箕輪初心★伊達政宗の生涯= 戦国の「風雲児」「異端児」「問題児」

伊達政宗をどう受け止めたらいいのであろうか?伊達政宗の生
きた時代は織田信長や豊臣秀吉が天下統一へ向けて活躍してい
た時代だ。従って、伊達政宗は生まれてくるのが遅かった感もある。
奥州制覇・天下統一の素質も持っていた戦国の「風雲児」「異端児」
「問題児」。・・・伊達政宗という人は不思議な人格で、波乱に満ちた
人生だったと思う。そこで、伊達政宗という人を振り返ってみようと思う。
「独眼竜政宗」という呼ばれ方もされている。どこが竜なのだろう。

画像




二本松城攻撃では、父も一緒に殺してしまった。「高田原の悲劇」
とは、後世の伊達政宗びいきの方がつけた名称であろう。
豊臣秀吉の小田原攻撃の時は、弟:小次郎も殺してしまった。
白装束でデモンストレーションをして臣下の礼を装ったらしい?
関ヶ原の戦いでは、徳川家康の側について、「百万石のお墨付き」
をもらってしまった。
支倉常長を欧州に派遣した時は、表向きは通商が目的であったが、
イスパニア国王の支援を受けて倒幕を決行するつもりであったとい
う説が有力である。歴史家の中には、「伊達政宗は、徳川家康の側
についていながら、天下を奪う機会をねらっていたのだ。」と解釈
する人も多くいるいる。油断も隙もない男
「寄らば大樹の陰・長いものにはまかれろ。果報は寝て待て。」と
いう行動ともとれる。不思議な人物である。



※戦国時代   蘆名氏 VS 伊達氏 
 会津の向羽黒山城:蘆名盛高、盛氏
 出羽の米沢城&裏磐梯桧原の城:伊達晴宗。
 ※蘆名盛氏の妻=伊達晴宗の娘
 伊達家は姻戚関係だが、対立していた。

 蘆名家の世継ぎ騒動により混乱。
   養子を伊達家?常陸の佐竹家?で分裂。
→佐竹氏より蘆名盛隆が向羽黒山城入城。

・永禄7年(1564)~天正5年(1577) 
   16代:伊達晴宗が家督を17代:輝宗に譲って
    米沢城から杉目城に隠居入城。
  ※信夫郡(現福島市)の中心は晴宗の弟:伊達実元の
    居城:大森城であった。
 
◆◆ 箕輪初心●福島「大森城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_11.html


◆◆ 箕輪初心●福島『大仏城→福島城』=伊達政宗の先祖の城 ◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_10.html




・永禄7年(1564) 伊達晴宗は檜原に進攻。
   穴沢俊恒は桧原峠で待ち構えた
   伊達晴宗は退却した。
   葦名盛氏は、穴沢俊恒に命じて、檜原の戸山城を築城。

・永禄8年(1565) 伊達輝宗も再び桧原に進攻。
   戸山城を攻撃。
   穴沢氏が丸太などで防戦した。

【1】伊達政宗の誕生
・永禄10年(1567) 8月3日、伊達家16代当主:伊達輝宗の子として
   米沢城で生まれる。 
   父・・・伊達輝宗
   母・・・山形城主:最上義守の娘。最上義光の妹:義姫
   幼名は梵天丸。

◆◆ 箕輪初心◆山形旅行12回の概要 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●山形【米沢城】&米沢の秘湯 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_4.html

◆箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家廟所・林泉寺・照陽寺 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_5.html


・元亀2年(1571) 5歳。 疱瘡にかかり、右目を失明。
梵天丸と竺丸
  母は醜くなった梵天丸を嫌った。
  梵天丸も人の前にでなくなった。(★NHK大河ドラマ)
  母は2年後に弟:竺丸を可愛がった。
★母ちゃんに嫌われ、愛情のない人生を歩み始めた。
 
・元亀3年(1572) 虎哉宗乙禅師に弟子入りする。

・天正5年(1577) 11歳で元服。伊達藤次郎政宗と名のる。
★母:義姫は伊達家を竺丸に嗣がせようと計った。
   父:伊達輝宗は家督争いをさけようとしたのだ。
  「政宗」は父:輝宗が伊達家中興の祖といわれる第9代当主:
   大膳大夫政宗(桑折西山城)にあやかって名づけた。
◆◆ 箕輪初心●福島『桑折西山城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_9.html


  
   片倉小十郎(景綱)が伊達政宗に近習となった。


・天正7年(1579) 13歳 三春城主:田村清顕の娘:愛(めご)姫
        と結婚。
◆◆ 箕輪初心●福島『三春の滝桜&三春城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_13.html


・天正9年(1581) 初陣で、相馬氏と戦った。

・天正9年(1581) 蘆名盛氏が死亡。→蘆名盛興は家督を継いだ。

・天正10年(1582) 相馬氏を掃討。
         伊具郡・信夫郡を奪還した。

・天正12年(1584) 18歳 伊達輝宗が隠居。
   伊達政宗が伊達家17代の家督を継ぎ、当主となった。

  蘆名盛隆が柏木城を築城。
  戦国時代の東北最大の石垣の城。
★蘆名盛隆は群馬:太田金山城や武田信玄の築城法を
 学ばせていたのだ。
  

・天正13年(1585) 米沢の伊達政宗は会津の蘆名盛興に挑んだ。
★伊達政宗は「檜原の金山」を手中にしたかったのだ。
砂金が今でも取れるそうである。    
  →葦名盛氏の家臣:穴沢俊光の奇襲により
   伊達政宗は敗北。死者173名?
     
   伊達政宗は再び穴沢俊光を攻撃。
    →巌山城が落城。
   伊達政宗は穴沢俊光一族を皆殺しにした。
   ★結構、残忍な人格だ。 
   
   伊達政宗は小谷山城=檜原城を築城した。
    ・・後藤孫兵衛を城番にした。
   本丸、二の丸、袖郭で構成され、空堀や堀切がある。
   
   伊達政宗は檜原峠を越え、裏磐梯へ進攻。         
  →喜多方の関柴へも侵攻。
   
   伊達政宗は蘆名盛氏の防御のため、会津への攻撃は
   出来なかった。  
◆◆ 箕輪初心●福島「檜原の4城&歴史」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_2.html       



・天正13年(1585)
4月  大内定綱が伊達政宗に背き蘆名側についた。。      
閏8月 大内定綱の支城:小手森城を攻撃。

    大内定綱の没落を間近で見た畠山義継は和議を申し出た。
    伊達輝宗の取りなしにより伊達政宗は5ヶ村のみを
    二本松領とした。


・天正14年(1586)
10月8日 父:伊達輝宗、畠山義継に拉致された。
      伊達輝宗は礼に来ていた畠山義継の見送りに出た所を
      拉致されたのだ。
      鷹狩りに出かけていた伊達政宗は、急きょ戻って畠山
      義継を追走した。
      伊達政宗は馬で義継の後を追った。
      ★手を出せば、父:輝宗は殺されるのだ。
      政宗は迷ったものの畠山義継を攻撃した。
      鉄砲を放って畠山義継と父:伊達輝宗もろとも一人残
       さず殺害した。
   
    ※伊達政宗による父殺しの陰謀説
   ※伊達政宗は追いついたが既に輝宗死亡していた説
     畠山義継は伊達輝宗を刺殺、おのれも果てた。
  ★二本松城攻撃では、父も一緒に殺してしまった。
    「高田原の悲劇」とは、後世の伊達政宗びいきの方が
   つけた名称であろう。

   その後、初七日法要を済ませた。
母:義姫はは、「父を殺せしは政宗ぞ。」
   とますます憎しみを持った。(TVでは・・)
◆◆ 箕輪初心●福島『二本松城』=伊達政宗父の弔い合戦 ◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_8.html
   

11月17日 畠山氏の居城:二本松城を攻めるが失敗。
引き揚げる時、佐竹・藍名連合軍に襲われた。

   《人取橋の戦い》   
伊達政宗 VS 佐竹・蘆名・岩城・石川・結城・二階堂、
相馬連合軍
 →伊達政宗がかろうじて撃退した。

◆◆ 箕輪初心▲『安達太良山』&二本松城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_14.html


・天正15年(1587)
   二本松城を攻め落とした。
◆◆ 福島:二本松城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_8.html

◆◆ 箕輪初心▲『会津駒ヶ岳&檜枝岐温泉』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_18.html


◆◆ 箕輪初心▲『磐梯山』&白布温泉&米沢 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_15.html

◆◆ 箕輪初心▲『西吾妻山』&白布温泉&銀山平温泉 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_16.html


◆◆ 箕輪初心▲『平ヶ岳』&銀山平温泉 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_17.html



・天正16年(1588)
1月 大崎氏家中の内紛

2月 大崎合戦
  伊達政宗は兵10,000大崎氏攻撃
   黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北。大敗。 
  伯父・最上義光(TVでは原田義雄)が大崎側に立って参戦し
  たのだ。
  伊達領内に最上勢が攻めこんだ。
  →両軍の間に母:義姫が入ってり和議を成立させた。
   ・・・伊達政宗は窮地を脱した。
一方、内乱に乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻してきた。

6月  「郡山合戦」
   佐竹・蘆名軍と郡山で戦った。
伊達政宗は愛姫の実家:田村氏領の確保に成功した。

7月3日 佐沼城を攻略。
     大崎、葛西一揆を鎮圧する。
    交戦中の佐竹・蘆名・大崎・最上と和睦。

9月25日 飯坂氏(猫御前)との間に伊達秀宗が生まれた。



・天正17年(1589) 政宗23歳。
5月 伊達政宗は猪苗代城主:猪苗代盛国を味方に付けた。
     母成峠から猪苗代城へ入城。
◆◆ 箕輪初心●【猪苗代城】&ふるさと歴史館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_12.html


6月5日 磐梯山麓:摺上原(すりあげはら)の合戦。   
  伊達政宗23,000 VS 蘆名義広(佐竹からの養子)16,000  
  はじめは強い西風の影響で蘆名軍有利に進んだ。
  風向きが変わると伊達軍が猛反撃を開始した。
  蘆名軍をさんざんに打ち破った。
  蘆名義広は数十騎に守られて逃亡。 
  蘆名義広は黒川城を放棄して実家の須賀川:佐竹家に逃れた。
  →蘆名氏は滅亡。


  →伊達政宗の勝利。 

6月11日 会津黒川城に入る。
画像

◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城1回目』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_22.html

◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城2回目』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_23.html

 

この後、伊達政宗はさらに兵を須賀川へ進めた。
  二階堂氏を滅ぼした。

  伊達政宗の傘下のとなった長沼一族も久川城の攻撃を開始。
◆◆ 箕輪初心●福島『久川城』 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201306/article_19.html
  

  それから常陸の佐竹氏を討つべく準備に掛った。

   豊臣秀吉の惣無事令を遵守して佐竹氏側から結城義親・石川昭光
  ・岩城常隆らが次々と伊達政宗に服属した。

12月 仙道制覇=奥州の覇王となる。
 ※伊達政宗は現山形県米沢を中心に現福島県の中通りと会津+南会津、
  宮城県の南部を領した。
 また、会津の白河氏といった南陸奥の諸豪族や宮城県や岩手県の一部
 を支配していた大崎氏・葛西氏も勢力下においた。


天正18年(1590)
※豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承していた。
1月  豊臣秀吉より小田原参陣の命令が届く。
豊臣秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す
      催促状が既に幾度か届けられていた。
    しかし、伊達政宗はずうっと黙殺してきたのだ。
   ★伊達政宗は父:輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあった
ので、豊臣秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前
まで迷っていたのだ。


3月18日 小田原参陣について家臣たちと対応を協議する。
伊達政宗の腹心:片倉小十郎の決定に従い、小田原
     伺候とした。


4月7日 伊達政宗.は出立の前夜、母の館に伺いをたてた。
      母:義姫=保春院は政宗に膳部をすすめた。
      弟:小次郎を擁立した母:保春院に毒を盛られ、
      殺されかけた。毒殺未遂であった。
      →小次郎は母をかばった。そこで、
      伊達政宗は弟:小次郎を殺害した。
母は実家:最上義光を頼って出奔した。
     ※通説・・・上記。
     ※義姫は伊達家に留まっていた。
      伊達政宗と母:義姫は手紙のやりとりをしている。
      義姫が実家の山形城へ出奔したのは4年後である。
     ※「毒殺未遂事件」は伊達政宗の書いた反政宗派一掃の
      ためのシナリオだったという説もある。

伊達政宗は母の冷たい仕打ちに泣いた。
      しかし、生みの母を斬るわけにいかなかった。
      母は弟:竺丸=小次郎がいる限り私を狙うのだと
      考えた。そこで。小次郎を殺そうかと思いついた。

      ・・・ 
     ※伊達政宗は弟竺丸=小次郎を居間に呼んだ。
      「小次郎、私は明日、小田原へ出立するが
       お前がいると、母が心配である。
       私は幼いときから母の愛を知らずに育った。
       小次郎、死んでくれ。」
       といって死を迫った。小次郎は
      「はい、兄上。17歳まで生きてこられて満足です。」
      と泣きながら言った。政宗は
      「あの世で父にお会いしたらわびてくれ。」
      と言い、実弟:小次郎の首を刎ねた。
     てな、小説も読んだことがある。

    ★いずれにしても、父に続き、弟も殺してしまうとは
非道と言わざるを得ない。やむを得なかったという
考えもあろうが・・・。

     
     豊臣秀吉の小田原攻撃中である。

5月初旬  五奉行筆頭:浅野長政から小田原参陣を催促された。

5月9日  伊達政宗は小田原参陣のため、会津を出発。
→米沢・小国・・・上杉景勝の所領:越後国・信濃国を
      経由して箱根に着いた。・・小田原に至った。
豊臣秀吉は政宗の遅参を責め対面を許さなかった。
      伊達政宗は豊臣秀吉が茶の名人:千利休を伴って
      石垣一夜城にきていることを聞いた。
      

6月5日  小田原着陣
  ※白装束で秀吉との謁見の場に出向いた。
  ★白装束でデモンストレーションをして臣下の礼を装った?
    伊達政宗は死を覚悟した(TVでは)
人気を博した。


6月9日伊達政宗は豊臣秀吉と会見。
  豊臣秀吉は伊達政宗の白装束に興味を示し、感嘆した(伝)。
  ※豊臣秀吉の派手好みの性格を知っての行いと考えられている。
とっても、頭よかったのだ。

  伊達政宗は豊臣秀吉に服属した。

  前田利家らが遅参の詰問に来た時には、
  「千利休の茶の指導を受けたい。」
  と申し出た。
    
6月14日 小田原を出立した。    

7月5日 北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏した。
画像

     北条氏直は徳川家康の陣に向かい、
     己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。
     豊臣秀吉に氏直の降伏を伝えた。 
  
7月17日 豊臣秀吉は小田原から下野国に向かった。
7月26日 宇都宮城に入城、宇都宮仕置。
      関東、奥羽大名に対する仕置を行った。

7月28日 伊達政宗が宇都宮入りした。
   伊達政宗は奥羽に150万石近い大領国を築いていた。
     豊臣秀吉は旧蘆名領=会津領を没収した。
      会津郡、岩瀬郡、安積郡を没収した。
     ①伊達政宗が小田原に遅参したこと
     ②会津攻撃が惣無事令に違反していたこと
     などを理由に・・
     150万石から72万石の減封だが、伊達家の本領
     72万石を安堵したのだ。    

    会津黒川城には近江の蒲生氏郷が入ることになった
     42万石の領主である。

8月 蒲生氏郷が地理不案内のために伊達政宗が先導役を命じられた。
  伊達政宗は豊臣秀吉を案内した。秀吉は途中で宇都宮に戻った。
   会津:蒲生氏郷、浅野長政を筆頭とする奥州仕置巡察行軍を
   案内した。

8月9日 蒲生氏郷は会津黒川城(現会津若松城)に入った。
 
・その後、奥州仕置軍は平泉周辺までの諸城を制圧した。
  浅野長政の家臣が代官として検地などを行った。
  郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。

※豊臣秀吉の日本統一が達成された。
  
   
8月下旬   米沢に戻った。

10月26日 大崎・葛西一揆の鎮圧のため米沢から出陣。
11月14日 会津:蒲生氏郷と会見した。
11月28日 蒲生氏郷と和解・・・誓紙を交換する。
12月    関白:豊臣秀吉は関東&東北の諸大名・・・特に、
  関東の北条氏&東北の伊達氏に対して、惣無事令=私戦禁止令を
  発令した。
  しかし、伊達政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
この辺がしたたかである。


・天正19年(1591)
2月 伊達政宗は羽柴姓を許される。

    伊達政宗は蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定。
    伊達政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。
    蒲生氏郷が「政宗が書いた」一揆勢宛の書状を入手した
    からである。    
蒲生氏郷は伊達政宗に気を許さず黒川城から出そうと
    しなかった。
    蒲生氏郷は豊臣秀吉に「政宗に謀反の疑いあり」の書状
    を送った。
    伊達政宗は重臣2人を蒲生氏郷に差出したのに・・・
    
    ※伊達政宗と蒲生氏郷との不和が続いた。~~~
伊達政宗は会津黒川城から米沢城に戻ることになった。
    
    伊達政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物であると
    豊臣秀吉に弁明し許された。
ま~ず、上手なんだから~~~でも・・・。

・それからやっと、伊達政宗の所領が決定された。
9月 米沢城72万石から玉造郡岩手沢城=岩出山城に
    58万石に減封。岩出山城に移封・・・。  
    ※現在の岩手県の南部、宮城県全域、福島県の北部など
    20郡、58万石なのだ。
画像





・文禄元年(1592)
1月5日 豊臣秀吉の朝鮮出兵のため、兵3000を率いて
     岩出山城を出発。
     豊臣秀吉から割り当てられた倍の兵3000人で上洛した。
    (★1500人という記録もある。)
街道では派手な軍装で人々の目を惹いた。
伊達軍は戦さ装束は非常に絢爛豪華なものであったらしく
    上洛の道中においても噂となった。
全く、奇抜なんだから~~~

閏1月27日 豊臣秀吉に清洲で謁見。
3月     清洲から肥前:名護屋城に向かった。
  京都の住民も伊達軍の出で立ちの見事さに歓声を上げた
       という。
  ★ど派手な装いを好んで着る人を「伊達者」と呼ぶようになった。

4月19日 肥前名護屋城に着陣。      
画像

      肥前:名護屋城近くに陣屋を築城。

◆◆ 箕輪初心●佐賀『名護屋城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201112/article_15.html



・文禄2年(1593)
3月 朝鮮に向けて出航。文禄の役に従軍。
4月 朝鮮半島では、日本軍の南部沿岸の築城が行われた。
   晋州城攻撃等に参加。・・・落城。
9月 帰朝命令→釜山を出航。

6月16日 長女:五郎八姫が生まれる。


文禄4年(1595)
7月 関白秀次事件・・・
   関白:豊臣秀次が豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられた
   豊臣秀次は謀反の疑いで高野山に蟄居・・・切腹。
   伊達政宗の母方の従姉妹で秀次の側室となった最上義光の
   娘:駒姫は豊臣秀次の妻子らとともに処刑された。
    
   伊達政宗は豊臣秀次謀反の関与を豊臣秀吉に疑われた。
伊達政宗や最上義光が詰問された。
 
★最終的には無関係であるとされ、難を逃れた。

8月24日 豊臣秀吉から赦免された。
      伏見に屋敷を与えられた。
      従四位下右近衛権少将に任ぜられる。
しかし、豊臣秀吉に早くから服属している大名とは
      違い、五大老には選ばれなかった。




・文禄5年(1596) 伊達政宗と浅野長政が絶交
     

・慶長3年(1598) 豊臣秀吉が没した。
  豊臣秀吉の遺品「縞(しのぎ)藤四郎の脇差」を受け取った。
豊臣秀吉の死後、伊達政宗と五大老・徳川家康は豊臣秀吉の
  遺言を破り、手を結んだ。

・慶長4年(1599)
1月20日 今井宗薫の仲介により
      長女:五郎八姫と徳川家康6男:松平忠輝が婚約する。

12月8日 正室:愛との間に虎菊丸(忠宗)が生まれた。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
   東軍に味方した。
  伏見城にいた徳川家康は会津の上杉景勝を討伐を敢行した。、

7月25日 伊達政宗は上杉景勝の足を止めるため、
      登坂勝乃が守る白石城を奪還した。

8月 徳川家康より「100万石の御墨付」が届く。
徳川家康は伊達政宗に対して岩出山転封時に没収されていた
  上杉景勝領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を
  許す旨を書いた書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館蔵)
  を送ったのだった。
  ※伊達政宗の作戦であった。
   ①南部利直領への侵攻許可を得る。
②上杉景勝との戦に勝ったら、領土を安堵してもらう。
   そのため、南部氏が西軍に通じていると、侵攻理由を徳川家康
   に訴えたのだった。まあ、要領がいいこと。

9月 関ヶ原の戦い
※徳川家康が畿内を離れた隙をついて、五奉行:石田三成らが
  毛利輝元を総大将として徳川家康に対して挙兵したため、
  小山まで北上していた家康は西へ向かった。

◆◎◆ 長谷堂城の戦い ◆◎◆
 上杉景勝の直江兼続軍 VS 最上義光+伊達政宗の援軍

◆ 箕輪初心●山形【長谷堂城】&直江兼続VS最上義光 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_9.html


◆◆ 箕輪初心●山形【上山城】&武家屋敷 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_6.html

箕輪初心▲百名山№2【蔵王4回】&サクランボ大将錦&佐藤錦
http://53922401.at.webry.info/201307/article_7.html

◆ 箕輪初心●【山形城】&山形博物館&最上義光歴史館 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_8.html





《長谷堂城の戦い》
9月15日 叔父:最上義光から援軍要請がきた。
 伊達政宗は叔父:伊達(留守)政景率いる3,000の兵を派遣した。

9月25日 茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した。

※関ヶ原の戦い・・・徳川方の勝利に終わった。
 直江兼続は最上義光に敗れて米沢に逃げ帰った。

伊達政宗は兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越え
南進した。

10月6日 福島城主:本庄繁長を攻撃。
      福島城包囲戦は失敗した。
◆◆ 箕輪初心●山形『福島城』 ◆◆


・この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵した。
  結局は取り戻せなかった

  伊達政宗が南部領:和賀忠親による一揆を煽動し、
  白石宗直らに命じて南部領に4,000の兵を侵攻させた。
  →岩崎一揆の件がばれて、伊達政宗は60万石となった


・慶長6年(1601)
   居城をどこに移すか悩んだ。5ヶ所の候補地があった。
石巻城もその一つであった。
   仙台城に移すことに決定。


・慶長7年(1602) 37歳
1月11日 仙台城=青葉城の築城普請を始める。
  仙台城&仙台城下町の建設を始めた。
    仙台城は山城で天然の要害地形であった。
    仙台の城下町は新しく開発しなければ、ならなかった。
     のべ人数:100万人を動員した。
画像
   
  
5月 仙台城が完成した。
   伊達政宗を藩祖とする仙台藩62万石が誕生した。
   1位・・加賀:前田氏、
   2位・・薩摩:島津氏
3位・・仙台:伊達氏 家臣を48ヶ所に配置した。
画像

   岩出山城の回りの民を仙台に移した。

徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した。


・慶長16年(1611)

4月 嫡男:虎菊丸(忠宗)と家康の孫娘:振姫の婚約が成立。
   

この頃、伊達政宗は海外に眼を向け始めた。
  ソテロと仙台城にて会見した。
    →キリスト教の布教を許可。


・慶長18年(1613)
4月25日 娘婿の松平忠輝の付家老:大久保長安が死亡。
      ・・・謀叛事件が発覚する。
      ・・・里見一族の倉吉に・・


  伊達政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商を企図していた。
  
  
  伊達政宗は徳川家康の承認を得た。


  仙台領内において、エスパーニャ国王:フェリペ3世の使節
  セバスティアン・ビスカイノの協力によって、ガレオン船
  「サン・フアン・バウティスタ号」を建造した。
  船を仙台領:雄勝浜で造らせたのだ。
  ・・・五百t級のものといわれている。
画像

9月15日 慶長遣欧使節の派遣
    ルイス・ソテロを外交使節に任命。
    支倉常長ら一行180余人を遣欧使節としてローマに
    派遣するのだ。
    ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)
     →エスパーニャ(スペイン)
     →ローマへ・・・教皇にあう。
画像

   ★伊達政宗の真の目的は如何に?
キリシタン布教に名を借りて、諸外国と直接貿易をすべく計
   ったのである。そして、表向きは通商が目的であったが、イス
   パニア国王の支援を受けて徳川倒幕を決行するつもりであった
   という説が有力である。
   歴史家の中には、「伊達政宗は、徳川家康の側についていな
   がら、天下を奪う機会をねらっていたのだ。」と解釈する人も
   多くいるのだ。
   ★全く油断も隙もない男である。



    伊達政宗の命で支倉常長が月ノ浦港を出航。
    支倉常長が
     メキシコ→ヨーロッパ・・・
画像

◆◆ 箕輪初心★支倉常長:遣欧使節団 ◆◆      
http://53922401.at.webry.info/201108/article_14.html

・慶長19年(1614)

10月20日 大坂討伐命令を受け先手を命じられ江戸を出発。
    大坂冬の陣に参戦。大和口方面軍として布陣。
    真田幸村の守る真田丸の南西に長男:伊達秀宗と着陣した。
    大坂城真田丸を攻撃。
   ・・・大した戦闘もないまま和睦。
    
    和議成立後、伊達政宗軍は外堀埋め立て工事にあたった。
    

・慶長20年・元和元年(1615)
 大坂夏の陣に参戦する。
4月、大坂夏の陣に従軍。

5月6日 道明寺の戦い
     伊達政宗は騎馬鉄砲隊を率いて、後藤又兵衛基次、
     薄田隼人の軍と激突・・
     後藤又兵衛を討ちとった。
※伊達家:片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃した(伝)。
    
    さらに大和方面軍は誉田村に兵を進めた。
    伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受け、後退した。
    真田幸村軍と激突した。
    真田軍にゲリラ戦法で攪乱された。
  やがて被害が大きくなったため兵を引いた。
    伊達政宗は損害を恐れて深追いをしなかった。
    先鋒大将:水野勝成は伊達政宗に真田隊への再攻撃を
    要請するが、伊達政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを
    理由に拒否した。
     
真田信繁=幸村は悠々と大坂城に引き返した。
    「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
   (「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として
    居ない」)と嘲笑した(伝)。

5月7日 大坂城落城。→豊臣家滅亡。
     伊達軍は傍観に徹したため、戦功は大してない。
★落城を予感していたのであろう。

閏6月19日 正四位下参議に任じられる。
10月14日 片倉景綱死去。
12月28日 戦後の論功行賞で2代将軍:徳川秀忠より長男
   =庶長子:伊達秀宗が
    伊予:宇和島に伊予宇和郡に領地を賜った。
伊達秀宗が伊予・宇和島10万石の初代藩主になった。
◆◆ 箕輪初心★愛媛【宇和島城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201101/article_22.html
 

・元和2年(1616)
2月22日 伊達政宗は駿府城の徳川家康を見舞った。
7月6日 娘婿長女夫:松平忠輝改易。
  五郎八姫実家に戻る。

     徳川家康が没した。
       
伊達政宗は領国の開発に力を入れた。
①運河を整備。北上川水系の流域の水田開発・石巻港の建設など。
②文化の向上・・・上方文化導入。技師・大工らの招聘。
  大崎八幡宮・瑞巌寺・塩竃神社・陸奥国分寺薬師堂など。


・元和6年(1620)
支倉常長が仙台に戻る。
  日本はキリシタン禁制となり、7年の航海も水の泡に終わった
  のである。
  ・・・鎖国政策に失望し、2年後には死亡した。
支倉常長が太平洋横断をしたことは事実である。



・元和9年(1623) 徳川家光が3代将軍になった。


・寛永3年(1626) 
5月20日 徳川秀忠秀忠、家光の供奉をして上洛した。
8月19日 従三位権中納言に任じられた。


・寛永5年(1628)
11月 若林の屋敷に隠居した。


・寛永9年(1632) 徳川秀忠が没した。

・寛永11年(1634) 徳川家光の供奉をして上洛。
 伊達政宗は食事不振など体調不良を訴え始めた。

・寛永12年(1635) 徳川家光が参勤交代制を発布。
  伊達政宗は「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付け
  くだされ」と申し出た(伝)。


・寛永13年(1636年)
4月18日 母:義姫を弔う保春院の落慶式。
      伊達政宗は「死後はここに埋葬せよ」と言った。
      ・・・瑞鳳殿の場所である 。
      行ったことがあるが写真がない。

4月20日 伊達政宗は参勤交代のため病をおして江戸に
      向かった。
      ★すでにこのとき、死を覚悟していたらしい。

4月28日 江戸入りした。
      絶食状態が続いた。

5月21日、将軍:徳川家光の見舞いを受けた。
辞世の句・・・
  「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

5月24日 江戸桜田伊達上屋敷にて死去(70歳)。
   死因はガン性の腹膜炎とも食道ガンともいわれている。
   「伊達男」は臨終の際には、妻子にも死に顔を見せなかった
   という。・・・★まあ、頑固だこと。

5月26日 伊達忠宗の家督相続が許された。
      
6月4日  遺体は仙台へ戻った。
      遺骸は仙台経ヶ峰=瑞鳳殿・・・に埋葬された。
      殉死者は家臣15名・陪臣5名。
黄泉の国では母の愛は如何に?
 


※昭和51年 霊廟瑞鳳殿が再建された。
   伊達政宗の遺体が発掘され、鑑定が行われた。
   結果・・・身長や骨格が明らかになった。



★明日は、???

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック