箕輪初心★箕輪城117【長野家侍大将:安藤九郎左衞門】

永禄4年(1561)、長野業政が病死した。武田信玄による上野
=西上州攻撃が本格化した。永禄9年(1566)、武田信玄の先手
:那波無理之助(宗安)が高浜砦(高崎市旧榛名町)を攻め落
とした。長野家の家臣:安藤九郎左衛門勝道は、那波宗安の進
軍を食い止めるために兵百を率いて箕輪城から出陣した。上州
治乱記巻之三には、「然る所に、箕輪より安藤九郎左衛門、百
騎ばかりに助け来り、白岩山にて、那波と大いに戦ひ、三度ま
で敵を追崩し、深入りして安藤終に討死にす。直垂の裏に血に
て一首あり。
『老いの身は 何国の土に なるとても 
  君が箕輪に  心留まる』
是を見る人、感賞せずといふことなし。」

(★箕郷町誌の近藤義雄先生P1158)
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箕輪初心●箕輪城116【12月新状況&2014年1月1日初登城】&井伊直政手作り甲冑②
http://53922401.at.webry.info/201401/article_1.html

箕輪初心●箕輪城№115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政手作り甲冑①」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心●箕輪城№114『2013年第11回箕輪城祭り』写真集
http://53922401.at.webry.info/201310/article_28.html

箕輪初心★箕輪城113川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心:箕輪城102「2013箕郷狐の嫁入り&農大二高」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_7.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html

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【1】板東16番「白岩の長谷寺」&白岩砦
★安藤九郎左衛門の戦死した場所の近く。
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★白岩砦の写真が見つからない。



【2】安藤家の墓にある碑
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【3】安藤安藤九郎左衛門の墓・・菩提寺「龍門寺」
 ★井伊直政の母の再婚相手で義理の父:松下の墓
★初代:岩鼻県知事大音龍太郎が3年いた寺
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【4】箕輪城に積もった雪
★平成26年(2014)2月8日、大雪で箕輪城でも積雪30cm
程あった。2月9日の散策
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【6】上毛新聞の「箕輪城」1月5日
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【6】箕輪城1月25日
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・大堀切にできた階段
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【7】箕輪城語り部の会の新年会2月10日
  参加者8名 ★雪のため、参加者減少。
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【8】那波無理之助
~~~武田信玄家臣:那波無理之助&箕輪城の落城~~~
箕輪初心●群馬【茂呂城】と『那波一族の歴史詳細』
http://53922401.at.webry.info/201301/article_14.html
箕輪初心●群馬伊勢崎【那波城&那波無理之介」
http://53922401.at.webry.info/201301/article_13.html
・永禄4年(1561)『由良成繁』が那波城主に抜擢された。
  上杉謙信の命により、那波一跡を知行として支配する
  こととなった。
  由良成繁は、戦勝は『伊勢神宮』の御加護であるとし、
  赤石郷を伊勢神宮へ寄進した。
  ※伊勢崎の「伊勢」の発祥ではないかと考えられている。
 ★しかし、那波氏は旧領安堵ではなかったから、悔しかった
   であろう。
 
・永禄5年(1562)北条(きたじょう)高広を厩橋城代とし、
   那波城・伊勢崎城を支配した。

・永禄6年(1563)  北条高広が厩橋城代。
   那波顕宗(かげむね)が北条高広の妹を正室にした。
 ★政略結婚

  長男:那波無理之助=名和宗安は武田信玄の家臣として
  箕輪城攻撃に参加していた。
 
・永禄9年(1566)
  那波無理之助=名和宗安は武田信玄の先方となった。
  那波無理之助は高浜の戦いでも活躍した。

・長篠の戦いで、酒井忠次に鳶ヶ巣の急襲により
 戦死した。


【1】蓑輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏
 武田信玄は那波無理之助に秋間の城(口碑によれば、蔵人城
 主:島崎蔵人、礼応寺城主:赤見藤九郎)を攻略させた。
 那波無理之助は夜暗を利用して、二百の少勢をもって雉ヶ尾
峠を越え、雁又、茗荷沢、雉郷、里見の各砦に配した長野方、
 里見河内等の警戒網の間隙を縫い、烏川を渡って高浜の砦に
 襲い掛かった。
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 (★高浜城)
砦の将、鷺坂常陸守介長信はあたかも箕輪城にあって
「留守の家人防戦するも、敵は目にあまる大軍なれば、
 留守部隊は敗れ・・」と各戦記は記している。

 

ここからは、近藤義雄先生の意見~~~~~
 もし無理之介が、雉郷城か里見城にかかって里見河内と一戦
 していたとすれば、鷺坂は急遽高浜の砦に帰り、箕輪からも
 援兵が加わって砦を固めていたはずである。
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 (★雉郷城 ・・・安中&榛名の境目の城)
 この砦から東、白川が烏川に合する地点に至る間には、所
謂本郷崖の絶壁が続いていて渡河点はなく、以西は鷹留城の
防御範囲であって、そこからの進撃は、鷹留城の強力な反撃
を受けやすい。その切際部を固めた高浜の砦は、箕輪方が放
棄するわけがなく、事実、この砦の失陥が箕輪の落城を早め
たのである。
 無理之介の行動は、その名の如く無理な作戦であって、これ
が成功したことから、雉ヶ尾峠突破は夜間行動であり、任務は
強行偵察を兼ねていたものと判断される。しかも、精強な武田
勢は機を失せず、戦果を利用し、突破口を拡大するため、那波
隊の直後に飯富、小宮山の有力部隊を進めていたのである。
那波隊が砦に突入放火し、守兵が箕輪に向かい敗走した頃には、
飯富、小宮山勢は雉ヶ尾里見両城に攻めかかり、背後の高浜の
砦にあがった火の手を見て、動揺した城兵を圧倒してたちまち
城を占拠したと思われる。
このことは、箕輪城に関するどの戦記にも記されていないが当
然のあるべき戦況かと考えられよう。
 雉郷峠の失陥が、この稜線に備えた第一戦防衛陣の無力化を
意味する。
『敵は目に余る大群』というのは、200の那波軍を呼ぶにはあ
 まりな誇張であるが、砦を焼いた那波隊は、白岩に向かって
 突進した。
(★箕輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏)



【2】上州治乱記→上毛古戦記:山崎一氏
 武田信玄は安中忠成を先鋒として秋間の諸城を攻略した。
 八貝戸、内出、蔵人、礼応寺の諸砦は追い落とされ、里見河内
 の守る雉郷、里見の両城も落ちて鷹留城は正面から敵を受ける
 ことになった。
 武田方先鋒は烏川北岸に備えた長野業勝(業通弟)の軍を突破
 して渡河に成功した。那波無理之助は手勢250余騎を率い、
 高浜の砦を襲った。砦将、匂坂常陸守介は箕輪城にあって
 留守の小部隊は防戦のあと、砦を捨てた。那波無理之助は
 ・・・(中略)・・・
 那波無理之助は白岩砦に進んだとき、箕輪城から出撃した
 安藤九郎左衞門の100余騎と遭遇。白岩観音堂付近で激戦と
 なった。安藤九郎左衞門は戦死した。

那波勢が観音堂の仏像や教巻などを担いで・・・
 そこで、青柳金王・新波新左衛門は200の兵を率いて、白岩に
 向かった。・・那波勢を破って、烏川の南岸まで追いやった。
(★上毛古戦記:山崎一氏)


私見
 若田ヶ原から里見河内守の城:高橋隼人正の守る
 雉郷城(旧榛名町)を攻撃した。
 武田信玄に家臣になった安中忠成(甘利昌忠の娘婿)
 は旧支配下の礼応寺城(安中市秋間)などを攻略した。
 箕輪城の大支城:鷹留城(旧榛名町)は正面に見えるよ
 うになった。
 武田信玄の「箕輪城攻略作戦」は、
  まず、箕輪城(旧箕郷町)&鷹留城(旧榛名町)の分断。
次に、鷹留城を先に攻略。と考えたのであろう。
侵入経路は
  ①雉郷砦→里見城・上里見城→西からの鷹留城攻撃→
  ②雉郷砦→高浜砦→三ツ子沢砦→神戸砦→駒寄砦→
       南からの鷹留城攻撃
       →宮沢砦→東からの鷹留城攻撃
       高浜砦→白岩砦→箕郷の童子砦・・箕輪城
※白岩から箕輪城まで、4km程である。


 
 
※9月29日(=新暦11月2日)箕輪城を攻略。
 那波無理之助はその後の箕輪城合戦でも活躍した。
 以後、16年、箕輪城は武田信玄の支配下になった。

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