箕輪初心●千葉【小弓城→城の台→有吉城】&小弓公方:足利義明

永正14年(1517) 上総の真理谷武田信清が足利高基派の
下総の原基胤から小弓城?又は生実城を奪取した。足利
義明は下河辺庄高柳から小弓城(現千葉市)に移った。「
足利政氏の後継である。」として、小弓公方を名乗った。
従来の説は、南生実の小弓城に原氏が入り、小弓公方も
同居し、小弓公方滅亡後、北生実城に移ったとされてきた。
しかし、近年の説=千葉市教委説では、発掘の成果→小
弓公方の時代から生実城は存在していたという。この説が
有力視されているようだ。原氏の本拠は当初から北生実
城であったという説である。しかも、小弓城は、裏付ける出
土品はほとんどないという。小弓公方足利義明は北生実
城=「北小弓城大手口」という石碑を建てた場所付近に
入城したのかもしれない。となると、余湖さんのおっしゃる
通り、北条の城の可能性が出てくる。

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箕輪初心★古河公方5代:足利成氏→政氏→高基→晴氏
→義氏&氏姫
http://53922401.at.webry.info/201312/article_15.html

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箕輪初心★千葉旅行17回一覧
http://53922401.at.webry.info/201404/article_8.html

箕輪初心●千葉【関宿城】=疑似天守の博物館
http://53922401.at.webry.info/201404/article_9.html

箕輪初心●千葉:猪鼻城→千葉城
http://53922401.at.webry.info/201404/article_10.html

箕輪初心▲千葉寺:坂東33観音第29番札所=千葉氏の祈願所
http://53922401.at.webry.info/201404/article_11.html

箕輪初心○千葉【大巌寺館・生実城】&「生実城と小弓城の関係」
http://53922401.at.webry.info/201404/article_12.html
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■訪問日・・平成21年(2009)12月23日(水)
千葉青葉区の弟宅・・インターネットで千葉市の城を探した。
余湖さんのHPが大変参考になった。この3年後、余湖さん
&埋もれた古城さん&チエゾーさん&北緯36度・37度さ
んに2回も御一緒させていただくなんて思いもしなかった。
3時間で行けるのは、①千葉寺 ②生実(おゆみ)城 
③有吉城 ④賀曽利遺跡 ⑤千葉城と決めた。
しかし、実際は①千葉寺 ②大慶寺砦 ③生実(おゆみ)城 
④小弓城 ④八劔神社 ⑤城の台遺跡 ⑥有吉城 ⑦千葉城
であった。


【4】長山砦・・・★通っただけ。
柏崎砦&長山砦・・・2つの砦は生実城の出城である。
生実城と小弓城を結んだラインの中間点に位置している。
生実城の南東約800mほどの所にある。
比高約20mの舌状台地先端部にある。
現在城祉には、生浜東小学校がある。
西側の斜面に腰曲輪らしきものがあるが、遺構は不明。
(★余湖さん)


【5】小弓城
●生実城から東の京成千原線の駅を越え、右折しスーパーの
前に出た。更に右折すると大百池(おおどいけ)公園の駐車
場に出た。
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後でわかったが、城の台遺跡の西だった。
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●千原線の線路の東が有吉城になっていると、思った。
帰るつもりで、山道を左折すると、土塁のように切り崩した
場所にでた。

●細い山道を20m程、歩いて登った。

●広い台地が広がっていた。
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★ 「ここが城の台かあ。」と思った。
近所の方に聞いたが、「ここではない。」という。
でも、後で調べると、ここは小弓城だった。



○車で一回りした。八剱神社に出た。

●八剱神社
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・土塁らしき物があった。

【7】城の台遺跡=城の台城?
●大百池(おおどいけ)公園の駐車場からバイパスに戻った。
扇田小学校の信号を左折した。
整備されたミニ公園から歩いてすぐに行けそうだった。
この時はまだ、有吉城だと思っていた。
でも、本当は大百池の北東200mの地点だった。
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●比高約20m程であった。
  5分ほど歩くと、東端部に出た。
 東屋があり、芝生で整備されていた。

●看板があった。
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現地案内板には「城の台遺跡」という題が書かれていた。
「・・・旧石器時代の石器や縄文時代・古墳時代~平安時代
 かけての村の跡が・・・・(中略)・・・・戦国時代に城が
 あった可能性もある。」
と言った説明があった。
城の台遺跡の発掘調査の結果は中世の城館に関する遺物は
出土していない。
・・・城跡ではないのではないかとがっかりした。
でも、東側端は、土塁・虎口・枡形のようにも見えた。
「城の台」は戦国期の城館跡ではないかと想像されて
 きたらしい。
陣城のようにすぐに廃棄された城かもしれないと思い込もう
 とした。

●砦広場から、有吉城を眺めた。
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★北条氏が前線基地として築いた城だろう。
そして、北条綱成の立て籠もった城かあ。


【8】有吉城
●城の台遺跡から扇田小学校の信号を越え、坂を登った。
弟が「この辺りじゃないの。」と言ったが、先に行った。
有吉の信号・・日枝神社の手前を左折した。
だが、宅地ばかりで分からない。
宅地の中を一回りして、少し大きなT字路を左折した。

●日枝神社下の道の壁に大きな「遺跡地図」を発見した。
有吉城がさっき通って来た場所だと分かった。
  戻って、寺の角に車を停めた。
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●崖・土塁下に歩いて行った。
土塁かもしれない。
  北条氏が築いて篭城した有吉城か思った。

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西から、小弓城・大百池を挟んですぐ東側に城の台・
さらに東に扇田小学校の東が有吉城であった。


◆◆ 有吉城の歴史:北条綱成の城 ◆◆
※天文7年(1538)第1次国府台(こうのだい)合戦
 古河公方足利晴氏に娘をくれた北条氏綱は小弓公方:
 足利義明(晴氏の弟)を敗死させた。
 →北条氏綱は、馬加氏の千葉城・原氏の小弓城を降伏
  させ、配下にした。
→そして里見に対する前線基地の城として有吉城を
  築城した。

※天文21年(1552) 里見義たか軍・正木軍は下総から北条
 勢力を排除するために、有吉城を包囲。
  →城将北条綱成は篭城し、かろうじて里見軍を撃退。
■有吉城は木更津市の有吉城がそうなのではないかという
説もある。
(余湖さんのHP)



◆◆ 生実城&小弓城 ◆◆ 
2つの「おゆみ城」の関係をどう見るべきか。
●「おゆみ」城と言う名の城は千葉市中央区の約1km
離れた同じ場所に2つある。
北に位置する城を北生実城とし、南側に位置する城を小弓城
=南生実城と呼んだりしている。
【1】旧来説(通説)
①南の「小弓城」は原氏の城→原氏+小弓公方の城
②北の「生実城」は小弓公方滅亡後に原氏が築いた城
 →理由・・・大規模城郭が並立する説明に都合がよかった。
 室町時代に、千葉氏重臣:原氏が本拠を南にあった小弓城
 に構えていた。
上総武田信勝氏と小弓公方の攻撃→落城。
 小弓城へは小弓公方の足利義明が入城。
      房州一帯に勢力拡大。
 第1回目の国府台合戦・・・
  小田原北条氏に小弓公方は敗れ、足利義明は戦死。
 原氏が再び入城。今度は小弓城の北に新たに生実城を築き、
  再びそこを本拠とした説。

【2】近年の説=千葉市教委説・・発掘の成果
 →小弓公方の時代から生実城は存在していたという説
 原氏の本拠は当初から北生実城であったという説。
 =北小弓城説
発掘調査で北生実城は既に存在していた事が確実となった。
旧城=小弓御所跡の城を「南生実城」
新城=生実藩陣屋跡の城を「北生実城」
呼んで区別している。

小弓城は、発掘調査などでは裏付ける出土品はほとんど
ない。
原基胤を追った小弓公方:足利義明も、北生実城=
「北小弓城大手口」という石碑を建てた場所に入城
した可能性は高い。
※足利義明の御座所・・・主郭辺りか?
 「重俊院の僧の語りしは、『寺を去ること東の方
  数歩にして、小弓御所義明の館跡なり。』・・・」
(★金ヶさく紀行)明和2年(1765)
(★千葉市の戦国時代の城館跡)

【3】梁瀬氏説・・・北生実城(「千葉城郭研究」簗瀬氏)
  このような言い方もできる。生実城は北の新城である。

【4】余湖氏説・・・生実城が小弓公方の時代には存在
  していた説。わずか1km南に、外郭を伴った小弓城
  が存在している事実をどのように捉えればよいのであ
  ろうか。
  同時期に外郭部分を持つ広大な城郭を2つも存在させ
  ていたことの理由が分からなくなる。
 ①小弓城は北条氏の番城のような城
小弓城は上総地方への前線基地で、北条番城として築かれた
  城である可能性があると思う。
 ②生実城は原氏の拠点的な城郭であった可能性があると思う。
  小弓城の外郭部にも堀底に段の見られる幅10m以上の
  堀が存在。(北条氏の畝堀?) 

【5】勝手な説
  原氏は小弓城+北小弓砦→生実城として拡張工事した城



◆◆ 古河公方:足利義明&2つの「おゆみ城」 ◆◆
・永正9年(1512) 8月頃 鎌倉は相模守護:扇谷上杉氏の支配下
  であったが、伊勢宗瑞=北条早雲の支配下に置かれた。

※永正の乱
 第2代古河公方:足利政氏 VS 第3代公方足利高基
父子による対立があった。

・永正13年(1516) 縄釣りの戦い
 ①足利高基の義父:宇都宮成綱が足利政氏の支持派:佐竹義舜
 ・岩城由隆に勝利した。
 ②足利政氏支持派の那須氏が宇都宮氏と同盟を結んだ。
 ③足利高基支持派:小山政長が小山氏の主導権を握った。
 →父:足利政氏の敗北した。
  足利政氏は扇谷上杉朝良を頼って岩付城へ移った。

・永正15年(1518) 上杉朝良が死去。
 
 
【5】足利公方家内紛:第三代足利高基VS 足利高基弟:義明
※足利高基には、僧侶となっていた空然(こうねん)という
 弟がいた。足利高基の弟:空然は、鶴岡八幡宮若宮別当で
 あった。
「足利公方&社家体制」を支えていた。

・享徳年間(1553)~文明年間 享徳の乱
上総国に甲斐武田氏の分家:真里谷武田氏がいた。
武田信満の次男:武田信長が古河公方2代目:足利成氏の
家臣となった。成氏の命で上総に攻め込み、関東管領:上
杉氏の所領を横領するなどして戦国大名化した。
真里谷氏第5代:真里谷信清(恕鑑)は関東制圧という野
望があった。しかし上総近隣には古河公方と親密な結城氏、
千葉氏の勢力が存在していた。そこで真里谷信清は「空然」
に目をつけた。
・永正年間初期・・真理谷信清は「空然」を還俗させて
「足利義明」と名乗らせた。
兄:足利高基が古河公方を確立すると、反抗し始めた。


・永正14年(1517) 真理谷信清の小弓城攻撃
※足利義明の小弓入城説
 永正14年説・15年説・大永2年説がある。
 (★ウキペディアより)

 上総の真理谷武田信清が高基派の下総:原基胤から
 小弓城を奪取した。

 足利義明は下河辺庄高柳から小弓城(現千葉市)に移った。
 足利政氏の後継であるとして、小弓公方を名乗った。
 真理谷武田信清は下総小弓城に迎えて小弓公方として
 擁立し、真理谷信清は足利義明を傀儡として実権を掌握
する算段であった。・・足利義明が足利一族であるという
大義名分のもとに勢力を関東一帯に拡大しようと企んだ
のだった。

城主:原基胤(朝胤嫡子)が戦死。
 原朝胤系が断絶したために原式部大夫(少輔) 胤清は
 その後を継いだ。
 足利義明の追及によって高城胤吉の根木内城は小金城に
 逃れ、更に北条氏綱を頼ったと言われている。
(★ウキペディア)

◆◆ 原氏系図 ◆◆
 千葉貞胤→兄:氏胤→・満胤→長男:兼胤
↓ 次男:馬加康胤
      弟:原胤高→胤親→生実原胤房→胤隆
朝胤
 ●原胤隆→基胤
胤清→胤貞→胤栄→吉丸
範覚(妙見座主)

原式部大夫(少輔) 胤清・・・不明~弘治2年
 


~~~~小弓公方の成立~~~~~~~
結果・・・足利公方家は分裂した。
 小弓公方:足利義明は、扇谷上杉朝良・安房国の里見氏、常陸国
 の小田氏・多賀谷氏らに支持された。
 北条氏綱も真理谷武田氏との関係により、小弓公方を支持した。
・・・大勢力であった。
真里谷信清の時代に全盛期を迎えた。
小弓公方:足利義明は真里谷氏の傀儡政権のような状況
になった。


・永正16年(1519) 実兄:足利高基は椎津城(市原市)を攻撃。
 実弟:足利義明は里見氏の軍勢で反撃した。
 その後も、古河公方VS小弓公方 の対立が続いた。


小弓公方:足利義明側・・・
 安房の里見氏や千葉一族:臼井氏・・・
 常陸国の小田氏


古河公方:足利高基側
  真里谷氏一族の庁南武田氏。

足利義明は傀儡の立場で我慢するような人物ではなかった。
千葉氏の本拠:本佐倉城・古河公方の支城:関宿城への
野心を持っていた。

※後北条氏綱は伊豆・相模両国を制圧した。
先述のように当初は北条氏綱も真理谷武田氏との関係により、
小弓公方を支持した。真里谷氏をバックボーンとした小弓
公方:足利義明が北条氏綱と連携を望んでいたので敵対は
していなかった。

・大永4年(1524) 北条氏綱の侵攻。
 ①北条氏綱が江戸城を攻撃→占領。
 ②北条氏綱が岩付城城を攻撃→占領。
 ※扇谷上杉氏は、江戸城と岩付城を続けて失った。
 →江戸湾=東京湾の西部沿岸一帯を完全に制圧した。
 江戸湾東部沿岸を小弓公方・真里谷氏・里見氏が
 支配していた。
 後北条氏の軍事力に対する危惧・警戒感が一気に高まった。
 
 小弓公方・真里谷氏は江戸湾の制海権を掌握しかねない
 という危惧感を持った。後北条氏との対立を決意した。

 
 ところが、足利義明の排除を図る古河公方&
  江戸湾の制海権の確立を図る後北条氏の利害が一致
 した。・・・足利高基&北条氏綱が盟約を結ぶきっかけ
 となっていった。



1)古河と小弓の分裂
・享禄4年(1531)
 ①関東管領が高基次男:上杉憲寛から
  上杉嫡流の憲政に代わった。
 ②足利高基は北条氏綱に接近し始める。

・天文2年(1533)~天文3年 天文の内訌
里見氏内部で発生した家督相続争い→
小弓公方:足利義明は真里谷信清に命じて小弓派の里見義豊
の支援に当たらせた。
しかし、里見義豊は里見義堯に討たれてしまった。
足利義明 VS 真理谷信清
足利義明が勝利
足利義明は真理谷信清を出家→隠居させた。


・天文3年(1534) 真理谷信清は死去。
   病死説・・義明の毒殺説もある。
(★ウキペディア)

③上総の真理谷武田氏の家督争い
  兄:真里谷信隆 VS 弟:真里谷信応
  北条氏綱は里見義堯・真里谷信隆を支持。
  足利義明は里見義豊・真里谷信応を支持。
 
 足利義明は里見義堯を調略し、真理谷信応を支持
  させた。そして、真理谷信隆を追放した。
結果・・・真理谷武田氏は大きく衰退した。
 足利義明は傀儡の立場から脱却し、名実ともに
  小弓公方として台頭していった。
  小弓公方家は急速に勢力を拡大してゆくこととなった。
古河公方家や後北条氏と対立した。

④北条氏綱の武蔵侵攻→扇谷上杉氏の勢力も後退。

・天文4年(1535) 足利高基が没した。
  足利晴氏が第4代古河公方となった。

※後北条氏や古河公方は小弓公方家の急速な勢力拡大に
 危機感を抱かせた。
 古河公方は小弓公方は同盟を結んた。
※足利義明は古河公方と後北条氏が結びつくのを嫌った
 からである。

・天文6年(1537) 北条氏綱の侵攻。
北条氏綱の河越城攻撃→占領。
 ※扇谷上杉氏は本拠の河越城も失った。


足利公方権力の分裂激化~~~~~~~~~
古河4代足利晴氏VS小弓公方
2)小弓公方の滅亡(国府台合戦・第四代足利晴氏)


・天文7年(1538) 第一次国府台合戦(千葉市)
 足利義明は真里谷信応や里見義堯ら房総の諸大名による軍勢
 を率いて北条氏綱・足利晴氏連合軍との決戦を決意した。
 
足利晴氏の上意を得た北条氏綱が下総国府台に侵攻した。

 足利義明は一時は北条・足利軍を大いに押した。
 しかし、里見義堯が消極的であった。また真里谷氏内部
  にも義明に対して不快感を抱いていた者も多かった。
 足利義明の軍勢はやがて北条軍の反撃を受けて壊滅した。
 足利義明自身も討ち死にした。

小弓勢を打ち破った。
結果・・・足利義明が敗死して小弓公方は滅亡。
①足利義明の身内は里見氏を頼って安房に逃れ、
 小弓公方は事実上滅亡した。
 古河・小弓分裂状態が解消された。
 北条氏の南関東における覇権確立の基礎が固められた。

②真里谷氏では再び、信応と信隆による家督争いが起こった。
 急速に衰退し、やがて里見氏に攻められた。
 しかたなく北条氏康の家臣として仕えることとなった。

③足利義明の長女:青岳尼は鎌倉の太平寺に尼として預けら
 れていたが、里見義堯の嫡男:義弘の懇願により正室とな
 った。足利義明の旧臣の多くが里見氏に仕えることとなった。


④小弓城は北条氏の支援を受けた千葉氏が奪還した。
原胤清は北条氏綱の後ろ盾を受けて、小弓城を奪回した。
小弓城(生実城)を奪還した城の北側に新城を造った。
「生実城」と改名した。
しかし、発掘調査から、おそらくは父:原胤隆の代には
生実城があったとされる。

原一族の原友胤&原虎胤父子は小弓城合戦にて足利義明軍
に敗北した。甲斐に落ち延び武田家に仕えた。
原虎胤は武田二十四将になった。
その後、原胤貞→胤栄→吉丸は北条氏の中心的な立場に立ち、
馬加千葉氏の千葉昌胤・利胤・親胤の3代にわたって千葉氏
の実権を握った。
北生実城は上総と下総の境目城のため、激しい戦乱の舞台
であった。
・天正2年(1574) 原胤貞の子:胤栄は里見勢に生実城を
追われたため、臼井城(佐倉市)を本拠とした。



・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原の攻撃
 生実城は廃城になった。
毛利家文書「関東八州諸城覚書」には
臼井城・・・「原大炊介2500騎・・・」
千葉城は3000騎であった。
生実城は臼井城の支城となっていた。






★参考サイト
「埋もれた古城」さん
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Chiba/Oyumi/index.htm



★明日は?

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