箕輪初心★上杉家②『8代:上杉憲実~9代:憲忠~10代:房顕』

上杉憲実といえば、『足利学校』というイメージが強い。
上野国の藤岡平井城も築城した。・永享10年(1438)永享の乱
後、鎌倉公方家足利持氏と関東管領:上杉憲実の対立が始ま
った。享徳の乱では関東管領上杉家は敗北を喫した。上杉憲
実は頭脳明晰であったが、足利持氏の教育に失敗してしまっ
て、主君殺しの汚名を着てしまった。今回は『8代:憲実~
9代:憲忠~10代:房顕』をまとめてみた。
⑨憲忠→
⑩房顕→⑪顕定→顕実→憲房→憲寛→憲政→ 長尾輝虎
(上杉謙信)と山内上杉家は16代:上杉謙信まで続いた。
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箕輪初心◆栃木:【足利学校】3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_5.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201312/article_5.html

*******鎌倉~南北朝時代******************************

箕輪初心★山内上杉16代①「初代~7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★埼玉【足利基氏館】&『足利基氏&上杉4代:憲顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_24.html

箕輪初心◆【足利初代~8代足利尊氏】&栃木:足利氏館3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_6.html 

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉憲英~
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html



箕輪初心★新田義貞の弟:脇屋義助&子孫の動向  
http://53922401.at.webry.info/201303/article_22.html

箕輪初心●新田義貞①「誕生~楠木攻め」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_40.html

箕輪初心●新田義貞③「2度の鎌倉攻撃」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201202/article_2.html

箕輪初心★新田義貞「生品神社挙兵~鎌倉進軍コース」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201303/article_18.html

箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_43.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_43.html


*******猪俣邦憲の関係********************************    
箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html

箕輪初心■箕輪城シリーズ21「第13代:猪俣邦憲」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_35.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城②】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html

箕輪初心■箕輪城シリーズ⑳「第12代:北条氏邦」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_34.html

*******鉢形城の関係*****************************
箕輪初心●埼玉【第53回寄居北條まつり後編:攻防戦】&
『鉢形城の歴史詳細』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_15.html

箕輪初心○埼玉【第53回寄居北條まつり前編①準備~パレード】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_14.html

箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪~三の曲輪~
二の曲輪~本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●箕輪城№115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政
手作り甲冑①」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

******鉢形城の支城***********************************
箕輪初心○埼玉【花園城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_17.html

箕輪初心●埼玉【天神山城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_16.html

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箕輪初心◆埼玉県の歴史
http://53922401.at.webry.info/201405/article_22.html

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★★ 8代:上杉憲実の生涯 ★★
・応永17年(1410) 越後守護:上杉房方の3男として越後国
  で生まれた。幼名は孔雀丸。

・応永23年(1416) 上杉禅秀の乱
・応永24年(1417) 上杉禅秀の乱が収束。

・応永25年(1418)関東管領:山内上杉憲基が死去。
 従兄弟の上杉憲実が後継者に選ばれて鎌倉へ入りした。
 山内上杉家の偏諱「憲」の字を受けて上杉憲実と名乗
 った。

・応永26年(1419)10歳
室町幕府の鎌倉府において鎌倉公方を補佐する関東管領に
就いた?

・応永27年(1420)11歳。
   上野・武蔵・伊豆の守護となった。


・応永30年(1423) 6月~8月 小栗満重の乱
常陸の小栗氏攻撃に出陣した。
  小栗城を攻め落とした。

・応永31年(1424) 15歳、上杉憲実が元服した。


・応永35年(1428)19歳。
  室町幕府4代将軍:足利義持が死去。
  足利義教が6代将軍に就任した。
  鎌倉公方:足利持氏は将軍後継の候補に選ばれなかった
  ことに不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、
  上杉憲実はやめるよう進言した。

・永享3年(1431)足利持氏が足利幕府を無視した。
  上杉憲実は謝罪の使節を派遣した。

・永享4年(1432) 上杉憲実の足利幕府への融和作
 ①鎌倉府が横領していた所領を幕府に返還した。
 ②将軍:足利義教の富士下向の延期願いをした。
 ※6代将軍:足利義教の鎌倉幕府への疑惑
~~~間に挟まれた穏健派の上杉憲実~~~~~
※関東公方:足利持氏の幕府への強硬波=対抗姿勢派
  穏健派の憲実は確執が生じるようになっていった。


・永享4年(1432) 上杉憲実が足利の領主になった。
  足利学校の中興に尽くした。
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  鎌倉円覚寺の僧:快元を招いた。
  蔵書を寄贈して、足利学校を盛り上げた。
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  北は奥羽~南は琉球にいたる全国から来学徒が
  集まった。3000人とも言われている。
 ※教育の中心は儒学・易学であった。兵学、医学も教えた。
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 ★足利持氏もここで学んだ。しかし、
  上杉憲実&足利持氏は次第に対立
  していくのであった~~~~。


・永享8年(1436) 信濃の戦い
  信濃守護:小笠原政康(★武田系の源氏)
    VS
  村上頼清(★村上源氏)
  足利持氏は鎌倉に支援を求めた村上頼清を助けて出兵しよう
  とするが、上杉憲実は信濃は関東公方の管轄外であるとして
  諌め出兵しなかった。、
  結果・・・小笠原政康が勝利した。

・永享9年(1437) 足利持氏 VS 上杉憲実
  上杉憲実は相模藤沢へ下り、嫡子を領国の上野に逃して
  鎌倉へ入った。
  足利持氏は在職を望んだ。
  しかし、上杉憲実は管領職を辞任した。

・永享10年(1438)
6月 足利持氏の嫡子:賢王丸→足利義久が元服した。
  足利持氏が上杉憲実を暗殺するという噂が立った。
 
 8月 上杉憲実が鎌倉を出て上野平井城に下った。
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   足利持氏は上杉憲実の討伐のため出陣した。

  足利幕府は関東公方:足利持氏の討伐の兵を送った。
  信濃国の小笠原政康に上杉憲実の救援を命じている。

 9月 小笠原政康軍は上野国の板鼻に入った。
    鎌倉公方軍を打ち破った。

 10月 武蔵分倍河原の戦い
   上杉憲実は武蔵分倍河原に着陣し、一色軍を破った。
   上杉憲実の家宰:長尾忠政が代わりに兵を進めた。
   
   結果・・・足利幕府軍&上杉軍が鎌倉公方軍に勝った。
        足利持氏は出家して鎌倉の永安寺に入った。
   
   上杉憲実は足利持氏の助命と足利義久の関東公方就任を
   嘆願した。
   しかし、足利義教は上杉憲実に足利持氏を殺すよう命じた。
   上杉憲実が足利持氏・義久父子の成敗を固辞していると
   足利幕府:足利義教から嫌疑がかけられた。
   
   上杉憲実は足利学校に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を
   寄進して身辺整理を行った。
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・永享11年(1439) 上杉憲実は永安寺を攻撃した。
   足利持氏・義久は自害した。  
  
  ※永享の乱が集結した。
  永享の乱後、上杉憲実は弟:上杉清方に託して、伊豆の
  国清寺に退き出家した。
  
  上杉清方は山内上杉家当主に就任したが、関東管領は足利
  幕府は認めなかった。




・永享12年(1440)結城合戦
 結城氏朝が足利持氏の遺児:春王丸、安王丸を擁して挙兵
  した。
  足利幕府は上杉憲実は出陣を命じた。

・嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱
足利義教が暗殺された。
 足利幕府は上杉憲実に関東管領復帰を命じた。
 隠居していた上杉憲実は甥で越後守護:上杉房朝に
 預けていた次男も上杉房顕を除く子供達に出家させた。
 上杉清方を関東管領として認めざるを得なくなった。



【●】上杉清方=上杉憲実の弟

・文安元年(1444) 上杉清方が死去。
  ~~~山内上杉家の家督と関東管領の地位が空白にな
  った。~~~~
 上杉憲実は山内上杉家の血を引く佐竹実定を後継者に指名し
 た。
 →家宰:長尾景仲 VS 上杉憲実

・文安4年(1447) 足利持氏の遺児:足利成氏が鎌倉公方に
  なった。
  上杉憲実の長男:上杉憲忠が長尾景仲に擁立され関東管領
  に就任した。
 
  上杉憲実は嫡子:上杉憲忠を所領を全て没収した。
 
・宝徳2年(1450) 江ノ島合戦
足利成氏+子:上杉憲忠 VS 父:上杉憲実

  足利幕府は上杉憲実に関東管領復帰を命じたが、隠遁して
  上杉憲実は応じなかった。

この後、上杉憲実は諸国遍歴の旅に出た。
  鎌倉~京都~九州にまで。

・享徳元年(1452) 上杉憲実は大内氏を頼って山口に留まった。

・享徳3年(1454)享徳の乱の勃発
  足利成氏は上杉憲忠を暗殺した。
  享徳の乱が始まった。

・文正元年(1466) 上杉憲実は長門大寧寺で死去。享年57歳。
   (★「大内氏実録」)
★ちょっと寂しい人生であった。
●上杉憲実の墓・・・山口県長門市大寧寺

※上杉憲実の兄弟
 上杉朝方
 上杉頼方
 上杉憲実・・・・8代:山内上杉家当主
 上杉重方
 上杉清方・・・・9代:山内上杉家の後の代理当主

※上杉憲実の子
 上杉憲忠・・・・9代:山内上杉家当主
 上杉房顕・・・・10代:山内上杉家当主
 周清 
 法興
 周泰
佐竹実定・・・佐竹家への養子




【9】上杉憲忠
 9代:上杉憲忠は、上杉憲実の長男である。
 弟:房顕は10代となった。

・永享11年(1439) 永享の乱
   上杉憲実は永安寺を攻攻撃した。
   足利持氏・義久は自害した。
  
  ※永享の乱が集結した。
  
  永享の乱後、上杉憲実は主君:足利持氏を滅ぼした
  ことに対しての自責の念にかられて出家した。
   弟:上杉清方に託して、伊豆国清寺で出家した。
  上杉憲忠も出家した。
  山内上杉家が当主不在となった。
  家宰:長尾景仲は上杉清方をたてることにことにした。
  
【○】関東管領代理:上杉清方
 上杉清方は山内上杉家当主に就任したが、関東管領は足利
  幕府は認めなかった。

・永享12年(1440)結城の合戦
 結城氏朝が足利持氏の遺児:春王丸、安王丸を擁して挙兵
  した。
  足利幕府は上杉憲実は出陣を命じた。

・嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱
足利義教が暗殺された。
 足利幕府は上杉憲実に関東管領復帰を命じた。
 隠居していた上杉憲実は甥で越後守護:上杉房朝に
 預けていた次男も上杉房顕を除く子供達に出家させた。
 上杉清方を関東管領として認めざるを得なくなった。


・文安元年(1444) 上杉清方が死去。
  ~~~山内上杉家の家督と関東管領の地位が空白にな
  った。~~~~
 上杉憲実は山内上杉家の血を引く佐竹実定を後継者に指名し
 た。
 
・文安3年(1446) 上杉憲実は次男:房顕だけを京都に
  出仕させて以外の息子は全て僧侶とするつもりで
  あった。
  上杉憲実は常陸国の佐竹実定(父:義人が山内上杉家)
  を後継者に指名して文書などを譲り渡してしまった。
  家宰:長尾景仲は佐竹実定を排除して、上杉憲実の
  長男:竜忠(★上杉憲忠)擁立した。
→家宰:長尾景仲 VS 上杉憲実



・文安4年(1447) 足利持氏の遺児:足利成氏が鎌倉公方に
  なった。
  上杉憲実の長男:上杉憲忠が長尾景仲に擁立され関東管領
  に就任した。
 
  上杉憲実は嫡子:上杉憲忠を所領を全て没収した。
  上杉憲実は激怒して、憲忠を親子の縁を切った。

・文安5年(1448) 長尾景仲らが上杉憲忠の家督を支持
  した。11月には、関東管領に就任するに至った。


・宝徳元年(1449) 足利持氏の遺児:永寿王=足利成氏
  が鎌倉公方として復帰した。
  
・宝徳2年(1450) 江ノ島合戦
長尾景仲は上杉憲忠の舅で扇谷上杉家当主:上杉持朝
 と共謀して足利成氏を攻め滅ぼそうとしたが失敗した。
  逆に反撃を受けてしまった。
 
 上杉憲忠は関与していなかったが、家臣:長尾景仲の
 責任を負う形で、相模七沢に蟄居を余儀なくされた。

 その後、足利成氏に罪を許されて復帰したが、
 足利成氏と上杉憲忠の対立はさらに深まっていった。
足利成氏と上杉憲忠とは犬猿の仲であった。
 ★足利成氏は永享の乱で父:持氏を殺されたので、
 上杉憲実と上杉憲忠を非常に恨んでいたからである。
 

・享徳3年(1454)12月27日(1月15日)享徳の乱
足利成氏の上杉憲忠の殺害~~~~
 上杉憲忠は足利成氏の鎌倉の西御門邸に招かれた。
 上杉憲忠は、足利成氏の命を受けた結城成朝の家臣:
 多賀谷氏家・高経兄弟によって謀殺されてしまった。
 享年22歳。
 
 鎌倉公方:足利成氏が上杉憲忠を暗殺したので、
  享徳の乱が始まった。
  
 岩松持国が管領屋敷を襲撃し、長尾実景・景住父子も
 殺害した。

・康正2年(1456) 足利成氏は上杉憲忠の殺害に対する弁明
  の書状を室町幕府に対して提出した。

 関東管領は弟:上杉房顕が継いだ。




【10】上杉房顕
上杉房顕は、関東管領:山内上杉家10代当主。
 上杉憲実の次男である。上杉憲実は房顕以外の子供を
 出家させた。
 上杉房顕は越後守護:上杉房朝の元に置かれた。

・文安元年(1444) 越後と丹波の所領を与えられた。
  8代将軍:足利義政の近臣として仕えた。

・享徳3年(1454)=1455年1月15日に兄:上杉憲忠が
 鎌倉公方足利成氏によって暗殺された

・享徳4年(1455) 
3月 関東管領に任命された
    足利成氏の討伐軍の大将として関東へ下向した。
 4月 上野平井城(現群馬県藤岡市)へ入った。



※享徳の乱が勃発した  
  足利成氏は鎌倉から古河へと拠点を変えた。
古河公方を名乗った。


・長禄3年(1459) 武蔵太田庄の戦い
上杉房顕は足利成氏軍に大敗を喫した。

・寛正4年(1463) 山内上杉家の家宰:長尾景仲で死亡。
  上杉房顕は関東管領の辞意を表明した。
  しかし、足利義政に拒絶された。

・寛正7年(1466) 上杉房顕五十子の陣で死亡。享年32歳。

  関東管領は従兄弟の甥:越後の上杉顕定が継いだ。


★参考資料・図書
・「関東管領上杉氏の研究」黒田基樹著
・戦国史:
・平井城の管領たち:利根川靖幸著
など多数。




★次回は、上杉家11代:上杉顕定である。
  明日は?

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