箕輪初心★群馬「自性寺焼」から移った栃木【益子焼:須藤窯&末裔田上家「日向ギャラリー」】

青木先生、自性寺焼の末裔:田上先生にお会いでき
た。私の益子焼の一番の興味は、群馬の自性寺焼の陶工
「須藤勇次郎」が栃木の益子焼に移住したことである。
自性寺焼の技術がどんな形で伝承されているのか?
結果・・私の力では見分けることが無理であった。

明治初期、上野国の安中自性寺焼の陶工:須藤勇次郎が
移住した。私は、昨年12月、4回益子焼を訪問をブログ
に書いた。しかし、平成26年(2012)1月11日、自性寺
焼の青木先生から、「須藤さん宅は茂木町ではないよ。
『日向窯』『須藤窯』の須藤家は益子参考館の前だよ。」と
教えていただいた。私は早速、Hpで『日向窯』『須藤窯』
を調べた。『日向窯』「初代:須藤勇次郎→須藤安太郎→
(兄:須藤政雄)弟:須藤武雄→田上勇→田上宗利」と
続くらしい。翌日、1月12日、『日向窯』の田上宗利さん
を訪ねた。そして、たくさん、お話させていただいた。
田上勇先生&奧様は、自性寺焼の青木先生を訪ねて
いることも分かった。大変、お世話になりました。

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 (★田上宗利氏の柿釉
  黒く出るのが・・・濱田庄司の開発した物
  と田上先生から教えていただいだ。)




【5】5回目の訪問日・・・平成26年(2014)1月12日

1)益子参考館・・・濱田庄司の家
ここで、『日向窯』の場所を教えていただいた。


2)『須藤窯&日向ギャラリー』
・・・現四代目:田上勇氏→五代目:田上宗利氏
★ツカモトから100m
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★濱田庄司の技や庵赤の自性寺焼の伝統を
 受け継ぐ田上氏の窯・・・・
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 (★敬称略)
【1】初代:須藤勇次郎
・江戸時代末期 上野国(現群馬県安中市下秋間)に生まれた。
・安中の秋間:自性寺焼の陶工にになった。
・江戸末期~明治初期 現真岡市益子町が益子町道祖土(さやど)
移住した。
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%9B%8A%E5%AD%90%E7%84%BC%E3%80%80%E9%A0%88%E8%97%A4%E5%8B%87%E6%AC%A1%E9%83%8E&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=8qzTUqnNAsamkAWhx4CgDw&ved=0CEIQsAQ&biw=1366&bih=577
・明治時代 梨本宮に水瓶を寄進?
    ・・・東京国立博物館にあるらしい?
 (★5代目:田上宗利氏の母曰く)
 ※梨本宮は、伏見宮貞敬親王の第 9王子守脩親王が創設した宮家。

【2】2代目:須藤安太郎
 「須藤窯は多くの職人を抱える有数の窯元になった。」
 とあった。
★つまり、原石または陶土の出るところ、おそらくは、
  大羽に益子の陶石の出る場所を確保したのではないだろうか
と思っていますが、いかがでしょうか?。
田上宗利さん・・どこでしょうか?
陶石が出る場所を確保できたのが、須藤安太郎氏の
 優れた面なのであろうかと思います。そして、職人を
 を抱え、分業制を敷いたのではないでしょうか?
  



   3代目(兄:須藤政雄)・・・日向窯
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【3】3代目:弟:須藤武雄
1931年 栃木県益子町生。
濱田庄司氏に師事。
1973年 栃木県代表として、訪中陶芸視察。
1974年 個展毎年二十九年間、東京銀座松坂屋。
1977年 第二回北関東美術展受賞。
1978年 益子参考館前に築窯。・・・濱田庄司氏の推薦。
1981年 「益子の土に生きる」・・・単行本出版。
1「浜田庄司先生を師と仰いで」
2「益子の土に生きる」
3「無心に作ってこそ」
4「用の美を求めて」
5「土と炎に生きる」
(★田上勇先生にいただいたコピーである。)
1987年 栃木県作家連盟県展工芸部審査委員。
1993年 雅子皇太子妃殿下に柿釉赤絵面取壺を献上。
1994年 京都大原三千院(柿釉赤絵大皿)寄贈。
1998年 死去。
(★田上宗利氏の「陶房日向」)
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人間国宝の濱田庄司先生が益子に開窯し、民藝活動により
  益子焼も雑器から美術品へと変貌した。
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【4】4代目:田上勇
1947年 栃木県真岡市長田に生。
義父:須藤武雄に師事。
2000年 光風会入選。
1974年 個展毎年二十九年間、東京銀座松坂屋。
1977年 第二回北関東美術展受賞。
1978年益子参考館前に築窯。・・・濱田庄司氏の推薦。 
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%9B%8A%E5%AD%90%E7%84%BC%E3%80%80%E7%94%B0%E4%B8%8A%E5%8B%87&sa=N&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=WcDTUqaPJ9GckgX164AY&ved=0CC0QsAQ4Cg&biw=1366&bih=577



【5】5代目:田上宗利
1989年 栃木県真岡市長田に生。
 祖父:須藤武雄に師事。
1989年 米:ミネソタ州立St.クラウド大学留学。
2000年 益子窯業科卒業?
2001年~ 数々の陶芸展の入賞。
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なんか、真摯な方でした。
 「青木先生に宜しく伝えて下さい。」と言って別れた。
 とっても温かい感じのする方であった。
 貴重な2時間であった。でも、昼食を2人とも
 とれない状況に追い詰めたのは私の責任であった。

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◆◆ 益子焼の歴史 ◆◆
・江戸時代中頃  常陸の国の笠間焼の影響を受けて、開始。

・嘉永年間(1848~1854 )嘉常陸国笠間藩(現笠間市)で
  修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始
  まった(伝)。  
 
★戦国時代には、須田一族の先祖は新島襄の実家の群馬県
 安中市の生涯教育センターの南の上にある城祉に住んでい
 たが、長篠の戦いで、安中忠成の家臣として、長篠の戦い
 に出向いて、死亡したという。その子孫は、安中板鼻の番
 所勤めをしたという。おそらく、「須藤金兵衛」&「須藤
 勇次郎」はこの須藤一族の末裔であろう。同一人物かも
 しれないし、兄弟かもしれないが・・・・
・・・いずれにしても、安中須藤家は分散して、板鼻な
 下秋間や後閑に移り住んだようだ。

・江戸末期~明治 「須藤勇次郎が益子町道祖土(さやど)
  に職人を連れて移り住み窯を築いた。

・明治10年(1888)頃  上野国の安中自性寺焼の陶工
  「須藤金兵衛」が真岡市道祖土に移住した。
 「須藤金兵衛」は高松窯=道祖土窯で陶工として働いた。
 ◆◆ 益子焼・・大羽【須藤窯】
http://blog.livedoor.jp/jackie7/tag/%E7%A9%B4%E7%AA%AF
※この須藤氏を調べている方が、私の陶芸師匠の安中
の自性寺焼青木昇先生の宅を訪れている。


・明治16年(1894)大塚亀次郎の窯に須藤金兵衛が在住した。
「明治一六年二月八日には城内(益子町)の大塚亀次郎方に
  附籍した。」(★益子町史)とあるそうだ。

・明治20年(1898)須藤金五郎が大羽「須藤窯」を創業開始。
◆◆ 益子焼・・大羽【須藤窯】
http://blog.livedoor.jp/jackie7/tag/%E7%A9%B4%E7%AA%AF
※この須藤氏を調べている方が、私の陶芸師匠の安中
の自性寺焼青木昇先生の宅を訪れている。

・明治中頃、「日向窯」=須藤勇次郎の窯は2代目:須藤
  安太郎に受け継がれたのであろう。そして、
 多くの職人を抱える有数の窯元に成長したのであろう。
1月17日の青木昇先生の話
「須藤安太郎と遊んだという下秋間の須藤家の親戚が
 いるよ。」・・・とにお話だった。


・大正13年(1424) 濱田庄司が益子で作家活動開始。
 「用の美」に着目した柳宗悦・河井寛次郎らと共に
  民芸運動を推めた。
 →陶工達に大きな影響を与えた。
 「日向窯」の3代目:須藤武雄が、濱田庄司の子息
 3男と同級生でもあったので、濱田庄司を師事すること
 になった。といっても、弟子ではないそうである。
 (★5代目:田上宗利氏)
 3代目須藤武雄は濱田庄司の誘いで、工房を筋向いに
 窯を築いた。現益子参考館前である。
 濱田庄司の確立した新しい益子焼の技法と伝統を忠実に
 受け継いだ民芸運動にも携わり、陶器を作っていった。

・昭和2年(1927) 濱田庄司によって花器・茶器などの民芸
  品が作られるようになり、日本全国に知られた。
 益子焼は 「芸術品」としての価値が引き上げられた。
=益子焼は雑器から美術品へと変わっていった。

・昭和54年(1979) 通商産業省(現経済産業省)より、伝統的
工芸品に指定された。


・現在 窯元は約260。陶器店は50。陶工・陶芸家約500人。
   卓用品や花を生ける器等が作陶されている。
   若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家も多く、
   作風は多種多様である。春と秋には陶器市が開かれる。
意外と若手女性陶芸家・・創造性のあふれるかわいい感じ
の1000円~2000円程度の作品が人気があるようだ。

※「日向窯」は四代目:田上勇氏→五代目:田上宗利氏&宗利
 の妹:田上晃子氏が民芸を受け継いで、伝統と柿釉をベース
 に益子焼を作陶している。
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★明日は、益子参考館かな?

この記事へのコメント

5代目です
2014年03月02日 16:52
なんと素敵な記事、”須藤”のルーツについて簡潔にまとめてあってスバラシイ!遅ればせながらありがとうございました。

さて、安中から益子に移った陶工、須藤 金五郎と勇次郎とがどういう関係なのかが大きな謎ですよね。
また、初代勇次郎が益子に初めて移った地が、道祖土なのか大羽なのかも良く分かりません・・・。

今となってはなかなか益子の歴史のマイナーな点を探っていくのは困難なのですが、この謎をいつも頭の片隅に置き回答が得られる日がくればと思ってます。

箕輪さん、これからも”須藤”のルーツにスポットをあてていきましょう!
5代目さんへ
2014年03月02日 21:40
コメント、ありがとうございます。青木昇師匠が、5代様の先祖:須藤湯次郎氏の安中の親戚からビデオで、作品を教えて下さいました。直接、群馬の親戚から御先祖様の作品を見るのがBESTだと思います。
5代目です
2014年03月12日 00:33
すごい!安中には”須藤”の親戚がいるわけですか。
そうですね!益子で難しいなら、安中にヒントがあるかもですよね。

いずれ安中を訪れてみたいと思いますよ。
5代目さんへ
2014年03月12日 07:35
御先祖様の作品の家は青木先生の家から500m程の場所らしいです。青木先生に聞かないと場所はわかりません。
名前入りの17cm位×15cm位の絵付けに白い筒状の作品だったと思います。是非、青木先生宅を訪ねてください。

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