には安達盛長は「妻の縁故」で仕える
 ことになったのである。

・安達盛長は29歳?であった。
安達盛長は、丁度一回り12歳年下の源頼朝に仕えたのだ。
家は現函南町桑原&大竹に建てた。
 比企家も桑原に家を建てた。
当時、桑原から伊豆山神社に抜ける旧熱海道があった。


安達盛長は義弟:伊東祐清の妹:八重姫との
橋渡しをしたのであろう。
源頼朝にとっては12歳年上だったが、よい相談相手で
あったのだろう。


・仁安2年(1167)
 源頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥
 実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されて
 た。
(★曽我物語)


・治承元年(1177) 頃?
源頼朝は韮山の北条館に行った。
★おそらくは北条時政から
「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行ってね。」
と言われたのであろう。
源頼朝は29歳であった。

「伊東祐清の推挙で安達盛長&佐々木成綱は北条郷で
 源頼朝に近侍するようになった。」
(★『曽我物語』)


・治承元年(1177)
源頼朝は、北条時政の娘の北条政子と結ばれた。
  2人を結び付けたのが、安達盛長であった。
『女性問題に懲りない源頼朝が北条時政には娘が3人
 いることを知った。その3人は北条時政の先妻の娘
 の政子と、後妻」牧ノ方が産んだ娘の2人であるこ
 とを調べた。
 もちろん、調べたの安達盛長である。
 長女:北条政子は美女であったが、後妻の娘2人は容姿
 が醜くぶさいくであった。
(★『曽我物語』)
 こうして、源頼朝と北条政子の恋は始まった。
 二人はすぐに結ばれた。


・治承2年(1178)頃 30歳
※源頼朝は蛭ヶ小島からいろいろな場所を訪ねたであろう
①三島神社
②函南・・・安達盛長邸・仁田忠行邸・肥田邸
③韮山・・・北条時政館・江間館・江川(宇野源氏)邸
④修善寺
⑤加藤景廉邸・工藤系狩野茂光邸
⑥白浜神社
⑦松崎・・・円通寺
※安達邸は蛭が小島から北に(仁田館の先)5~6kmに
ある。

~~~北条政子との出会い~~~~~~~
※北条時政の娘
①長女:北条政子21歳・・・一番美人
②次女:19歳・・・・やや不器量。源頼朝は恋文を書いた。
③3女:17歳・・・・やや不器量。
〇長男:北条泰時=江間小四郎


●「蛭ヶ小島公園」の源頼朝&政子夫妻の像
源頼朝31歳
北条政子21歳
がであった。
次女:19歳に源頼朝は恋文を書いた。しかし、文使いの
安達盛長は、
「北条時政の長女:政子の方がいいであろう。ごたごたがあ
った時、器量がいい方が飽きが来ないであろう。」
と勝手に源頼朝と北条政子の間を取り持ったとされる。
 (★『曽我物語』)
北条政子は時政の先妻の子であった。20歳過ぎても嫁に
行かず、さびしい思いをしていたのであろう。

北条時政は大番役で京へ行っていた。
留守中に、2人は逢瀬を重ねた。
2人の大恋愛は注目の的であった。
都人の源頼朝は伊豆の娘たちの理想でもあった。

逢引き=デートは間もなく、北条時政の後妻:牧ノ方
の知るところとなった。
父:大岡庄:牧三郎宗親
牧ノ方→父:大岡庄:牧三郎宗親→京の北条時政
と知らせが伝えられた。
※父:大岡庄:牧三郎宗親は池ノ禅尼の子:平頼盛の家人で
あり、源頼朝の監視&保護の役を負っていた。

・治承3年(1779)
正月 北条時政は帰郷した。
同じころ、平兼隆が伊豆の判官として任用された。
平兼隆は元々は流人だったが平時忠と懇意であった
 ために目代となった。


~~~曽我物語~~~~~~~~~~~~~~~
が、実は北条時政は平兼隆に
「娘:政子を嫁にやる。」
と約束した。
北条時政は山木兼隆に嫁がせるべく、娘:政子を山木兼隆の
下に送った。
★本当か嘘か真偽の程は不明である。

山木(平)兼隆&北条政子が祝言を挙げた。
その日、北条政子は山木の平兼隆邸から逃げ出し、
伊豆山神社に逃げ込んだ。
ドタキャン・・駆け落ち。
★源頼朝&北条政子もワイルドな人生を歩んでいた。
伊豆山神社で待ち合わせた源頼朝と結婚した。
★でも、年代があわない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
長女:大姫をもうけた。



・治承4年(1180)
4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

伊豆国は平時忠の知行国になった。
 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
 うようになっていった。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。

●高源寺(函南町)田方郡函南町桑原
高源寺は弘法大師(空海)によって開かれた。
源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた時、文覚と源氏再興
の密議を行った寺と伝えられている。
当時の高源寺は、長久寺という真言宗の寺で、修行の道場として伊豆国
一円を支配していたものと考えられている。
山火事によって伽藍を焼失した。
・建久元年(1190) 源頼朝が再興.
「長久寺」から源氏の一字を入れた「高源寺」と改めた(伝)
・現在  曹洞宗の寺である。


6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
  胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 

 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
①反対派
 山内首藤経俊は
 「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
 鼠が猫をとるようなものだ」
 と嘲笑した。
②迷った派
波多野義常は返答を渋った。
③賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。この一族も同心となった。
 
8月17日 
早朝・・・源頼朝は襲撃は朝駈けを考ええていたが、
  佐々木兄弟の遅参によって計画がくるってしまった。

安達盛長は三島社への奉幣使を務めた。

昼・・・・山木兼隆の雑色男=召使が源頼朝の家の下女と
     恋仲で今日もゲートをしに来た。
     源頼朝は用心のため生け捕った。


深夜・・・源頼朝の命で進軍した。
 源頼朝は
 「明朝を待たず、直ちに山木館を襲撃すべし。」
 「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。」
 「山木の館を放火すべし。それをもって襲撃の成否を
  確認すべし。」
と命じた
  北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに、牛鍬大路は
  人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道
  の蛭島通を通ってはどうか?」
  と進言したが、源頼朝は
 「余も最初はそう思った。しかし、挙兵の草創であり、
  間道は用いるべきではない。・・・また、蛭島通では
  騎馬が難渋する。大道を通るべし。」
 と命じた。

 一行は進発。
 北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けて
 これを討て。」
 と命じた。
①仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、子の刻に佐々木
経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り・・。(伝)
  新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
  堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を
  捨てて太刀を取って突入。
  堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
  佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
  高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
   (★吾妻鏡)
②北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。
  その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
  出払たっていて、さらに黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。
  山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  
  堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も加わり、激戦と
  なった。容易に勝敗は決しない。

  源頼朝は山木館から火の手は上がらないのいで、
  焦った。
  源頼朝は警護に残っていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家
  を山木館へ向かわせた。
  加藤景廉には長刀を与え、
 「これで兼隆の首を取り持参せよ。」
  と命じた。
  加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込んでいった。
  遂に山木兼隆を討ち取った。
  山木館に火が放たれた。~~~悉く燃え尽きた。
  襲撃隊は暁に帰還した。
  源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。

8月19日 
  源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚で
  の非法を停止させる命令を発給した。
 『吾妻鏡』「関東御施政の始まりである」と特記している。

  源頼朝は山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。

8月20日 源頼朝は相模へ~~~~ 
  ●高源寺(函南町桑原)が石橋山へ進軍する頼朝軍の
  「軍勢ぞろいの地」と伝えられている。
  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  伊豆東海岸の相模国土肥郷(湯河原)を目指した。
  従った者は 伊豆と相模の御家人だけだった。
  北条時政・北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠
  ・岡崎義実・佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤
  景廉らである。 
  ★新田四郎忠常・・ほかに新田(仁田)の名が見られ
   ないので単独参加なのだろうか?
  (★吾妻鏡)
源頼朝に従って相模国土肥へ出発。

8月22日 
三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  三浦一族は途中の大庭景親の家臣の館に火を放った。 
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
 

8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い 
 大雨となった。
 三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、源頼朝軍へ
 の合流ができなかった
大庭景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、
  夜戦を仕掛けることにした。闇夜の暴風雨の中を大庭軍
は源頼朝の陣に襲いかかった。

 合戦に先立って、北条時政と大庭景親が名乗りあった
 大庭景親は
 「我こそは、後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
 と名乗った。これに対して、北条時政が
 「かつて源義家に従った鎌倉景政の子孫ならば、なぜ頼朝
  公に弓を引く。」と言い返した。これに対して
 大庭景親は
 「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
 海よりも深い。」
 と応えた。
  (★『平家物語』)
 
 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
     
結果・・・源頼朝軍は多勢に無勢で敵わなかった。
佐奈田与一義忠と俣野五郎景久が組み合った。
    岡崎義実の子:佐奈田与一義忠らが討ち死にした。
  源頼朝は大敗北した。
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。
大庭軍は追撃した。
  しかし、源頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義の手引きに
  よって源頼朝は辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。

8月24日 源頼朝軍の残党は山中で激しく抵抗した。
  源頼朝も弓で応戦した。
  
源頼朝、土肥実平一行は箱根権現社別当行実に匿われた。

土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。土肥は自分の領地
   なので、頼朝公御一人ならば命をかけて隠し通せます。
   皆、ここで別れて雪辱の機会を期す。・・・」
  と進言した。
  皆、涙を流して別れた。
  北条時政と3男:義時は甲斐国へ向かった。
  嫡男の宗時は伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にした。

 源頼朝は箱根山から真鶴半島へ逃れた。

  大庭軍はくまなく捜索した。
  源頼朝主従5人はやっと朽木の洞に身を潜めた。
  大庭軍に梶原景時が土肥の椙山の「しとどの窟」で源頼朝
  の居場所を知った。しかし、
  梶原景時は
  「この山に人跡なく、向こうの山が怪しい。」
  と大庭景親らを導き、頼朝の命を救った。
(★伝説の地)
しかし、梶原景時は洞穴の中の源頼朝の目と会った瞬間、
 梶原景時は「ここにはいない、別な山だ」と言って、追っ手
 を率いて、その場を立ち去ったのである。
 
★何故だろう?・・・・・考えても分からん。
 梶原景時が「源頼朝を見つけたど・・・覚悟。」と言って
 源頼朝を殺してしまえば、歴史は大きく変わったでしょうね。
 源頼朝って、運のいい男である。平清盛に助けられ、梶原景
  時に助けらた。2度目の強運だった。

 「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無し
 と称し、景親の手を曳いて傍峯に登る」
(★『吾妻鏡』)

  源頼朝は数日間の山中逃亡した。

8月28日 源頼朝は船を仕立てて真鶴岬の岩(神奈川県真鶴町)
  から出航。安房国へ向かった。
  安達盛長も源頼朝とともに安房国に逃れた。
 北条時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と
  合流し、安房国を目指して落ち延びた。

~伊豆の岩~~~~安房~~~~遠いなあ。

~~~~~~~~~「着いたどお。~安房ぢゃあ。」

8月29日 源頼朝は安房国平北郡猟島へ上陸した。
  ※源頼朝上陸地・・千葉県鋸南町勝山付近?
  北条時政・和田義盛・三浦義澄らの出迎えられた。


9月3日 源頼朝は、勝山付近で使者を送り、味方の参陣を
 待つことにした。
 和田義盛・・・上総介広常に派遣
 安達盛長・・・千葉介常胤に派遣
  ★下総国の大豪族:千葉常胤を説得して味方につけた。
 □□□□・・・下野・下総・武蔵の有力豪族に派遣。
 北条時政・・・甲斐・信濃の源氏系豪族に派遣。

  南下し洲崎明神に参詣した。

9月9日 千葉介常胤から「
  先祖以来の故地で、要害の地:鎌倉にお入りを・・」
  という使者が来た。

9月13日 安房国を出て上総国に北上した。

9月17日 源頼朝は下総国に向かった。
 下総国府で千葉介常胤らの千葉一族と合流した。
 千葉寺に詣でた。

  頼朝は再挙した。
  安西氏、千葉氏などに迎えられて房総半島を
  進軍した。
  平氏方目代に圧迫されていた東国武士が平氏方を打ち
  破りながら続々と参集してきた。

9月19日 上総広常が大軍を率いて参上した。
 源頼朝は下総と武蔵の境の隅田川で、上総介広常が2万騎を
 率いて迎えた。しかし、源頼朝は広常の遅参を厳しく責めた。
 源頼朝の「許すの気がない」態度に、上総広常は頼朝に服従
 を誓った。
   
 ※1か月で数万騎の大軍に膨れ上がった。

10月2日  隅田河を渡った。
    武蔵国に入った。
    葛西清重・足立遠元は加わった。

    江戸重長の勧めで、三浦軍を壊滅させた
    畠山重忠、河越重頼、江戸重長が従った。
源頼朝は三浦義澄の敵であった畠山重忠の参陣も
    許した。

10月6日 源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」と
    いう大軍を率いて、鎌倉に入った。
     父:源義朝と兄:義平が住んだ鎌倉へ入った。
   大倉に大倉御所を構えた。
   鎌倉の政治の拠点とした。
   先祖:源頼義が京の石清水八幡宮を勧請した鶴岡
   八幡宮を北の山麓に移した。
   父:源義朝の菩提を弔うために勝長寿院の建立を行った。
  
※鎌倉は鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げることとなる。
★いつ世界遺産になるのだろう?

10月20日 富士川の戦い
  源頼朝+武田信義らの甲斐源氏 VS 平維盛
 源氏は平氏を撃破した。

10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきた。
    源頼朝と源義経は再会をした。
源頼朝は源義経を馬から降り、片膝ついて座ることを
    命じた。そして、源頼朝は馬上から義経の肩に土足を
   置いた。・・・・この上下関係の姿を、多くの従者に見
   せたと言う。徳川家康が松平から徳川に変えたのと
   同様である。源義経はこの時のことを恨んで、後に頼朝
   に背くことになったと言う。
   
  ★今まで、私のブログに「源頼朝がなかったのは、好きな
   人物ではないからである。嫌いな人物なのだ。」

12月まで  源氏系佐竹氏、新田義重などが従った。
  源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立していった。


★石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親と伊東祐親は平家方に
 合流しようとするが失敗した。
 大賀景親は降参するが許されずに斬られた。
 伊東祐親は下田小稲で捕えられ自害した。

12月12日 鎌倉大倉に完成した新邸に
  安達盛長も供奉した。

12月20日 安達盛長は甘縄屋敷に入った。


・寿永元年(1182) 8月
8月 北条政子が、源頼家を出産した。
    安達盛長は三浦義澄・佐原義連等と
    護刀を奉献した。
  
 11月 千幡の御行始として、甘縄の安達盛長の屋敷が
      選ばれた。


・元暦元年(1184) 上野国の奉行人=国奉行となった。
屋敷は上野国の安中板鼻にあった。
※相模の渋谷高重に上野国黒川郷(富岡市)を於いて
国衙使の入部を認め、別納たるべきの由・・・
奉公人藤九郎盛長と云々。
(★吾妻鏡:群馬県史p130)
★つまり、源頼朝は安達盛長を上野国の国衙に
 源頼朝の伝令を伝える役をすることになった。
 
★私の家から車で20分・・・
  この年だとは思わなかった
でも、特定は難しい。でも、江戸時代の
里見館=現福祉会館であろう。・・・・
※鎌倉上道&東山道の合流点である。
 
  
・文治元年(1185) 北条政子が三幡を出産した。


・文治2年(1186)
安達盛長は「上野国役」を沙汰された。
税事務を執っていた。
  
  10月24日 安達盛長は甘縄社を修理した。

・文治3年(1187)
安達盛長は上野国の寺社管理に支配権をも持った。
(★吾妻鏡:群馬県史)



・文治5年(1189) 奥州合戦・・・藤原氏&源義経
閏4月30日、源義経が自刃。
7月 源頼朝は『奥州征伐』に出発。 
8月14日「物見岡合戦」
8月18日 安達盛長は源頼朝の後を追い掛けて
  奥州に下向した。安達盛長は従軍した。
  囚人の筑前房良心を従え下向した。

 
・建久元年(1190) 安達盛長は源頼朝に供奉して上洛。
10月13日  鎌倉を出発。
   源頼朝に供奉して鎌倉を出発したのだ。
   ★群馬県の武士も20名、参加したよ。
  
11月7日 上洛。
     後白河法皇の閲兵を受けた。
     
12月29日  鎌倉に戻った。

建久2(1191)
 源頼朝が甘縄の屋敷に入る。


・建久2年(1191)
 3月 鎌倉の大火災
3月4日 源頼朝は甘縄の安達盛長の屋敷に入って
     臨時の御在所とした。
4ヶ月滞在した。
★源頼朝はいかに安達盛長が信用されていたか
 が分かる。
   7月 源頼朝は新邸が造営された。
   
※源頼朝の信頼が厚かった。
 源頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば
 訪れている。
安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社である。
 神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。
 安達盛長の孫:松下禅尼は北条時氏の妻になった。
 ・・・北条時頼の母であった。
 また、霜月騒動の際に安達泰盛が滅亡した。



・建久3年(1192) 「いい国つくろう 鎌倉幕府」
2月 江間小四郎→北条泰時の元服の儀に列席した。
3月13日 後白河法皇が崩御。

3月??日 源頼朝が上野国と下野国で実施した狩猟に参加
      した。

7月12日 源頼朝に征夷大将軍に宣下された。
★安達盛長は将軍:源頼朝を見て、感動しただろう。

7月26日 勅使が鎌倉到着。
安達盛長は源頼朝から『上野の總追捕使』を命じられた。


8月9日、北条政子が千幡(源実朝)を出産した。
     安達盛長は護刀を献じる。
 
閏8月  将軍:源頼朝は甘縄宮へ参詣した。
     甘縄の安達盛長の屋敷で休憩した。


11月5日 千幡の御行始として、甘縄の屋敷に入った。

12月 安達盛長は上野国内における社寺の統括を一任される。

・建久5年(1194)
 2月2日 北条金剛(北条泰時)が元服した。
 閏8月22日 将軍が甘縄社参詣し、甘縄の屋敷に入る。
 

・建久6年(1195)
1月??日 源頼朝は安達盛長の甘縄の屋敷に入った。

2月14日 源頼朝の上洛に供奉して鎌倉を出発。

3月4日 源頼朝に供奉して2度目の上洛。

3月10日 東大寺に到着。

3月12日 東大寺法要に出席。・・・雨だった。
 
7月8日、鎌倉に帰還。


 

・正治元年(1199)
1月13日 源頼朝が死去。
   安達盛長が出家した(★法名は「蓮西」)。
 
4月12日  13人衆の一人となる。
4月 北条政子は源頼家の独裁権を停止した。
   御家人13人に拠る合議制を導入することとなった。
   
  安達盛長は2代将軍:源頼家の宿老として13人の
  合議制の長に選ばれ、幕政に参画した。
   
  しかし、源頼家側近から疎まれた。
   三河国の守護となった。

7月 源頼家は安達盛長の子:安達景盛に三河国へ
    出向を命じた。
    源頼家は留守を狙って、安達景盛の妾を自分の妾と
    してしまった。

    源頼家側近:梶原景時は安達景盛を失脚させよう
    を讒言した。
8月19日 源頼家の命令で安達景盛の暗殺のため、
    甘縄の屋敷に押し寄せた。

    北条政子が乗り出し、源頼家を諌めて騒動を
    沈静化させた。

  ★北条政子は安達盛長・景盛の最大の危機を救ったの
   である。安達盛長が、北条政子と源頼朝の間を取り
   持ったことへの感謝の気持ちがあったものと思われる。

10月 梶原景時の変 
    源頼家・梶原景時の逆恨みは収まらなかった。
   「安達盛長の代官が三河国の伊勢神宮領を押妨した。」
   との訴えが幕府に届けられた。
  安達盛長は大江広元からの詰問を受けた。


  安達盛長は有力御家人たちと共に、源頼家側近の
  梶原景時専横についてを弾劾を決議する連署に参
   加した。
 安達盛長は和田義盛・結城朝光、三浦義村から意見を
  求められ、「梶原景時弾劾」の決議に連署した。

11月 梶原景時を鎌倉から追放した。
★河口湖に銅像が建っている。・・・


・正治2年(1200)

 4月20日 源頼家・梶原景時・中原仲業を奉行となった。

  7月16日 源頼家が安達景盛を三河へ出発させた。
 7月20日 源頼家が安達景盛の妾を自分の妾とする。
 8月19日 安達景盛の暗殺の動きが起こった。
 10月24日 安達盛長の代官が三河国内の伊勢神宮領を
       押妨の訴えてきた。
 10月17日梶原景時の乱
    安達盛長は梶原景時問題について、結城朝光、三浦
    義村から意見を求められた。
 
10月28日 梶原景時の弾劾の決議の連署に参加した。
 
11月23日 梶原景時が鎌倉を追放となった。


・正治2年(1200)
1月13日 源頼朝の一周忌法要が行われた。
    直後、梶原景時は、上洛途中で殺害された。
1月20日、景時、殺害される。
 1月23日 三浦義澄が死去。

  2月5日 和田義盛が侍所別当に復帰した。
 4月1日北条時政が従五位下に叙される。

●4月26日(6月9日)安達盛長は死去。
  享年66歳。


妻・・・源頼朝の乳母:比企尼の娘:丹後内侍。
子・・・安達景盛、安達時長、女子:源範頼室。
孫・・・安達義景、松下禅尼。
島津忠久妻は丹後局でる。鹿児島県・・・
松下禅尼&北条泰時の子:時氏が結婚した。
できた子が北条時政である


◆参考文献
・伊豆武将物語:小野眞一著 文芸社
・『安達泰盛と鎌倉幕府 霜月騒動とその周辺』福島金治著 


◆参考サイト
・ウィキペディアなど


~~~河内源氏~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
●【0】河内源氏①源頼信→②源頼義→③源義家→④源義国→
⑤新田義重
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&
上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html


箕輪初心★源義朝(源頼朝の父)の生涯
http://53922401.at.webry.info/201501/article_22.html

箕輪初心★平治の乱『源義朝&鎌田政清の最後』
=長田忠致の裏切り
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do



~~~源頼朝&伊豆シリーズ~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心★源頼朝①伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心▼伊東ダイビング2回
http://53922401.at.webry.info/201307/article_29.html

箕輪初心★源頼朝②伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html

箕輪初心★源頼朝③【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

箕輪初心★源頼朝④「治承4年(1180)8月17日の挙兵
~19日石橋山の合戦前」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_25.html

神奈川▲源頼朝⑤【治承4年(1180)8月19日~22日土肥館】&
土肥実平の生涯
http://53922401.at.webry.info/201412/article_26.html

箕輪初心▲源頼朝⑥【治承4年(1180)8月23日石橋山の戦い
&佐那田神社】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_27.html

箕輪初心▲源頼朝⑦治承4年(1180) 8月24日逃亡~梶原景時
~土肥城~箱根神社
http://53922401.at.webry.info/201412/article_28.html

箕輪初心▲源頼朝⑧治承4年(1180)8月27日【荒井城】&
【詠い坂】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_29.html

箕輪初心▲源頼朝⑨【治承4年(1180)8月28日:岩からの源氏
再興の舟出】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝10:埼玉【阿保氏館跡】&「阿保氏の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_6.html


箕輪初心◆源頼朝12:『治承4年(1180)8月29日房総
~関東平定』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心▲源頼朝13【挙兵~関東平定&坂東武者の思惑】
素案
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心★源頼朝14【乳母:比企尼(ひきのあま)】
http://53922401.at.webry.info/201501/article_29.html




★明日は?

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