箕輪初心▲東京青梅【勝沼城】&三田氏&連歌師:宗長

築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城
として、16世紀半ばまで用いられた。三田氏が北条氏照により滅
ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉による小田原征攻撃で廃城になったと
考えられている。

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◆訪問日・・・平成25年(2013)5月31日
●私は、所沢から南下して青梅に入った。城郭の興味もあるが。
 永正6年(1509) 『東路の津登』を書いた連歌師:宗長の行動
 に非常に興味を持ったからである。・・
 ★後述・・・・

勝沼城を探し回って、行った所が・・
●鉄道博物館
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●神社
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 ここから見える山が城だった。
★いろいろ聞いて・・・やっと辿り着いた。
 何せ、思いつきの城なので、全く情報はない。
スマホを持っていても、探せない。
 16000円も電話料も払っているので・・・・
現地で3人に聞いて、光明寺を知った。・・・

●光明寺
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●光明寺の入り口
 案内板・・・少し色あせて読みづらい。

●光明寺の奧様
「墓地の真裏です。
    歴史は住職がいないので、わかりません。」・・・

●寺の方

●師岡神社
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●墓地
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  最短・・山の斜面に墓地が並んでいる。
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  墓地を横切り階段を登った。


●勝沼城の虎口へ到着。
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●右手の小さな郭・・・三の丸
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  青梅市の見晴らしがよい。
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勝沼城は青梅市中心部にほど近いのが分かった。


●主郭・・・土塁などの遺構の一部があった。

 十分堪能できた。

しかし、デジカメのバッテリーがなくなった。
 写真が撮れない。・・・
 スマホもだめ・・・・
 
 ★光明寺の裏山・・東京都史跡指定・・・
 自然林&杉植林地で・・・単に藪であった。

●二の丸・・・

●郭の一部が墓地に開発されているようだ。

●後で調べた。
 加治丘陵端の尾根上にある。
 本丸を中心に、尾根方面に三の丸、丘陵端方面に二の丸を配置
 している。
 三の丸を取り囲む様に横堀が設けられている。
 二の丸には東面及び南面に馬出しが設けられている。
 また、二の丸及び三の丸には折れが設けられており、
 虎口及び馬出しを守る構造となっている。
と、あった。








◆◆ 勝沼城の歴史・沿革 ◆◆
・平安時代  平将門の乱
   平ら将門子孫・・・三田氏

・鎌倉時代
  三田氏が東鏡に名前が見られる。

・????年  築城年代は詳らかでない。
   勝沼城は古三田氏の居城である。
   三田氏により築かれたとされる。

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

・永正6年(1509) 『東路の津登』
※三田氏宗&三田政定父子~~~~~~~
 武蔵国杣保(現青梅市)に根を張った国人で平将門の
  後裔と称していた。
 三田氏宗は関東管領山内上杉顕定の配下として活動している。
 
 
 (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より
 出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。
 「思ひつつ幾春か過し・・」
 ★数年前の宗祇7回目の越後&草津・箱根の影響も
  あると思われる。

7月16日 宗長は白河の関を見ようと駿河丸子(まりこ)を
 出発した。
●丸子→
●駿府→
●小田原
●藤沢
・・・・鎌倉上道・・・
丸子・沼津・小田原・藤澤と経由して
「八月十一日むさしの国・・・」

●府中(東京)

●青梅
「八月十一日 武蔵の国勝沼(東京都青梅市勝沼)といふ処
 に至りぬ。
 三田弾正忠氏宗此処の領主たり。兼ねてしも白川の道々の
事申しかよはし侍りしかば、こゝのやすらひ十五日に及べり。
連歌たびたびあり。

 きりはたゞ わけ入る八重の 外山かな 

此の山家、うしろは甲斐の国の山。北は秩父といふ山に
つづきて誠に深山とは、ここをや申すべからむ。
此処の山深き心なるべし.

 おなじ処に山寺あり。前は武蔵野なり、
 杉本坊といふにして,

 露をふく 野風が花に 朝ぐもり

むさし野の景気ばかりなり。」
★「景気」は景色・風景の美しさを称えているのであろう。
※柴屋軒宗長は武蔵国勝沼(青梅市)の三田弾正忠氏宗の
  居館を訪づれ半月ほど滞在したのだった。
 三田氏宗&三田政定は宗長を手厚くもてなし、宗長
 の滞在中に度々連歌の会を催している。
 ★和歌の嗜みもあったのであろう。
※宗長の文章は上杉顕定・憲房の越後出陣中の武蔵国の不安な
状況を示している。三田氏宗&政定らは山内顕定の家臣であっ
たのに出陣しなかった。何故か?・・・わからん。

「同十五日。氏宗おなじく息政定これかれ駒うちならべ。
 むさし野の萩薄の中を過行がてに。」
 
●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
  むさし野の 露のかきりは 分もみつ
秋の風をは しら川の關
この比。越後の國鉾楯により。
 武藏上野の侍進發のこと有て。
いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。



・長享元年(1487) 長享の乱
   山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
  長尾能景が扇谷上杉氏方から奪い取った。椚田城(初沢城)
  の城主になった。
 三田氏宗の勝沼城とその周辺が所領の隣であった。
 
・戦国時代 
   小田原北条氏が武蔵国まで侵攻してきた。
   武蔵国の国人衆と同じく三田氏も一旦は北条氏に服従した。


・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵
  城主:三田綱秀は後北条氏を離れ、長尾景虎についた。
小田原城包囲に参加した。

・永禄4年(1561) 上杉政虎が撤兵
  長尾景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領に就任した。
  長尾景虎→上杉政虎となった。

  上杉政虎は越後へ引き上げてしまった。
  国人衆は後ろ盾を失った形となり、再び北条に服従した。
   

   三田綱秀は三田綱秀は反旗を翻し後北条氏と対立した。
・永禄5年(1562)
  辛垣城を築き居を移した。
  勝沼城より山奥にある辛垣城に追い込まれた。

・永禄6年(1563)三田氏は北条氏照に攻められて滅亡した。
  勝沼城は北条氏照の家臣 師岡将影が入った。
   師岡城と呼ばれた。

・天正18年(1590) 廃城された。
 




★明日は東京の・・?

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