箕輪初心★茨城筑西市旧下館【陶芸家:板谷破山の生涯】=濱田庄司師匠

板谷波山は東京美術学校で彫刻科の授業を受けた。
板谷波山は石川県工業学校で教鞭を執りながらも、ア
ール・ヌーボーの研究をした。東京工業大学では、濱田
庄司の師匠であった。極貧の生活を耐え、自分の美意
識を追求していった。陶芸家として初めて文化勲章授賞
した人物である。でも、人間国宝を辞退した不思議な陶
芸家でもある。
今度、筑西市に行く時は、板谷波山記
念館のほか、小栗城・関城&下妻の下妻城・大宝城に行きた
いなあ。
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~~~~栃木県益子~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心★栃木【人間国宝:益子焼の濱田庄司】
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/editcheck.do

箕輪初心★群馬「自性寺焼」から移った栃木【益子焼:須藤窯&
末裔田上家「日向ギャラリー」】
http://53922401.at.webry.info/201401/article_13.html

箕輪初心★栃木【益子焼】=笠間焼+安中自性寺焼「須藤」
→濱田庄司・島岡達三などへ
http://53922401.at.webry.info/201312/article_26.html

箕輪初心●栃木県【益子城】&益子そば祭り
http://53922401.at.webry.info/201401/article_9.html

箕輪初心●栃木『板東20番:西明寺』&【西明寺城】=益子氏の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201401/article_10.html

★参考サイト
◆◆ 益子焼【日向窯】◆◆ 
http://hinata-touki.jimdo.com/

※「須藤窯」田上宗利氏の窯
http://www15.ocn.ne.jp/~machiya/hinatagama-sakutouten2.html

◆◆ 益子焼・・大羽【須藤窯】
http://blog.livedoor.jp/jackie7/tag/%E7%A9%B4%E7%AA%AF
★2009年7月21日に群馬県の安中:自性寺焼
 青木先生宅に須藤窯のルーツを調べに見えた
 方だった。
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■訪問日・・・平成15年(2003)4月12日
平成15年(2003)4月12日、私の陶芸の師:青木昇氏が
企画した【青木先生企画ツアー:板谷破山&笠間焼&益子
焼】に参加した。
★ 板谷波山の画像集 ★
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%9D%BF%E8%B0%B7%E6%B3%A2%E5%B1%B1&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=kZcZU9fRIYqGlAXQtYDQDw&ved=0CDQQsAQ&biw=1366&bih=538


【1】茨城:下館「板谷破山の家=板谷波山記念館


○家の前
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★芸術として高い評価を得ている作品はほとんど
が無名の陶工の手・分業の手になるものである。
近世には、酒井田柿右衛門、野々村仁清のように
個人名の残る陶工もいるが、「芸術家」としての「陶芸
家」が登場するのは近代になってからであった。
陶芸家初の文化勲章か・・・
○記念館
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★★ 陶芸家:板谷破山(1872 ~1963)の生涯 ★★
・明治5年(1872)3月3日=4月10日
板谷嘉七が生まれた。
下館の醸造業&雑貨店の結構裕福な家に生まれた。


・明治18年(1885) 下館小学校を卒業。
このころ、陶芸に興味を持ち始めた。

・明治20年(1887) 陸軍予備校:成城学校に入学

・明治21年(1881) 陸軍士官学校を受験・・失敗。

・明治22年(1882) 東京美術学校(現東京芸大)に入学。
岡倉天心から日本美術史、西洋美術史を学んだ。
陶芸科は創設されてなかったので、彫刻科に進んだ。
高村光雲から彫刻を習った。
  
  校長:岡倉天心
  「美術は模倣はいかん、自分の創意でやったものでなけ
   れば、本当の自分がでていなければ、芸術でない、
  独創がなければいかん。」
  という考えに感銘した。
  「創造」と「個性表現」の系譜になった。
  ・・・
  板谷波山は、下妻で培った「木綿織りのデザイン+
  高度な木彫技術を習得した。
  ・・・※後の陶芸で独特の浮き彫り文様に表現された。


~~~~岡倉天心の弟子~~~~~
 日本画家・・・横山大観(茨城)・下村大観・菱田春草
 ・木村武山など・・・・横山大観や春菱田草らは日本画
 「朦朧体」を残した。
 ※板谷波山に「朦朧体」の技法が影響を及ぼした。

・明治22年(1889) 板谷波山は東京美術学校(現東京芸大)
   彫刻科を卒業した。・・「元禄美人」
  
開成予備校で彫刻、中学校で絵画を教えた。

・明治28年(1895) 福島県の鈴木まると結婚した。

・明治29年(1896) 石川県工業学校が新設され、開校した。
  板谷波山は石川県工業学校の彫刻科主任教諭となった。
  
・明治31年(1898) 石川県工業学校の彫刻科が廃止。
  →板谷波山は陶磁器科担当となった。
  本格的な陶磁器研究に着手し、革新的な陶芸を目指した。
  西洋の最先端の窯業技術を国内で最も早く実験した。
同じ先生仲間の
北村弥一郎から結晶釉を・・・
諏訪蘇山から青磁を・・・・・学んだ。
  

・明治32年頃(1899~)  
 ①栃木県下妻の伝統的布柄デザインや更科デザインなど
  日本の伝統美のデザイン=図柄を踏まえた独創的な図
  案を構築していった。
 ②東京美術学校で修得した彫刻技法「薄肉彫」
 ③ア-ル・ヌーボー&エミール・ガレの技法
  板谷波山は、アール・ヌーヴォーにも興味を持っていた。
※ア-ル・ヌーボーが西欧芸術界に旋風を巻き起こして
  いた。
  板谷波山はエミール・ガレの自然主義に近かった。 


・明治36年(1903) 板谷波山は石川県工業学校を辞職。
  東京高等工業学校窯業科の嘱託として教鞭をとること
  にした。
東京の田端に住居兼工房を建てた。
  もちろん、作陶活動を続けていた。
  しかし、板谷波山は貧困の鈍底にあった。
  窯の築造が資金不足から進まなかった。

・明治37年(1904) 郷里の筑波山からとって「板谷波山」
とした。
   
 東京の田端に築窯した。
  東京高等工業学校の平野耕輔教授が指導して、
三方焚口の倒焔式丸窯を建造した。
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  初窯まで2年半近く作品を世に出せなかった。

・明治39年(1906)初窯・・・
轆轤師が有田の深海三次郎であった。
展示即売で大成功した。
 美術コレクター:益田鈍翁に買い上げた。
 
  初窯のうち3点を日本美術協会展に出品した。
  氷裂磁瑞果文花瓶の作品が評価された。
  
・明治40年(1907)・・・このころから友達も増えた。
  ①鋳金家の香取秀真
  ②彫刻家の吉田三郎
  ③文学者の芥川竜之介
  ④文学者の室生犀星などがやってきた。
  ・・・田端は芸術村となった。
 
作品展で賞をとっていった。


・明治44年(1919)?????
「葆光彩磁」を完成させた。

○轆轤は越前の現田市松が担当した。
①彫刻の技を生かした「薄肉彫」で文様を立体的に表現
  した。レリーフ的な・・・
②そして「釉下絵」・・・釉薬の下の素地に直接絵の具を
 しみこませた。
③その上に、白マット釉(つや消し釉)をかけた。④乾燥
⑤焼成
結果・・光を柔らかく包む淡い幻想的な色彩が出たのである。
 輪郭の線が柔らかく、薄い感じの作品にしあがったのだ。

「葆光(ほこう)」とは、光沢を隠すという意味のことである。
板谷波山は「葆光彩(ほこうさい)」という独自の陶芸世界を
切り開いたのだった。葆光彩(ほこうさい)磁の完成は西洋
のアールヌーボーもレベルを超えたとも言われている?

・明治45年(1920)河井寛治郎が東京高等工業学校(現東京
  工業大学)窯業科に入学。
・大正2年(1913) 濱田庄司が東京高等工業学校(現東京
  工業大学)窯業科に入学。
  窯業の希望者は数人しかいなかった。
東京高等工業学校窯業科の板谷波山は窯業の基礎科学
  を①河井寛治郎 ②濱田庄司に教えた。 
  河井寛治郎&濱田庄司は、学校での勉強が少なかったの
  で、板谷波山の田端の窯に通った。
板谷波山から本格的に窯業を習ったのだった。

・大正3年(1914)
板谷波山は葆光彩(ほこうさい)磁の研究を
更に深めた。
 

   数々の展覧会で受賞を重ねた。
   陶芸界での地位を確立した。~~~~~~

  支援者コレクターには、
   住友吉左衛門=住友財閥
   長谷川家=山形銀行
   出光佐三=出光興産などがいた。

・大正4年(1915) 河井寛次郎と濱田庄司は窯元巡りをした。  
板谷波山に伝統的な窯を教わったからである。
  美濃・瀬戸・万古・信楽・伊賀・九谷・京都へ
 
・大正6年(1931)
・板谷波山は大正天皇にお会いした。
    作品を献上した。
  ・島津邸にもうかがった。
  
  ・日本美術協会展に出品。
   板谷波山の葆光彩(ほこうさい)磁が1等賞金杯
   に輝いた。

 
  陶芸界の頂点へ~~~~~~~~
  
・昭和2年(1921)帝展4部「美術工芸部門」の設立。
審査員となった。

・昭和20年(1945)東京空襲。
田端の家が全焼・・・下館に疎開。
近所の窯を借りて作品を作った。

・昭和28年(1953) 陶芸家として初の文化勲章受章した。

・昭和35年(1960) 人間国宝の推薦を辞退した。

・昭和38年(1963)10月10日 死亡。

・昭和55年(1980) 「板谷波山記念館」が開館。
 茨城県筑西市田町甲866番地1。
 板谷破山の使っていた三方焚口の倒焔式丸窯を移転。
 道具・作品などを展示した。



★参考文献
・パンフレット
・板谷波山

  
★参考サイト
「板谷波山記念館」
http://www.city.chikusei.lg.jp/data/hazan/about_hazan/about_hazan.html



★明日は逆井城かな?

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