箕輪初心○千葉【大巌寺館・生実城】&「生実城と小弓城の関係」

生実城跡は内房線浜野駅から北東約2kmに位置する。
生実城は南北約800m×東西約700m、総面積32万平方m
にも及ぶ大規模城郭である。宅地造成により、遺構の残存
状況が悪いが、僅かに生実神社の西の空堀&大手土塁が
残っている。

画像

 (★千葉市の城砦)


*****************************************************
箕輪初心★千葉旅行17回一覧
http://53922401.at.webry.info/201404/article_8.html

箕輪初心●千葉【関宿城】=疑似天守の博物館
http://53922401.at.webry.info/201404/article_9.html

箕輪初心●千葉:猪鼻城→千葉城
http://53922401.at.webry.info/201404/article_10.html

箕輪初心▲千葉寺:坂東33観音第29番札所=千葉氏の祈願所
http://53922401.at.webry.info/201404/article_11.html
*****************************************************






■訪問日・・平成21年(2009)12月23日(水)
千葉青葉区の弟宅・・インターネットで千葉市の城を探した。
余湖さんのHPが大変参考になった。この3年後、余湖さん
&埋もれた古城さん&チエゾーさん&北緯36度・37度さ
んに2回も御一緒させていただくなんて思いもしなかった。
3時間で行けるのは、①千葉寺 ②生実(おゆみ)城 
③有吉城 ④賀曽利遺跡 ⑤千葉城と決めた。
  

【1】大巌寺館 
※弟が
「淑徳大学幼稚園は子どもを行かせたかった。」
と話していた。名門校なのだそうである。
●大巌寺館
淑徳大学+幼稚園の東隣は大巌寺の境内にある。
台地と台地の間の窪地にあった。
画像

浄土宗の大巌寺の山門の脇の池は堀であろう。
  巨大な赤い山門があるが、城郭的な要素が水堀位しか
  見あたらない。
画像

画像

●大巌寺
・天文20年(1551)に生実(おゆみ)城主:原胤栄が開基
 した。江戸時代には関東18檀林の1つであった。
 本堂の脇には大巌寺の由来や不動明王について記され
 た看板があった。
画像


●「大巌寺・生実の城址コース」を案内板
画像

・・・・5、0km、1時間40分のコースである。
 大巌寺から生実城を散策することにした
画像




【2】柏崎砦・・・★遠望のみ
生実城の北西約500mの地点にある。
比高20m程の断崖城。
生実城の北方の守りを固めていたと思われる。
現在城址は、千葉工業高校や生実小学校の敷地内で
遺構は消滅。


【3】 。生実城→森川陣屋 
・大巌寺からの沢・生実池へ行った。

●生実池から城を望む。
画像

比高7~8m程であるが、たいした城とは思えない。
  ★戦国時代は沢と湿地・沼地では?
西への池沢・北の窪地(鉄道の北)を水堀として利用し
 防御を固めたのであろう。

そして、空堀を南から東に造成したのではないだろうか?

●生実池の真ん中の道を進むと、細い曲がりくねった路地
があった。
画像



●重俊院・・・重俊院の山門は立派だった。
 重俊院にある森川家累代の墓の入口は、城の土塁などを
  利用した墓らしい。
 ・・・森川重俊は徳川秀忠の小姓として仕え、後に徳川
  秀忠の死に際して、殉死したそうだ。


●本城公園・・・案内板がひっそりと建っている。
 城の中心部の遺構は分からなかった。
生実城の本郭や主要な曲輪は、昭和44・45年の宅地
造成で住宅地になり、遺構などはほとんど残っていな
かった。



●生実神社
・脇に車を停めて、神社を見にいった。

・神社の門に行った。
画像


●案内板
画像

朝廷から冤罪を掛けられた藤原広嗣などを祭神として、
天文年間に原氏によって建立されたものだという。
画像

画像


●土塁や櫓台??
 ★いつのものなのか分からない。


●生実神社南西側の堀跡
画像

幅は約10m程で、深さは5~6mであった。
戦国時代はもっと深かったのだろうと
 思いながら、来てよかったと思った。
北条氏の城になったのなら、発掘すれば、畝堀か障子堀?
などが出てくるかもしれない。などと勝手に想像した。

画像

画像



・堀の中から
画像

画像

後で、余湖さんのインターネットを引くと
「現在ではほとんど唯一といってもよい遺構である。」
と書いてあった。
「生実神社西側と第五郭の間に残る堀だけがはっきりと
遺構として分かる。」
と書いてあった。

千葉城博物館の企画展の冊子で調べ
ると、発掘調査で堀は畝堀だったそうである。

北条時代の遺構なのだろうか?
画像


●生実神社南西の第五郭
画像

※生実神社と重俊院の間)は森川藩の陣屋跡になっている。
森川氏の陣屋が置かれた際にどの程度改変され
ているのだろうか?
 
第一郭(本丸)、第二郭、第三郭と連郭式に並べているのに、
第五郭は独立状態の一城別郭のような郭だったので、
 利用・転用したというように考えておく。

(後日、余呉氏のHP参考)

しかし、私は中世には第一郭(本丸)、第二郭、第三郭と
魚の鱗状になっていて、第四郭が森川陣屋で、第五郭と
なっていたのではないかと単純に考えた。



●生実神社を曲がった。北方面に行った。
下り込むと踏切にでたので、引き返した。
外堀付近であろう。
 大慶寺砦~柏崎砦が見えた。
画像

画像




●大手口を探しに行った。
画像

画像

高速に続く道には橋が架かっていた。
弟が
「城の外側かもしれないというので、300m歩いた。
下を見ると、削塀したと思われる地形が川に沿って
見られた。
東にもわずかに堀らしき遺構?がある。


●大手口の外郭・・・
発掘調査で、大手口の土塁・丸馬出・畝堀が発見された
らしいが、現在は土塁の一部しか分からない。
畝堀は北条氏が、丘陵?台地全体に畝堀が掘ったのか
もしれない。



★街道沿いに南東方面に城下町並みが置かれて
 いたようだ。




◆◆ 生実城の歴史:千葉一族重臣原氏の城 ◆◆
・大治元年(1126) 千葉介常重は本拠を亥鼻城に移転。
     千葉常重の子常胤の代には全盛期。
   ・・・石橋山の合戦に敗れた源頼朝を補佐。  

・室町中期  鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏との抗争
      が激化。→千葉氏も分裂し、勢力低下。

・康正元年(1455) 千葉一族の馬加(まくわり)康胤や千葉
   一族重臣原胤房の襲撃→千葉城焼失。
   千葉氏嫡流の滅亡。

・文明元年(1469) 日泰が浜野に本行寺の開設。

★文明年間・・・・小弓城を築城。
・文明3年(1471)
原胤房が
「小弓館にて、討ち死にす。」


・永正6年(1509) 上総の武田宗信 VS 原宮内少輔胤隆 
       ・・・武田敗退。

・永正6年(1509)宗長が原宮内少輔胤隆の生実城を
訪ねた。
本行寺に滞在し・・・
11月14・15日、・・千葉の妙見の祭礼に行き、
11月16日に延年の猿楽を見物している。
11月17日 原胤隆の館で連歌会
11月18日 ?
11月19日 原胤隆の館で連歌会
延年の若衆と20人余りと明け方まで宴を興じた。
※浜野には7泊したのであろう。



・永正15年(1517)  
 足利義明(古河公方2代目利政2男)
   +武田一族真理谷信勝・里見義通
足利義明(古河公方3代目弟)+武田+里見 
   VS 
足利晴氏(古河公方3代目)+北条氏綱   

※足利義明の御座所・・・主郭辺りか?
 「重俊院の僧の語りしは、『寺を去ること東の方
  数歩にして、小弓御所義明の館跡なり。』・・・」
(★金ヶさく紀行)

・天文5年(1536)? 原胤隆が死亡。

・天文7年(1538)  第1回目の国府台合戦・・・
  小田原北条氏綱に小弓公方は敗れ、足利義明は戦死。
  里見氏は遁走。
  原氏が再び小弓城に再入城。
  今度は生実城を築き、本拠?・・・説が分かれる。
  (下記)

・天文20年(1551) 大巌寺の造営
   生実(おゆみ)城主:原胤栄に開基した。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原の役の後、廃城。
※臼井城・・・「原大炊介2500騎・・・」
(★毛利家文書「関東八州諸城覚書)
生実城は臼井城の支城となっていた。
※千葉城・・・3000騎

 西郷家員(いえかず)は5000石で入封。
  陣屋を設置。陣屋の規模は不明。


・元和6年(1620)西郷正員は東条藩(鴨川)の
1万石で移封。
代官支配・・・

・寛永4年(1627) 森川重俊が生実藩1万石で入封。
  1万石で配され、明治まで存続。
  森川陣屋に住んだ。
重俊寺は森川氏の菩提寺となった。



◆◆ 生実城&小弓城に関する論争 ◆◆ 
2つの「おゆみ城」の関係はどうなっているのか。
●「おゆみ」城と言う名の城は千葉市中央区の約1km
離れた同じ場所に2つある。
北に位置する城を北生実城とし、南側に位置する城を小弓城
=南生実城と呼んだりしている。
【1】旧来説(通説)
①南の「小弓城」は原氏の城→原氏+小弓公方の城
②北の「生実城」は小弓公方滅亡後に原氏が築いた城
 →理由・・・大規模城郭が並立する説明に都合がよかった。
 室町時代に、千葉氏重臣:原氏が本拠を南にあった小弓城
 に構えていた。
上総武田信勝氏と小弓公方の攻撃→落城。
 小弓城へは小弓公方の足利義明が入城。
      房州一帯に勢力拡大。
 第1回目の国府台合戦・・・
  小田原北条氏に小弓公方は敗れ、足利義明は戦死。
 原氏が再び入城。今度は小弓城の北に新たに生実城を築き、
  再びそこを本拠とした説。


【2】近年の説=千葉市教委説・・発掘の成果
 →小弓公方の時代から生実城は存在していたという説
 つまり、原氏の本拠は当初から北生実城であったという
 説=北小弓城説である。
 最近の発掘調査などでは小弓城は、裏付ける出土品は
 ほとんどない。
 原氏を追った小弓公方足利義明も、北生実城=
 「北小弓城大手口」という石碑を建てた場所に入城
したらしい。
 


【3】梁瀬氏説・・・北生実城(「千葉城郭研究」簗瀬氏)
  生実城は北の新城である。



【4】余湖氏説・・・生実城が小弓公方の時代には存在
  していた説。わずか1km南に、外郭を伴った小弓城
  が存在している事実をどのように捉えればよいのであ
  ろうか。
  同時期に外郭部分を持つ広大な城郭を2つも存在させ
  ていたことの理由が分からなくなる。
 ①小弓城は北条氏の番城のような城
小弓城は上総地方への前線基地で、北条番城として築かれた
  城である可能性があると思う。
 ②生実城は原氏の拠点的な城郭であった可能性があると思う。
  小弓城の外郭部にも堀底に段の見られる幅10m以上の
  堀が存在。(北条氏の畝堀?) 




★参考文献
・千葉市の戦国時代の城館跡:千葉市立郷土博物館
・現地案内板

★参考サイト
・余湖さん・・・たくさん参考にさせていただきました。
・ウキペディア





★明日は千葉:小弓城&城の台遺跡など・・・

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック