箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細

金窪城は「神流川の戦い」での北条氏直VS滝川一益に登場する
城である。関東の戦国史を語る上では結構知名度が高い城である。
今回は滝川一益と北条氏の動向及び斉藤氏の様子を詳しくまとめ
てみた。
金窪城址は埼玉県史跡に指定されていて、立派な石碑と
案内板が設置されているものの、遺構は民家の宅地内にあり、石碑の
裏の土塁ぐらいしか見つけられなかった。
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箕輪初心◆高崎【第16回新町神流川合戦:滝川一益】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_3.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ⑲「第11代:滝川一益」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_33.html

■平成26年(2014)8月18日
①№789本庄:産泰神社&四方田氏館&&光明寺→
②№790本庄:小島氏館=長松寺&諏訪神社
③№791本庄:畑時能館=八幡神社&陽雲寺
④№792本庄:陽雲寺*畑時能の墓&武田信玄の正室:三条
夫人の墓&信玄書状&海軍大将:畑氏の墓
○番外・・・黛神社
⑤№792本庄:金窪城:神流川戦いの北条拠点
○番外・・・立石寺
●渋沢栄一の生家→渋沢栄一博物館→尾高惇忠生家
⑥№793深谷:皿沼城&諏訪神社
⑦№794深谷:曲田城=咬心寺


●JR高崎線の新町駅から徒歩だと1時間近くはかかる。。
車であると、それ程困難ではない。
金窪南城=陽雲寺や神流川古戦場の碑やなどがあるので
近くの散策もよいかもしれない。


●県道392号を群馬側から走った場合は陽雲寺の石柱を
 越え、次のT字路を左折する。

●東の本庄方面から来ると、神保原1信号を県道392号に
 入り、八幡神社の100m先を右折する。
 
●T字路の看板
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●萌美保育園・・・直進した。

×直進しすぎて、忍保川に出てしまった。
黛神社・・・
 でも、反対に金窪城址公園が見える。
戻って、・・・
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▲金窪城址公園

●城址公園には、遺構はないようである。
 でも、駐車できる。5台位かな?

●城址碑と説明板
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★しかし、目立たない。


●藪の中の土塁
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 城址碑裏の藪の中に土塁がある。
  一般の民家の一部である。
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●道沿いの土塁
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◆◆ 金窪城の歴史 ◆◆
・治承年間(117~81) 加治家李の築城説
 武蔵七党の丹党小島氏の5男:高麗氏の支流である。
 武蔵国高麗郡加治(現埼玉県飯能市)付近から秩父
  にかけて活動していた。
 加治家李は鎌倉幕府御家人として重用された。
 源頼朝が上洛の鎌倉幕府の随兵となっている。


・元弘年間(1331~34)新田義貞による築城説。
  新田義貞が重臣:畑時能が金窪城を守っていた。
新田義貞が畑時能に改修工事をさせた。
金窪城を改修した時期は、新田義貞が鎌倉幕府に
 叛旗を翻した時である。
 鎌倉幕府は大坂の千早城:赤坂城で楠木正成と戦っ
 ていた。新田義貞は途中で無断帰国した。

  鎌倉幕府から戦費調達の名目で税の取立てがあった。
義貞は徴税の使者を斬り、倒幕の兵を挙げた。
上野国安中の板鼻の安達家との争いもあった。
  
  新田義貞は鎌倉幕府を直接滅ぼした。
  足利尊氏 VS 新田義貞
  畑時能は新田四天王の1人で、武勇に優れていた。
・興国2年・暦応4年(1341)畑時能じゃ越前で討死した。


・寛正年間(1460~66) 斎藤実盛の末裔:斎藤盛光が居城した。
 ●先祖:斎藤実盛~~~~~~~~~~~~~
  斎藤実盛ははじめは鎌倉の源義朝に従っていたが、
  地理的に近い源為義の次男:源義賢に仕えた。
  熾烈な勢力争いを繰り広げていましたが・・・
 ・久寿2年(1155) 大蔵合戦
 兄:源義朝  VS 弟:源義賢 
  源義朝の子:義平が義賢の館を急襲し、源義賢を
 討ち取った。源義賢の子:駒王丸を乳母の夫・信濃国の
 中原兼遠へ届けたのが実盛であった。駒王丸は木曽義仲
 であった。・・・・
 しかし、越前で篠原で、・・平氏軍の斎藤実盛を
 討ってしまった。涙涙の話である。

斎藤盛光は山内上杉氏に仕えていた。

・康正元年(1455) 古河公方足利成氏が深谷上杉氏の配下:
  庁鼻和性順、長尾景仲が守る騎西城を攻略した。

・康正2年(1456) 金田式部則綱が菖蒲城を築城した。
  菖蒲城&騎西城等は上杉房顕・顕定に対する防衛網
  ・最前線基地として整備された。
古河公方側の古河城・関宿城・野田城・忍城・羽生城・
  騎西城・菖蒲城による防衛線が確立した。

上杉側は五十子を中心に太田道灌は築城し始めた。
 (金窪城・東本庄砦~)五十子城・深谷城・川越城・
岩槻城・江戸城ラインを引いた。

 
・天文15年(1457) 河越の夜戦
  天文14年(1456)説・天文15年(1457) 説がある。
北条氏康  VS 上杉憲政+足利晴氏&上杉朝定
  北条氏康に大敗を喫した。
  3000人余の将兵を失って上野平井城に逃れた
  本陣を命がけで守り、逃走を手助けしたのは
  本間近江守と本庄藤三郎と本庄実忠とされる。
大導寺政繁が本間の首を刎ねた。
(★小田原北条記)
  
  その後、上杉家は勢力の立て直しを図った。

・大永5年(1526)
斎藤盛光は金窪城主となった。


  斎藤盛光の曾孫:斉藤定利は後北条氏に仕えた。
  後北条氏の傘下となり金窪城を守っていた。
(★陽雲寺の系図では斉藤定盛である。)
 
 金窪城は後北条氏にとって重要な城であった。
上野と国境を接する最前線に位置するからである

・永禄3年(1560) 長尾景虎は越山・第一次関東出兵。
 上野国:猿ヶ京→岩下城→明間城→沼田城→厩橋城→平井城・
 東に向かった。下野:唐沢山城・・・武蔵国:羽生城へ・・

北条氏康 VS 上杉謙信 VS 武田信玄 
   で上野国&北武蔵の領土争いを続けていた。

・元亀3年(1573) 甲相同盟(武田信玄と北条氏康)の協定
北条氏が御嶽城(神川町)を接収した。旧賀美郡(上里町)
が直接の支配下に入った。  

・天正2年(1574)上杉謙信は羽生城が越後から救援が間に合
  わないのを恐れて羽生城を破却させた。
 結局、上杉謙信の「関東出兵」は13回で終了した。
  これ以後、2度と三国峠を越山することはなかった。


~~~神流川の戦い序章~~~~~~~~~~~~~~
◆◆ 神流川の合戦 ◆◆
・天正10年(1582)
3月11日、織田信長・徳川家康連合軍が天目山で甲斐の
  武田勝頼を滅ぼした。・・武田勝頼の自刃

  甲州征伐終了

 ●内藤昌月は信濃を追われた父:保科正俊と、兄保科正直を
  箕輪城に迎え入れた。

 ★保科正俊は徳川家康と異父兄弟であった。
     
3月23日 織田信長は重臣:滝川一益に上野一国&信濃の
  小県郡・佐久郡を与えた。
  織田家に従った関東諸侯を与力とした。

3月29日 
  河尻秀隆が甲斐一国(穴山領除く)と諏訪郡
  森長可が信濃4郡・・・松本城
  毛利長秀は伊奈郡・・・飯田城
  木曽義昌は木曽谷と安曇郡、筑摩郡が安堵された。

3月??日 
  上野一国を拝領した滝川一益が入国した。
  旧武田の上野国衆は滝川一益に降伏した。
 
 ※滝川一益が箕輪城に入城
  内藤昌月は箕輪城を明け渡した。
  北条高広は厩橋城を明け渡した。
  真田昌幸は沼田城を明け渡した。

関東管領として箕輪城(群馬県箕郷町)に入城したのだ。
 
4月 滝川一益は統治にあたり、関東の諸将に対して本領を
    安堵することを申し渡した。
   
 近隣の諸将は人質を伴い次々と出仕した。
箕輪城に人質を置いた。
富岡(小泉城)・小林(藤岡)・高山(藤岡)
  ・倉賀野・内藤(箕輪城)・小幡・和田(高崎)・由良
   (太田金山城)などの上野在地武士を掌握した。

  佐野氏の天徳寺宝衍と倉賀野城主:倉賀野秀景は
   滝川一益の側近となった。
   
  その後、佐竹義重・宇都宮国綱・里見義頼、
     伊達輝宗・蘆名盛隆と連絡をとった。

  
5月??日 ※滝川一益が厩橋城(前橋城)に入城
  滝川一益は後北条氏への抑えとして厩橋城を本拠を移した。

  本格的な上野領国支配を開始した。
  滝川一益はさらに箕輪城に旧武田家臣
  の人質を置いた。
 

  沼田城に滝川益重が入城した。
  松井田城に津田秀政が入城した。
  小諸城に道家正栄が入城した。
 

※織田信長は越後上杉景勝攻めの準備が完了した。
①越前北ノ庄城→富山→越後へ  柴田勝家・・
   越中:魚津の戦い・・・直江兼続の働き。
②信濃松本城・海津城→越後へ 森長可
③上野厩橋城→越後へ 滝川一益 
★3方面から上杉景勝を攻撃する態勢が整った。
  上杉景勝の危機であった。
   


5月??日
  滝川一益は関東の領主を厩橋城に集め、能を興行した。
  滝川一益は玉蔓を舞った。
  ※北条家も参加しているが表面的なものであった。
   上野が織田直轄領の様相を呈していた。
   北条家としては内心が気に入らなかった。
   
   太田資正・梶原政景が滝川一益にご機嫌取りをした。
   北条家に織田家に対する不信感が芽生えていた。 


6月2日 本能寺の変
  織田信長は京都本能寺の変で自刃。(49歳)
  森長可の倅:森蘭丸も死んだ。
  織田信長長男:織田信忠は二条城で死亡。
    

     
6月9日 滝川一益にも報が届いた。
   京よりの早馬の報せを受けた。
   篠岡平右衛・津田治右衛門・滝川益重等の家臣を
   集めた。滝川益重等は
  「上野衆に隠密にして、上洛することが当然である。
   国人を集めて披露するなど軽率なり。」
   と申し出た。しかし、滝川一益は
  「諫言もっともなり、しかしけして軽率ではない。悪事千
  里を行くと云うことわざがある、国人が信長公の死去を他
  から聞けば、我々に隔意をもつであろうから、急いで
  城主どもを呼び集めよ。」
  と廻書を遣わした。

  箕輪城を明け渡した旧武田勝頼家臣:内藤昌月(内藤昌豊
  の養子=保科正俊の3男説・跡部勝資の長男説)は謀叛を
  疑われ、内藤家に身を寄せていた父:保科正俊、兄:保科
  正直等と共に死を覚悟していた。・・・
  滝川一益より、
  「本能寺の変の知らせと力を貸してくれ。」
  という合力の使いが来た。
  内藤昌月達は驚くとともに安堵した(伝)。

 ★武田氏の箕輪城支配16年の幕が閉じた。



6月10日 滝川一益は上州の諸将を集めた。
  滝川一益は
  「殿:織田信長父子は明智光秀の謀反により討たれた。
  我等は上方にはせ帰り、織田信雄、信孝両公を守り、光秀と
  一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ、一益
  の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく
  戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、
  利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ。」 
と述べた。
   (★上毛古戦記)
★滝川一益 は、織田信長の弔い合戦を企図。
  上洛を決意した。

6月11日 滝川一益は長昌寺(厩橋)で能を興行した。
  総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、
  北条高広(旧厩橋城主)の家臣らの間で
  「上野衆を討ち果たす計略ではないか。」
  との噂が流れた。

6月12日 小泉城の富岡秀高の書状
  「上方の安否を聞いてきた。」
 滝川一益は
 「京の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりま
  せん、別に変わったことはありません。」
  と書状を送った。

 沼田城の戦い
藤田信吉 VS 滝川益重
※藤田信吉は藤田重利の息子:姉は北条氏邦の妻
 →上杉謙信→上杉景勝の家臣になっていた。
沼須城主(北毛)の藤田信吉が一益に対し反乱を起こした。
藤田信吉は越後の長尾伊賀守に使いを出して上杉景勝に通じ、
5000の兵を率いて滝川益重の4000が守る沼田城を攻め
た。水曲輪の一つを占拠した。


6月13日 滝川益重から報告を受けた滝川一益が
 20000の兵・・・・
 新田の滝川豊前、小幡信貞、安中?、和田信業、倉賀野秀景、
 由良泰繁、館林の長尾景行?、箕輪の内藤昌月を率いて駆け
 つけた。
 
 結果・・・北条氏邦の妻の弟:藤田信吉は破れた。



6月??日
  滝川一益は箕輪城の上州国人衆の人質を
  返還し、改めて協力依頼した。
 ★「人質の扱いがひどかったらしく、ほとんどの旧武田
  家臣は応援しなかった。」という。



旧武田領では・・・・
 北信濃の森長可は海津城から美濃:可児城に帰還した。
 南信濃の毛利長秀(秀頼)は飯田城から尾張に帰還した。
 甲斐の河尻秀隆は6月18日に武田遺臣に殺害された。





~~~北条氏の動向~~~~~~~~~~~~~~~~~~
北条氏の上野侵攻
6月11日 北条氏政は深谷城:狩野一庵から本能寺の情報を
  得たことを滝川一益に伝えた。そして、引き続き協調関係
  を継続する旨を伝えた。
 狩野一庵(★伊豆の狩野一族)は北条氏照の第一家老である。
 つまり、北条氏照軍は既に深谷まで北上していた。
 八王子城→滝の城→鎌倉上道・・・・

6月12日 小田原城の北条氏政・氏直は大軍を率いて上州へ
  進撃を開始した。
  鉢形城の北条氏邦・玉縄城?氏規が率いる軍も合流した。
  合計5万の兵が上野に侵攻した。
  
  滝川一益は上野を治めてまだ3ヶ月しかたっておらず、
  軍の統制が十分に取れていなかった。
  滝川一益は、
  厩橋城に滝川忠征、
  松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1500騎、
  小諸城に道家正栄を残した。
  
  滝川一益は本隊18000の兵を率いて北条勢を迎え討つ
  ことにした。

上杉景勝は危機脱出。~~~~~~~



6月16日 北条氏直が倉賀野方面に進軍した。
  北条氏直か神流川(石神)に陣をはった。
  

 滝川一益も上野在地武士とともに厩橋城を出発して
  神流川に(玉村)に対峙した。
 玉村の軍配山で、指示・・・。

 前哨選・・・倉賀野城の戦い 
北条氏邦 VS 滝川一益

        
6月17日 
  滝川一益は玉村の軍配山=御幣山古墳に本陣をおいた。

~~神流川の戦い~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   
●戦いの舞台:神流川
 上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)の境
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6月18日 神流川の戦い① 
金窪ヶ原の戦い
 
  旧武田信玄・勝頼の上州衆と滝川勢18000
    VS
北条氏邦の鉢形衆5000
 
 滝川一益18000の軍勢が、北条氏邦の配下:斎藤光透と弟:斎藤
 基盛が守る金窪城(武蔵児玉郡)と河合城(川井城:上野玉村)
 を攻めた。
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 (★金窪城)
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 (★河合城=川井城)
  金久保・毘沙吐周辺を戦場として激しい戦いが繰り広げら
 れた。
 
  
 金窪城は滝川一益に攻められて焼失した。
  金窪南城=陽雲寺も兵火で焼失した。
北条氏邦は敗走した。
 ★味方につくよう頼んだが、断られた
   腹いせかもしれないが・・・?
 
 
 滝川勢・・・佐伯伊賀守が戦死。
 北条勢・・・石山大学・保坂大炊介が戦死。

  最終的には北条方が敗れて追撃を受けた。
  北条勢は200余人~300人が討ち取られた。
  「北条氏直の身辺の者多数が討ち取られた。」
  (★松平義行氏所蔵文書)
 
 
 ● 斉藤定光には7人の男の倅がいた。
   戦死した一族は4人である。
①長男:定盛・・・・金窪・大戸・河合城主
 ※大戸城:群馬県東吾妻町・・・とあったが、
   ★変?1582年以降のことであろう。
 ※河合城:群馬県玉村町
②次男:光清(一路斎)
   ③3男:光透(金窪城代):戦死
   ④4男:光撫・・・・子:斉藤光吉:戦死
   ⑤5男:光透:戦死
   ⑥6男:光房:戦死
⑦7男:基盛(河合城代)
 (★陽雲寺:さきたま文庫の系図では)

  →1回目は滝川軍優勢で、北条氏邦が大敗。
   神流川の戦いで北条勢が敗戦・・・



北条氏直本隊が到着した。
   神流川で激突したが数と勢いに勝る後北条勢が勝利
   を収めた。戦いは北条氏直が圧勝したが・・・
   
  

6月19日 神流川の戦い②   
 北条氏直が20000 VS 滝川一益本隊3000 
  北条氏直の兵が破れ敗走した。
  北条氏政は10000の兵を弟:北条氏規に与え滝川勢を
  包囲した。

 滝川一益は後陣の上州衆を投入しようとしたが北条高広を
 はじめとする諸将が進軍してこなかった。
 滝川一益は、
 「運は天にあり、死生命あり、敵中に打ち入りて、討死せよ。」
 と下知し敵中に討ち入った。

 北条方は逆に追い立てられた。
  最後には北条氏則が30騎程で打って出て、滝川勢と渡り
  合った。
  北条方の300余人が討死したという。

北条氏直が再度滝川勢を攻めた。
  
  滝川一益は破れ、夕刻には敗走した。

  結果・・滝川方の重臣:篠岡・津田・太田・栗田など
  500騎が踏み止まって討死した。
  滝川一益の上州衆では木部貞朝(高崎木部)、倉賀野秀景の子
:五郎太・六弥太(高崎倉賀野)等が討死した。
 
※神流川合戦は総勢7万数千の大軍による壮絶な戦いだった
 らしい。
 ★でも、この時代の人口を考えると、凄い。
   
●藤岡の胴塚稲荷古墳
  ※戦死者の胴を埋葬した。

●高崎新町の首塚八幡宮
  戦死者の首を実検し、埋葬した


●高崎市新町の滝川一益の祭り
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~~~滝川一益の逃走~~~~~~~~~~~~~~
6月19日 滝川一益は、倉賀野城を経て厩橋城に退却した。
  厩橋城下の長昌寺において戦死者の供養を行った。


6月20 滝川一益は上州衆の人質であった北条高広の次男
  などを解放した。
  夜、上州衆を箕輪城に集めて別れの酒宴を開いた。
  滝川一益が自ら鼓を打って、
 「武士の交り 頼みある仲の 酒宴かな」(羅生門)
  と謡うと、倉賀野秀景は
  「名残今はと鳴く鳥の~~~~」(源寺供養)
  と唄い、互いに名残惜しんだと伝わる。
  滝川一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に
  与え、深夜に箕輪城を旅立った。

6月21日 滝川一益は松枝城で津田秀政と旗下1500騎を
加えて2000強の兵と一緒に碓氷峠を越えた。
  道家正栄が守る小諸城に着陣した。

  滝川一益は、佐久郡・小県郡の国衆の人質:依田康国や
  真田昌幸の老母などを木曽義昌に引き渡した。
  木曽義昌からの木曽谷の通過の容認を得た

6月21日の清洲会議に滝川一益は遅刻した。

6月27日 小諸城を立った。
  滝川一益は、小諸城を依田信蕃に引き渡すよう、道家正栄に
  命じた。

6月27日 清洲会議
  織田家の家臣は清洲城で会合。
  ※織田家家臣は柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興
  の4人であった。
  滝川一益は神流川の戦いでの敗戦を理由に参加を
  拒まれたとの説もある。
  (★ウィキペディアの説明)

  織田家の後継者問題
   
  織田信長の3男:織田信孝を擁立する柴田勝家
     VS 
  織田信長の嫡孫(信忠の嫡男):三法師(織田秀信)を
  擁立する羽柴秀吉
  
  羽柴秀吉は明智光秀の討伐の功労者であった。
  羽柴秀吉の意見を丹羽長秀・・池田恒興の支持した。

  三法師が後継者として決まり、織田信孝は後見人と
  なった。
  
  結果・・・羽柴秀吉の勢力が増大し、賤ヶ岳の戦いと
       なっていった。



6月28日 滝川一益は下諏訪に着き、木曽義昌の通行認可の
  返書を受け取った。
  木曽谷の通過~~~~
  織田家の領国である美濃に入った。
  尾張の清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼した。
  「織田信長の後継者を次男:信雄(のぶかつ)」     
 ※清須城・・・
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 ※城下町・・東西1.6km、南北2.8km


7月1日 領国の尾張:蟹江城?
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  伊勢長島に帰還した。
 
★滝川一益の所領は蟹江城&長島城である。
   

 ●北条勢は滝川勢の首級 3760を挙げ・・・
 戦いに勝利した。
 北条氏は、上野国の奪還に成功した。
 北条氏邦は箕輪城を制圧し、入城した。
 鉢形城&箕輪城の兼任城主になった。





・天正13年(1585)北条氏邦の伝馬次
「金くぼ、斉藤一路に可申」
★斉藤氏は生き残っていた。
斉藤定光の次男一路斎が生き残っていたのだ。
 
※金窪城が改修されたかは不明である。
  
  
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃。
後北条氏滅亡。

後北条氏の旧領には徳川家康が移ってきた。

・天正19年(1591) 徳川家康家臣:
川窪信俊(武田信俊)が金窪が与えられた。
   8000石で金窪城跡に陣屋を構えた。
●川窪信俊・・・武田信玄の弟:信実の子である。
   槍の名手だった(伝)。
  ※天正10年(1582) 武田家滅亡後、徳川家康に仕えて
  安堵された領地が川窪だった。

・寛文元年(1662) 川窪信俊の孫:川窪信貞は武田への復姓
   が許された。

・寛文10年(1670)武田信貞は江戸幕府の大番頭になった。

・元禄11年(1698) 武田信貞が丹波へ加増移封された。
  金窪の陣屋も廃された。


★参考文献
・陽雲寺:さきたま文庫:小野英彦著
・上毛古戦記
・関東古戦録
・清洲城
・箕郷町誌など多数。

★参考サイト
・ウィキペディア






★明日は「第33回青木昇門下陶芸展」かな?

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