箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦

上杉顕定を反旗を翻した長尾景春&上杉顕定を殺した上杉
謙信の父:長尾為景は「関東下克上の雄?鬼?」である。
長尾景春にとって従兄弟:太田道灌のライバルでもあった。
関東管領:山内上杉顕定の家宰であった父:長尾景信(白井
長尾氏)が死去した後、長尾景春が継ぐはずなのに、上杉
顕定は家宰を景春の叔父:長尾忠景(総社長尾氏)に与えて
しまった。文明8年(1476)、長尾景春は主家:山内上杉顕定に
反乱を起こした。「長尾景春の乱」である。鉢形城は33歳の
長尾景春が築城したと伝えられている。結果、長尾景春は
関東の戦国時代の流れに翻弄されながら、暗い人生を40年
近く歩むことになった。そして、両上杉家の没落を招き、やが
ては伊勢宗瑞(=北条早雲)の南関東制覇の繋がった。

3ヶ月前に久保田順一先生の「上杉家」を講演会を拝聴した
り、2ヶ月前「太田道灌」を調べていたり、1週間前に、鉢形
城博物館を訪問したりした。長尾景春が激動の時代に生き
たことが分かった。

画像

●鉢形城博物館企画展は「長尾景春&鉢形城」であった。
上杉家か、長尾家か、太田家か?・・・関東の戦国史は
凄かった。
画像



~~~~鉢形城シリーズ~~~~~~~~~~

箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪~三の曲輪~二の曲輪~本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html

箕輪初心●箕輪城№115「北条三鱗会に井伊直政の手作り甲冑作成依頼」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心■箕輪城シリーズ⑳「第12代:北条氏邦」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_34.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心●群馬渋川【白井城】=上杉謙信の同族の城
http://53922401.at.webry.info/201204/article_14.html

箕輪初心●群馬【蒼海(おうみ)城 】千葉氏→長尾氏→諏訪氏
http://53922401.at.webry.info/201212/article_22.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




★★★ 長尾景春の生涯 ★★★
【プロローグ】
※長尾氏は桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏から出た関東武士で、白
井・総社・犬懸・越後・上田・古志・鎌倉・足利等の緒流があった。
長尾氏は関東管領:山内上杉氏の補佐役=家宰職であった。しかし、
上杉氏の家臣ではあるが、関東で大きな権力・勢力をもっていた。
長尾氏は白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、足利長尾家で持
ち回りで家宰職を務めていた。長尾宗家は、2つに分かれ、白井
長尾家・総社(惣社)長尾家になった。しかし、家宰職が長尾景
春の祖父:長尾景仲→長尾景信と2代続けて白井長尾家から出て
いた。
※祖父:長尾景仲が山内上杉家の家宰で筆頭家老であった。
※父:長尾景信も山内上杉家の家宰であった。
白井長尾家・・・長尾景仲→長尾景信と2代に渡った。

画像

 (★久保田順一先生の作成)


・嘉吉3年(1443) 長尾景春は長尾景信の子として生まれた。

・永享11年(1439) 永享の乱
第4代鎌倉公方:足利持氏が破れ、自刃した。
 室町幕府によって滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児:足利
 成氏は新たな鎌倉公方に迎えられたが、父:足利持氏を殺した
 関東管領上杉氏を憎んでいた。

・享徳3年(1454) 享徳の乱が勃発
  足利成氏は関東管領:上杉憲忠を暗殺。
  足利成氏 VS 上杉氏
足利成氏は上杉氏を支援する幕府軍の攻撃を受けた。
  足利成氏は鎌倉を逃れ、下総古河城に拠って古河公方と称し
  た。
近日、古河公方を掲載予定
  山内上杉家&扇谷上杉家&堀越公方足利政知(8代将軍足利
  義政の異母兄)との抗争となった。

  関東管領職は山内上杉家が継承していたので、扇谷上杉家は所領
  は山内上杉家の家宰:長尾氏の半分以下であった。
  しかし、扇谷家の家宰太田資清(道真)・資長(道灌)父子の
  活躍で勢力を増していた。太田資清・資長父子は岩槻城(最近
  の説では成田氏築城)を修築し、河越城、江戸城を築城し、
  3城を拠点とした。


  
  
・文明3年(1471) 享徳の乱
   山内上杉家 VS 古河公方:足利成氏
長尾景春も山内上杉家の家臣として、古河城攻撃に参戦した。

※享徳の乱は20年以上に及び続いた。


・文明5年(1473) 父:長尾景信が死去。
  白井長尾家の家督は嫡男:長尾景春が継いだ。
  ★長尾景春は、当然、家宰職も継げると思っていた。
  しかし、山内上杉家:上杉顕定の家宰の地位は叔父の長尾忠景
 (総社長尾氏)が継ぐことになった。上杉顕定は家宰を景春の叔
  父:長尾忠景(総社長尾氏)に与えてしまったからである。
上杉顕定は白井長尾家の力が強くなりすぎることを嫌った
 のである。

画像

 ★長尾景春は 上杉顕定を深く恨んだ。憎んだ。
 長尾景春は扇谷家上杉家の家宰:太田道灌に同心(仲間)
 になるようを頼んだ。
 長尾景春の叔母は太田道灌の母だったのだ。つまり、
 長尾景春&太田道灌は従兄弟だったのだ。

 
 しかし、太田道灌は拒否した。
 太田道灌は五十子陣にいた山内家上杉顕定と主君:扇谷家上杉
 定正のもとへ向かった。
 太田道灌は顕定と定正に
 「長尾景春を武蔵守護代に任じ、長尾忠景を一時退けて下さい。」
 と進言した。
 しかし、上杉顕定は受け入れなかった。
 「それならば、直ちに出兵して長尾景春を討つ方がよいのでは
  ないでしょうか。」
 と進言した。
 上杉顕定は
 「古河公方成氏と対峙している状況では、長尾景春を討つなど
 できない。
 と断った。

 
 ★簡単に説明すると
 太田道灌は「これはマズイ事態発生。」と思った。
 上杉定正と上杉顕定に
 「長尾景春と仲直りするか、それとも潰すか・・・
 早く手を打たねば・・・。」
 と、進言した。
 上杉顕定&上杉定正は、古河公方との決戦をひかえて
 いた。
 「武蔵(埼玉県)五十子(いかっこ)に布陣の真っ最中・・・
 長尾景春なんぞ、相手してられるか。
 古河相手に必死なんじゃよ。」
 と、断った。
 と言ったところであろうか?
 ある意味、上杉顕定は白井長尾家を嘗めていたのだ。
 優先順位が古河公方、長尾景春だった。



 

長尾景春はこれに対してますます、不満を抱き・・・
やがて、主家:上杉顕定や叔父の長尾忠景を憎悪するようになった。


・文明7年(1475)~文明8年(1476)
  長尾景春が 武蔵:鉢形城を築城(伝)
画像

画像


・文明8年(1476)33歳
 足利成氏との和睦交渉が続けられる中、長尾景春は武蔵秩父郡
 &児玉郡で抵抗を続けていた。長尾景春は鉢形城からゲリラ戦に
 より、上杉方の城を落城させた。

 古河公方が後ろで糸を引いて房総半島の「千葉孝胤」が「長尾景春」
 に呼応し、上杉顕定&に反旗を翻した。
   
 
「長尾景春の乱」
  6月 五十子(現本庄市いかっこ)の戦い
  長尾景春は主家:山内上杉顕定に反乱を起こした。
   五十子の陣に、2500騎が奇襲をかけたのだった。
  上杉顕定は、長尾景春の力を軽視していた。
  2代続けて家宰職を継いだ白井長尾氏の力は他の長尾氏
  よりも強かったのだ。・・
  五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が
  続出した。
  長尾景春は上杉顕定軍を五十子陣において打ち破ったのだ。

  上杉定正と上杉顕定命からがら上野:平井城に逃げた・・・・
 
調子こいた長尾景春に、関東の国人や地侍が次々と味方になった。

相模小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎
相模小沢城 (神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助
相模溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)
相模小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応した。
多くの関東の国人、地侍が景春に味方した。



・文明9年(1477)
1月 五十子の戦い 
  長尾景春 VS 上杉顕定
 長尾景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲した。
 上杉顕定と上杉定正は大敗を喫して敗走。・・・
 顕定と定正は上野平井城に逃れた。
 18年間、上杉氏の対古河公方戦の最大の防御拠点だった
 「五十子陣」は長尾景春に落とされてしまったのである。
 
 長尾景春は、上杉氏と敵対する豊島泰経・豊島泰明
 ・千葉孝胤・那須明資・成田正等らとも同盟を結んだ。
 特に旧領を太田氏に奪われていた南武蔵の豊島氏は喜んだ。

 ★豊島氏はかつて、新田初代:新田義重の母になった
 一族で、鎌倉時代の名門であった。

 石神井城と練馬城(練馬区)に豊島泰経、平塚城(東京都北区)
 に弟の泰明が太田道灌の領地をとって返り咲いた
 豊島一族は江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断った。
 
 太田道灌は今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
 太田道灌は相模、房総地方の鎮圧にも奔走せざるえなくなった。
 太田道灌は長尾景春と戦うざるを得なくなったのだ。
 
※戦線は相模国から下総国に至る関東一円にと拡大していった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
扇谷上杉家の家宰:太田道灌が武蔵に攻め込んできた。

3月 太田道灌は溝呂木城と小磯城を落とした。
 さらに小沢城を攻撃・・
 長尾景春が援兵を送った。
 太田道灌は一旦兵を引いた。
 小机城の矢野兵庫が出陣して、太田道灌の河越城攻撃した。
 太田資忠(道灌の甥)と上田上野介が撃退した。

4月 江古田・沼袋原の戦い
太田道灌 VS 豊島一族
  太田道灌は上杉朝昌:三浦高救らの援軍を得た。
  平塚城城下を焼き払った。
  豊島泰経・泰明を待ち伏せて50騎で200騎の豊島勢を
  打ち破り、泰明を討ち取った。
  太田道灌は泰経を追って石神井城を囲んだ。
  豊島泰経の石神井城を攻め落とした。
石神井城もそのうち掲載予定。

 鉢谷原の戦い
  長尾景春 VS 上杉顕定と上杉定正軍
 長尾景春は五十子を出陣して利根川を渡り、鉢谷原で攻めるが
 撃退された。


  5月13日  
 太田道灌は上杉顕定・上杉定正と合流した。
   五十子(埼玉県本庄市)を奪回。
 太田道灌は五十子に着陣した。
 長尾景春は鉢形城にひとまず退却した。
 
 5月14日未明、太田道灌は上杉軍を率いて鉢形城へ向けて
  移動を開始した。
  
 長尾景春は「五十子の陣」を奪還した上杉軍を迎え撃つべく
 出陣した。景春は上杉勢の進路を防ぐため、用土原:針ヶ谷
 に移動した。

 
 しかし、これは太田道灌の陽動作戦であった。 

 用土原(埼玉県寄居町)の戦い
  長尾景春 VS 太田道灌・上杉顕定・上杉定正・長尾忠景
  
 太田道灌軍・両上杉軍・長尾忠景軍は一気に長尾景春軍
 をめがけて突撃した。
 長尾景春軍は完全に意表をつかれた。
 ★長尾景春の戦いの中で「用土原の合戦」は最も激しい合戦
 であった。
多数の死者を出して大敗した。
 長野為兼も戦死した。
 ★私見:長野家の「兼」のつく一族がいた。おそやくは厩橋=前橋系?
 と推測している。

 
 長尾景春は鉢形城に逃げ込んだ。
画像
 

 太田道灌の参戦で長尾景春軍は各地で敗れた。
 次第に、長尾景春の勢威は衰退していった。 
 しかし、長尾景春は足利成氏の支援を受け、太田道灌と戦い続けた。


7月 荒巻の合戦
 長尾景春の要請により、古河公方:足利成氏が長尾景春への援軍と
 して、那須・佐々木・柳田・一色の諸将を「群馬郡滝」に布陣
 させた。

私見「群馬郡滝」=船尾滝(現榛東村~伊香保への途中)
※長尾景春の白井城&上杉軍がいる五十子の陣の間の説
  
 古河公方は、「児玉の陣」と「白井城」との連絡を遮断する
 作戦を計画たてた。
 
 太田道灌は、上杉軍主力を白井城に向けた。
 太田道灌は荒巻(★前橋市:群馬大学付近)に布陣した。
 古河公方の行動を牽制した。 
 長尾景春は同族の越後の長尾為景(上杉謙信の父)にも援軍を
 要請した。


 塩売原の合戦
 長尾景春は、結城、那須、佐々木、横瀬らを率い、太田道灌の
 荒巻の陣に進軍を開始した。
 
 太田道灌は決戦を避けるべく「塩売原」に陣を移動した。
 ※「塩売原」・・・現在では特定できていない。
おそらくは前橋市惣社か吉岡町の一部であろう。
 
 長尾景春も「塩売原」に布陣した。
 

広馬場(群馬県榛東村)の戦い
山内上杉+長野業尚 VS 長尾景春
(★関東古戦録:久保田順一訳)

 ★関係ないけど、箕輪城から4km。・・・
つまり、藤岡の平井城&渋川の白井城はちょうど中間地点で
ある。・・・もしかして、箕輪城はこの年に、長野業尚の
よって、築城されていたのではないかとう勝手な説を
私は考えている。

  

1ヶ月間対陣するが、決着がつかなかった。
※足利成氏も古河から前橋の惣社付近まで、応援に駆けつけた。

11月 双方撤兵。

長尾景春は鉢形城に戻った。
画像

  「古河公方」が軍を引いた。
  
  長尾景春は孤立してしまった。

  太田道灌は「鉢形城」に総攻撃を加えた。
  長尾景春は必死で抵抗した。
  しかし、太田道灌軍の攻撃を支えきれず、
  長尾景春は鉢形城を放棄して秩父へ落ち延びた。 

しかし、再び足利成氏が8000騎を率いて出陣したため、
  太田道灌は撤退した。


・文明10年(1478)  
1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ
   和議を打診した。
   20年以上の戦いに飽いた足利成氏は足利幕府の関東管領
   との有利な条件での和睦を望んでいた。
   上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。
   太田道灌の裏工作であった。
   20年間、対立していた。・・・
  長尾景春は足利成氏の後ろ盾を失った
 
 
 3月 長尾景春が河越城へ攻撃した。
    上杉定正と太田道真が撃退した。

   豊島泰経が平塚城で再挙。
   太田道灌は鎮圧・・・
   豊島泰経は敗走して小机城に逃れた。 
 

  長尾景春は「鉢形城」を奪還し、再び、抵抗を始めた。
  
  太田道灌は小沢城を攻め落とした。
 
 4月 太田道灌は小机城を攻略。
   小机城に匿われていた豊島泰経は行方知れずとなり、豊島氏は
   歴史上から姿を消した。

   太田道灌は相模の長尾景春方の諸城を駆逐していった。
 
7月 太田道灌は長尾景春の鉢形城を攻略した。
   上杉顕定の居城とした。
   長尾景春は武蔵国を追われてしまった。



12月 境根原合戦
 太田道灌は、和議に反対する足利成氏の有力武将:
 千葉孝胤を打ち破った。


・文明11年(1479)
 太田道灌は甥:資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総
 半島へ派遣した。
 千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略した。
 しかし、太田資忠は戦死した。
 さらに、真里谷武田氏、海上氏を降し、房総半島から反対勢力を
 一掃することに成功した。

 


・文明12年(1480)
6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を
  太田道灌に攻め落とされた。
  長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。


  古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に「両上杉家」との
  「和睦」調停を申し出た。
  足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
  「長尾景春の叛乱」は、和睦で、終焉することになった。



・文明14年11月27日(1483年1月6日)
足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
 足利成氏は幕府から赦免された。


・文明18年(1486) 太田道灌が殺害
  太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
    とした。
  主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。そこで、
    扇谷上杉定正は糟屋邸
     (相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
  ※扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言う学者・研究者や
   子孫の方もいる。

  大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
  付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。

  長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うことに
  なった。


・長享元年(1487)  長享の乱が勃発
  山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
  「長享の乱」の抗争へと広がっていった。

 

・永正2年(1505) 長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。.
画像

 上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。
画像


 長尾景春は柏原城に逃亡した。
 長尾景春はなおも上杉顕定と対抗しようした。



・やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
 武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。

 
 上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の
 弟の弔い合戦のために、越後上田庄(新潟県六日町)に
 遠征し、一時は長尾為景を府内(上越市)に退却させた。
 
 上杉顕定は武蔵に引き返し、伊勢宗瑞(北条早雲)のいる
 権現山城を奪還した。そして、再び、長尾為景を討つため
 越後に行った。 


・永正6年(1509) 長者原(新潟県六日町)の戦い
  上杉顕定が戦死。
  長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、
  長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
  上杉顕定はなんと、長尾景春の同族で越後守護代:長
  尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死してしまったのだ。
箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html

箕輪初心◆2013年スキー№1【宝台樹スキー】&【水上石倉城】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_5.html

箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間→酒田本間家日本一の地主へ
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201307/article_20.html

  長尾景春は白井城を奪還した。
画像


  長尾景春は伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を結んで、
  上杉憲房に対抗した。



・永正11年(1514) 8月24日(9月説) 長尾景春が死去。享年72。
 墓は上野国白井(現渋川市旧子持村):空恵寺。
・・・長尾景英が継いだ。


★伊勢宗瑞(北条早雲)は長尾景春のことを
「武略・知略に優れていた武将である。」
と尊敬してたというが、
★ 「長尾景春&長尾為景は関東管領家:上杉家の没落を推進し、
私の関東進出の足がかりを作ってくれた大恩人。
棚からぼた餅をありがとう。」

といった感じなのであろうか。 ・・・・・

やがて、後北条家3代目:北条氏康によって扇谷家は滅ぼさ
れ、山内上杉家も上野国:平井城を追われることになってい
った。

・永禄4年(1561) 上杉憲政は長尾景虎に間道管領の地位を
 与え、長尾景虎は上杉政虎と名乗った。
ああ~無情。


★参考文献
画像

画像

画像

画像

 (★久保田順一先生・・・写真掲載許可済み)







★明日は太田道灌、・・・既に、書いてあるのだが・・・?

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック