箕輪初心●高崎【大類城】&『大類氏の歴史』

大類城は戦国時代に和田氏同心大類氏が築いた城である。高
崎市宿大類町字村西に大類城&3ヶ所の支堡からなる。和田
城の東に築かれた。和田城を守る城として和田下之城・大類城・
反町館・慈眼寺城などが配された。永禄9年(1566)箕輪城の落城
後の城で、武田信玄の家臣:和田信業(信繁の跡部勝資から養
子)の家臣として新後閑右京亮(しごか うきょうのすけ)が城代と
して在城した。天正18年(1590)に廃城されたと推定されている。

画像

  (★『群馬県古城塁址の研究 補遺篇』山崎一著)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心●高崎の城一覧表「154分の71」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_15.html

箕輪初心★箕輪城140【秋本太郎先生の箕輪城→高崎城+城下町】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_9.html

箕輪初心●群馬の城「和田城→高崎城」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_16.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201012/article_16.html


箕輪初心★群馬『乗附城=寺尾上城詳細』&高崎観音
http://53922401.at.webry.info/201302/article_26.html


◆◆ 箕輪初心●群馬高崎:寺尾中城1回目 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_20.html

箕輪初心●群馬『寺尾中城2回目』=新田義重の城か?
http://53922401.at.webry.info/201302/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201302/article_27.html

箕輪初心●群馬の城「高崎の茶臼山城=寺尾城?」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_19.html

箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

箕輪初心●群馬:高崎「根小屋城」=水堀のある山城
http://53922401.at.webry.info/201102/article_28.html

箕輪初心●群馬の城「山名城&山上の碑」(高崎編)
http://53922401.at.webry.info/201012/article_21.html


箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心★「高崎の文化人19+α」江戸時代編
http://53922401.at.webry.info/201310/article_19.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



【1】大類城
 東西390m×南北360m・・・囲郭式の城である。
①本丸は方70m・・・南面中央に喰違い虎口がある。
堀を含めると本丸の規模が東西約90m×南北約90~95m
  のほぼ方形の郭である。
  城の中央部よりやや東側に本丸を設けてある。
  中心は熊野神社東側の桑畑である。
画像

画像


②二の丸は本丸を囲んでいる。東部が別郭になっていた。
  二の丸は、本丸の北、西、南を囲む主要部と東郭から
  成り、二の丸&東郭間は堀で仕切られる。
  コの字形に本丸を囲んでいる。
東西150m×南北150mある。
  東郭・・・南北100m×東西75mの長方形である。
画像
  
  複郭式の大規模な城であることなどが分かっている。
  (★『宿大類町村西遺跡』)
画像

③水堀跡=堀端・・・・桑畑中の細長い水田となって残っている。
本丸北堀と西堀を除き堀跡は容易にたどることができる。
 「堀端(ほりばた)」の転訛して堀畑と呼ぶ水田になっている。
(★山崎一氏)
画像

画像


●二の丸の北、西、南に5つの外郭がある。
 慈願寺の郭・藤の木の郭・南西の郭、西の郭、北の郭
 である。
④慈願寺郭・・・東西80m×南北110m。
画像

⑤藤の木郭・・・東西60m×南北80m。
    南に藤の木門があった。

⑥南西郭・・・・東西100m×南北50m。

⑦西郭・・・・・東西90m×南北90m

⑧北郭・・・・・東西130m×南北110m
   中央が幅30mに狭まっている。 
   西には熊野神社が祀られている。
   郭のの不規則な形で、東部は東西南北とも150m、
   西部は南北80m、東西90mである。
    本丸の虎口(こぐち)は南面のものだけ顕著だが、
   東面、西面にもあったのであろう。
   南虎口は順の喰違(くいちが)いになっている。
   二の丸南部はこの虎口の郭馬出しの性格であったと思われる。
   北の郭の北の水田は沼沢地であったらしく、沼尻の地名が
   残る。沼尻の東にある墓地の土壇は鬼門除けであろう。
   城の西北にある原屋敷、東にある判形等4ヶ所の環濠塁址
   は、大類城が特別な地障を要害として備えていないために
   設けられた外堡と推定できる。
(★『群馬県古城塁址の研究 補遺篇』P38:山崎一著)
  
   ●外側約100mにある判形(はんがた)・安中屋敷・原邸など
   の環濠遺構は、築城前からの屋敷跡で、外堡としても用
   いられたことであろう。
  (★『日本城郭体系 4』)

【2】原屋敷
  島名城における桜屋敷に対比される大類城築城以前からの
  遺構であろうか。
・・・・(中略=下記記載)
  この城は永禄9年(1566)箕輪城の落城に先立って自落し、
  武田氏時代には和田城の支城となった。
  城代は和田の騎馬衆:新後閑右京亮(しごか うきょうのすけ)
  がつとめ、天正18年(1590)廃城と推定する。
 (★『群馬県古城塁址の研究 補遺篇』P38)



【3】大類舘
   南大類町字舘に「舘(たて)」と呼ばれる所がある。北側に一貫
  堀川があり、東西200m、南北150mの囲郭形式で、内郭は
  方80m、南面の虎口は濠幅半ばの喰違い構造を示す。
   このことから遺構は戦国期のものと推定しなければならない
  が、「舘」の名称から考えれば遥かに古い遺跡と思われる。
  おそらく大類太郎の舘址で、戦国期にも改修使用されたので
  あろう。
  (★『群馬県古城塁址の研究』)


【4】大類寄居
   下大類町字寄居には濠と土居をめぐらした小堡がある。
   方70m、虎口は南にある。数年前(筆者註:1960年代後半)、
  濠も全く埋められてしまった。北から東をめぐる諏訪堰、
  西から南の一部を囲む長野堰の水路は外濠址と考えられ
  るので、外郭は東西140m、南北も同じ程の囲郭構造であ
  ったと推定される。
 (★『群馬県古城塁址の研究』)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【5】埼玉県入間郡大類館
埼玉県入間郡毛呂山町大類112番地の大薬寺近辺には大類館
があり、土塁・空堀が残っているそうである。
◆訪問日・・・平成26年(2014)7月??日
坂戸市の浅羽城→県道川越坂戸毛呂山線に入った。
毛呂山町歴史民俗資料館前で休憩・昼食・・・・
ここで、毛呂山に関する資料を収集すべきだった。
無料配布の地図などがあるはず・・・失敗である。
すぐに、越生城に行ってしまったのである。
後で、調べると、
「歴史民俗資料館北側に「大類館」もある。・・・毛呂山養護
学校、大類グランドの方向に向かっていく。館跡は毛呂山町
歴史民俗資料館から北東600mの「大類公会堂」「大薬寺」
の目印だ。ここがが本丸(館の中心)だった。遺構は大類公
会堂の東の民家敷地近辺に見られる。とのことだった。」
大類行義の館と伝えられている。
近所に馬場、矢場等の地名が残るそうである。
埼玉県の地図にも大類館が載っていた。
平成8年文化庁選定「歴史の道100選」の鎌倉街道がある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



◆◆ 大類氏の歴史 ◆◆
【1】児玉党有道姓大類氏の出自
  児玉党は平安時代の後期に現れた氏族で、平安時代末期から
  鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団(武蔵七党)の一
  つである。
  その出自には諸説ある。
  有道宿禰(ありみちのすくね)の後裔という説をとる。
・天長10年(833) 
  2月 饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖(物部氏同祖)
  とする常陸国筑波郡人の丈部(はせつかべ)長道、氏道、
  継道、福道の4名が有道宿禰の姓を賜っている。

【2】『大類一族』 大類氏は武蔵七党の児玉党の一族である。
平安時代の関白藤原道隆の家系である。道隆の子:内大臣藤原伊周
の家臣または妾腹の子である有道遠峰惟行が武蔵に下向、有貫主と
称した。有道遠峰惟行の子の弘行、経行、貞行、惟親より一族は分
かれた。

・長徳2年(996)
  藤原北家流・藤原伊周(これちか)が失脚した。
  の家令:有道維能(これよし)は、武蔵国児玉郡に下向した。
  その子:維行が有貫主有道遠峯維行(ありみち こだま これ
  ゆき)と名乗り、児玉党の祖となったという。
  後に児玉惟行と呼ばれる。
・延久元年(1069)児玉惟行が没。


・承保元年(1074)甲寅 3月17日
  大流井(おほるゐ)庄、諏訪若獅子明神分遷祠、毎郷八十八
  所云々。
  (大流井(大類)氏が当地に諏訪神社の上社・下社を勧請し、
  島名郷から分出した)
 (★『上野国郡村誌』)下大類村の諏訪社の社伝
※平安末期~信濃の諏訪神社の神は軍神として武士に広く信仰
  された。信濃の諏訪大社の分社が上野にも勧請されるよう
  になった。

・永保元年(1081)辛酉
  大類太郎重道が(下大類村の諏訪社を)造営。
  (このころ、大類氏と名乗ったと考えられる。)
(★『上野国郡村誌』)下大類村の諏訪社の社伝

・康治2年(1142)癸亥
  大類三郎重光修繕、尓後(そののち)大類氏世々修繕云々。
(★『上野国郡村誌』)下大類村の諏訪社の社伝

・保元元年(1156)
7月 保元の乱
  皇位継承問題や摂関家の内紛
  後白河天皇方 VS 崇徳上皇方

・平治元年(1159)『平治物語』の「源氏勢汰(せいぞろへ)の事」の条
 「上野の国には、大胡、大室、大類太郎」
 とある。
「大類氏の事蹟詳かならず、真を知り難しと雖も、平治物語に
  上野国には大胡大室、大類太郎とありて、左馬頭源義朝、
  父子に随従して、京師に上り平治の役に戦功ありし一人
  なり是大類氏の文書に顕はれし始なるべし。」
 (★『上野人物志』)
 
 源氏を盛り立て始めた中心勢力は武蔵七党であった。
  武蔵七党には諸説あるが、大別して二通りある。
 ①説1 『武蔵7党系図』
  横山、猪股、野与、村山、西、児玉、丹
 ②説2 『書言字考節用集』
  丹治、私市、児玉、猪股、西野、横山、村山

12月 平治の乱
  平清盛 VS 源義朝(3男:源頼朝の父)

 長男:源悪源太義平・斉藤実盛(熊谷市妻沼)・岡部忠澄
 (深谷市岡部)・猪俣範綱(美里町)・熊谷直実(熊谷市)
 ・平山季重(府中?)・・・など
京都で平清盛と戦い、源義朝が負けた。
 敗れた源義朝配下の上野武士に大類太郎がいた。
 大類太郎(★もしかしたら、入間郡毛呂山町大類112)は
 戦死したのではあるまいか?
  (★山崎一氏)。


【3】大類左衛門尉行義(ゆきよし)までの系譜・・・3説
大類氏は武蔵七党の最も力を持っていた児玉党の一族から
 出自しているのは同じである。
●説1「有道氏〜児玉氏〜秩父氏〜大類氏」
有道遠峯維行(兒玉惟行) →児玉經行→秩父行重(秩父重綱の養子)
 →秩父行弘→秩父行綱→大類行義

●説2「「有道氏〜児玉氏〜秩父行重〜片山与三郎行時→
 武者三郎行綱→大類五郎左衞門行義→大類季行→大類国行
 →大類行光(薩田山の戦いで戦死)」
 (★山崎一氏:上野人物志)

●説3「大類氏」は関白藤原道隆→内大臣藤原伊周→遠峰(児玉)維行
→児玉経行→大類行義
児玉弘行、経行、貞行、惟親の兄弟からの分流がたくさんいる。
高坂、吉田、庄、本庄、阿久原、吉島、島名、多胡、富野、竹沢、
与島、小幡、大渕、倉賀野、後閑、新屋、片山(大類)、奥平、
宿谷、富田、大浜、鳥方、稲島、狛島、柏島、高山、白倉、矢島、
浅羽、小見野、粟生田、大河原、越生、上野、真下、鳴瀬、黒岩、
岡崎、塩谷、中条、奥、金沢、蛭川、今井、阿佐美(浅見)、二木、
中山、荏戸内、小中山、久下塚、木西、四方田、小河原、若松、
薦田、岩田、小山、下児玉、若泉、長岫、長岡、新生、堀籠、
御名、宮田、山名、植木、今井氏に分かれた。
このうち、上野で有名な一族は小幡、倉賀野、後閑、新屋、片山
(大類)、奥平、高山、白倉氏などである。

説4・・・桓武平氏流秩父氏とする説
   (★『平姓大類系譜』:湯西川大類家蔵)



・寿永3年(1184)2月 一ノ谷の戦い
大類五郎左衛門尉行義は父:秩父行綱とともに源範頼に従い、
  功により武蔵国入間郡大類を賜った。
 (★『吾妻鏡(東鑑)』第3巻「壽永3年2月5日」の条)
 ★上野国群馬郡大類ではない。
大類行義の子・・・大類氏が2つに別れた
可能性もある。

鎌倉時代~~~~~~~~~~~
・建久4年(1193)4〜5月 源頼朝の巻き狩り
  三原(上信国境:三原借猪)→赤城の巻き狩り→那須野
  (下野国)→富士野(駿河国)の各地で大規模な狩りを
  おこなった。
 ★源頼朝は上野国で新田義重のいる寺尾(高崎)に寄った。
高崎→榛名→倉渕→三原の借猪で巻き狩り
滋野一族の望月・海野・禰津(平安時代の鷹匠№1)
も参加した。
 赤城(上野国)の巻き狩り
「大胡・大室・深栖・山上・寺尾・長野・那波・大類・新田
 ・鳥山・佐野・佐貫・佐井・園田・・・」が、夜も昼も警護に
 当たったという。
(★『曾我物語』巻第5)

・承元年間(1207~1211)&宝治年間(1247~1249)
「越生(おごせ)の郷、其の間の文書に見る、即ち越生氏の邑
  する所、其の族に大類、堀籠、黒岩、鳴瀬の諸氏あり。
  所謂(いはゆる)児玉党也」
 (★『倭名類聚抄 』)
 ★宝治年間に越生郷に大類氏が住していた。
   上野国から入間郡に移住したものであろうとも
  考えられる。・・・しかし、どっちに先にいたのか
  不明である。



・応長年間(1311~1312)
  大類伊勢守源久清という人が群馬郡大類の城主として
  居た。
(★『上野国郡村誌』『大類村史』大類村伝承『上野人物志』)
 「降て鎌倉時代に至り、花園帝の応長年中、大類伊勢守なる者
  あり、此地に住し、爾来南北朝及足利戦国時代にかけて、
  大類弾正、大類中務丞、武蔵七党の児玉党に武者三郎行綱
  の子大類五郎左衛門行義、其子太郎季行、二郎行定等
見わる、
  何れも此地の領主にして、大類太郎の遠裔若くは他姓の領主
  なるべし、出自、事項明かならず、後考を俟つ。」

・南北朝時代~室町・戦国時代
  大類弾正、大類中務丞、武蔵七党の児玉党に武者三郎行綱
  の子大類五郎左衛門行義、其子太郎季行、二郎行定等見わる

●説2「「有道氏〜児玉氏〜秩父行重〜片山与三郎行時→
 武者三郎行綱→大類五郎左衞門行義→大類季行→大類国行
 →大類行光(薩田山の戦いで戦死)」
(★『群馬県古城塁址の研究 補遺篇』山崎一著:上野人物志)

・正平6年・観応2年(1351)薩埵峠の戦い
兄:足利尊氏 VS 弟・足利直義
 大類行光(弾正)が戦死。


・現在  武蔵七党流としての大類氏はその後の系図がない。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・14??年(嘉吉)大類館が築城
   ・室町  大類城に先行する館。
       大類中務丞→大類五郎左衛門尉か?

・戦国時代
    新後閑(しごか)右京亮は和田信業の馬廻衆で、
   上杉輝虎(謙信)を和田城で撃退。


・永禄9年(1566)箕輪城の落城
   和田業繁か子信業が大類城を築城。   
   400m×400m
 *和田城の保塁・・・上並榎城・上飯塚城・新井屋敷
     ・大類城・和田下ノ城 
 

・天正3年(1575) 長篠の戦い
  和田業繁が討ち死に・・・
  武田信玄の家臣:和田信業(信繁の跡部勝資から養子)の
  家臣として新後閑(しごか)右京亮が城代として在城した。     
 新後閑右京亮や天田(甘田)氏が城代。

・天正18年(1590) 大類城は廃城(★推定)。





◆参考文献
・『群馬県古城塁址の研究 補遺篇』山崎一著
・高崎市史通史編2


◆参考サイト
大類氏について
http://oorui.net/index.php?%E5%B9%B3%E5%AE%89%E3%80%9C%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3


★明日も高崎関係。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック