箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城

源義重=新田義重は源八幡太郎義家→源義国の長男である。異母弟
には足利氏の始祖:源義康=足利義康がいる。源義重は上野国新田
荘を本拠としたので、新田義重と名乗り、上野源氏の宗本家の初代
となった。八幡庄(高崎~安中・榛名)も所領を持ち、現高崎の寺
尾に館があったらしい。源頼朝の挙兵の時には、すぐに参陣しなか
った。「源八幡太郎義家の孫=源義国の長男であるから、本来なら、
源氏の嫡流はわしである。」という思いがあったのかもしれない。
以前、掲載した《新田義重をめぐる旅》のリニューアル版である。
平成25年(2013)9月27日は人形劇「南総里見八犬伝」を見にいく
のだ。安房里見の先祖は、新田義重の次男:里見義俊である。
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箕輪初心●「上野国:山名義範~応仁の乱:山名宗全」
http://53922401.at.webry.info/201309/article_26.html

箕輪初心●群馬:寺尾の城《新田義重をめぐる旅》
http://53922401.at.webry.info/201102/article_29.html

箕輪初心●群馬『寺尾上城=乗附城』&高崎観音
http://53922401.at.webry.info/201302/article_26.html

箕輪初心●群馬『寺尾中城2回目』:新田義重の城?
http://53922401.at.webry.info/201302/article_27.html

箕輪初心●群馬「寺尾下城=山名城」&山上の碑
http://53922401.at.webry.info/201012/article_21.html





1)永福寺・・・平成23年(2011)1月5日
★箕輪初心 私見「ここは平時の館=永福寺ではないだろうか?
   詰め城は茶臼山城か寺尾中城ではないだろうか?」
○寺尾の旧道の上にある。

○隠居したおばあさまと話をした。
  「新田義重の墓=供養塔があります。」
○新田義重の供養塔・・・墓地の一番上の住職墓の左
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茶臼山城を眺めた。・・・
 やっぱり、永福寺から行きやすいなあ。

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2)茶臼山城=鷹ノ巣城・・・2回訪問
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 (★山崎一氏の縄張り図)
ここは、新田義重の詰め城だろうか?
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 ★農大二高の前の道は、鎌倉上つ道であった。

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●茶臼山城跡住民が説明板設置
「高崎市寺尾町に、戦国時代まで約400年間存在したとされる
「茶臼山城跡」がある。
団地造成などで長く忘れられていた山城とその歴史を知っても
らおうと、地元住民らが説明板をつくった。
 (平成21年12月6日には現地説明会が開かれる。)
 文献によると、
 茶臼山城は、鎌倉時代に源(八幡太郎)義家の孫で新田氏の祖で
 ある義重が居城にし、南北朝時代には、新田義貞の弟、脇屋義助
 が城主となった。
 戦国時代には、武田氏の史料「甲陽軍鑑」に鷹ノ巣城として登場
 する。
 現在の城跡は、茶臼山山頂(標高168m)に本郭や、堀や
 戸口(→虎口=出入り口)が確認できる。かつては、自然歩道コー
 ス上の名所として紹介されていたが、昭和50年代に
 茶臼山南側の丘陵を切り崩し、城山団地が造成されたことで分断
 され、人々の記憶から忘れられていった。
 説明板は、4年前に団地の住民らでつくった歴史サークル
 考楽会」が史実を調べ、現地踏査するなどして、1年がかりで完
 成させた。高崎市が費用を援助、城の歴史を説明するものと、
  堀や戸口(★虎口)の場所を示す看板などを11月9日までに設置
 した。
 同会の木村晃事務局長(66)は「自分たちの住んでいる場所の
すぐ隣に、新田義重のような武将が住んでいたなんてすごい。み
んなに見てもらいたい」と話している。
(★平成21年12月5日 読売新聞 群馬版から)

3)寺尾上城=乗附城・・・。





4)寺尾中城  
(★前掲の寺尾中城を参照)
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 ★陶芸師匠があめ釉・並白などのかわらけを発見。
平成23年2月上旬。
  「戦国時代の末期の焼き物である。」
  と自性寺焼:青木昇師匠が言った。

1日後。
 寺尾城跡で発見した焼き物は、戦国時代末期の物と断言は
 して居ないよ!近くに窯跡が在るのでは?と言う事です!
 と、師匠より、ご指摘がありました。
 ありがとうございます。



5)寺尾下城=寺尾前城=山名城
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6)聖石(高崎市石原町)・・・鎌倉上道の渡し船つなぎ石


7)興善寺の地蔵堂(高崎駅南西500m)・・・馬上宿
  新田義重の建立。1100年代前半、八幡庄や寺尾荘(庄)を
  戴いている。
 ★この時点では、現在の高崎市駅前~高崎城近辺と赤坂宿は、
 あまり発展していなかったかもしれない。
  (※写真が見つからなかった。)


■▲● 新田義重の年譜 ●▲■
*永久2年(1114)保延(1135) 新田義重が誕生。
 父:源義国 母:藤原敦基の娘・・・正室源親弘の娘
  
①父:義国は下野国足利荘を開墾。
  →次男:義康が継承し、足利氏へ・・・足利義康

②父:義国は上野国新田郡の開墾。
  →長男:義重が継承し、新田氏へ・・・新田義重
 
 源義国&長男:源義重は上野国新田郡の開拓事業に乗り出した。
 しかし、対立武将が多かった。
 ※武蔵大蔵(埼玉県):源氏一族の源義賢→木曽義仲
 ※武蔵国の秩父氏・・有道氏系
 ※下野国の藤原(俵ひょうた)系足利氏
  
③源頼朝との関係・・超良好だった。
・源義重の娘:祥寿姫→源義平へ嫁いだ。
  ・源義康の娘→
  ※甥の足利義清にも娘を嫁がせた。

④秩父足利合戦
 源義国&義重 VS 藤姓足利氏・秩父氏
 渡良瀬川の強行渡河作戦によって撃破した。

※北関東における地盤を確固たるものにした。
 ※親族甲斐:武田信義と親交があり、信義の嗣子:信光に自分の娘を
 嫁がせた。
 →源頼朝の反感を買った要因だった。

*保元2年(1157) 平家系の藤原忠雅を領家として新田荘の立券に成功
  →新田荘司。藤姓足利氏・秩父氏らと武力衝突。
 秩父足利合戦・・・渡良瀬川の強行渡河作戦によってこれを撃破。
 →親族の甲斐国武田信義の嗣子:信光に自分の娘を嫁に。
 →頼朝の反感を買った。
 →従五位下大炊助。

*治承4年(1180) 源頼朝が平家追討のため挙兵
  甥:足利義兼・子:新田山名義範・孫:里見義成らが
  早くに出陣。
 すでに、源頼朝の信任を獲得。
  
  源頼朝は新田義重へ参陣するようにとの要請を度々出願。 
 ※新田義重はこれに応じず、新田義重は寺尾に籠城し、挙兵に
  参加せず。そして、寺尾城で兵を集めた。
 
 理由①・・源氏の最長老で八幡太郎義家に血統が近いので、
      源頼朝を格下に見ていた=★命令なんか聞けないさ?
      「われら新田氏こそが源氏の嫡流だ。」  
  ★新田義重は源義国の豊島氏の娘腹であるため、長男であるにも
   かかわらず、家柄の問題で、源氏姓を名乗れず、新田姓を名乗っ
  たのである。
  ★北関東での主導的地位にあったこと
  ★平氏や源頼朝一派でもない《新田義重を中心とした第三勢力》を
    築こうとしたのかもしれない。
  
 理由②・・新田荘が平家方の荘園であったこと
  
 理由③・・木曾義仲(埼玉県嵐山→群馬県吉井多胡に進出)を牽制
  するため・・・(★久保田順一先生)
※群馬県史・2012年の久保田順一先生の説では、
 「木曾義仲の父は吉井→武蔵菅谷:大蔵に進出した。」
 新田義重の関係は、仲良し関係ではなく、敵対関係が、
 30年程続いたという説が有力のようである。

 ★既に、子ども時代に、源頼朝&頼朝兄:悪源太義平に大蔵
  館が攻撃され、木曾に逃げていたかもしれない。
 


→結果は、源頼朝が早々と関東を制圧。
  ★新田義重の野望が粉砕された。
  ※新田義重は鎌倉の源頼朝の元に駆けつけた。
  →源頼朝の不信感。安達盛長の取り成しで傘下へ。
  ※新田義重は頼朝の軍下に入るが、時すでに遅し、
  源頼朝が新田義重の未亡人となっていた娘:祥寿姫を側室への
  要望した。
  ★新田義重は拒否。
  →源頼朝の不興・不信感が増大(伝)。
  ※新田氏は冷遇された。~~~~。
  →足利氏は源頼朝の軍に参陣し、優遇。
   ○足利氏・・・鎌倉幕府での従4位の下
   ○新田氏・・・鎌倉幕府での従5位の下
  晩年は、嫡男の新田義兼とともに曾孫の政義の後見役を務めた。

*建久4年 源頼朝は上野三原→下野那須に狩→
  上野国三原荘の巻狩の帰途
   →源頼朝は義重の館(寺尾?)に遊覧。
  

*建仁2年(1202年)に老衰のために新田荘で没。『吾妻鏡』
  『新田足利両家系図』・・・享年89。
  『尊卑分脈』・・・・・・・享年68



●▲■ 新田義重の子ども ●▲■
娘:祥寿姫は源義平室・・・木曽義仲の父を殺害した。
悪源太義平なんて、嫌な言い方もある。
里見義俊
山名義範
新田義兼(母:正妻:源親弘の娘)
世良田義季(母:源親弘の娘)=得川四郎
額戸経義



★2つの差は、鎌倉幕府の滅亡時・鎌倉の支配権に影響。
  鎌倉幕府の攻撃の新田義貞、足利尊氏の実力の差となった。
  ①鎌倉に入ったが、足利尊氏・直義父子が鎌倉を支配。
  南北朝時代にも大きく影響していったのだ。
  ②後醍醐天皇は次第に足利尊氏を信頼。→足利幕府へ
  ※脇屋義助は伊予の国司赴任後、足利尊氏と戦い、敗戦。
  ※新田義貞は越前:そま山城から偵察中に、福井で自刃。



箕輪初心●群馬:寺尾の城《新田義重をめぐる旅》
平成22年(2010)8月15日&平成23年(2011)1月5日
★寺尾の場所は高崎説&太田新田説の2説ある。
①高崎の寺尾・・・・有力説(高崎市教育委員会)
  ②太田の新田「新田の庄」=現在・食堂(太田教育委員会)
  ★理由・・・新田大炊守義重の寺尾での蜂起中は、新田は
足利俊綱の侵略を受け、新田に行ける状態ではなかった。
(★上毛古戦記)
①茶臼山城・・・+供養塔は永福寺

②新田の庄・・・+墓は大光院

★A級グルメ「新田の庄」&B級グルメ「岩崎屋の焼きそば」









★参考文献・・
・上毛古戦記(★山崎一著)
・里見一族(★里見義弘)
・新田義貞(★峰岸純夫)
・群馬県史
・高崎市史
・新田町史『新田荘と新田氏』 (★峰岸純夫)          
・新田一族(山本隆志)
・河内源氏(元木泰雄)・・・一番新しい新田・里見の本
 など、多数。


◆参考サイト
・ウキペディア





★明日は、里見系図か初代里見義俊かな?

この記事へのコメント

696
2013年09月28日 00:11
寺尾城後で発見した焼き物は、戦国時代末期の物と断言はして居ないよ!近くに窯跡が在るのでは?と言う事でです!

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