箕輪初心●千葉:安房里見氏の歴史&本城の変遷:復刻版

★安房里見氏は①白浜城→②千田城(長田城)→③稲村城&
岡本城→④館山城→⑤伯耆:倉吉城と移っていった。今回は
里見一族の歴史の復刻版である。
★平成20年(2008) 9月24日(土)高崎市旧榛名町に千葉県
の里見氏研究の滝川恒昭氏が来県した。余湖さんや埋もれた
古城さん・チエゾーさんのように千葉県の城跡の超スペシャ
リストである。***「里見氏稲村城跡をみつめて」には、
愛沢伸雄氏&滝川恒昭氏のサインまでいただいた。
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箕輪初心★人形劇ミュージカル『里見八犬伝』
in2013榛名初演
http://53922401.at.webry.info/201309/article_28.html

箕輪初心★里見一族の歴史:リニューアル版
http://53922401.at.webry.info/201309/article_29.html

箕輪初心●里見一族①「新田から里見へ」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_33.html

箕輪初心●里見一族②「初代:里見義俊→2代・義成
~3代:義基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_34.html

箕輪初心●里見一族③「4代義秀~10代家基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_35.html

箕輪初心●里見一族④「安房里見前期5代⑪~⑮」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_36.html

箕輪初心●里見一族⑤「後期安房里見」⑯~⑳
http://53922401.at.webry.info/201102/article_37.html

箕輪初心●里見一族⑥「南総里見八犬伝&群馬」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_38.html

箕輪初心●里見一族⑦「日本ハム:斉藤佑樹投手も子孫?」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_39.html

箕輪初心●里見一族⑧「高津戸城」=桐生仁田山で114年
http://53922401.at.webry.info/201102/article_45.html

箕輪初心●里見一族⑨「里見城&上里見城など」
 (高崎榛名)」=武田信玄に抵抗。
http://53922401.at.webry.info/201102/article_46.html

箕輪初心●群馬【仁田山城&谷山城&皿窪砦】&『里見一族』
http://53922401.at.webry.info/201205/article_16.html

箕輪初心●箕輪城№81「大塚實氏&里見繁美氏の講演会」
※里見氏&長野氏の関係についてである。
http://53922401.at.webry.info/201209/article_12.html


箕輪初心■群馬【下仁田町の特産品&山&名所・観光地】
★ここで、里見哲夫先生のことを書いた。
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html

箕輪初心★水戸天狗党VS高崎藩本陣里見哲夫先生宅
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心●山形【天童城】&里見氏・松尾芭蕉立石寺&セミの話
http://53922401.at.webry.info/201307/article_10.html

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箕輪初心★千葉旅行17回一覧
http://53922401.at.webry.info/201404/article_8.html

箕輪初心●千葉【関宿城】=疑似天守の博物館
http://53922401.at.webry.info/201404/article_9.html

箕輪初心●千葉:猪鼻城→千葉城
http://53922401.at.webry.info/201404/article_10.html

箕輪初心▲千葉寺:坂東33観音第29番札所=千葉氏の祈願所
http://53922401.at.webry.info/201404/article_11.html

箕輪初心○千葉【大巌寺館・生実城】&「生実城と小弓城の関係」
http://53922401.at.webry.info/201404/article_12.html

箕輪初心●千葉【小弓城→城の台→有吉城】&小弓公方:足利義明
http://53922401.at.webry.info/201404/article_13.html

箕輪初心◆千葉:ドイツ村&金谷&海ホタル
http://53922401.at.webry.info/201404/article_14.html
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【0】前期里見・後期里見
●前期里見氏 
⑪安房:里見義実→⑫里見成義→⑬里見義通→⑮里見義豊
 ※前期里見氏の菩提寺・・・お寺は白浜町の杖珠院 
★前期里見氏の歴史史料はほとんどない。
 
●後期里見氏 
 ⑮里見実尭→⑯里見義堯→⑰里見義弘→ 
⑱里見義頼→⑲里見義康→⑳里見義忠(忠義)
   ※後期里見氏の菩提寺・・・三芳村の延命寺
2)初代義実・2代成義を架空の人物説。
3)里見義尭の系譜捏造説
   「天文の内証」で嫡流家を倒して宗家の地位を奪
    った2男系による系譜捏造説。
4)榛名:里見義成説
  ⑪里見義実→⑫里見成義→⑬里見義通→⑮里見義豊
                   └⑭里見実尭→
     ⑯里見義堯→⑰里見義弘
    →⑱里見義頼→⑲里見義康→⑳里見忠義

【1】白浜城・・・眺めただけ
1)平成9年(2001)
 「勝山城?→館山→白浜太陽館泊
  鴨川→勝浦の誕生寺・鯛ノ浦→大多喜城」
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2)平成10年(2002)
 「鎌倉→浦賀~フェリー~金谷→館山→白浜太陽館泊
  →鴨川シーワールド→海ホタル?」
★2回白浜に来ている。野島崎灯台からぼんやり白浜城を
 眺めただけだった。後で調べると、白浜城は房総半島
 最南端の野島崎の急峻な山上に築かれていることが分か
 った。外房と内房を結ぶ海上交通の要所であることも
 わかった。

【2】千田城跡=長田城(館山市西長田)  
 里見義実が連郭式の城跡を築いた。
  稲村城へ移るまでの居城にした(伝)。
  里見氏の本城が稲村城へ移転後、
  里見家3代義通の子:長田河内守義房が長田城に
  住んだ。・・・子々孫々居住した。


【3】稲村城・・・近くを通っただけ。
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安房国安房郡(現千葉県館山市稲付)にある城である。
・平成24年(2012)稲村城& 岡本城(南房総市)「里見氏
  城跡」として国史跡となった。
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稲城村も知らずに通ってしまっただけの城である。

【4】館山城・・・1回
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【5】倉吉館・・・行っていない。



◆◆ 安房里見氏の歴史 ◆◆
・嘉吉元年(1441) 結城合戦
里見家基が討ち死にした。
 嫡子:里見義実が三浦半島経由で安房に渡って安房に来た。
 神余・丸・東条・安西の四氏が分立する安房一国を平定し
 た(伝)。

安房里見氏の初代:里見義実は白浜城を拠点とした。

⑪里見義実(安房の里見の祖)
系図上では里見家基の子・・・★里見義実が何者か不明。
①結城の合戦後、里見義実が常陸太田城の佐竹に逃亡→安房に?
②関東の里見氏は家基の死で断絶。
 美濃里見一族から安房里見家の義実継承説。
  鎌倉公方に復活した足利成氏や足利持氏の他の子ども
  達は美濃から鎌倉へ。
 美濃から関東の里見氏を復活させるためにやってきたの
 が義実ではないか?
③家基の子息・・・詳細は不明。安西氏を追放して領主となり、
 安房里見氏の祖になった(伝)。
  ・・・しかし、安房里見氏の出自は不明な点も残っている。
・嘉吉の乱で・・・常陸太田城の攻撃がうらむやになった。
 →三浦氏の居城:新井城(神奈川県三浦市油壺マリンパ
  ーク)に避難?
 →里見義実は、安房から上杉氏の配下の勢力を排除する役割
  が与えられた。
※白浜野島崎(白浜町)・・・東京湾の入口で海上交通の要衝。
里見氏の伝説・・・白浜城を拠点にしたことから始まった。
理由・・・上杉派の神余氏(かなまり)や木曽氏の白浜に拠点
 があったからである。
木曽氏が里見氏の家臣になり、里見義実は短期間に安房国を統一。

・宝徳元年(1449)・・・結城合戦から8年後
    足利成氏が鎌倉公方に就任。
   信濃の大井氏にかくまわれていた足利成氏が幕府の
   許可を得て鎌倉公方に復活。
   関東管領には父を殺した上杉憲実の子憲忠。
   公方の家臣・・・
     足利持氏時代の家臣・小山氏・千葉氏
    ・北関東の:里見左馬助義実。
 ★里見義実は成氏が鎌倉に復帰した頃にはすでに安房が拠点。
   安房の南端部に居住。・・・・足利成氏に連携。
・宝徳2年(1450) 足利成氏が父を殺した上杉氏との抗争。
  関東管領の山内上杉憲忠の家臣たちが、鎌倉公方:
   足利成氏の館を襲撃。
   足利成氏撃は房総への避難を考えて側近とともに
   江の島に逃れた。
    →これにより両派の対立はますます深くなった。
 
・享徳3年(1454) 享徳の大乱
関東管領:上杉氏 VS 古河公方:足利成氏
 足利成氏は房総半島の上杉勢力を排除するために、
 里見義実を安房に派遣した。
 安房白浜の上杉氏家臣:木曾氏を上杉氏から離反
 させ、白浜に入城したと考えられている。

 足利成氏は、里見義実・武田信長・結城成朝などと、
   鎌倉にいた関東管領の上杉憲忠を襲撃し殺害。
  関東・・・足利氏  VS   上杉氏   
   
 2者の争いが勃発。
 足利成氏は下総国古河(茨城県古河市)に入り、
   古河公方と名乗った。
   
 関東は越後・相模・伊豆など関東の西半分が上杉氏の
  勢力範囲だった。
  常陸・下総などがが反上杉勢力。

 足利氏は房総をまとめ役として、里見義実は稲村城(
 千葉県館山市)を拠点に
   安房国の足利勢力を集めた。

▲稲村城・・・戦国時代、前期里見氏の時代の本拠地として
  使われた城。
  城山は、狭い山頂を広げて、土塁・堀切など工夫。
  稲村城が館山平野をおさえ、安房国全体を統治。
 
 里見義実が安房の統一。
 ・・・稲村城は安房の国府に近かった。
  安西氏や丸氏が配下。
安房:里見義実と上総の武田信長は連けいして房総から
  上杉派の力を排除。
武田信長の娘と里見義実が結婚して親戚。
※従来の説「安房里見氏初代義実・2代成義が嫡流説」 
※近年の説「嫡を架空の人物とする説
・・・嫡流家を倒して宗家の地位を奪った新田が孫による
 系譜を捏造。

・文明10年(1478) 足利氏と上杉氏は約20年ぶりに和解。
   ★上杉氏内部の抗争が勃発。
   ★北条早雲が北上。→関東は戦国乱世へと移行。


⑫里見成義
  ※1471年から1508年までの30年の里見氏の歴史は現在不明?
  ・文明18年(1549) 稲村城築城


・????年 
 里見義実は白浜城から千田城=長田城にに移った。
稲村城の築城中に死去。


・文明18年(1486) 里見義実が稲村城を築城を開始。

・延徳3年(1491) 安房里見2代目:成義が稲村城が完成(伝)。
  稲村城に居城を移した。
  白浜城は廃城となったとされるが、内房と外房を結ぶ
  海上交通の要所と考えると、有力者を置いた可能性がある。

 その後、義通・実堯・義豊の居城となった。
⑬里見義通
・永正2年(1505)
  上杉一族内部の抗争は十数年に及ぶ動乱と終結。
  伊豆の北条早雲が伊豆国を支配。韮山城+江原一族など。
  →小田原城(神奈川県小田原市)を取り、相模へ進出。
   北条早雲が古河公方政氏の子:高基と連携。
 
・永正3年(1506) 公方家内部が分裂→権力闘争へと発展。
    高基の弟:義明も房総で独立。
    小弓公方(おゆみくぼう)足利義明
  ・・・下総の臼井氏・常陸の小田氏・安房の里見義通支援。
  足利義明が房総に拠点を築くと、里見義通は里見家当主
   として出陣。

・永正5年(1508)
  里見義通は足利成氏の子:政氏の配下            
 『里見義通は安房国北条郷(千葉県館山市)の
  鶴谷八幡宮を修復。』
9月25日、安房国一宮:鶴谷八幡宮に納棟札に
  「鎮守符将軍源朝臣政氏(古河公方足利政氏)」
   「副帥源義通(里見義通)」の名が記録。
・・・安房里見氏13代目:里見義通の実在性と
   安房支配の確立。
  神社は安房国総社で、もとは国府があった府中
  (三芳村)の国府八幡宮。
  安房里見家当主は、3代目:里見義通である。
   →鎌倉の鶴岡八幡宮を意識して海に面している
    北条郷に移築。
●里見義通・・・安房の国主といわれ、安房国の
     統治者へと成長。
●里見義通の弟実尭(さねたか)安房国内房の北部を支配。
●里見義通の弟:義秀(ぎしゅう)・・・
  鶴谷八幡宮を管理する那古寺(館山市)
  21世住職のは里見義通の弟。
  ※正木氏は安房国主:里見義通につぐ№2。
 =正木氏は里見家臣ではなく、里見氏とは同格の
  戦国武将であった。
 
・永正9年(1512) 里見義通は房州の軍を指揮。
   国主として那古寺の仕事。
 ★里見家は、義通で一本化していなかったようだ。
 ●里見義通・・・・足利政氏を支持。
 ●里見義豊・・・・足利高基を支持。
  里見義通の子:義豊が、里見家の当主としての行為。
 ※里見義実は公方:成氏、里見義通も公方:政氏を主君
   としていた。
 房総に小弓公方の権威が及ぶと、里見義通は小弓公方義明
 を支持。古河公方高基には敵対。
 高基は、晩年になると自分の子:晴氏とも対立。
            
・永正11年(1514) 北条早雲が三浦半島の三浦氏を滅ぼし
   て、相模国を平定。
    武蔵への進出開始。。
  北条氏は古河公方・足利高基を支援。
   小弓公方からも援軍の要請。
 
・永正15年(1518) 里見義通が38歳で死亡。

⑭里見実尭
里見義通の弟実尭(さねたか):安房国内房の北部を支配。
 
・永正15年(1518) 里見義通が38歳で死亡。
    →弟:里見実尭が継承。
 
・大永4年(1524)  北条早雲の後継者氏綱が扇谷
    上杉氏が江戸城を攻略。
  →北条氏の支配。房総の勢力と利害がバッティング。
 ※北条氏(古河公方・北条氏の連合)  
    VS  
   上杉氏(小弓公方・上杉氏・房総勢力の連合)
 
・大永6年(1526)足利政氏の子:高基の弟:足利義明
   (小弓公方)
 5月 武田・里見の両軍が江戸城下の港町:品川に攻撃。
 12月里見義豊が鎌倉を攻撃。鶴岡八幡宮に乱入。
  →里見氏は、江戸湾をめぐる北条氏との長い戦いが開始。
  稲村城の義豊が叔父実尭と相談して、岡本城からの
   水軍の出撃準備。
  足利政氏の子:高基は、父:政氏との抗争を三回。
 →古河公方・北条氏の連合と小弓公方・上杉氏の連合との
  対立へと複雑化。
   
   
・享禄4年(1531)  高基 VS 自分の子:晴氏。  
         晴氏に公方の地位を奪われた。
 

3代義通が病死し、嗣子竹若丸(義豊)が5才のため、
 弟の実堯が4代となり、竹若丸15才で国政を譲ることが
  決まった。
 竹若丸が元服し、里見義豊と称した。
  しかし、里見義豊20才になっても、里見実堯が譲らな
かった。
里見義豊にとって、里見実尭と正木通綱は恐い存在であ
  った?内乱の原因は「里見義豊の里見実尭と正木通綱
  の警戒説」もある。

・天文2年(1533)~天文の内訌=里見家の内乱
 ・里見義豊30歳が叔父:里見実堯50歳を稲村城
  襲った。
 ※内乱の原因・・・里見義通の遺言
「弟の実堯が後見人で義豊が20歳になったら、家督を譲る。」
  約束。
 20才になっても、実堯が譲らなかったため
  義豊が実堯を殺して家督を奪った。」と以前は説明され
  ていた。
   
  里見義豊は稲村城を襲い、叔父:里見実堯を自刃
   させた。 
  里見義豊は里見氏5代になった。
  里見義豊は正木通綱を稲村城に呼び付け、殺害。
  里見義堯とともに父正木通綱を殺された正木時茂
  は、即座に反撃。
  
8月 妙本寺(千葉県鋸南町)の戦い 
   北条氏の支援をうけた実尭の子:義尭の軍 
     VS  
   里見義豊
  →義堯方が勝利。里見義豊は滝田城(三芳村)に籠城。
9月 滝田城も危うくなってしまい、
     里見義豊は上総へ逃亡。滝田城は落城。

10月 里見義堯の安房国を支配。 
     

・天文3年(1534) 
     里見実堯の嫡男:義堯は上総にいた。
4月 里見義堯は上総を発った。
  里見義豊はこの隙に上総を襲う計画をたて、
  稲村城をたった。
  里見義堯はこの動きを察知し、里見義豊の軍勢を
  滝田街道で待ち受けた。
  
4月6日  犬掛(いぬがけ)合戦
  里見義豊 VS 里見義堯
  義豊と義堯の直接対決・・・激戦。
里見義堯が里見義豊を犬掛で破った。
 里見義豊を稲村城まで追って自刃させた。
  ★前期里見氏家臣:一色・木曽などの武士たちは
  義豊と滅亡?・・・・


●里見義堯の里見当主の継承策
里見義堯は6代目当主となった、
 ①石堂寺(丸山町)を建立。
   ・・・義通を先代の国主。義豊はその子とした。    
  =里見義尭は里見義通から家督を継いだことにした?
 ★稲村城主:里見5代里見義豊は、従兄弟の里見義堯に
  滅ぼされて家督を奪われたともいえる。
 ②居城を平群に移し、稲村城は廃城になった。
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 6代:里見義尭の力は強くなり、里見氏発展。
  最大57万石になった。

 北条氏の力を頼ったため、北条氏の立場で行動
  するようになった。
   
・天文6年(1537) 里見義堯は小弓公方:足利義明の指示で
   北条氏綱と手を切った。
 ★→里見氏は北条氏と40年におよぶ戦いを
  繰り広げることなった。
 
・天文7年(1538) 第一次国府台の合戦
  北条氏綱 VS 小弓公方   
 →敗れた小弓公方:足利義明は戦死→滅亡。
 →里見義堯は安房に逃亡。・・・・各地で北条と交戦。
    足利晴氏+北条氏  
 ★北条氏からの強い干渉を受けていくことになった。
  →北条氏綱は娘を公方:足利晴氏の夫人にし、
   足利義氏が生まれると、兄を公方にした。
  ※外戚の立場の北条氏の干渉で古河公方は二つの
  勢力に分裂。
  北条氏は上総に進攻。武田氏は再び内乱状態。
 
・天文年間(1532~1555 )の末 上総武田氏の滅亡。
  里見義堯は武田氏の内乱に乗じて、久留里城や
   佐貫城などをゲット。
  →里見義尭は佐貫城(富津市)へと拠点を移動。
   北条氏も下総から上総へと進出開始。
   江戸湾をめぐる里見氏と北条氏の戦いが本格化した。

岡本城に移った?

・永禄3年(1560)
 5月北条氏康は里見義堯が拠点にする久留里城を攻撃。
   里見義堯の北条氏から危機回避策を考えた。
  ・・・大多喜の正木時茂を通して、
    長尾景虎(=上杉謙信)の関東出陣を要請。(正木家文書)
     →房州と越後の同盟。
  ※上杉の関東遠征の群馬編が判明(正木家文書)。

  ★上杉謙信の行動が千葉・房総まで影響。
  ※上杉謙信は関東の出陣14回
    (冬の関東での越年回数は8回)
 ※上杉謙信と北条氏康が関東管領として公方をかつぎ、
   関東で対立。

・永禄6年(1563)
   上杉謙信は北条氏康・武田信玄に対抗し、上野国に
   出陣。
  里見義弘は謙信からの出陣要請を請けて、下総国
   国府台に出陣。
 
・永禄7年(1564) 第二次国府台の合戦
  里見氏  VS  北条氏
  北条軍→里見義弘も国府台→敗戦。
   北条氏政の軍→→合戦に勝った北条氏の凄い勢い
   の前に、西上総は北条氏の支配下になった。
  ※江戸時代・・・国府台合戦で討死した里見方の武士の
   供養塔(市川市里見公園)
  →敗戦で、東上総の勝浦の正木時忠が里見氏から離れ、
    北条方傘下になった。
     
   北条軍は隣の大多喜正木氏を包囲。
  北条氏は里見氏の安房攻撃を開始。
  →水軍を指揮する北条氏繁が館山湾を攻撃。
  二百せき以上の船で上陸。
  →那古寺・延命寺など館山平野の十里四方を放火。(伝)
 
 8代目里見義頼は岡本城(豊浦町)・支城久留里城
   に危機感を持った。

・永禄8年(1565)  
  里見義弘は孔雀明王経を那古寺へ寄進。
  里見義弘は古河を追われた足利家国を保護。
 
・永禄10年(1567) ●三船山合戦
   里見氏が勝利、西上総を奪取。  
   里見義尭・義弘父子は、上杉謙信と手を結ぶことで、
   北条氏康に対抗。
  安房の里見・岩付の太田氏・常陸の佐竹氏・下野の
   小山氏・上杉の家臣
         VS
     北条氏
 
・永禄12年(1569) 
  甲斐の武田信玄が今川氏真・北条氏康との三国軍事同盟
   をやめて関東へ進出。
  北条氏康は敵であった上杉謙信との仲直りを選択。
 北条氏康6男が上杉謙信の養子
   (→後の御館の乱に発展)
  里見氏は講和に反対したが、成立。
  里見氏は武田信玄と協力。房甲同盟が締結。
  →友好関係を続けてきた謙信との協力を中断。
   上杉家と協力関係が復活。
 
・天正2年(1574) 足利藤氏兄弟が北条氏に抵抗
   足利晴氏は北条氏に抵抗。
  →足利晴氏が亡くなった後も晴氏の子:藤氏を中心に抗争。
  里見義尭・義弘父子は藤氏兄弟たちを保護。
  里見義尭が68才で死亡。
     
 ★この時期には北条氏康、武田信玄、上杉謙信なども死亡。

・天正4年(1576) 北条氏が安房に侵攻。

・天正5年(1577) 
  里見義弘が北条氏政と和睦。・・・房総和睦。
 北条氏政の娘が里見頼義の室になった。

 里見義頼は安房の岡本城に在城。
  →安房での流通拠点館山城(・館山市)を築城。
  館山城近くの「高の島湊」・・・
     西風を防げる規模の大きな港。

・天正6年(1578) 里見義弘が死亡。
     →お家騒動や国人の離反などによりやや衰退。  


 
・天正6年(1578) 父:里見義弘が死亡。
  →お家騒動や国人の離反などによりやや衰退。
  里見頼義の室(北条氏政の娘)が死亡。
    =両家の縁が切れた。
  里見頼義が上杉謙信に接近。
  →北条氏が上総に大侵攻。頼義家臣の寝返り増加。    
  里見氏の8代目当主になった里見義頼は
  豊臣秀吉に接近した。
  →安房・上総全域と下総南部の安堵を得る事に成功。

・天正12年(1584) →館山城移転。

・天正13年(1585) 豊臣秀吉は惣無事令=
   武力での戦いの禁止令発布。
    里見義頼は惣無事令に服従。
    里見義頼は豊臣秀吉に黄金三十両などを献上。
    豊臣秀吉の全国政権の支配下。
 ・天正15年(1587) 里見義頼が岡本城で没。
   →曹洞宗里見義頼の墓(富浦町光厳寺)。

   里見氏の領地は、安房一国と上総の南半分。
  ①浅野長政や前田利家などの5大老グループ
   ②石田三成や増田長盛などの5奉行グループ。
    里見義康は増田長盛のグループであった。


・天正16年(1588) 里見氏9代目里見義康が館山城を
  築城。
  根小屋山72m。
  階段状に本丸・二の丸・三の丸などを配置。
             

・天正18年(1590)  豊臣秀吉の小田原攻め。
   豊臣秀吉の宣戦布告は里見義康のもとへも通知。
3月29日小田原を攻撃。
  ・・・信濃からの前田利家・上杉景勝の部隊も北関東
  の城を攻略。
  房総:野田・松戸・佐倉→下総・上総などの北条方の城を攻略。
  里見義康も船橋や三浦に出陣。・・・
 ※里見義康の失敗①・・・小田原攻撃に遅延。
 5月 
  浅野長政らの軍勢は上総:佐原から常陸:鹿島にまで侵攻。
  上総の里見氏の領分にまで侵攻。
 ※里見義康の失敗②・・・里見氏の領地を越えた下総
   ・北上総・三浦での戦いで、
   豊臣秀吉が出すべき禁制を里見義康が出した。
   戦いが豊臣秀吉の命令ではなく、里見義康が勝手にだしたと
    みなされた。
   ※里見義弘は浅野長政によって惣無事令違反の口実を
   つくらされた。
   
 7月5日 北条氏は、滅亡。
   里見義頼の跡を継いだ里見義弘は上総・下総を没収。
   ①小田原攻撃の遅参、②惣無事令違反。
    徳川家康の関東入封。
     徳川家康は江戸城に入城。
   里見氏の佐貫城、久留里城、大多喜城などに家康の
    部下が入封。
     
   里見氏の領地の没収は、増田長盛のとりなしで、
   これだけですんだ。
   徳川家康とりなし→里見義康は徳川家康の傘下?仲良し?  
 9月   里見義康の妻子などを人質として、上洛。
 

・天正19年(1591)
  3月  里見義康は朝廷から従四位下「安房守」「安房侍従」
       に昇格。
      豊臣秀吉からは羽柴の姓を授与。
 
・文禄元年(1591) 
   豊臣秀吉は朝鮮出兵・・・3月過ぎに出陣するよう全国の
    大名に下知。
2月 里見義康が出発
   
3月17日 
  里見義康は徳川家康や伊達政宗などとに肥前国
   :名護屋(佐賀県鎮西町)へ。
  
   里見義康は岡本城(富浦町)から館山城(館山市)
   へと居城を移転。
4月  館山城が天然の要害・・・標高74m。
    義康御殿は城山の南斜面(建物の跡も発掘)


・文禄2年(1592)  朝鮮国と停戦。
 8月  里見義康は豊臣秀吉が大阪へ帰るまで、
      名護屋城に在。
10月 里見義康は安房へ帰郷。
 

・文禄3年(1593)  
  里見義康は豊臣秀吉のお供で京都の前田利家の
   屋敷に出向。
   伏見に里見屋敷を築いた。
 
・慶長2年(1597) 2度目の朝鮮出陣。里見義康も京都に滞在中。
 9月~  安房国での太閤検地・・・増田長盛が奉行。
         ・・・安房国は約9万1100石。
 
・慶長3年(1598) 豊臣秀吉が死亡。
     徳川家康ら五大老  VS  石田三成ら五奉行
 
・慶長5年(1600) 
7月 徳川家康は上杉景勝を倒すために小山(栃木県小山市)
    まで出陣。
   里見義康は徳川秀忠の本隊に合流のため、下総小金
   (松戸市)に出陣。
   上杉景勝配下:直江兼継が白河(福島県白河市)で合戦準備。
   石田三成は家康方の伏見城を攻撃。
    ・・・徳川家康の小山評定。
9月 徳川家康は東海道を上方へ進攻。
   徳川秀忠は東山道をコース。
   ・・・第2次上田合戦に敗北で遅刻。
  里見義康は上杉氏との戦いを命令され、宇都宮に在陣。

9月15日 「関が原合戦」    
   徳川家康   VS   石田三成        
   →石田方が敗戦。
    「長谷堂城の戦い」 
    上杉景勝配下:直江兼継  VS  最上義清  
         →直江敗戦。
10月1日 上杉景勝勢は戦さをやめて軍を後退。
 
・慶長6年(1601)
8月  常陸国鹿島で3万石の恩賞。
    →12万石の里見義康が関東最大の外様大名へ。   
    館山城の拡大工事。
   ・・・館山城下への居住者が増加。
   館山の城下町は、上町・仲町・下町という町割り。

 ●里見義康の弟:忠重も上野国里見郷隣接の板鼻
  (群馬県安中市)1万石。
  
 
・慶長8年(1603)  徳川家康が将軍。 
   里見義康が死亡(31歳)。

・慶長8年(1603) 
   里見義康が死亡。
   10歳の梅鶴丸(=忠義)が後継。
   板鼻藩の里見忠重が後見人。
    里見家で大きな権威を持った。
   里見一族&重臣が中心になって、幼い梅鶴丸を補佐。
 
・慶長11年(1606) 梅鶴丸13歳は江戸城で将軍秀忠の
    御前で元服した。   
 
・慶長16年(1611) 里見忠義は小田原城主・大久保忠隣の孫娘を
    妻とした。
  徳川家の一族や幕府重臣と婚姻・・人脈拡大。            
 
・慶長18年(1613) 里見義高が突然の改易
  ・・・里見を関東から追い出す謀。
 
・慶長19年(1614)
 9月9日 里見忠義に土井利勝ら老中から
 「安房は幕府のものとし、かわりに常陸行方郡で9万石を渡す。」
 妻の実家:大久保家の失態に関係した処置で、
  「里見氏が館山城に籠城すれば、抹殺」の沙汰。
  館山城の受け取りは上総佐貫城主:内藤政長と
  大多喜城主:本多忠朝。
  里見忠義は江戸で謹慎。
   
9月18日  館山城明け渡し。 
  館山城の破城・・・建物の壊し堀の埋めたて。
  里見忠義の妻子や家臣が鹿島に到着。
  幕府の使者「9万石は没収。
  →鹿島3万石のかわりの行き先は伯耆国(鳥取県)。」
  であった。
★里見氏改易の理由
 ①大久保忠隣への協力があったこと。
 ②館山城を補修し、道をつくり堀を掘るなどして城を厳重
   にしたこと。
 ③家臣を多く抱えすぎていること→反逆の嫌疑。
  里見忠義の一族と家臣
  里見家の直臣・・・家老などの上級家臣は26人、
   奉行などの役人や指揮する武士など数百名
★本当の理由は
   ①関東在住の外様大名:里見を関東から排除すること
 ②江戸湾の権益・交通の支配を目論んだ江戸幕府の改易政策。である。
  

こうして170年の里見氏の安房支配が終わった。・・・・・
  
里見忠義は、駿府で正木時茂と合流。伯耆国:倉吉へ移封。
倉吉の打吹城と屋敷・・・
  倉吉の神坂町と堀村(鳥取県関金町)の2ヶ所。
 3万石でなく、実質4000石。
  100人扶持の糧米で配流扱い。
 
・元和3年(1617) 
 姫路から鳥取藩主として移封してきた池田光政が、
  因幡・伯耆の2ヶ国を支配。
 →田中村へ屋敷を移転させ、4000石没収。
  →池田家の監視下へ。
 
・元和8年(1622) 
 6月 里見忠義が病死(29歳)。
  「里見家に相続者なしにより、お家断絶。」
  里見忠義の墓・・・倉吉の曹洞宗の大岳院に埋葬。
★正妻の大久保家出身の夫人の2人の娘は、旗本の妻?(伝)。
★側室には3人の男子がいた(伝)。
 ①跡継ぎがいないという幕府の口実説 
 ②里見一族あるいは家臣の子を偽って「忠義の子」とした説

・・・こうして里見氏20代が滅亡した。・・・・・       
    


           
■平成20年(2008) 9月24日(土)
第6回「里見の郷」歴史フォーラム
  里見氏ゆかりの三都物語
①群馬県高崎市・・・里見氏発祥の地 
②千葉県館山市・・・安房里見氏
③鳥取県倉吉市・・・安房里見氏の移封の戸
第一部「館山市・倉吉市の顕彰活動」
○愛沢伸雄氏(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)
○福田耕昇氏(関金子供歌舞伎総監督・関金公民館長)
○金元和好氏(関金子供歌舞伎事務局長)
第二部「里見氏研究の最新動向」
○滝川恒昭氏(千葉県立船橋高校教諭)
○須藤 聡氏 (群馬県立文書館指導主事)
○里見繁美 (大東文化大学教授)             
事務局:中嶋さんにお世話になりました。
 (★中嶋さんのHpより引用)

  
★参考文献・・・
・里見一族:里見義弘著
・北条一族:相川司著
・千葉県の歴史:千葉歴史博物館
・さとみの歴史:里見一族(館山城博物館)
・峰岸純夫先生講演会など。





★明日は館山城かな?

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