箕輪初心★『塙保己一』と【「群書類従」の箕輪城】

塙保己一博物館は本庄市旧児玉郡の雉ヶ岡城跡にある。
塙保己一は「はなわ ほきいち」という名であると知った
のは、塙保己一博物館を訪れた時であった。それまで、高校
生~30年以上も塙保己一を「はなわほ きいち」という名
前で呼んでいた。『群書類従』『続群書類従』の編纂者とし
て有名である。
先日のブログで書いた奈佐勝皐(かつたか)
も弟子である。「群書類従」の中には、箕輪城の長野業政の
子:業盛の辞世の句もある。
生家(埼玉県本庄市)は国史
に指定されていた。ヘレン・ケラーは「塙保己一を手本に
しろ。」と両親より教育されていていたという。
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箕輪初心★箕輪城126【奈佐勝皐の「山吹日記」の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201404/article_28.html

箕輪初心●埼玉【雉ヶ岡城】=上杉顕定の城→北条氏の城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_32.html
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【1】 塙保己一記念館
■訪問日・・・平成20年(2008)5月30日
埼玉県の本庄市の散策に来た。雉ヶ岡城・塙保己一・御嶽
山城・本庄宿・本庄城に行った。
●『塙保己一記念館』・・・本庄市児玉町八幡山雉ヶ岡城の
一画にある。入場は無料であった。
「塙保己一(1746~1821)は、郷土が生んだ我が国有数
の国学者である。
延享3年(1746)5月に武蔵国児玉郡保木野村(現本庄市
児玉町保木野)に生まれ幼時に失明した。
 15歳のときに志をたて江戸に出て雨富検校須賀一の門に
入った。音曲・針治療などの修行に励むとともに、自ら志
した学問の道に進み、萩原宗固や賀茂真淵等に師事した。
 その後、学者として名声が高まり、水戸藩の依頼により
「大日本史」の校訂を行った。
寛政5年(1793)には幕府に進言して和学講談所を設立し、
ここを国学研究の拠点となし、屋代弘賢・中山信名・奈佐勝
皐等の有能な学者を輩出した。
保己一の業績で最も知られているのは「群書類従」の編纂
で、古代以来我が国に残されてきた諸家の記録や貴重な書物
の散逸を憂えて、これらを集めて分類・校訂して版木に起こ
し印刷刊行した。「群書類従」は我が国の歴史や文学を研究
する上で現在でも大変貴重な資料集となっている。
 保己一は文政4年(1821)に総検校となり、同年9月12日
に76歳で没した。
『平成19年12月 本庄市教育委員会』
  (★現地案内板説明文より)

●館長の話
「群書類従は、昔の埋もれた手紙・話などをまとめた25種
 に分類したものである。」



【2】塙保己一の生家と墓 
・延享3年(1746) 5月5日(16月23日)
~文政4年(1821)9月12日(=10月7日)
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【3】 「群書類従」の中の箕輪城
箕輪城語り部の会岡田:会長・・・
 塙保己一「群書類従」からの出典確認(群馬県立図書館)。
 2009年3月?
 群書類従の中には、箕輪城の長野業政の子業盛の辞世の句
 もある。 
 ・永禄9年(1566)9月29日
  「陽(ハル)風に 氷肌(ムメ)も桜も ちりはてて 
   名にそ残れる みわの郷かな」
 


 ・長野業盛の墓の碑(旧群馬町:高崎北高北200m)
   ・・・・「長野業政墓喝会の建立」
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 *長野業政墓喝会
 「長野業政と知己であった井出の大円寺の旅の僧「法如上人」
  が埋葬した。」

 *箕輪城語り部の会斎藤さん
 「箕輪軍記」は保渡田西光寺の僧が江戸時代に書いた物で、
  句自体この僧がかわいそうに思って作ったらしい。業
  盛が詠んだ辞世の句がどうかも不明である。 





★★ 塙保己一の生涯 ★★
・延享3年(1746)
 武州児玉郡保木野村(現埼玉県本庄市児玉町保木野)
 に生まれる。
 荻野(おぎの)氏の出自・・・・。
   父は荻野宇兵衛、
   母は藤木戸村(現加美郡木戸村)の名主:斎藤理左衛門の
   娘きよ。
   弟は荻野卯右衛門。

  幼少・・・身体はあまり丈夫ではなかった。
  草花を好み、非常に物知りであった(伝)。

・宝暦元年(1751) 5歳 胃腸病にかかった。
~~~徐々に視力が弱っていった。

・宝暦2年(1752) 7歳 失明。
 修験者:正覚房が
「生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らない。」
 と進言した。
 しかし、視力が戻らなかった。
 名前を「荻野辰之助」と変えた。
 年を2つ若くした。
 

 正覚房に弟子入りした。
 「多聞房」という名をもらった。
 手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。
 和尚や家族から聞いた話を一言一句違わずに語ることが
 できたほど、物覚えが良かった(伝)。

・宝暦5年(1755)10歳
  江戸で学問を学びたいと考えるようになった。
 

・宝暦7年(1757) 12歳
  母:きよが過労と心痛で死去した。
 
・宝暦8年(1758) 13歳
  江戸で学問をしたいという気持ちがさらに募っていった。

・宝暦10年(1760) 15歳(13歳?)
  荻野辰之助(保己一)が江戸に出た。
  ※名奉行:根岸肥前守&男谷検校(保己一)伝説
  もある。

  永嶋恭林家の江戸屋敷のもとに身を寄せた。
 
  約3年間を盲人としての修業をした。

・宝暦12年(1762) 17歳(15歳?)
  当道座の雨富須賀一検校に入門した。
  名を「千弥」と改めた。
  按摩・鍼・音曲などの修業を始めた。
  しかし、不器用で上達しなかった。
  金も払えなかった・・・自殺しようとした。
  雨富検校に学問への想いを話した。
  「3年間たっても見込みがなければ、国元へ帰す。」
  という条件だった。

  旗本:高井大隅守実員の奥方に、『栄花物語』40巻を
  貰った。

雨富検校は、千弥=保己一に学問を学ばせた。
  ①国学・和歌・・・萩原宗固=百花庵宗固
雨富検校の隣人の旗本:松平織部正乗尹が講義を受け
   ていた萩原宗固の講義をともに聞くことになった。
  ②漢学・神道・・・川島貴林
   萩原宗固の紹介で川島貴林(たかしげ)に教わる
ことになった。
  ③法律・・・・・・山岡浚明
   律令を山岡明阿(みょうあ)に学ぶことになった。
 
・宝暦13年(1763) 18歳(16歳?)
衆分になり、名を「保木野一」と改めた。
  ④医学・・・・・・品川の東禅寺
 
保木野一は人が音読したものを暗記して学問を進めた。
  雨富須賀一は保己一の学才に気付いた。

・明和3年(1766) 21歳(19歳?)
保木野一は雨富検校より旅費を貰って、父と一緒に関西
 の旅に出た。
 伊勢神宮、京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山
  などと60日の旅をした。

・明和6年(1769) 24歳(22歳?)
⑤国学・・・賀茂真淵に入門した。
    『六国史』などを学んだ。
  ※10月、賀茂真淵が死去。
    教えを受けたのはわずか半年であった。

・安永4年(1775) 30歳(28歳?)
  衆分から勾当に進んだ。
 保木野一は雨富須賀一の本姓「塙」を姓にした。
 名も千弥→保木野一保己一と改めた。
「塙 保己一」となった。

・安永8年(1779) 34歳(32歳?)
塙保己一は『群書類従』の出版を決意した。
  
・安永9年(1780) 35歳(33歳?)
  塙保己一は検校職に進むことを決心した。
  心経百万巻を読んで精進した。
  天満宮に祈願した。

・天明3年(1783) 38歳(36歳?)
塙保己一は検校となった。
※塙保己一は学問の神:菅原道真と百姓:豊臣秀吉を
尊敬していた。

・天明4年(1784) 39歳(37歳?)
⑤和歌・・・ 塙保己一は閑院宮:日野資枝(すけき)
       に学んだ。


★★★弟子・・・・
①平田篤胤・・復古神道の大成者。水戸学の支柱。
②安藤野雁・・「万葉集新考」の著者。
③頼山陽・・・「日本外史」の著者。
④中山信名・・「新編常陸国誌」の著者。
⑤石原正明・・温故堂学頭。「群書類従」「類聚国史」編纂。
⑥屋代弘賢(ひろかた)・・先祖は信濃屋代城主→旗本。
       和学講談所の会頭。
⑦松岡辰方(ときかた)・和学講談所の会頭。「群書類従」編纂。
⑧長野美波留(みはる)松代藩士。「群書類従」の校正担当。
       和学講談所の歌学教授。
⑨奈佐勝皐(かつたか)=日下部勝皐・・「山吹日記」の著者。
  ・天明6年(1787)奈佐勝皐は「山吹日記」を著した。
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箕輪初心★箕輪城126【奈佐勝皐の「山吹日記」の中
の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201404/article_28.html
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などが特に有名な学者である。

????水戸藩の依頼で「大日本史」の校訂を行った。
★中山信名や平田篤胤が大きく関わったのであろう。


・寛政5年(1793) 43歳(41歳?)和学講談所を設立。
  江戸幕府に進言して、国学研究の拠点とした。
  奈佐勝皐は和学講談所の初代会頭となった。
 和学講談所で会読を始める。
  記録や手紙など様々な資料を蒐集した。
  また、歴史史料の編纂にも力を入れた。
  ・・・・『群書類従』である。 
 
・寛政7年(1795) 50歳(48歳?)
塙保己一は盲人一座の総録職となった。

・文化2年(1805) 60歳(58歳?)
  塙保己一は盲人一座の10老となった。


・文政4年(1821) 76歳(74歳?)
  2月  塙保己一は総検校になった。
  
 9月12日塙保己一が死去。享年74歳?
  ※和学講談所は4男:塙忠宝に引き継がれた。

・文政6年(1861)か文久元年(1861)
『群書類従』666冊が完成した。
  塙保己一の死後、40年後であった。

・明治元年(1868) 6月まで編纂
   ・・・75年間続いた。

・大正11年(1922)
『続群書類従』1885冊を編纂した。 
 塙保己一の死後、101年後であった。

・現在・・和学講談所は東京大学史料編纂所として
    引き継がれた。
    『史料』編纂が続けられている。


★参考図書資料
奇跡の人 塙保己一:堺正一著 
塙保己一の生涯:花井泰子著 
雉ヶ岡城跡:塙保己一記念館の資料


★参考サイト
・ウキペディア



★明日は本庄城かな?

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