箕輪初心●群馬【平井城前編】:関東管領8代上杉憲実~16代上杉謙信

関東管領:上杉家の城は群馬県藤岡市の『平井城』であ
る。平井城には4回行っている。永亨10(1438)~初
代:上杉憲実が築城(総社長尾忠房が築城)し、→憲忠
→房顕と続いた。文正元年(1466)4代上杉顕定が3の
丸・総曲輪の拡張工事をした。そして、詰め城として『
平井金山城』を造った。その後、上杉憲房が入城した。
上杉憲政の代には、「加沢記」によれば、「黒書院は1000
人が会食できた。」「42の支城があった。」「城下町は3里
で、傾城(白拍子・遊女)は300人いた。」という。永禄3年
(1560)長尾景虎(翌年上杉政虎)は厩橋に関東管領の城
を移した。平井城は122年間、関東の中心都市であった。

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箕輪初心●群馬「平井城」=関東管領:上杉憲政の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html

*******関東管領:上杉家関係***************************

箕輪初心★山内上杉16代①「初代~7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉
憲英~
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

箕輪初心★上杉家②『8代:憲実~9代:憲忠~10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html


*********上杉顕定の関係****************************
箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

*********上杉顕定の死********************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
★長尾為景の協力者:佐渡本間家が上杉顕定を倒した。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
★上杉顕定の管領塚=戦死した場所


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■訪問日・・・平成26年(2014)5月27日
【1】長野堰を知らせる会:中嶋宏氏が来訪
【2】高崎箕輪城→
【3】高崎市旧倉渕村:東禅寺「童門冬二氏の講演会」
 ★凄すぎる。童門氏は 
 坂本龍馬&勝海舟を高く評価していないのが、気に
 いった。だって、私はふざけた野郎だぜ。坂本龍馬
 &勝海舟と思っている。
 それ故、ブログには英雄として書いていない。
 東京人・高知人にが申し分けないが、するく立ち回って
 運が良かった人間=英雄視された人間としか思えない
 のである。今回は私の鬱憤を晴らすような講演会であ
 った。・・・しかし、ブログにまとめるほどの時間的
 余裕はない。・・・

【4】平井城4回目
○倉渕~藤岡は30km程ある。
ナビのセット場所が違っていた。西平井であった。

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○平林川・・★外堀代わりである。
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①総郭・・・★上杉顕定が造った。
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②総郭&3の丸の境
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●矢島さん宅?・・★ガイドの家か敷地か?
パンフレットをいただきました。
★教わりたかったがいない。
ガイドの話を聞かないと、多くの部分で
歴史や城の特殊性が分からないからである。
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③三の丸・・表示。★上杉顕定が造った。
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●車を本丸駐車場に駐めた。

④二の丸・・本丸の南にある。一段高い場所にある
道路をはさんで右手=南が二の丸。
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二の丸は現在畑。
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・本丸を望む
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⑤本丸
・土塁の上に「関東管領平井城」の旗が見える.。
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・左手が本丸址。
 左手の本丸址に入るとすぐ虎口。

・櫓台の上へ
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・高山城が見えた。
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・平井金山城が見えた。
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・本丸内部
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・案内板・・5枚
 芝生の端には関東管領の歴史、史跡案内の看板、近くの史跡、
 上杉氏の歴史、上杉管領祭りなど。
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・奥には看板、碑、歌碑、供養塔・・・。
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・眼下には、崖の下の方に曲がりくねった鮎川。
でも藪で見えなかった。・・・
 
 その先には、北条軍が陣を敷いた東日野金山城が見えた。
でも、眺めがよくない。

 高山城も見える。

⑥下の曲輪・・・豚小屋の東
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⑦仙蔵寺・・・自転車が転がっていた。


⑧常光寺・・・4代:上杉顕定の開基。
平井城ボランティアガイド:片山さんにあった。
 「荒陣掘」の説明・・・・良かった。



⑦荒陣掘=庚申掘・・・幅17~18m。
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・地元ガイド:片山さんと15分程話した。
犬が先に行こうって・・
★やっぱり、現地ガイド・・・楽しいね。

⑦平林川・・・掘の役目をしている。


○車で移動・・

⑧円満寺・・・初代:上杉憲実の開基。
  供養塔があった。

●金山城・・・平井城の背後の山(標高331m)あった詰城。
■訪問記・・・山城の一部分では石積みが検出。
平井金山城は山内上杉氏の重要な拠点であったと推測される。
 (★藤岡市「みどりの市」教育委員会)



~~~上杉家~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
①重房→②頼重→③憲房→④山内上杉憲顕→⑤憲方→
⑥憲定→⑦憲基→⑧憲実→(清方)→⑨憲忠→⑩房顕
→⑪顕定→ ⑫顕実→⑬憲房→⑭憲寛→⑮憲政→
⑯長尾景虎=上杉政虎=上杉輝虎=上杉謙信)と、
山内上杉家の歴史は16代:上杉謙信まで続いた。


関東管領:上杉家の平井城には、
⑧憲実→(清方)→⑨憲忠→⑩房顕
→⑪顕定→ ⑫顕実→⑬憲房→⑭憲寛→⑮憲政→
⑯長尾景虎=上杉政虎=上杉輝虎=上杉謙信)
の9人が入したことになる。

■■ 関東管領の城【平井城の歴史】 ■■

【1】初代:上杉憲実(在任:1419年~ 1439年)
・永亨10年(1438)永享の乱
  第4代鎌倉公方:足利持氏 VS  6代将軍:足利義教
関東管領:上杉憲実は持氏を諌めた。
 足利持氏が上杉憲実を暗殺される風説が流れた。
 関東管領職を辞した。

 鎌倉公方足利持氏VS関東管領上杉憲実   
  身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃亡。
 ※通説では上杉憲実が家臣;長尾忠房に築城させた。

 足利持氏が上杉憲実追討のために兵を起こした。
 上杉憲実は武蔵府中に陣を構え、足利幕府の命を
 受けた小笠原氏と連合した。
 足利持氏を自害させ、鎌倉府を滅亡させるまでに至る

・永享12年(1440) 結城合戦
下総の結城氏などが持氏の遺児を奉じて反乱を起こした。
 鎮定に協力するために復職する。

 その後、上杉憲実は遁世・・・
・嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱
足利義教が暗殺された。
 足利幕府は上杉憲実に関東管領復帰を命じた。
 隠居していた上杉憲実は甥で越後守護:上杉房朝に
 預けていた次男:上杉房顕を除く子供達に出家させた。
 上杉清方を関東管領として認めざるを得なくなった。


・文安元年(1444) 上杉清方が死去。
  ~~~山内上杉家の家督と関東管領の地位が空白にな
  った。~~~~
 上杉憲実は山内上杉家の血を引く佐竹実定を後継者に指名し
 た。



【2】2代:上杉憲忠(在任:1447年~1454年)
・文安4年(1447) 鎌倉府再興・・・
  
・文安5年(1448) 長尾景仲らが上杉憲忠の家督を支持
  した。11月には、関東管領に就任するに至った。

・宝徳元年(1449) 足利持氏の遺児:永寿王=足利成氏
  が鎌倉公方として復帰した。
  
 上杉憲忠が東国支配を受け持つことになった。
   鎌倉府:足利持氏 VS 関東管領:上杉憲忠
 
・享徳3年(1454) 享徳の乱
 上杉憲忠は足利成氏の鎌倉の西御門邸に招かれた。
 上杉憲忠は、足利成氏の命を受けた結城成朝の家臣:
 多賀谷氏家・高経兄弟によって謀殺されてしまった。
 享年22歳。
 足利成氏が関東管領:上杉憲忠を暗殺したのだ。

 足利成氏は足利幕府から派遣された駿河守護:今川
  範忠に鎌倉府を追われた。
 足利成氏は古河を座所とした。古河公方を名乗った。
 ※足利成氏と関東管領・上杉顕定の間で和解が成立するの
  は28年後であった。



【3】3代:上杉房顕 (在任:1455年~1466年)
・享徳4年(1455) 
3月 関東管領に任命された
    足利成氏の討伐軍の大将として関東へ下向した。
 4月 上野平井城(現群馬県藤岡市)へ入った。

~~~~~堀越公方~~~~~~~~~~~~~~~
・長禄元年(1457) 堀越公方の成立
室町幕府8代将軍足利義政 VS 古河公方:足利成氏
  天龍寺で僧籍:異母兄の足利政知を還俗させた。
・長禄2年(1458)足利政知が正式な鎌倉公方として送った。
  しかし、鎌倉に入れず。堀越公方となった。
 足利政知の補佐役として上杉教朝・渋川義鏡が任命された。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・長禄3年(1459) 武蔵太田庄の戦い
上杉房顕は足利成氏軍に大敗を喫した。

・寛正4年(1463) 山内上杉家の家宰:長尾景仲で死亡。
  上杉房顕は関東管領の辞意を表明した。
  しかし、足利義政に拒絶された。

・寛正7年(1466) 上杉房顕五十子の陣で死亡。享年32歳。

 関東管領は従兄弟の甥:越後の上杉顕定が継いだ。




 
【4】4代:上杉顕定 (在任:1466年~1510年)
・文正元年(1466)関東管領上杉顕定が平井城を拡張した。
4代上杉顕定が3の丸・総曲輪の拡張工事をした。
 そして、詰め城として『平井金山城』を造った。
 ★平井金山城・・平井城の背後の山(標高331m)
  に詰め城を築いた。

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箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html
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・文明7年(1475)~文明8年(1476)
  長尾景春が 武蔵:鉢形城を築城(伝)

・文明9年(1477)~長尾景春の乱
  最大の五十子の戦いである。
五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。
 
 庶流の扇谷:上杉家の家宰:太田道灌の活躍により、
 扇谷:上杉家が山内上杉家に迫る勢力を見せた。

・長享元年(1487)長享の乱
上杉顕定が扇谷上杉定正への攻撃を開始する
  18年続いた。
 結果・・上杉顕定の勝利した。
 50年にわたった戦乱で関東はすっかり荒廃した。
 
・長享2年(1488) ?太田道灌が殺害された。
 
・明応3年(1494) 上杉顕定は東国における「古河公方&
  管領体制」の再構築を図っていた。
  特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎えた。
  密接な関係を築いた。
  上杉顕実は上杉憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な
  家督後継者に据えられたと考えられる。
(★久保田順一先生の講演会)
  
・明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。
 7月 宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を
    攻略した。
   結果・・相模の西郡は「一変」した。

・明応6年(1497) 上杉顕定は河越城に対する前線基地
   として武蔵上戸(現河越館跡)に陣を置いた。
   古河公方:足利政氏を招いた。
   足利政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
  上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能
  した。

・永正元年(1504) 立河原の戦い
駿河守護:今川氏親&伊勢宗瑞(北条早雲)
  VS
   上杉朝良
結果・・・上杉朝良 2,000人余りの死者を出して大敗。

  しかし、越後上杉家の援軍を受けて反撃に転じた。

・永正2年(1505) 今川&北条が上杉朝良の河越城を攻撃。
  結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に
  和睦した。


・永正2年(1505) 長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。

 上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。

 長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
 長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。

・永正4年(1507) 関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護
:上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に
八海山の麓で殺害された。


・永正5年(1508)北条早雲は越後栖吉城:長尾為景
 &武蔵:鉢形城:長尾景春(伊玄)と結んでいたため、
 これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。


・永正6年(1509)
7月、古河公方の内乱を収めた。
  上杉顕定は養子:憲房と共に越後に攻め入った。
  上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の
  弟の弔い合戦のために、越後上田庄(新潟県六日町)に
  遠征し、長尾為景を府内(上越市)に退却させた。

  長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国(富山)
  に追放した。
  越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図
  があったと考えられている。

・やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
 武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。

 
・永正7年(1510)6月権現山の戦い
 北条早雲は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に
 寝返らせた。
 上田政盛が権現山で蜂起させた。
 北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅か
す打ち込む形をとった。

 ところが、扇谷上杉朝良は今まで対立していた山内上杉
 顕定の養子憲房と和解する。
上杉顕定は武蔵に引き返した。
 
 そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。
7月19日、10日余の激戦・・・
両上杉氏は権現山城を落とした。
権現山城に籠もった上田蔵人政盛は
「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた」とある。
本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。

 ・伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城まで撤退した。

 そして、上杉顕定は再び、長尾為景を討つため越後に
 行った。 

・伊勢宗瑞(北条早雲)は三浦半島の制圧した。
やがて、権現山城を攻略した。多米周防守が
城将となった。
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箕輪初心●神奈川:【青木城】&神奈川宿
http://53922401.at.webry.info/201210/article_10.html
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・永正7年(1510) 長者原(新潟県六日町)の戦い
  長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、
  長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
  上杉顕定は長野為景の信濃の援軍:高梨政盛に敗北
  し、自刃。享年57歳。

※越後(現六日町八海山麓)の管領塚
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箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺
・雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html

箕輪初心◆2013年スキー№1【宝台樹スキー】&【水上石倉城】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_5.html

箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間→酒田本間家日本一の地主へ
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
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上杉顕定死後、上杉顕実が関東管領を継いだ。
  
 越後から帰還した上杉憲房VS 上杉顕実(足利政氏の子)
 結果・・・山内家の衰退に繋がった。


※扇谷上杉家が堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)
 を関東に招き入れた。
 後北条氏の台頭のきっかけを作った。



【5】5代:上杉顕実 (在任:1510年 ~ 1515年)
上杉顕実は、戦古河公方初代:足利成氏の次男で
 ある。2代目足利政氏の弟である。

・永正7年(1510) 上杉顕定の死後、山内上杉氏を継ぎ
  関東管領を継承した。
  2番目の養子*上杉顕実 VS1番目の養子:上杉憲房

上杉顕実は実兄:古河公方:足利政氏に援助を求めた。
 上杉憲房は足利政氏の子:足利高基を味方につけた。
  関東は二分された。
  上杉顕実は長尾顕方や成田顕泰の支援を受けて武蔵
  鉢形城に拠った。

・永正9年(1512) 永正の乱
上杉憲房側の横瀬景繁・長尾景長に攻められて敗北した。
  足利政氏を頼って逃亡した。
  そして、まもなく病死した。


【6】6代:上杉憲寛 (在任:1515年 ~ 1525年)
・???? 又従兄弟:関東管領:上杉顕定の養子となった。
  長尾景春の乱では長尾景春らによって山内上杉家当主に
  擁立されていた。

・永正4年(1507) 古河公方:足利成氏の次男:顕実が
  上杉顕定の養子になった。
  しかし、上杉憲房軍を率いる総帥として各地を転戦
  することになった。

  上杉顕定と共に越後守護代・長尾為景を討つため出陣
  した。長尾景春の上野:白井城(現渋川市)を攻略した。
・長尾景春は7~8km離れた柏原城(東吾妻町)に
逃げた。
  上杉憲房は白井城に駐屯していたが、上杉顕定が長森
  原の戦いにおいて戦死すると撤退した。

  関東管領職は上杉顕定の遺言により、上杉顕実が継いだ。
※永正の乱
  上杉憲房 VS 上杉顕実
結果・・・上杉憲房が勝利した。

・永正9年(1512)
上杉憲房が山内上杉家の家督を継いだ。

・永正12年(1515) 上杉顕実の死。  
 上杉憲房が関東管領職も継いだ。

 しかし、①長尾景春の離反&五十子の戦い、②扇谷上杉家の
 上杉朝興の不和。、③伊豆国・相模国の北条氏綱の侵攻。
 ④甲斐国の武田信虎などとの長年の抗争による不安定な
  情況~~~~~~~~~~~~~~~~~

・大永5年(1525) 3月25日 上杉憲房が死亡。
 享年59歳

※実子:上杉憲政は幼少のため、養子:憲寛
 が継いだ。
 古河公方は足利高基の次男:晴直が跡を継いだ。


 
【7】7代:上杉憲房 (在任:1525年 ~1531年)
上杉憲寛は、古河公方:足利高基の次男であった。
 母は宇都宮成綱の娘:瑞雲院・・・
 養父は上杉憲房。

・大永5年(1525) 養父:上杉憲房が死去。
  実子の上杉憲政は幼少だったので、跡を継いで
  関東管領となった。

・享禄4年(1531)9月
上杉憲政を支持する家臣に攻められ、管領職を奪われて
  追放された。
  上杉憲政は実家の古河に戻ることが出来ず、安房:真里
  谷信政を頼って、足利義明の支配下にあった上総宮原に
  移住した。
  「足利」に復姓し、将軍:足利義晴から偏諱の授与を
  受けて足利晴直と名乗った。
  安房で死去した。

※山内上杉家は2度にわたる家督争いによって
 自ら勢力を後退させていった。

※後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大してきた。




【8】8代:上杉憲政 (在任:1531年 ~1561年)
・天文15年(1457) 河越の夜戦
  天文14年(1456)説・天文15年(1457) 説がある。
北条氏康  VS 上杉憲政+足利晴氏&上杉朝定
  北条氏康に大敗を喫した。
  3000人余の将兵を失って上野平井城に逃れた。
    
勢力の立て直しを図った。


・天文16年(1547) 小田井原の戦い
武田晴信は信濃国佐久郡に侵攻し、志賀城(長野県佐久市)
 を包囲した。
 上杉憲政軍3000人の死者。敗北。


・天文21年(1552)
 2月 北条氏邦の御嶽山城の攻撃
  最前線御嶽城:安保氏が落城した。
    
※平井城が北条軍の脅威にさらされた。

●平井城落城・天文20年(1551) 説・天文21年(1552)説

・天文21年(1552)
  3月・4月 北条氏康の上州平井城侵攻① 
 北条綱成の嫡子:善九郎康成は、福島一郎ら2万余
  の兵を率いて・・・・(中略)・・・・。  
 太田美濃守・長野信濃守・曽我兵部頭・金井小源太
 ・安中越前守・小幡・白倉・沼田・厩橋・新田
  ・赤井(館林城)・佐野・足利(=長尾氏)・桐生
  ・渋川・大胡・山上・後閑・長野などの諸将が先陣
  と後陣に別れて、出陣した。
   
  3月10日の一戦では、上杉方が勝利したが、・・・
   北条康成は18歳であるが、・・13人を切り倒した。
   ・・・深追いは禁物と引き上げた。
   (★参考文献・・・関東古戦録:久保田訳)
 
10月 平井城落城北条氏康の上州平井城侵攻②
 ①北条氏康は再び、上州平井城を決めた。・・・。
 上杉憲政は、お触れを出したが500騎しか集まらな
 かった。

 北条氏康が平井城を攻略。 
 上杉憲政は平井城から退去した。
 
 上杉憲政は居城:平井城を失うと越後へ向かった。
 元は家臣筋で、外戚の越後長尾景虎を頼った。



【9】9代:(長尾景虎)→上杉政虎→輝虎→上杉謙信
(在任:1561年 -~1578年)
・永禄3年(1560) 長尾景虎(上杉謙信)によって奪回。 
  長尾景虎は関東の拠点を厩橋城に移動。
   平井城廃城。

・永禄4年(1561)上杉憲政は山内上杉家の家督と関東
  管領の職を越後三条長尾家:長尾景虎(上杉謙信)
  に譲った。
  長尾景虎は上杉憲政の「政」を貰って、上杉政虎と
  なった。後に上杉輝虎→法名は上杉謙信と改めた。
  
  しかし、関東管領は実質的には機能していなかった。
  上杉謙信の死をもって終焉を迎えた。


★参考資料・図書
・「関東管領上杉氏の研究」黒田基樹著
・戦国史:
・平井城の管領たち:利根川靖幸著
 など多数。

    

★明日は上杉憲政の詳細&上杉謙信かな?

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