箕輪初心▲神奈川【河村城】:河村氏→上杉氏→北条氏

河村城跡は山北町にある。城山約225mの山である。酒匂川との比高
差は約130mである。独立丘陵城の地形で、大井松田ICで降り、西に
向かうと正面に見える山である。河村城は北は旧皆瀬川、南は酒匂
川によって囲まれた自然の地形を利用した中世の山城である。
文和元年(1352)河村秀国・秀経は新田義興・脇屋義助らとともに河
村城に籠城して、足利尊氏の軍:畠山国清と2年間に渡って闘った。 
戦国時代が小田原北条氏の城郭となった。北条氏の特徴を色濃く
残している素晴らしい大規模な城郭である。




■訪問記・・・平成25年(2013)8月26日
○神奈川県の大井松田ICを降り、河村城に向かった。

○国道246号線を御殿場・沼津方面に進む。
 正面に河村城が見える。
 河村城を山北駅の跨線橋から見上げる。
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○10km先の山北駅近くの信号を右折した。

○山北駅・・・
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東西に長い丘の全景は写真に収まらない。
 独立丘の尾根全体を城郭化した大城郭なのだ。

○案内所の方が見えた。
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・パンフレットをいただいた。
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○宮地の信号を斜め右折し、山北役場前を越え、温泉施設
に行った

○山北駅前を越えて200m先を鋭角に左折し、国道246号線の
ガードをくぐった。

○先に見える寺が盛翁寺である。

○左手を過ぎて200m登った場所が河村城址公園の駐車場である。

○駐車場には車も5~6台留められるようになっている。
まず、トイレ・・・

①城址公園の入り口。
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②案内板
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③ここから5分ほどで城址である。

④本郭&茶臼郭との間の堀切にある畝堀。
 夏場で草が茂っているためにいまいちよく分からない。
 冬場ならば明瞭に確認できると思うが・・・。

⑤ 茶臼郭
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畝堀がよく見えた。
 河村城の畝は水を溜めようとしていたという意図がうか
 がえる。
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⑤茶臼郭から馬出し状の小郭。

●戻った。

⑥主郭北側の堀切。
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先ほど畝が掘られている。
草ぼうぼうでよく分からない。

⑦畝堀の端にある「姫井戸」。
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  井戸とあるが、畝堀の一部にしかみえない。
  湧水なんだろうか?


⑧主郭
○模擬木戸
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○解説
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○トイレ

○整備されている城址公園である。
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 主郭内部は芝生の手入れがよく行き届いていた。

○大きな城址碑。
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○神社
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 さっきの反対から、主郭と北の尾根筋の小曲輪の間の堀を見た。
 美しいな畝堀である。
 ★写真ではやや分りづらいが、・・・・。
 近くで写真を撮ろうとして、畝堀の中におちると怖いので躊躇した。
 小曲輪と茶臼曲輪の間の畝堀は水が溜まっている。
 本来畝堀は、水や泥が入り、のろ状(群馬の方言かな)ヘドロ状に
 泥が溜まることでさらに防御力が増す。しかも、夏場は蛇の巣に
 なる可能性もある。
 それなので、箕輪城の大堀切の畝堀:8つの畝・7つの溝は日本
 の最大級なのに復元はしない。4m、埋まっていて、2mの石垣が
 畝堀に隠れているのだ。高崎市教委の秋本太郎先生にお願いしたが
 「箕輪城の畝堀は落ちたら、上がれない。蛇もいる。コンクリに
 しても、泥が流れ込む。排水溝の管理ができない。とにかく、危険
 ということなのだ。・・・」

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⑦馬出郭・・・藪がひどい。
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 馬出郭は山林化していて遺構の全体像は掴めまない。
 「馬出」なのかどうか疑問が残ったが、・・・
馬洗場が近いので、そうなのだろう。
主郭にくっついているし、・・・

⑧・・・この先が滝らしい。搦め手口か?
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・切り崖になっていた。

▼主郭に戻った。

○西郭
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○北郭
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○土橋?
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⑨馬洗場・・・主郭西側のちょっとした谷津である。
 山の頂上に近い場所ながら、湿地のような場所である。

⑩主郭&蔵郭
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・間の堀切
  コンクリートで加工され、保存されているのだろう?うっ。

▼主郭に戻った。
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○地区の方が軽トラックで来た。なにやら、鉄パイプを
 持っている。
「河村城祭りが一週間後にある。」
 とのことだった。
箕輪城の話もした。
駿河との国境方面を望む。
 河村城は武田氏の侵攻に備えるための重要な城だった。
 「富士山はあっち。」と教えてくれた。
 「ちょっとガスってますね~。」
 「向こうの■■城は武田信玄の城です。」
主郭は木々に遮られ、あまり眺望が良くなかった。


⑩近藤郭との間の堀切と橋。
  幅20mほどのかなり幅の広いの堀切である。
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⑪大庭郭・・・改変著しい。
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  一見巨大な土塁に見えるのだが、ただの土盛である。
 工事を行う予定なのであろうか。

⑫南側の西の沢橋の方に下っていく道路があった。
  郭構造はほとんど分からなくなってしまっている。
  ここが大手口なのだろうか?
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⑬蜜柑畑に出た。
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  南麓の谷津にあった「土佐屋敷」であるらしい。
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しかし、藪で下れない。

▼戻った。・・・藪漕ぎをしながら、進んだ。
 今日も長靴なのだ。
○大庭郭の山際を通った。

○蔵郭と近藤郭の間の大堀切。
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  深さ4m、幅24m。・・・下から見ると迫力ある。
  湿地の面影を残していている。

○もう一度、土佐郭に挑戦しようとしたが、通行止め
 になっていた。

○主郭で、地元の方に挨拶してから、下った。

○駐車場

○寺に寄った。
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⑭車で、足柄城に向かう西の橋の上から河村城を見た。
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 蛇行する酒匂川が天然の外堀として、堅固な城をさらに
 堅固にしている様子が感じとれた。



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箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_43.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_43.html

箕輪初心★新田義貞の弟:脇屋義助&子孫の動向
http://53922401.at.webry.info/201303/article_22.html
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箕輪初心◆群馬:沼田会津街道=4コース~鎌田~尾瀬
★新田義宗の墓
http://53922401.at.webry.info/201311/article_23.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_23.html

箕輪初心★山内上杉16代①「初代~7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★上杉家②『8代:上杉憲実~9代:憲忠~
10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html

箕輪初心★埼玉【足利基氏館】&『足利基氏&上杉4代:憲顕』
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箕輪初心●群馬【平井城前編】:関東管領8代上杉憲実~
16代上杉謙信
http://53922401.at.webry.info/201405/article_29.html

箕輪初心▲神奈川平塚 紫雲寺【大森氏頼の居館跡=矢崎城】
http://53922401.at.webry.info/201411/article_22.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

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◆◆ 河村城の歴史 ◆◆
・平安末期・・・藤原秀郷流の一族:波多野遠義の二男:河村秀高
 が築城した(伝)。

・治承4年(1180) 石橋山の合戦・・・
  河村秀高の子:河村義秀は、源頼朝の挙兵の際に平氏方に属し
  たため領地を没収された。

・建久元年(1190) 鎌倉での流鏑馬で本領:河村郷に復帰した。


・南北朝時代・・・・
・正平7年(1352)  南朝の一斉蜂起。
①畿内
 北畠顕信・千種顕経・楠木正儀+足利直義派残党
②上野国
 新田義宗、義興と義治は宗良親王を奉じて上野国で挙兵した。
③信濃国 
 征夷大将軍:宗良親王も挙兵。
④北条時行の残党 
⑤足利直義派残党
⑥上杉憲顕
→鎌倉に進撃。鎌倉を一時的に占拠。


・文和元年(1352)北朝の足利尊氏が鎌倉を押さえた。
 河村氏は松田氏とともに南朝側の新田義興に味方して戦った。

 河村秀国・秀経らは、新田義興・脇屋義助らとともに河村城に
  籠城して、足利尊氏の軍勢、特に畠山国清と2年間に渡って
 闘った。 
 「山嶮にして苔滑らかに、人馬に足の立つべき処もなし」
 とある。・・・★当時もこの山城に籠城していたのであろう。
  (★「管領記」)
 最終結果・・足利尊氏軍が勝利。新田義宗・脇屋軍が敗れた。
・南朝:正平7年・北朝:文和元年(1352)から2年間
 相模:河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治ととも河村城に
 籠城し、新田一族同族:畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃
 をしのいだ(伝)。
※南原の戦い  
 足利尊氏軍の畠山国清に敗れた。  
 
結局、河村城は落城し、河村一族の多くが討ち死にし、河村氏
 は没落していった。
①宗良親王は信濃に逃亡。
②新田義宗&義興、脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れた。
 その後。越後で再蜂起した。
③北条時行は捕縛されて処刑された。

・応永23年(1416) 上杉禅秀の乱
 前関東管領:上杉禅秀(氏憲)が関東公方足利持氏に反旗を翻した。
鎌倉を逃れた鎌倉公方持氏は小田原で上杉禅秀方の土肥・土屋の
 攻撃を受け、箱根に逃げ、箱根権現別当証實(大森頼春の弟)の
 助けで、駿河国の大森頼春の大森館に落ち延びた。
 ※大森館説&生土城説がある。
 その後、足利持氏は今川氏の保護下に入った。
 足利幕府は足利持氏を救援し、今川範政を上杉禅秀討伐に向かわせ
 た。今川範政は葛山・大森・朝比奈などと小田原で曽我・中村・土
 肥・土屋を討った。
 上杉禅秀は鎌倉で自害した。
 大森頼春は土肥・土屋の没収地を与えられ、小田原に移った。
  (★鎌倉大草紙)。
 

・応永25年(1418) 関東管領・上杉憲基(山内上杉家)が死去。
・応永26年(1419) 上杉憲実が関東管領の後継者に選ばれた。
   上野・武蔵・伊豆の守護になった。
  →関東管領:上杉憲実の所領になった。

・応永35年(1428) 室町幕府4代将軍:足利義持が死去。 
   足利義教が6代将軍に就任した。
  鎌倉公方:足利持氏は将軍後継の候補に選ばれなかった。
  足利持氏は兵を率いて上洛しようとするが、上杉憲実が諫止
  した。
  上杉憲実は鎌倉府と足利幕府との調停に努めた。
  足利持氏は足利義教への対抗姿勢を続けた。
  強攻派:足利持氏と穏健派:上杉憲実は確執が生じるようになった

・永享3年(1431) 大森頼春没。大森憲頼が跡を継いだ。

・永享4年(1432) 大森氏一族は箱根山水飲関所、箱根山葦河関所
に加え、小田原関所を預かった。
大森憲頼は関東公方:足利持氏と強い結びつきを持った。
  鎌倉府奉公衆として足柄道と箱根一円を支配した
  鎌倉公方にとって大森氏の駿東郡も、鎌倉府の影響下に
  組み込まれた。

・永享9年(1437) 足利持氏の信濃再出兵が企画。
  足利持氏は上杉憲実を訪れて会談した。
  しかし、上杉憲実は相模へ下り、嫡子を領国の上野に逃した。
  上杉憲実は管領職を辞任した。
 永享の乱の直前も鎌倉公方:足利持氏との確執が続いた。
 上杉憲実に対して、長尾実景・大石重仲らは
 「河村城に難を避ける。」
  ように進言した。
 しかし、上杉憲実が河村城に籠らず、鎌倉を脱出し、上野の平井城
 (群馬県藤岡市)に逃れた。

・永享9年(1437) 永享の乱
小田原城(小田原市)の大森氏頼の弟:大森憲頼が河村城を
 を攻め、奪い取った。 
 大森氏頼の弟:大森憲頼は鎌倉公方:足利持氏に属していたのだ
→河村城には足利持氏の家臣:大森憲頼が入った。 
 

●~~~大森氏→後北条氏の小田原城奪取4説あり。~~~~~~~~~●
・15世紀後半・・・
  大森氏頼が小田原城を築城。

・明応3年(1494) 大森氏頼没。
  家督は次男:大森藤頼が継いだ。


  
①明応4年(1495)か明応5年(1496)説
 伊勢宗瑞が大森藤頼をだまし討ちにして小田原城を
 奪取したと言われていた。・・・従来の通説

 北条早雲が大森藤頼を急襲し小田原城を奪った。
  それ以後、河村城は北条氏の属城となった。

・明応7年(1497) 満39歳
   北条早雲は南伊豆(下田市堀の内)深根城で茶々丸を殺害した。
(★下田市教育委員会)

・明応8年(1498) 北条早雲は甲斐で茶々丸を殺害した。
(★ウキペディア)

 
 北条早雲は「茶々丸討伐」の大義名分がなくなった。
 相模方面への制圧に乗り出した。

   
・永正元年(1504) 立河原の戦い(立川市)
  山内上杉顕定・足利政氏連合軍 
   VS
  扇ヶ谷上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞連合軍
  上杉顕定側は2000人以上の戦死者を出して潰走した。

・永正2年(1505) 上杉顕定軍に河越城を包囲した。
  上杉朝良が降伏して終結した。

・永正4年(1507) 上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹の
   婚姻が成立し、両家は和解した。
   しかし、両家の勢力は弱体化した。

・永正6年(1509)説・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  その間隙をぬうように伊勢宗瑞が勢力をつけてくる。
  伊勢宗瑞が大森氏が小田原城を奪取したのは、この頃のことで
 あったと推定されるようになった。・・・有力説
 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・永禄11年(1568) 甲相駿三国同盟が破られた。

・永禄12年(1569) 武田信玄が小田原城攻撃した。

・元亀元年(1570) 武田信玄が深沢城を奪取した。

・元亀年間(1570~73) 武田信玄 VS 北条氏康
  河村城た周辺の諸城は北条氏康と武田信玄の争奪の場と
  なった。
  
  北条氏康は緊張状態の中で、河村城を整備させた。
田名の百姓中に河村城の普請を命ずる北条氏の文書
(虎の朱印状)が発給されている。
  主郭と茶臼郭との間にある堀切や畝堀などが整備された。  


・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
  豊臣秀吉の軍勢に攻められて落城した。
  その後、廃城となったと考えられている。

・現在 城跡は河村城址歴史公園として整備されている。
  本丸や多くの郭、畝堀などの遺構が現存している。






★明日は足柄山城かな?

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