箕輪初心◆豊臣秀吉の死~徳川家康の小山評定~関ヶ原の戦いへ

慶長5年(1600) 7月25日徳川家康は下野:小山で徳川氏の運命
を決める軍議を行った。議題は「上杉景勝攻めか石田光成攻めか?」
決定・・・①徳川家康本隊は東海道→関ヶ原へ、②徳川秀忠隊は中
山道→関ヶ原へ、③結城秀康は宇都宮での残留となった。そして、
天下分け目の「関ヶ原の戦い」へと突入した。

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 (★関ヶ原の徳川家康本陣)


箕輪初心●岐阜:関ヶ原の戦い=天下分け目の合戦
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201109/article_12.html

箕輪初心●栃木【祇園城=小山城】&小山一族の栄枯盛衰の歴史  
http://53922401.at.webry.info/201312/article_10.html
  
箕輪初心●栃木[小山氏城跡②]=【鷲城】&小山義政
http://53922401.at.webry.info/201312/article_11.html

箕輪初心●栃木小山【中久喜城】=鉄道で真っ二つの城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_12.html

箕輪初心●茨城【結城城】:小山一族結城家→結城合戦→徳川秀康の城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_13.html


【0】豊臣秀吉の死 ~~~~
Q『なぜ石田三成と徳川家康は合戦を行ったのだろうか?』

・天正10年(1582年)6月2日 本能寺の変・・・織田信長が死亡。
 ・徳川家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国まで進軍。
 ・備中高松から帰還した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を討った。
 ・徳川家康は豊臣秀吉が柴田勝家を破り天下を手にいれていくのを
  感じながら、自分の領国を広げていった。
 ★徳川家康は豊臣秀吉の生前から政権を奪おうと企んでいた。

・天正12年(1584)3月 小牧・長久手の戦い
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 (★徳川家康が築いた小牧城の土塁)
・豊臣秀吉 vs 徳川家康
  ・徳川家康は豊臣秀吉の傘下。
  ・豊臣政権・・・徳川家康は実力№2の座を維持。
   豊臣秀吉が百姓の身から出世しながら集めたり、敵から抜擢したり
   した寄せ集め家臣団であった。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原の北条氏討伐。
  ・徳川家康も豊臣軍の一軍として参戦。
→関東移封100万石。

・文禄元年(1592) 朝鮮出兵が開始。
  徳川家康は名護屋城に在陣。
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 (★名護屋城本丸跡)

・文禄4年(1595) 7月「秀次事件」
豊臣秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。
 徳川家康も秀吉の命令で上洛。

・慶長元年(1596) 豊臣秀吉の推挙により内大臣に叙される。

・慶長2年(1597) 朝鮮出兵が再開。
    徳川家康は渡海しなかった。

・慶長3年(1598) 7月 豊臣秀吉は病に倒れた。
  ・豊臣政権を磐石にするため、後継者:豊臣秀頼を補佐するための
   五大老・五奉行の制度を定めた。徳川家康は五大老筆頭。

・慶長3年(1598) 8月豊臣秀吉が死去。
   五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決めた。
  ・結果的に徳川家康は兵力・財力などの温存に成功。
  ・徳川家康と石田三成の対立が表面化。

・慶長3年(1598) 8月豊臣秀吉が死去。
   五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決めた。
  ・結果的に徳川家康は兵力・財力などの温存に成功。
  ・徳川家康と石田三成の対立が表面化。
 
■五大老・・・有力な大名。
 ①徳川家康・・・関東を支配。五大老筆頭。
 ②前田利家・・・北陸地方を支配。豊臣秀吉の親友。
 ③毛利輝元・・・中国地方西部を支配。
  ④宇喜多秀家・・中国地方東部を支配。子供の頃から
    秀吉に寵愛。
    (小早川隆景→ 宇喜多秀家)
 ⑤上杉景勝・・・越後を支配→会津支配。
 
■五奉行・・・豊臣家の中で政務をしていた豊臣家幹部
 ①石田三成
  ②増田長盛
③浅野長政 
④前田玄以
⑤長束正家

  五大老&五奉行の中で、関ヶ原の戦いになる過程での
   主要な人物が徳川家康 と 石田三成である。

 徳川家康は婚姻の斡旋や知行の授与を勝手にやり始めた。
 豊臣家の中で勝手に婚姻行うことを禁止されていたが、
 五奉行筆頭:石田三成は徳川家康に文句を言いに行った。
★ドラマでは、無理にそうさせ、石田三成を怒らせるようにした。
(★大河ドラマ「江~」)
   
石田三成は嫌われ者だった理由。
①豊臣秀吉に出来事を報告する仕事、秀吉の命令を伝える役目を
持っていた。従って、失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を
   受けた人が多くいた。
②高級官僚で、石田三成が合戦に行くことがなかった。
   武断派からは特に嫌われた。
 朝鮮出兵の武断派に「茶でもどうですか?」と言ったことから
 武断派はかちんと来た。
  (★NHK大河ドラマ「江~」)
   
 豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」 の主要原因となってくる。
 武将達は「家康派」と「三成派」 に分かれていくことになった。
  
 しかし、仲裁役として「前田利家」 がいたのだ。
 前田利家は五大老 NO.2 で、武将や大名たちから慕われていた。
 徳川家康の勝手な行動に反発しており、武断派の武将の怒りを抑える
 役も果たしていた。

・慶長4年(1599) 前田利家が死亡。=仲裁役がいなくなった。
  豊臣家の内部分裂が激化=徳川家康と石田三成の対立が激化。 
 
 ■武断派七将の三成襲撃事件=石田三成暗殺未遂事件が発生。
  石田三成と対立していた武断派の武将7名が結託し、
  石田三成の襲撃を計画したのだ。
  メンバーは福島正則・加藤清正・黒田長政・藤堂高虎
   ・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長である。
  
  石田三成は事前に察知し、襲撃前に姿をくらました!
  石田三成は徳川家康の屋敷に逃げ込んだとも、家康次男:結城秀康
   に仲裁を頼んで自分の屋敷に逃げたとも言われているが、
  徳川家康の屋敷であった。
  (★大河ドラマ「江~」では)
  →ライバルである徳川家康が仲裁。
  石田三成は居城:佐和山城に蟄居(結城秀康が見張り番)
 (★NHK大河ドラマ「江~」)
  
  ほかの五大老達も領地に帰った。
  政務の中心は徳川家康になった。

  「上杉景勝が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、
  合戦の準備をしている。」という噂話は流れていた。

・慶長5年(1600)
徳川家康の上杉景勝への会津攻撃の経過
     (★会津城)

1月 徳川家康は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めた。
    上杉景勝だけは断った。

 
3月 越後:堀秀治、出羽:最上義光から、会津の上杉景勝に軍備を
    増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。
    
  上杉氏の家臣で津川城城代:藤田信吉が会津から出奔し、
  江戸の徳川秀忠へ
  「使者であった家臣:某を処罰しようとしています!
  その上「内府様(家康)に上杉景勝が謀反の気配があります。」
  と報告した。
  →徳川家康は上杉景勝の元へ伊奈昭綱を正使として派遣した。
  
  徳川家康は、釈明を求める手紙を上杉景勝に送った。
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~~~~直江状~~~~~~~~~~~~~~^^^^  
上杉景勝の重臣:直江兼続が『直江状』と呼ばれる書簡を返書
  として送ってきた。
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、
 釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する
 備えをしているだけだ。そちらは京都で茶器でも集めているん
 だろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っ
 ている。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせ
 に、人に違約違反を言うのはおかしい。前田家をお仕置きした
 らしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せ
 ようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもか
 かってきなさい。」
という勇ましいものであったそうだ。 
     
■徳川家康に堂々と挑戦状を叩き付けた有名な「直江状」
★平成21年(2009)夏・・新潟県六日町の博物館で公開。
★平成21年(2009)春・・長浜城博物館企画展でも公開。
 直江状については様々な説がある。しかし、
 「関ヶ原の戦い」 の引き金になったことは確かである。
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徳川家康は激怒しまくった。
徳川家康 は、「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐する
 ために出陣する!」と会津征伐を宣言した。

徳川家康に後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。
豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。
 →これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は
 「豊臣氏の忠臣:家康が謀反人の景勝を討つ」大義名分を得た。     
(★NHK大河ドラマ「天地人」)
   
徳川家康は豊臣政権のために働くという考えより、
 自分が大阪を離れれば、石田三成が挙兵するだろうという
 考えがあった。つまり、徳川家康は石田三成に挙兵させる機会を
 つくるために会津征伐を利用したらしい。
              
(★NHK大河ドラマ「江~」)
  
6月16日 徳川家康は大阪を出発。
 征伐は豊臣家の武断派の武将が多く従軍していた。
 豊臣秀吉の死後、徳川家康は会津に移封の上杉景勝が
 反抗する。・・・相当、頭に来ていた。
 伏見城から、55000兵力で会津征伐へ向かった。
   
 徳川家康は江戸に行った。
 徳川家康は佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月程留まった。
    160通近い書状を諸大名に回送した。
 
※徳川家康は西軍の小早川秀秋&吉川広家を味方に
     引き込んでいた。
  
※直江兼続と石田三成は同盟を組んでいた。
         (★NHK大河ドラマ「天地人」)

7月17日 石田三成は徳川家康の糾弾の書状を発送。
  
石田三成は徳川家康の会津征伐に行って大阪にいない隙が絶好の
   チャンスと考え、親友:大谷吉継と相談し五大老の毛利輝元を
   総大将に迎えた。諸大名には徳川家康の弾劾文を送って味方を
   集めた。・・・西軍の成立



7月19日 徳川秀忠は江戸を出発。
~~~真田昌幸・信之・幸村の動向~~~~~~~~       
    真田昌幸・信之・幸村は徳川秀忠に合流するために
     7月の上旬に上田を出発。
  
7月21日 下野国犬伏に到着した時、石田三成からの書状(密書)が
      真田父子の元に届いた。

 書状は長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状であり、
  内容は以下の通りであった。
「急度申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻之誓紙ならびに
太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ、出馬候間、おのおの
 申し談じ、楯鉾に及び候。内府公御違の条々、別紙に相見え候。
此旨尤と思い召し、太閤様御恩賞を相忘れられず候はば、秀頼様
  へ御忠節あるべく候。恐々謹言。
                       7月15日
                       長大正家(花押)
                       増右長盛(花押)
                       徳善玄以(花押)

 意味は、「上杉景勝の討伐は豊臣秀吉の遺言に背き、
  豊臣秀頼を見捨て出馬した徳川家康に罪がある。
  豊臣秀吉の恩を忘れていなければ、豊臣秀頼に
   忠節を誓って下さい。」
  ・・・だから、西軍に味方をするように促している。
       
犬伏の別れ(栃木県佐野市)
  (アウトレットの信号を北上し、大きな旧道東山道?
  を右折。あけみずしの反対地点。唐沢山城の手前4km)
    
 下野の佐野「犬伏の陣」で東軍・西軍に。
    真田家を残す手段は何か?
★過去60年知略で生きた3代で7主君に仕える真田家の
   総集編。激論。
 上田城真田昌幸(父)・幸村(次男)・石田方に所属・・西軍
 沼田城真田信幸(昌幸長男)は徳川方に残留・・・・・東軍
東西に別れた理由~~~~~~
①敵味方となっていればどちらが勝っても真田家は残るという説
 「一見、兄弟で戦うように見えるが、生き残り作戦を賭けた
     真田氏の知恵ではないだろうか?。」
②3人が妻の縁で東西に別れた説
 真田昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹だった?(異説あり)
 真田昌幸の娘も石田三成縁者に嫁いでいた。
 真田幸村の妻は石田三成の親友:大谷吉継の娘であった。
 真田信之の妻は徳川家重臣・本多忠勝の娘で徳川家康の
  養女:小松姫であった。
  

・真田信之妻:小松殿(家康養女で本多忠勝娘)と
 矢沢薩摩守(昌幸の伯父)で、真田昌幸・幸村を沼田城に入れず。
→真田昌幸は「流石、本多の娘、これで真田安泰だ。」と言ったとか?

7月27日 真田信之宛に徳川家康からの安堵状
      「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」
    (★真田宝物館)

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【1】石田三成の挙兵
7月1日 宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行った。
7月11日 石田三成は大谷吉継に「家康打倒」を打ち明けた。
     大谷吉継を味方にに引き込んだ。
7月12日 石田三成は佐和山城で大谷吉継、増田長盛、安国寺
     恵瓊と秘密会議をした。
     「毛利輝元への西軍総大将就任要請。」を決定した。

  愛知川(えちがわ)関所が設けた。
   長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止め
  を食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。

7月17日 毛利輝元は大坂城に入城。
 
■石田三成は徳川家康の会津征伐に行って大阪にいない隙が絶好の
 チャンスと考え、親友:大谷吉継と相談し五大老の毛利輝元を
 総大将に迎えた。諸大名には徳川家康の弾劾文を送って味方を
  集めた。(西軍の成立)  
徳川家康がいた西の丸を接収し西軍の総大将に就任した。

 石田三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署
    による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発した。
 石田三成は徳川家康の糾弾の書状を発送。
結果・・・中国・四国・九州の諸大名が約10万の兵力となった。
  
  しかし、吉川広家や鍋島直茂は東軍への内応を画策した。

  石田光成は会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に
  取る作戦を発動した。

  しかし、
 ①加藤清正や黒田如水の妻子が逃亡した
 ②細川忠興の正室:細川ガラシャが自害した。

  結果・・細川忠興ら諸将を痛憤させた。

7月18日 石田三成の西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に毛利輝元
     の名で開城要求した。
     鳥居元忠は拒絶した。

7月19日 伏見城の戦い
  西軍は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍に
  伏見城を攻撃した。
  鳥居元忠らの奮戦

8月1日 伏見城は陥落した。
     伏見城に徳川方の細川幽斎が籠城。
石田三成は
 ①丹後攻撃・・・小野木重勝を総大将に1万5,000
 ②伊勢攻撃・・・宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など
         約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んだ。
③北陸攻撃・・・大谷吉継
 ④美濃攻撃・・・石田三成自身は美濃方面へ


8月10日 石田三成は佐和山城から西軍の大垣城に入った。
   岐阜城・・・織田信長嫡孫:織田秀信が豊臣秀頼の後見
   と美濃・尾張加増を条件に西軍へ入った。




【2】徳川家康の小山評定
6月 豊臣秀吉の死後、徳川家康は会津に移封の上杉景勝が
   反抗すると考えに頭に来ていた。
   伏見城から、55000兵力で会津征伐へ向かった。

7月初旬
徳川家康は会津征伐のために江戸城に居た。

7月19日 西軍首脳の一人:増田長盛から一通の書状が徳川家康に
  届けられた。
  「石田三成らが家康打倒の謀議を行っている。」

7月21日 徳川家康は江戸城を出発した。

7月24日 下野:小山に到着。
 小山に本陣にいた徳川家康に鳥居元忠の使者
 「石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した。」
  ことを知らされた。

 徳川家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集した。
 「石田三成が豊臣秀頼をおし立てて挙兵との知らせが入った。]
と伝えた。

7月25日 【小山評定】
  徳川家康にとって最大の問題は、
「東海道・東山道の豊臣恩顧の武将がどう行動するか。」
であった。


徳川家康→黒田長政(如水)
 ①「福島正則に豊臣秀頼には害が及ばないこと」
 ②「石田三成が豊臣秀頼のためにならないこと」
 を説明し、東軍につくよう説得した。

 ※この時点では、毛利輝元が大坂城で豊臣秀頼を擁して石田方の
  総大将になっていることは、知らなかった。

 小山の本陣において軍議を開いた。
小山評定が開かれた場所の説
 ①JR小山駅北東の結城街道沿い説
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  (★2回目の時には石碑があった。)
 ②市役所付近説・・・ここにも石碑がある。
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 (★祇園城パンフレットより)

 ③祇園城(小山城)址説
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●小山市の一覧表・・・★凄い。
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 (★祇園城パンフレットより) 
本多忠勝・井伊直政ら譜代の家臣
+福島正則・山内一豊ら豊臣秀吉の恩顧の外様
 大名も参加。


 →会津征伐を中止し、石田三成征伐のため大坂に向かう
      ことを決断。


小山評定では、徳川家康の考えが伝えられた。
①山岡道阿弥・板部岡江雪斎から情勢の説明
「妻子が人質になっているため、進退は各自の自由
である。」
徳川家康の意向が伝えられた。


~~~反対派~~~~~~~~~~
真田一族が退転した。
 信濃上田城主:真田昌幸&真田信繁(幸村)

 →佐野犬伏の別れ・・・・
  真田昌幸長男:真田信之は東軍として、
  7月24日に佐野から上田に戻っていた。
真田一族の存続を考えた方法だと私は考えている。

美濃岩村城主:田丸直昌は西軍へ退転する。

~~~賛成派~~~~~~~~~~~
今後の対応を協議した。
   
①福島正則が大坂のことは考えず、徳川家康に味方すること
  を表明。
②黒田・徳永寿昌が続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に
  従うことを誓約した。


福島正則ら、石田三成に反感をもつ武断派の大名は
   徳川家康に味方した。
  徳川家康を総大将とした。・・・東軍の成立。


~~~東海道の山内一豊~~~~~~~~~~~~~
→石田三成迎撃をどのようにするか????? 

③山内一豊が掛川城の提供を申し出た。
 ・・東海道筋の諸大名がこれにならった?。
 非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明した。
 →山内一豊の東軍の加入
  軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。
   
 
  
~~~~上杉軍の動向~~~~~~~~~~~~~~~        
 ※直江兼続は、徳川家康を追えば、勝てるという自信があった
 といわれているが、上杉景勝に知らせ、白河・会津・米沢と
 引き返した。
 しかし、東北の関ヶ原「山形の長谷堂城の戦い」で、敗戦した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


東軍は徳川家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢→10万人。

7月26日以降~~~続々と陣を払った。
石田三成を討つことを決め、大阪に先鋒隊を向かわせた。
 福島正則は居城:尾張清洲城を目指し出陣した。
 伊勢に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、
 九鬼守隆らは居城防備のため自城へ戻った。

 
諸将が提供した居城には松平康重、松平家乗、内藤信成、保科正光、
北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城し、守備に当たった。

7月27日 真田信之宛に徳川家康からの安堵状
       「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」
    (★真田宝物館)

徳川家康は徳川秀忠を大将に、榊原康政、大久保忠隣、本多正信
 など・・・約3万8,000の軍勢を中山道より美濃方面への進軍を
 命じた。


8月4日 徳川家康は出陣した。
 結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に
  上杉・佐竹への抑えとして、留め、監視させた。

8月5日 徳川家康は江戸城に戻った。
 そこから一歩も動かなかった。
 豊臣恩顧の武将の動向が見えなくなるからである。





西軍の動き
 8月1日 石田三成は家康の伏見城留守居役:鳥居元忠を攻撃。
→鳥居元忠が戦死。
 8月?日 石田三成は近江:三井寺に基盤を置いた。

 8月11日・美濃の関ヶ原に近い大垣城に入城。
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 (★当時の大垣城ではない。)



~~~~~関ヶ原の戦い~~~~~~~~~~~
慶長5年(1600)9月15日(太陽暦10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原
(岐阜県不破郡関ヶ原町)を主戦場に20万もの大軍が繰り広げられた
合戦である。豊臣vs徳川の「天下分け目の合戦」として知られている。
しかし、厳密には石田三成(西軍)vs徳川家康(東軍)の豊臣家内での
戦いである。東北では、上杉景勝・直江兼続vs最上義光の「長谷堂城の
戦い」があった。関ヶ原の戦いは1日で決着が付いた。結果として、
事実上、徳川家康の覇権を決定づけた戦いであった。  
 

◆東軍は家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢→10万人。
①中山道隊・・・徳川秀忠(江の夫)が大将。本多正信が参謀。
     宇都宮城→

  
◆第2次上田戦争
東軍 (真田信之=徳川家康の養女:小松姫夫←本多忠勝娘)
      Vs
西軍 (父:真田昌幸&弟:真田幸村)


8月23日 沼田城:真田信之宛の徳川秀忠からの書状
 「24日に(宇都宮)を立って、小県を攻めるから、お前も出馬せよ。」
  ・徳川秀忠、上田城を攻撃・真田信之も上田に出兵。
  
高崎城に3日間、滞在。
烏川の増水で、行けなかったのだ。


9月2日 真田信之は虚空蔵山城(伊勢崎城)・砥石城(上田市)
        を落とし、待機。

9月5日 上田神川の戦い
       徳川秀忠38000 VS 真田昌幸2000? 
   ・真田昌幸は、徳川を上田城近くにおびき出しては鉄砲攻撃。
   ・真田昌幸・信繁(幸村)は、秀忠軍の侵攻を阻む。
       神川の増水で、大群が混乱。
   ・上杉景勝の配下:海津城須田氏が真田根小屋城に到着。

9月7日 徳川秀忠は撤退→関ヶ原へ

   真田昌幸&真田幸村2000 vs 徳川家忠・大久保忠隣20000
  →決着着かずに真田軍の勝利
           ・・・徳川家忠は関ヶ原に遅刻
  ★徳川家康の兵力温存説もあるが、
     徳川秀忠はお馬鹿だったのかもしれない。


 ■TV・・ ・徳川秀忠は真田に興味を持っていた。
       江は「秀忠様は戦さが下手。・・・」
       →遅刻は必至であった。
       乳母は、祠を持ち出した。
      (★大河ドラマ「江~」9月11日TV)   
    ※江戸にあった徳川家康・・江と話
    
②関東防衛残留隊・・・結城秀康
  上杉景勝・佐竹義宣に対する抑えとして・・

     (★水戸城)   
   

③東海道隊・・・徳川家康本隊  
9月1日  徳川家康は江戸を出発。
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 (★当時の江戸城ではない。)

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 (★当時の掛川城ではない。)


9月11日 福島正則らが清洲城に入城。
    →西軍の勢力下の美濃:岐阜城に侵攻。
     織田秀信が守る岐阜城を落とした。
     徳川家康は織田信長の嫡孫:織田秀信を助けた。
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 (★岐阜城)


9月14日 関ヶ原に到着。赤坂に着陣。
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 (★徳川家康の陣)

 軍議・・・佐和山城→大阪へ攻撃と決定。
 石田三成は、関ヶ原に兵を移動させた。
 石田三成の家臣:島左近と宇喜多秀家の家臣:明石全登が奇襲
  →東軍の中村一栄、有馬豊氏らが敗戦
 ■通説・・野戦を得意とする家康がわざと流させた情報である。
 徳川家康の戦略は両軍が関ヶ原で対峙した理由として知られている。
 →両軍は関ヶ原に陣を敷き、対峙したのである。
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 (★石田三成・大谷吉継軍)       
      

9月15日 京極高次は大津城を退去。
政所からさきに面会・・・高次は高野山へ隠居決意。
 (★TV大河ドラマ「江~」・・もう一つの京極家)
  
 

9月15日 関ヶ原の戦い
午前8時・・両軍による決戦が開始。烽火が上がった。
   
9時頃・・・①東軍:福島正則・井伊直政が西軍:宇喜多に攻撃。
         高所を取った石田三成ら西軍が有利。

10時頃・・石田三成が小早川と毛利に進軍命令。
小早川秀秋は動かず。
毛利秀元も動かず。(吉川広家が本家の毛利を阻止)
※家康本陣攻撃ができず。

正午頃・・・徳川家康は松尾山の小早川の攻撃を促すため、
  小早川に向かって一斉射撃。
         ②西軍の小早川秀秋軍が西軍を裏切って、
          西軍の大谷吉継軍を攻撃。
          →大谷隊は壊滅。→西軍の劣勢。

 ③西軍の脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら
    4000人の寝返り・離反。→平塚・戸田軍を攻撃。
       →西軍は総崩れ。      
午後2時・・・石田三成・宇喜多秀家は北国街道で逃げる。
3時・・・→東軍の勝利。
  ④西軍の島津義弘軍1500が敵中突破の退却戦で、  
       徳川家康の本陣目前にまで突撃、中央突破。
 島津軍の生き残りは80名。

4時  ⑤南宮山の毛利軍15000・吉川軍3000も退却。→近江・伊勢へ
5時   徳川家康は首実検。

6時   徳川家康は大谷善継の陣跡に宿泊 

www.youtube.com/watch?v=gnxk2sfpmdI
   ★You Tube を見ると、面白い。
        (★地図で訪ねる歴史の舞台)
    
9月18日 徳川家康は石田三成の居城:佐和山城を攻略。

9月21日 逃亡していた石田三成を伊吹山中で捕縛。

10月1日 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らを六条河原で処刑。

その後、徳川家康は大坂城に入城。
徳川家康は、西軍の諸大名を処刑・改易・減封に処した。
→召し上げた所領を東軍諸将に加増分配
→徳川領地も250万石から400万石に加増。
→豊臣秀頼、淀殿に対しては咎めず領地もそのままにした。
→豊臣氏の直轄地は諸将に分配した。
◆結果
①豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名と
 なった。
  
②徳川家康は天下人としての立場を確立した。
=天下を掌握したのだった。
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★明日は未定

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