箕輪初心★奈佐勝皐(かつたか)『山吹日記』武蔵・上野・下野旅行

★奈佐勝皐は延享2年(1745)に生まれた。塙保己一(はなわ
~ほきいち)に学んだ。天明6年(1787)4月16日~5月23
日まで、国学者:奈佐勝皋は江戸を出発し、武蔵・上野・下
野の三国を旅した。「山吹日記」は名所旧跡の見学・探訪・調
査を記した日記である。
寛政5年(1793)塙は江戸幕府に進言し
て和学講談所を設立し、国学研究の拠点とした。奈佐勝皐は和
学講談所の初代会頭となった。
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箕輪初心★箕輪城126【奈佐勝皐の「山吹日記」の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201404/article_28.html

箕輪初心★『塙保己一』と【「群書類従」の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_33.html


箕輪初心●埼玉【雉ヶ岡城】=上杉顕定の城→北条氏の城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_32.html
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・天明6年(1787)「山吹日記」

●江戸~旧鎌倉上道~武州八幡山(埼玉県児玉郡)
  塙保己一の生まれた場所~
『塙保己一記念館』・・・本庄市児玉町八幡山雉ヶ岡城の
一画にある。
塙保己一(1746~1821)は、郷土が生んだ我が国有数の国
学者である。延享3年(1746)5月に武蔵国児玉郡保木野
村(現本庄市児玉町保木野)に生まれ幼時に失明した。
15歳のときに志をたて江戸に出て雨富検校須賀一の門に
入った。音曲・針治療などの修行に励むとともに、自ら志
した学問の道に進み、萩原宗固や賀茂真淵等に師事した。
その後、学者として名声が高まり、水戸藩の依頼により
「大日本史」の校訂を行った。寛政5年(1793)には幕府に
進言して和学講談所を設立し、ここを国学研究の拠点となし、
屋代弘賢・中山信名・奈佐勝皐等の有能な学者を輩出した。
保己一の業績で最も知られているのは「群書類従」の編さ
んで、古代以来我が国に残されてきた諸家の記録や貴重な
書物の散逸を憂えて、これらを集めて分類・校訂して版木
に起こし印刷刊行した。「群書類従」は我が国の歴史や文学
を研究する上で現在でも大変貴重な資料集となっている。
保己一は文政4年(1821)に総検校となり、同年9月12日
に76歳で没した。
収蔵品 遺品及び歴史資料等、休館日 毎週月曜日・年末
年始、開館時間 午前9時から午後4時30分、入館料 無料
平成19年12月 本庄市教育委員会』
  (★現地案内板説明文より)



◆◆ 山吹日記 ◆◆

・天明6年(1787)4月初旬???
~~~下野国~~~~~~
○佐野


~~~武蔵国~~~~~~
○岩付
後日、掲載予定


○世田谷 
後日、掲載予定


○高井戸

・・・???略????・・・

■4月17日
○河越城・・・太田道灌の話
後日、掲載予定



■4月18日
○・・・入間・比企郡の境・・・

■4月19日

●多田氏宅(泊)


■4月20日
○菅谷城・・・畠山重忠の話
後日、掲載予定


○大蔵村・・・源義賢の話
後日、掲載予定


○坂東??番正法寺
後日、掲載予定


●多田氏宅(泊)

■4月21日
●多田氏宅(泊)


■4月22日
●多田氏宅(泊)


■4月23日
○杉山城
後日、掲載予定


●多田氏宅(泊)

■4月24日

~~~上野国~~~~~~~~~~~~~~~
■天明6年(1787)4月25日

「川を越えれば、緑野郡小林村なり。藤岡宿に出づれば、
家々軒を並べて賑わし。此の所に今宵は宿りつ。」

●藤岡(泊)
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箕輪初心●群馬藤岡編「芦田城」&依田一族の歴史
http://53922401.at.webry.info/201107/article_9.html
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■天明6年(1787)4月26日
○藤岡

○栗須・篠塚(藤岡)
※「篠塚伊賀守」・・・新田義貞の四天王
~~~~泥川~~~~~~~~~~~~~

~~~~神流川~~~~~~~~~~~~
○山名

●根小屋(高崎)「古墳の多い所なり。」

●「城祉あり。聞けば、山名伊豆守義範の城祉
 なり」
 ★山名城
●八幡宮・・・※山名八幡宮

~~~烏川~~~~~

●定家神社

●佐野源左衛門の家

●高崎城下

●「赤坂・飯塚・下小鳥・大八木・中泉・福島・足門
 冷水など、そこらの村を越えて金古になりぬ。」
南下・池端・・・野良犬・・・


●渋川

●渋川金島の華蔵寺(泊)
★鎧の出土地の先・・・





■天明6年(1787)4月27日
△華蔵寺「・・・いと朝いせられぬ。・・・」
★寝坊して、のんびりこいたのだ。

●渋川金島の華蔵寺(泊)



■天明6年(1787)4月28日
△華蔵寺~
○刀祢の河原・・・★三国街道の吾妻川の河原
「・・・大なる石7^8尺なり。・・浅間の山の焼けに・・」
●渋川金島の華蔵寺(泊)


■天明6年(1787)4月29日
△華蔵寺にて、・・・朝からお勉強。
「智積院僧正の正読谷響集読みて・・・」


■天明6年(1787)4月30日
△華蔵寺にて、・・・朝からお勉強。
※道案内人がいなかった。


■天明6年(1787)5月1日
△華蔵寺
○「上野田・小倉など3里ばかり過ぐれば、
 水沢山なり。坂東十六番とかいふ・・・
 ・・船尾山・・大寺にてありし・・千葉の胤正に滅ぼさ
 てより、寺はなし。・・・、山小田に移りし、柳沢寺と・・」

○伊香保の湯
・湯前明神
・「湯浴(ゆあみ)し遊ぶ人多く、・・・」

△榛名湖方面に行った。
 「榛名二つ嶽とぞ聞こゆ。・・・万葉集に
 『伊香保ろの 傍の榛原と 詠みたるは
  この野を いいしらむ 』 とぞ。・・
 ★奈佐は「する須岩伝説も語っていた。」
松平右京の馬鹿堀と言われるするす岩下の掘り
である。
 「水を通して田に濯がん料にて、はた五十間ばかりを
  ほりたるに・・・・」

○榛名沼=榛名湖
★山の説明や木部姫伝説を紹介している。

○榛名神社
※頼印大僧正の話もでてくる。


●榛名神社門前町(泊)・・・社家町の旅籠である。


■天明6年(1787)5月2日
○榛名神社に詣でた。
★武田信玄の様子が細かく説明されている。
 高坂弾正&武田信玄の話である。

●榛名神社門前町(泊)・・・社家町の旅籠である。


■天明6年(1787)5月3日
△榛名神社
○石神村・・・★不明
※頼印大僧正の話が出て来る。
「新田家(義貞)の催しに」
★頼印大僧正・・・観応3年(1352)には上野国榛名山の僧で
あった。後に鎌倉鶴岡八幡宮の僧職になった。歴代鎌倉公方に
仕えた。『頼印大僧正行状絵詞』によれば、小山義政の乱の
際には足利氏満の信任が厚く、祈祷を行った。足利氏満の
後ろ盾により、応安元年(1368)に鶴岡八幡宮社家執事に
なった。応安4年(1371)に榛名山座主を歴任した。
●榛名神社泊


■天明6年(1787)5月4日

○倉渕:落合の道祖神
風戸峠を越えて榛名神社へ通じる参詣路と草津・信州街道の
旧道にある。
「宝暦十辰天極月吉日中原村中」
浮世絵を思わせるような夫婦和合の姿の変わった道祖神
である。
●富岡の一宮:貫前神社泊


■天明6年(1787)5月5日
○富岡宮崎・・・・宮崎和泉守
○宇芸神社
○妙義
●富岡一の宮:貫前神社泊



■天明6年(1787)5月6日
○富岡一の宮

○七日市~曾木~福島~金井~長根~吉井

○吉井「多胡碑」
「領主:長崎弥之助が名主に命じて拝殿を造り、拓本を取ることを
禁じていたこと、
「こがね百匹でまずい拓本を買え。」
と言われたことなどが記されている。

○金井沢の碑
「すへて一里はかりをこえぬれは金井沢にいたれり。この沢水
にそいて、二つの山間を七八町もや来ぬらん、いたうおくま
りたる山陰の賤かふせ屋の庭もせに、神亀三年の古き碑たてり。  
このかたわらより、近きころ掘り出しとかや。  
是も今は八幡宮に斎ひたるは高崎の宮部義正がいいすすめて
かくしたるとそ。相ともに之を摺り得たり。石の面高さひくさあ
りてよくもうつらす。」  

○寺尾の永福寺

○高崎の清水寺・・この付近で野宿。



■天明6年(1787)5月7日
○高崎の豊岡
○八幡の八幡宮
○~~~若田・大島・・・本郷:安養寺・・・
○白岩観音(坂東15番)
○和田山の極楽院で休憩。
 ★箕輪城主・・・・「長野業盛が子なり。」

○保渡田の西光寺

○金古

●野田(現吉岡町)の華蔵寺泊・・・とあるが?
「蕎麦を食った。」

■天明6年(1787)5月8日
○・・榛名神社「頼院記」を読んだ。
○現渋川市川島の甲波宿禰・・・
●金島の華蔵寺泊・・・滞在


■天明6年(1787)5月9日
○金島の華蔵寺滞在
読書三昧~~


■天明6年(1787)5月10日
○金島の華蔵寺滞在


■天明6年(1787)5月11日

○現清里・植野・高井・・・
○現前橋惣社・・・
○旧群馬町の妙見寺・・
○旧群馬町北原・・前橋池之端・・

●金島の華蔵寺泊


5月12日
※渋川市金島の「華蔵寺」から出発
●「乙卯 風少し吹きて空隅なく晴れぬ。・・・・・・
・・・・(中略)・・・・


● 「いざさらばといへばうち連れて出づ。
荒井(渋川市新井)・広馬場(榛東村)・柏木(高崎市
箕郷町)などを過ぎぬべし。」
★高崎市箕郷町柏木沢・・・

● 「矢原はいとも高きところにありて、高崎あたりは更に
も言はず、江戸の方まで見遣りぬべし。」

★高崎市箕郷町矢原・・・

● 「玄冲この村の名主がり伴なひ行きてこの導きせさす。」 
★高崎市箕郷町矢原(原中)・・・

●「右の方に龍門寺あり。これは在五中将の流浪(さすら)
 へきまして、住みたまひしところなり。在五中将は在原業
 平ことである。」

★①在原業は平旧高崎の長野地区の北部:浜川道場と行力、
 そして、箕郷の下芝地区・・・簡単にいうと、現高崎市箕郷
 町のカインズホームを中心とした半径1km?の地域で
 「青木庄」と呼ばれている地域である。
 しかし、在原業平が高崎に来た情報は全くない。
 現在では、「青木庄」自体あったか不明である。
 伊勢から~~~旅をしたのでしょうかねえ?
★②龍門寺は箕輪長野氏3~4代の鬼門の寺である。

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★③長野業政の侍大将:安藤家の菩提寺である。
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箕輪初心★箕輪城117【長野家侍大将:安藤九郎左衞門】
http://53922401.at.webry.info/201402/article_12.html

★④井伊直政の母の再婚相手:松下家3代の墓がある。
ちなみに、松下家は木下藤吉郎=豊臣秀吉が一番先に
仕えた主君である。
★⑤龍門寺の白あんは、慶長3年(1598)井伊直政が箕輪城
から高崎城に移る際に
 「松ヶ崎という名前では、松が枯れるので、高崎にしまし
 ょうね。」
 といった和尚様である
★⑥小栗上野介の殺害し、いい加減に申告し、岩鼻県初代県令
 になった人物であるが、近江小谷の出身なのに、3年間
 も龍門寺に居候をしていた。



●「箕輪の城主長野氏はこの人の末なりと言ふなりも
 方々由あり。」

★現在16の家系図がある。・・みんな自分の家が宗家
 だと言う。

●「名主が言う。『ここなる寺に平将門の鞍てふもの
 ありなんある。おわしして。』と案内す。
★平将門は「染谷川の戦いをしているので、
 高崎市旧群馬町国府までやってきているが、
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箕輪初心●茨城坂東市【逆井城】&『平将門の乱』  
http://53922401.at.webry.info/201403/article_9.html
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● 「これは万松山とて曹洞の梵院なり。折しも座主はあり
 ざりけれど、名主沙汰し、出して見せぬ。黒塗にていと
 大きやかなる鞍の前後の輪ことに高く、居木のみは今の
 と異なたねども、そり深く、雉股の形のなべてのとはの
 違ひて珍らかになん見ゆる。げにきのありぬべきののの
 様なり。」


● 「箕輪の城に至る畠中に男一人ゐたり。これなむよく
 知りたりとて、それに案内させす。この男こまやかに
 さへずる。そがいふままに・・・に西門の跡よりぞ
 登る。」

★道具屋敷=どうぎと呼ばれる地区から行ったのであろう。
 大手虎蹈門に当たる場所であろう。


● 「いと高く、三重なる上に今一つ廻れるところあり。」
★鍛冶曲輪→三の丸下の腰郭→三の丸→二の丸に
 行ったのであろう。

● 「おおよそ武蔵なる深谷の城ばかりやあらん。」
★奈佐は4月20日に深谷の城=菅谷城に行っている。

★このあと、二の丸→大堀切りの土橋→郭馬出を
通ったのであろう。


● 「近き世の事なれば、矢倉の台などの土などまだ崩れず、
 なほ在りしながらに家士の住まひせし跡もありありと
 その姿のこれる。」

★慶長3年(1598)に高崎城へ・・天明6年(1787)だから、
 189年後かな?
★矢倉の台とは、木俣の出っ張り部分では
 ないだろうか?

★家士の住まひせし跡・・井伊直政の第1家老:木俣守
 勝の住居あとであろう。
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箕輪初心●箕輪城シリーズ57「木俣守勝=箕郷・高崎
・彦根の発展に寄与」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_1.html

● 「西南の方は壁を立てたりやうにて登るべくも見えぬ
 高き上の並たてる木々こがくれに、かほどりのうら
 なきをるも何となく心ありがほに聞きなされぬ。」

★榛名白川の河岸段丘は高さ10m程の直角の崖である。
★脇屋真一先生は「郭公かっこう」のことであるという。


● 「見下ろす下に山河のめぐり流るる甚(いみ)じう早し。
水のひんがしに流るるを見ゆ。とうちすして、たに」

★榛名白川から引いた祭戸用水のことであろう。


● 「内郭の間に二つ石あり。かの男がいう。
 『先つ頃、高崎の殿の仰せありて庭の立て石にせんと
  運びし給ひけるに、一夜のうちにまた帰りきたれば、
 さは惜しみ給ふよとてその後かくて候ふなり。』とぞ。」
★箕輪城内に古墳が2つある。
 一つ目は法峯寺の東付近にあるが、藪が凄く未だ行っ
 ていない。
 二つ目は椿名山にあった石かもしれない。
 木俣からは椿名がよく見え、先に関東平野の広がりが
 よく見える。


● 「この城の固めに思ふに、さしも猛き甲斐勢の攻めあ
ぐみたるも理とみゆ。されど、東の方なる道は思ひのほ
 かになだらかにおりくるもいと易し。藤井豊後守友忠
 見すとて沼のあたりをめぐりしとある。いづくにかあ
 りけん。今は沼もなし。もしはこの下の方、法峯寺の
 あたりに昔ありけん。」
★武田信玄はこの城を落とそうと考えてから9年かかった。
蓑輪軍記・・・長野右京進(長野氏業=長野業盛)が老臣
藤井豊後守友忠物見より出かける。勝頼少年18歳、藤井
目がけ、榛名山の沼端まで追っかけ大音上げ、只今見えし
は豊後守友忠、返し合わせ勝負せよ。武田勝頼なり。・・

● 「長野左衞門業正は上杉の家に仕えし人なり。彼の家管
領職を失ひたる後、なほまめまめしうのみ物して、武蔵の
岩付なる太田三楽斎とむげにうらなく互いに助けあひたり。
さはいえど、その子左京亮業盛が時、永禄6年2月22日
つひに甲斐の信玄の手に城落ちて、十あまりの城みな降り
従ひぬとかや。」

★長野左衞門業正・・
★太田三楽斎・・・・太田道灌の孫
★箕輪城の落城は現在では、永禄9年9月29日が通説
 である。

● 「この城は榛名明神の山の峯先を切りて築き構えたり。
その形は箕の手に似たれば名付けたる由、箕輪記、兵乱記
などに言へり。」


● 「ひんがしの方より望み見れば、げにさる姿に美ゆめり。
彼の山より5~6里ばかりへだたれど、なおその峯さきな
りけり。さるを関東兵乱記に椿名といへるは書き違えたる
ならんと思へど、延喜式にも椿名のやしろあり。頭注の説
もて思へば、一つの山のことと聞こゆども、 この少し東
にの方に椿山ありと聞けば、猶あふどかにもえすぐさで殊
さらに詣でぬるは、わが例のこの方におもりかならぬひた
たけさなめりかし。」

★関東兵乱記・・「箕の手に似たればとて、箕輪と名づく。」
★箕輪軍記・・・「榛名山の尾崎掘り切りを築きたる城の
南表は蓑に似たるとて、蓑輪と名付けたり。」
★頭注の説・・・吉田兼好の父:吉田兼俱は「榛名神社」
と記した。


● 「山伝ひをしつつ7~8町ばかりや来なん。城の方より
やや低く木立のしげりあひたる中に、伊勢大明神と申して
祠あり。新殿に一座おわします。その下に例の石室にてや
あらんとおぼえて、端のくづれより、はつか石なん顕はれ
見ゆる。もし誠にさるもなならば、人をいさめし所なるべ
し。石室造りてし昔の世は式社などは別きていかめしうて
おはしけんを、いかにぞや葬(はなむけ)などすべきあら
んやは。しかのみならず、是ははななか城山のをさきなる
ものを、よしやそれを城を攻むるとて多く切り崩して今は
かくれなれぬきか。されど名におふ山を武田軍の一つちか
らもて、かくまでいかでかはせむ。或るはこの辺りの山に
もとおはしたるを、近き頃ここに移したりけるやらん。或
るは彼の石室のごと見ゆる、さはあらぬにやあらん。とに
かくにつけて大方は榛名の方にまされるに似たり。矢原の
主はこれより帰りぬ。」

★山が2コブあって、椿山の古墳→法華寺?であろう。
 もう一つが津波岐那神社(←椿山)であろう。現在は
 東向神社の社領になっている。

●井伊直政が箕輪城→高崎城・高崎城下町に移した物
○「松ヶ崎」は松が枯れるので縁起が悪いと龍門寺の白庵
 和尚に言われ、高崎に改称。
①箕輪城大手門・・・→高崎城の槻木(つきのき)門
②11の寺+3寺・・石上寺・正法寺(現在妙福寺)
 ・慈上寺(長野業政時代の修験道の寺=スパイ)
 ・大雲寺・法華寺(椿名)・慧徳寺・安国寺・大信寺
  (後徳川忠長の墓)・金剛寺・龍広寺・延養寺
③5の神社・・津波岐那神社(←椿山)
   ・布留明神(←石上寺)
   ・八幡宮(←真応寺)・上諏訪神社・下諏訪神社
④家臣団(約5000の武士団の家族/工業系の職人/商家/民家)
⑤町名・・・・・・連雀町・田町・紺屋町・鍛治町

(★南より眺める椿山・・・西明屋で矢原の南)
 

● 「明屋といふは箕輪の町なり。」

★高崎市箕郷町には東明屋・西明屋の町名があるが、
 「空き屋」が転化した呼び名であると言われている。
 現在でも城下町の風情が残っている。

● 「酒商ふ下田喜左衞門といふ。この頃井を掘りけるに
あやしき物見つとて2つ取う出て黒みたる男の髭こちたく
生ひたるがひらひらきゐて事の由語る。一つは武蔵の月よ
り出でたると違ひなし。今一つは目なれぬ形なり。この
男は箕輪の郎従下田大膳昌勝と聞えしが後にて、今国の
内に名を得たる。焼太刀の稜(かど)打ち放つますらたけ
をなりとぞ。」子健つらつらうち見つつ、『誰か不平のこと
あらん。』と戯れ口遊めれば、『なでふ、こどごとしや。』
とて笑ふ。
★現在の箕郷支所&中央公民館の場所は全て下田
 家の土地であった。下田邸の庭園は堀部安兵衛
 作と言われている。
箕輪初心★高崎の【堀部安兵衛】ゆかりの地&安兵衛の生涯
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201211/article_5.html


★長野業政の家老衆
①第1家老・・・藤井豊後守友忠
②第2家老・・・下田大膳昌勝
③第3家老・・・長塩(★長野業政の親戚)
④第4家老・・・矢島久右ヱ門
★永禄元年(1558) の箕輪城着到帳
【一ノ執権】
藤井豊後守友忠(浜川城主)(★長野業政の叔父)
【家老四家城詰衆】
下田大膳太夫正勝
内田因幡守頼信
大熊備中守高忠
八木原下総守信忠(★長野業政の親戚)

★下田家は江戸時代には安房勝山藩の酒井家の飛び地
 現高崎市箕郷町白川陣屋の代官だった。

● 「今日も風吹きたり。生原をいでてふたたび保渡田の
西光寺にゆく。往時の法師今日も箕輪にと聞ゆる。あや
にくなりや、いかさまにかほせん。いでこの名主には
かりてんとて道士と葛西氏を打つつれてゆく。その間に
子健石棺の形更によく写さんと聞ゆ。この名主さへに
物へ行きたりとてその子をゐて来たり。人を走らせて
和尚呼びかへしてんといふ。それもあまりことごとし、
道士今宵極楽院がり明日更に来てと聞ゆれども、又の
一日しを延ばへてんが侘びしさに、『今はさておはせ。』
と言ひてやみぬ。」
★生原→善龍寺前→保渡田城の中→西光寺で
 あろう。西光寺は保渡田古墳群の一つ:薬師塚
 古墳である。現土屋文明記念文学館の西隣に
 ある。
★極楽院は現高崎市箕郷町和田山にある。
 武田信玄に攻められ、自刃した長野業盛=
 氏業の子:亀寿丸の落ち延び先である。
 武田信玄も徳川家康も庇護した寺である。
★関係ないけど、西光寺の先々代は父方の遠い親戚
 である。母の産まれた家から150mしか離れていない。


■天明6年(1787)5月13日
○津久田(旧赤城村津久田)
○渋川市川島
○渋川市旧子持:白井城・・・長尾氏の話
○子持の双林寺


■天明6年(1787)5月14日
○岩井堂


■天明6年(1787)5月15日
○赤城の宮田

■天明6年(1787)5月16日
○本読んで、蕎麦食った。

■天明6年(1787)5月17日
○本読んだ。

■天明6年(1787)5月18日
▲赤城山



■天明6年(1787)5月19日
○赤城沼付近泊

■天明6年(1787)5月20日
○桐生

○太田金山城を見ながら・・・

○館林

●栃木の足利・・・
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箕輪初心◆【足利初代~8代足利尊氏】&栃木:足利氏館3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_6.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201312/article_6.html



★参考文献・図書など
・註解山吹日記:脇屋真一著定価:1,050円
・『群馬県史料集』6日記篇2奈佐勝皐「山吹日記」
・『群馬県史通史6近世』P506



★明日は?
★明日は

この記事へのコメント

新米です
2015年02月19日 09:42
金島の華蔵寺は間違いです。
吉岡町下野田にある華蔵寺です
現在も修験の寺として存続しています。
新米さんです。さんへ
2015年02月19日 19:24
凄い発見です。群馬の古文書館&脇屋真一先生の本しかありませんが、凄いです。・・地元の方でしょうが、凄いです。私自身、想像した部分もありますので、・・・
ありがとうございました。

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