箕輪初心●宮城:白石城&城下町

★白石城は①伊達政宗家臣:片倉小十郎景綱の城である。片倉綱景
の妻は真田幸村の娘である。②元和の一国一城令の例外で、廃城に
ならなかった城ある。平成20年(2008)のGW東北旅行=松尾芭蕉の
「奧の細道」を見て回る旅の途中で立ち寄った。今回も松尾芭蕉の
復刻版である。東北自動車道から微かに見える。
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【1】白石城
■訪問記・・・平成20年(2008)5月6日・・GW東北旅行
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●白石ICを下り、中心部の小高い丘の上に向かった。
 白石城である。

●駐車場


●坂道を登った。
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 「片倉小十郎は真田幸村の娘をもらったんだっけ。」
  と思いながら、・・・
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●ボランティアガイドの小屋を発見。早速依頼。
でも、私がいろいろ質問すので、嫌気がさしたらしく、
 門までだった。

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●城門をくぐり、本丸に入った。
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 ★復元天守閣が美しかった。
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 ★こんな家に住みたいなと思った。
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●井戸に行った。
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●入り口にゲームのキャラがあった。
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★「歴女」と言われる女性はこれにあこがれたのか?
 
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●白石城の天守閣に登った。
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城内もきれいに復元されていた。
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●展望
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●資料展示
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【2】後小路=白石城の北
  三の丸外堀にあたる沢端川に面した町並みである
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なかなか質素・簡素?しっとりした町並みである。



【3】白石城下町 武家屋敷小関家:宮城県指定文化財
沢端川に面した内側=三の丸内に屋敷がある。
後小路南側東端の屋敷である。
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※宝暦11年(1761)の白石城下絵図に「小関右衛門七」とあります。
この地は中級家中の屋敷であり、小関家は鬱蒼たる庭樹でおおわれ、
前面、側面を清冽な水流が巡り、景観的にもすぐれたものがあります。
平成3年(1992)に、主屋・門・塀が小関家から白石市に寄贈された
のを機に全面的に修復されました。
 (★白石市Hpより引用)






●▲■ 白石城の歴史 ■▲●
・寛治2年(1088) 後三年の役
刈田左兵衛尉経元が白石の地に賜り、刈田氏と称して、
  白石に築城したのが始まりである(伝)。

・室町時代末期  地元の土豪:白石氏の居城。
伊達政宗の勢力化に入った。
  刈田氏は後に伊達氏家臣となった。
  
  伊達政宗に仕えた白石宗実が二本松城の攻略
  などに貢献した。。

・天正14年(1586) 伊達政宗は大森城(福島市)から出陣。     
 「高田原の悲劇」
 伊達政宗は畠山義継と父:伊達輝宗とも射殺。

 畠山=二本松義継の子:国王丸は二本松城に籠城した。
 伊達政宗は二本松城攻撃を開始。 
 伊達稙宗・実元が二本松城:畠山を攻撃。            
 
相馬義胤の口添えにより二本松城は開城。
 →畠山=二本松氏は滅亡。
   
伊達政宗は片倉小十郎景綱(後白石城・妻は真田幸村の娘)
を二本松城代にした。その後、
 
 伊達政宗は軍功により、伊達成実に二本松を与えた。
 →伊達政宗片倉小十郎景綱を大森城に入城させた。
 ★目的は、蘆名の会津黒川城である。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃

・天正19年(1591) 豊臣秀吉の奥州仕置
  豊臣秀吉は伊達政宗の参陣の遅れから、伊達政宗から所領を
取り上げた。会津から岩手山城(宮城)国替えになった。

 豊臣秀吉は伊達政宗を岩出山城に転封。
   →会津若松城の蒲生氏郷の所領。
    二本松城は会津若松城の支城となった。
     蒲生郷成&町野繁仍が二本松城代として入城。

    蒲生源左衛門郷成が白石城代。白石城を大改築。
  本丸に天守閣代わりの三層櫓・坤櫓・巽櫓を築き曲輪を整えた。

・慶長3年(1598) 会津領主:上杉景勝の家臣・甘糟備後清長が入城。
   甘糟景継が城代となって、改修工事をした。

・慶長5年(1600) 徳川家康の会津上杉景勝征伐の軍を起こした。
石田三成が伏見城を攻撃・・
   
  ★関ヶ原の戦い・・・
  ①長谷堂城の戦い
上杉景勝家臣:直江兼続 VS  最上義清+伊達政宗援護

  伊達政宗は徳川方に呼応して白石城を攻略するために
参陣じた。
②白石城の戦い
伊達政宗が上杉景勝から白石城を奪い取って再び伊達領とし、
政宗の叔父、石川昭光が城代として入る。


  伊達政宗が旧領:会津を回復して白石が伊達領となった。
  伊達政宗の叔父:石川大和守昭光が城主となった。

・慶長7年(1602) 片倉小十郎景綱が仙台城の支城として城主となった。
青葉城の守りとして伊達家の重臣・片倉小十郎景綱を白石に入城
  させたのであった。
  

・慶長8年(1603)片倉小十郎景綱の嫡子:重長が白石城へ移り、
   城下町の整備を始めた。


・慶長10年(1605) 片倉小十郎景綱が白石城へ入城。

・元和元年(1615) 片倉重長は幕府の一国一城令が出されたが
   例外的に城の存続を認められた。
一国一城令後も例外的な「城」としての存続。          
   (全国で3城)
・以後、代々片倉家の居城となった。


・慶応4年(1868)戊辰戦争
鳥羽・伏見の戦いに端を発した。

※「戊辰戦争」は、簡単に言うと、
  倒幕による近代国家建設を目指す薩長連合
   VS
一橋慶喜&松平容保を中心とする旧幕府軍
  徳川家から朝廷への平和的な政局転換を唱えた。

  やがて、奥羽越列藩同盟との戦いであった。
  同盟は奥羽25藩と北越6藩が同盟であった。
  藩という封建的単位を超えて「東北・北陸国家」という
  政治的単位を具現化しようとした点でも画期的なできごとで
  あった。、同盟締結の会議が白石会議であった。
  舞台は「白石城」であり、歴史の焦点となった。 
   白石城で奥羽越列藩同盟の事前会議が、仙台城での奥羽越列藩
  同盟の結成につながったのだ。。


「八重の桜」
戊辰戦争で「東北皆敵」と東北諸藩に対して強硬な態度をとっていた
奥羽鎮撫総督下参謀&長州藩士:世良修蔵が暗殺された。
会津藩討伐の命令が発せされた。
奥羽・北陸諸藩が白石城に結集した。
明治新政府に対抗するための決起集会のような開催のだった。
その後、「奥羽越公儀府」=軍事行政機関が白石城におかれた。
明治新政府に対抗する独立国家構想「北日本政府」ともいうべき
ものが誕生した。

さらに舞台を仙台に移して奥羽越列藩同盟を樹立した。
会津から移動してきた土方歳三は榎本武陽と一緒に、仙台城に
行った。
これは明治新政府に対抗して、日本の北半分を一つの独立した
政治思想による対等の政府というべきものであった。

白石藩の藩士も多くの東北諸藩の同士とともに奮戦した。
しかし、明治新政府軍の圧倒的な最新武力の前に、武運尽きて
多くが戦死した。
奥羽越列藩同盟の諸藩も次々と降伏し、戊辰戦争は終結した。

奥羽越列藩同盟の「東北独立」の夢が5ヵ月で消えた。
片倉家に仕えていた家臣は北海道に移住するしかななかった。
全く未開の地であった。
明治維新の歴史のうねりの中で、白石城が舞台となった。
奥羽越列藩同盟に加った諸藩の武士たちが辿った無念の想いが
ちらりほらり~燃え上がり~~小栗上野介の殺した岩倉一族
&薩摩藩の憎悪となって、浮かび上がる。



・新政府軍が占領

・明治2年(1869)白石は盛岡藩=南部氏の管理下に置かれた。
   一時移封される(→白石藩)。
  白石藩知事:南部家(岩手県盛岡市)が城主。→按察府。
         
   片倉家は白石城の売却を申請。
       →白石城は陸軍省、大蔵省へ管轄。

・明治7年(1874)  民間に払い下げ処分となり以後随時解体。

・明治8年(1875) 白石城破却。
     売却代金は片倉家中の北海道移住費用の多くに充てられた。

・平成7年(1995) 三階櫓(天守閣)と大手門を市民と行政で復元。     
 (★白石城観光パンフレット・日本の城などより編集)

・平成9年(1997) 三階櫓天守・大手の一ノ門と二ノ門・土塀の
復元工事が完了。

・平成23年(2011)3月11日 東日本大震災
壁の崩落の被害が出る。
文化財などには指定されていないため補助金が出なかった。
 白石市の財政と募金や寄付金などで復旧を行っているのが現状
 である。



【4】宮城:白石城の雑感
・慶長7年(1602)に片倉小十郎が入城した。
片倉小十郎景綱は仙台藩主伊達政宗の第一の重臣であった。
上杉景勝の家臣:直江兼続のような家臣であったのだろう。
白石城が仙台藩内で青葉城以外唯一の城であることからも
伊達政宗の心が察せられる。
それから約260年・・・10代にわたり片倉氏が居城した。
片倉家代々の領主は白石の産業に力を注いだのであろう。
農業・養蚕・和紙・・・など。
※「寒葛」・「温麺(うーめん)」「和紙」は「白石三白」と
して伝承されている。



【5】松尾芭蕉「奧の細道」白石~柴田~仙台~
★松尾芭蕉は伊達領内(宮城県&岩手県)に入った。
松尾芭蕉の目的は①武隈の松、②笠島、③実方の墓
④閖上、⑤多賀城、⑥末の松山、⑦塩竃、⑧瑞巌寺、
⑨月浦・・・であった。
でも、旅のメインの一つはなんと言っても「多賀城の壺
の碑(つぼのいしぶみ)」であった。


◆◆ 箕輪初心★松尾芭蕉19奧の細道9【福島~飯坂~】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201208/article_3.html

◆◆ 箕輪初心★松尾芭蕉19奧の細道9【白石~仙台~多賀城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201208/article_4.html


★松尾芭蕉の「奧の細道」
ルポライターとしての河野亮&エッセイストとしての
田辺聖子氏の書き方が何となく分かった。紀行文とし
ては、松尾芭蕉より優れているかもしれない。私も
もっと気楽に行った場所を書けば、もっと面白くなる
ことが分かった。でも、難しいのだ。



■5月3日=太陽暦6月19日
松尾芭蕉&曽良は飯坂温泉を出発し桑折宿を越えた。
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 (★トランベール8月号資料より)
○伊達の大木戸・・・警戒の厳しい伊達領だ。
 ・文治5年(1189)藤原泰衡 VS 源頼朝

○藤田宿・・・

○国見宿・・・国見神社・義経腰掛け松
  
○越河:・・・

○斎川・・・・馬牛沼のジュンサイ

○白石宿・・・片倉小十郎の子孫の城下町(白石城)

●白石城・・・①2008年5月6日GW東北旅行       
 伊達政宗の右腕:片倉小十郎の妻は真田幸村の娘
 だった。

 1つの藩で、破城にならなかったのは
 親藩名古屋の犬山城と仙台藩の白石城位だ。
あれ、熊本の八代城もあったっけ?

白石城の掲載はいつになるのやら?

■5月4日=太陽暦6月20日
江戸を発って36日目。
○白石宿→

船はざま→

○槻木 

○柴田宿?

●船岡城・・・2008年7月19日

★船岡城の掲載はいつになることやら?

○岩沼宿・・・2008年7月19日

①竹駒神社

 
②武隈(たけくま)の松・・・松の名木
5) 「桜より 松は二木を 三月越し」 
★意味・・私を待ってくれたのは桜より松(=待つ)
 であった。それは武隈の二股の双幹樹の松だった。
 しかも江戸をたってから3ヶ月越しでのご対面で
 あった。ヤッホー。

★竹駒神社の近くに目指す松の木があった。
 「小さすぎ くっつきすぎと 憤り 
     ますます暑き 竹駒の松 」箕輪初心   
 植え替えてきた松なのだろうか?。
 小さな公園には高校生カップルが寄り添っていた。
 二本の松が一本のようになっていた。こいつら、
 この場所ので松の木のまねしてんのか?
 あっついデートだこと・・・。
 藤原実方の片思いの恋人は清少納言だったらしい。
 しかし、清少納言は藤原行成が好きだったらしい。
 Hね。清少納言のお姉様?二股掛けちゃって。
 藤原実方が京からいなくなったから当然か・・・
 頭が良くて、イケメンタイプ。
 藤原実方はさしづめ、 伊達者&歌舞伎者・・
 前田慶次郎か水戸光圀か・・・
 芸能人なら、スマップの稲垣吾郎かな?
 昨日、韓国から帰ってきたので、韓流スターも
 浮かぶ。
 「武隈の 二股で待つ 恋心
  はかなき夢の 夏の秘め事 」 箕輪初心     


○松尾芭蕉は藤原実方の墓や「かたみのすすき」がある名取
 郡を目指し、奥州街道を北へ急いだ。
 降り続く五月雨の中ようやく名取に辿り着いた。

○名取宿・・・

◆笠島道祖神(名取市)=松尾芭蕉が行けなかった場所
・天養元年(1144) 西行27歳。陸奥&出羽の旅。
・文治2年(1186) 西行69歳。陸奥の旅。
 西行は、藤原実方の墓に立ち寄り、
「朽もせぬ 其名ばかりを とどめをきて
        かれのの薄  かたみにぞみる」
と詠んだ。
「かたみのすすき」の由来となっている場所である。
★松尾芭蕉の大好きな西行が藤原実方の墓前で歌を詠ん
だ場所にどうしても行きたかったが、藤原実方の墓があると
いう村里へは大雨で道がぬかるみで歩くに歩けない。
藤原中将実方の墓=塚は街道を反れた一里ばかり先と
聞かされたのだった。①体力の限界、②日暮れ、
③悪路・・・行くのが困難と、ついに墓参を断念した
のだった。
『 笠島は いづこ五月の ぬかり道 』
★意味・・・笠島は一体どこなのだ。五月雨(さみだれ)
 の泥んこ道でどうにもならないのだ。残念無念。
 こんな気持ち、曾良でも分かるまい。・・
 ここまで、言ってないって。

○名取川
★私は東日本大震災の画像が頭から離れない。
「車がぷかんぷかんと浮かぶ場面、波が押し寄せている
 のに焦らない人・・・。」
「 突然に 襲う弥生の 大地震
    飲み込まれても 蘇れ大地 」 箕輪初心



○仙台宿・・・伊達62万石の城下町。

○国分町大崎庄左衛門の宿に逗留。
 本日は13里=52kmの歩行。 
★ 「芭蕉が訪れた時はどのような町だったのだろうか。
 そして、忍び=密偵をやっていたのであろうか?」





★明日は、船岡城かな?

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