箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
★平成25年(2013)3月24日、里見哲夫先生宅に伺った。蔵の壁に
は鉄砲の弾痕が残っている。近くには、勝海舟の書という「高崎藩士
戦死の碑」がある。島﨑藤村も訪れたという。10mの崖上は、天狗
党が里見邸前にいた高崎藩を攻撃した場所であり。現在はふるさと
センターである。下仁田戦争の激戦地だった場所である。
(★弾痕の残る里見邸の蔵)
◆◆ 箕輪初心◆水戸天狗党1『挙兵~下仁田戦争直前』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html
◆◆ 箕輪初心★下仁田の特産品・名所・偉人・有名人 ◆◆
★里見哲夫先生=「シダ植物研究」の 第一人者
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html
http://53922401.at.webry.info/201205/article_15.html
11月15日
吉井→七日市→宮崎・一ノ宮を経て・・支障なく下仁田に
入った。▲小幡藩兵は家老:小倉など300人?・馬山に行ったが
水戸天狗党の大砲によって、神農原まで撤退した。
▲七日市藩用人:横尾鬼角は死に装束で、武田耕雲斎に
面会して、「間道を行くように・・・」と依頼した。
七日市藩兵は南蛇井(なんじゃい)から中沢に進んだ。
しかし、大砲の音で中村から動かなかった。
水戸天狗党が、横尾鬼角の案内で鏑川を渡った。
一ノ宮(現富岡市一ノ宮)に入った。貫前神社で戦勝祈願をした。
▲高崎藩城代家老:宮部兵右衞門(★たぶん宮部譲の父)は、
高崎藩兵を4班に分けた。
1班・・・高崎城の備え
2班・・1番隊:会田孫之進周幸(かねゆき)109人
3班・・2番隊:浅井隼馬92名
4班・・3番隊:深井忠之丞景忠(★たぶん深井英伍先祖)132名
▲幕命を受けた高崎藩・小幡藩・七日市藩は宮崎で会議を持った。
会田孫之進は小幡藩・七日市藩に先峰を頼んだが、
「武器がないため、・・。」とことわられた。
高崎藩は藩兵3隊320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせた。
◎その頃、桜井弥右衞門宅では、有賀・杉原・富永・長野・小林
らが集まって会議を持った。
「女子どもは山に避難させ、若い者は村の警護をする。」
「下仁田には泊まらないで欲しい。」と懇願することになり、
長野見意(★箕輪城主:長野業政の子孫)と小林多治見が水戸
水戸天狗党に会いに宮崎に向かった。宇芸神社で水戸天狗党と
であった。
二人は懇願したが、滝平主殿は
「我等は、高崎藩・小幡藩・七日市藩と戦うためにここに来たの
ではない。京へ行くためだ。是非、下仁田で泊めて欲しい。」
と、言われてしまった。
二人はしかたなく、下仁田に急いで帰った。
▲高崎藩の1番隊:会田隊はは梅沢峠を越えて、下小坂の関口
先回りし下仁田の先の下小坂に本陣を構えた。
高崎藩士207名の本陣は名主:里見治兵衛宅であった。
★里見治兵衛は里見哲夫先生の先祖である。
寺子屋もやっていて20人程の子どもに教えていた。
(★大塚政義氏)
前の桑畑の木を切って、高崎藩士が陣取った。大砲4挺も据えた。
15日の夕方、小坂峠を越え、水戸天狗党925名・・・
葵の旗を先頭に、馬は207匹・大砲15台・旗10・馬印89
・小荷駄50・大釜・・が下仁田に入って来た。
武田耕雲斎は、出迎えた村の名士達に先に声をかけた。
「わしは武田伊賀じゃ。今夜は世話になる。宜しく頼むぞ。」
と・・
礼儀正しいので、村人は少し安心した。
(★大塚政義氏)
水戸天狗党925名の本陣は、櫻井家であった。
※里見家&櫻井家は徒歩15分程度の距離である。
櫻井宅・・・武田・田丸・山国など数十人
杉原宅・・・藤田・竹内など
富永宅・・・春日など
杉原宅・・・荘司など
有賀宅・・・難波など
倉田宅・・・高橋など
脇坂宅・・・島田など
富永宅・・・薄井など
石井宅・・・熊谷など
櫻井宅・・・滝平など
民家・・・・それぞれ・・・
老人・女・子どもが戻って来て、食事のしたくをした。
櫻井はまは武田に
「どうか村で戦を起こさないで下さい。」
と頼んだ。武田は
「高崎藩が近くにいる。避けたのは山々だが・・
村での戦は避けよう。」
と答えた。
【4】 「下仁田戦争」水戸天狗党 VS 高崎藩
・元治元年(1864年)11月16日未明、
天狗党925名 VS 高崎藩207名
水戸天狗党の攻撃は軍師:山国兵部の立てた「三方包囲作戦」
であった。
本隊・・・・本街道から
別働隊1・・西牧川の対岸から
別働隊2・・伊勢山→尾根→熊野山(ふるさとセンター)から
★実際はここから登ったのではない。
高崎藩は甲州流の陣立てであった。
第一線・・・足軽小銃隊
第二線・・・徒士組刀槍小銃隊
第三線・・・一番隊隊長:会田&上級武士抜刀隊&
大砲隊隊長:堤金之丞
『下仁田戦争』が開始された。
高崎藩は先制攻撃をかけた。
高崎藩が優位に立った。
一進一退の攻防戦であった。
天狗党別働隊2は伊勢山から進軍してきた。
小幡藩の旗をかかげ、「加勢にきた。」と油断させた。
そして、熊野山=現ふるさとセンターから高崎藩兵に
一斉射撃を浴びせた。
★きっと、里見家=高崎藩本陣は集中砲火を浴びたの
だろう。
高崎藩の堤金之丞の兜に銃丸が当たった。
★堤金之丞の父は高崎藩の江戸家老である。
堤金之丞は 勝海舟に砲術を学んだ。
★4代後の御子孫堤克政(よりまさ)氏が「ちょんまげ時代の高崎」を
執筆された。
西牧川からも天狗党が攻めてきた。
天狗党の三面奇襲が勝敗を分けた。
足軽大将:深井景命も戦死した。
★深井景命の子孫は身内の子孫には日銀総裁に
なった深井英伍がいるらしい。
(★群馬県立博物館の73回企画展の表紙は深井氏の
子孫が着た甲冑姿だそうである。)
▲高崎藩は次第に後退していった。
※安導寺の戦い
→総崩れになって敗れた。
高崎藩本陣付近での激戦は午前4時から6時頃まで続いた。
残兵は中山道を高崎に敗走した。
結果・・
①高崎藩は36名の戦死者
高崎藩士の捕縛者8名はは青岩河原で処刑された。
翌日、戦死者と共に遺族に引き取られた。
高崎観音山の清水寺田村堂に木像が安置されている。
(★ふるさとセンター写真・・掲載許可済み
神戸先生から・・・)
②天狗党4人の戦死者
天狗党の戦死者は村内の寺に厚く葬られた。
重傷者の中には信州への峠を越えて絶命した者もあった。
(★下仁田歴史資料館)
◆◆ 下仁田町の『下仁田戦争関連史跡』一覧 ◆◆
①高崎藩士戦死の碑
:明治26年11月16日、下仁田戦争30周年を記念して
最大の激戦地となったこの地「岩下」に建立されている。
※「高崎藩士戦死之碑」は勝海舟の書による。
★堤金之丞の砲術の師は勝海舟だった。
島﨑藤村の碑
②高崎藩本陣里見家
蔵の弾痕:高崎藩は小坂村名主里見治兵衛宅前に陣を構えた
が、水戸天狗党の三面奇襲を受ける。蔵には当時の弾痕が残る。
★刀の切り跡もあったと記憶しているが・・・蔵の弾痕だった。
③水戸天狗党本陣桜井家:
本陣には総大将武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門ほか幹部
数十名が宿営。
④高崎藩士切腹の場=青岩河原
捕えられた高崎藩士七名が処刑された場所
⑤野村丑之助の墓
初陣の丑之助は13歳。田丸稲之衛門の小姓、右手を切り落と
される重傷を負ったことから、願って自害、首を討たれた。
⑥義烈千秋の碑・・・・稲荷神社
てん額「義烈千秋」は小松宮彰仁親王の書。
碑文は依田百川による。
明治33年旧水戸藩士が下仁田警察署長に赴任した際、
資金を募集し建立。
⑦本誓寺の墓:久保田藤吉、斎藤仲次の墓
水戸天狗党の久保田、斎藤の身分や年齢は不詳。
安導寺の戦いで戦死し本誓寺に埋葬された。
⑧大曾根繁蔵の墓:安導寺の戦いで戦死。水戸天狗党
⑨ふるさとセンター下仁田歴史資料館
下仁田戦争で水戸天狗党が高崎藩本陣を攻撃する際、
この松周辺から発砲したことから、それ以降「狙いの松」
と呼ばれた。第二次世界大戦末期に松根油を採取する
目的で伐採されてしまった。
◆◆ 下仁田歴史資料館Hp ◆◆
http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m02/m06/02.html
(★「水戸天狗党と下仁田戦争」群馬県立歴史博物館)
・水戸天狗党の行程
・「兵士行軍図」
・戦争の時飛来した弾丸、弓の矢
高崎藩本陣=里見家から。
・下仁田戦争の絵地図・・・里見哲夫先生像
~~~~等
※高崎藩士「堤金之丞」の兜
「黒塗り六十二間筋兜」高崎藩のクリ半月の前立てがついている。
堤金之丞は高崎藩の江戸詰目付け。
高崎藩第一番手の使番兼目付として出陣し、本陣で指揮を
とっている際に、熊野山より天狗党に狙撃され即死(42歳)
★里見哲夫先生の家が大変だったことが分かった。
★明日は、水戸天狗党3の西上が。
は鉄砲の弾痕が残っている。近くには、勝海舟の書という「高崎藩士
戦死の碑」がある。島﨑藤村も訪れたという。10mの崖上は、天狗
党が里見邸前にいた高崎藩を攻撃した場所であり。現在はふるさと
センターである。下仁田戦争の激戦地だった場所である。
(★弾痕の残る里見邸の蔵)
◆◆ 箕輪初心◆水戸天狗党1『挙兵~下仁田戦争直前』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html
◆◆ 箕輪初心★下仁田の特産品・名所・偉人・有名人 ◆◆
★里見哲夫先生=「シダ植物研究」の 第一人者
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html
http://53922401.at.webry.info/201205/article_15.html
11月15日
吉井→七日市→宮崎・一ノ宮を経て・・支障なく下仁田に
入った。▲小幡藩兵は家老:小倉など300人?・馬山に行ったが
水戸天狗党の大砲によって、神農原まで撤退した。
▲七日市藩用人:横尾鬼角は死に装束で、武田耕雲斎に
面会して、「間道を行くように・・・」と依頼した。
七日市藩兵は南蛇井(なんじゃい)から中沢に進んだ。
しかし、大砲の音で中村から動かなかった。
水戸天狗党が、横尾鬼角の案内で鏑川を渡った。
一ノ宮(現富岡市一ノ宮)に入った。貫前神社で戦勝祈願をした。
▲高崎藩城代家老:宮部兵右衞門(★たぶん宮部譲の父)は、
高崎藩兵を4班に分けた。
1班・・・高崎城の備え
2班・・1番隊:会田孫之進周幸(かねゆき)109人
3班・・2番隊:浅井隼馬92名
4班・・3番隊:深井忠之丞景忠(★たぶん深井英伍先祖)132名
▲幕命を受けた高崎藩・小幡藩・七日市藩は宮崎で会議を持った。
会田孫之進は小幡藩・七日市藩に先峰を頼んだが、
「武器がないため、・・。」とことわられた。
高崎藩は藩兵3隊320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせた。
◎その頃、桜井弥右衞門宅では、有賀・杉原・富永・長野・小林
らが集まって会議を持った。
「女子どもは山に避難させ、若い者は村の警護をする。」
「下仁田には泊まらないで欲しい。」と懇願することになり、
長野見意(★箕輪城主:長野業政の子孫)と小林多治見が水戸
水戸天狗党に会いに宮崎に向かった。宇芸神社で水戸天狗党と
であった。
二人は懇願したが、滝平主殿は
「我等は、高崎藩・小幡藩・七日市藩と戦うためにここに来たの
ではない。京へ行くためだ。是非、下仁田で泊めて欲しい。」
と、言われてしまった。
二人はしかたなく、下仁田に急いで帰った。
▲高崎藩の1番隊:会田隊はは梅沢峠を越えて、下小坂の関口
先回りし下仁田の先の下小坂に本陣を構えた。
高崎藩士207名の本陣は名主:里見治兵衛宅であった。
★里見治兵衛は里見哲夫先生の先祖である。
寺子屋もやっていて20人程の子どもに教えていた。
(★大塚政義氏)
前の桑畑の木を切って、高崎藩士が陣取った。大砲4挺も据えた。
15日の夕方、小坂峠を越え、水戸天狗党925名・・・
葵の旗を先頭に、馬は207匹・大砲15台・旗10・馬印89
・小荷駄50・大釜・・が下仁田に入って来た。
武田耕雲斎は、出迎えた村の名士達に先に声をかけた。
「わしは武田伊賀じゃ。今夜は世話になる。宜しく頼むぞ。」
と・・
礼儀正しいので、村人は少し安心した。
(★大塚政義氏)
水戸天狗党925名の本陣は、櫻井家であった。
※里見家&櫻井家は徒歩15分程度の距離である。
櫻井宅・・・武田・田丸・山国など数十人
杉原宅・・・藤田・竹内など
富永宅・・・春日など
杉原宅・・・荘司など
有賀宅・・・難波など
倉田宅・・・高橋など
脇坂宅・・・島田など
富永宅・・・薄井など
石井宅・・・熊谷など
櫻井宅・・・滝平など
民家・・・・それぞれ・・・
老人・女・子どもが戻って来て、食事のしたくをした。
櫻井はまは武田に
「どうか村で戦を起こさないで下さい。」
と頼んだ。武田は
「高崎藩が近くにいる。避けたのは山々だが・・
村での戦は避けよう。」
と答えた。
【4】 「下仁田戦争」水戸天狗党 VS 高崎藩
・元治元年(1864年)11月16日未明、
天狗党925名 VS 高崎藩207名
水戸天狗党の攻撃は軍師:山国兵部の立てた「三方包囲作戦」
であった。
本隊・・・・本街道から
別働隊1・・西牧川の対岸から
別働隊2・・伊勢山→尾根→熊野山(ふるさとセンター)から
★実際はここから登ったのではない。
高崎藩は甲州流の陣立てであった。
第一線・・・足軽小銃隊
第二線・・・徒士組刀槍小銃隊
第三線・・・一番隊隊長:会田&上級武士抜刀隊&
大砲隊隊長:堤金之丞
『下仁田戦争』が開始された。
高崎藩は先制攻撃をかけた。
高崎藩が優位に立った。
一進一退の攻防戦であった。
天狗党別働隊2は伊勢山から進軍してきた。
小幡藩の旗をかかげ、「加勢にきた。」と油断させた。
そして、熊野山=現ふるさとセンターから高崎藩兵に
一斉射撃を浴びせた。
★きっと、里見家=高崎藩本陣は集中砲火を浴びたの
だろう。
高崎藩の堤金之丞の兜に銃丸が当たった。
★堤金之丞の父は高崎藩の江戸家老である。
堤金之丞は 勝海舟に砲術を学んだ。
★4代後の御子孫堤克政(よりまさ)氏が「ちょんまげ時代の高崎」を
執筆された。
西牧川からも天狗党が攻めてきた。
天狗党の三面奇襲が勝敗を分けた。
足軽大将:深井景命も戦死した。
★深井景命の子孫は身内の子孫には日銀総裁に
なった深井英伍がいるらしい。
(★群馬県立博物館の73回企画展の表紙は深井氏の
子孫が着た甲冑姿だそうである。)
▲高崎藩は次第に後退していった。
※安導寺の戦い
→総崩れになって敗れた。
高崎藩本陣付近での激戦は午前4時から6時頃まで続いた。
残兵は中山道を高崎に敗走した。
結果・・
①高崎藩は36名の戦死者
高崎藩士の捕縛者8名はは青岩河原で処刑された。
翌日、戦死者と共に遺族に引き取られた。
高崎観音山の清水寺田村堂に木像が安置されている。
(★ふるさとセンター写真・・掲載許可済み
神戸先生から・・・)
②天狗党4人の戦死者
天狗党の戦死者は村内の寺に厚く葬られた。
重傷者の中には信州への峠を越えて絶命した者もあった。
(★下仁田歴史資料館)
◆◆ 下仁田町の『下仁田戦争関連史跡』一覧 ◆◆
①高崎藩士戦死の碑
:明治26年11月16日、下仁田戦争30周年を記念して
最大の激戦地となったこの地「岩下」に建立されている。
※「高崎藩士戦死之碑」は勝海舟の書による。
★堤金之丞の砲術の師は勝海舟だった。
島﨑藤村の碑
②高崎藩本陣里見家
蔵の弾痕:高崎藩は小坂村名主里見治兵衛宅前に陣を構えた
が、水戸天狗党の三面奇襲を受ける。蔵には当時の弾痕が残る。
★刀の切り跡もあったと記憶しているが・・・蔵の弾痕だった。
③水戸天狗党本陣桜井家:
本陣には総大将武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門ほか幹部
数十名が宿営。
④高崎藩士切腹の場=青岩河原
捕えられた高崎藩士七名が処刑された場所
⑤野村丑之助の墓
初陣の丑之助は13歳。田丸稲之衛門の小姓、右手を切り落と
される重傷を負ったことから、願って自害、首を討たれた。
⑥義烈千秋の碑・・・・稲荷神社
てん額「義烈千秋」は小松宮彰仁親王の書。
碑文は依田百川による。
明治33年旧水戸藩士が下仁田警察署長に赴任した際、
資金を募集し建立。
⑦本誓寺の墓:久保田藤吉、斎藤仲次の墓
水戸天狗党の久保田、斎藤の身分や年齢は不詳。
安導寺の戦いで戦死し本誓寺に埋葬された。
⑧大曾根繁蔵の墓:安導寺の戦いで戦死。水戸天狗党
⑨ふるさとセンター下仁田歴史資料館
下仁田戦争で水戸天狗党が高崎藩本陣を攻撃する際、
この松周辺から発砲したことから、それ以降「狙いの松」
と呼ばれた。第二次世界大戦末期に松根油を採取する
目的で伐採されてしまった。
◆◆ 下仁田歴史資料館Hp ◆◆
http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m02/m06/02.html
(★「水戸天狗党と下仁田戦争」群馬県立歴史博物館)
・水戸天狗党の行程
・「兵士行軍図」
・戦争の時飛来した弾丸、弓の矢
高崎藩本陣=里見家から。
・下仁田戦争の絵地図・・・里見哲夫先生像
~~~~等
※高崎藩士「堤金之丞」の兜
「黒塗り六十二間筋兜」高崎藩のクリ半月の前立てがついている。
堤金之丞は高崎藩の江戸詰目付け。
高崎藩第一番手の使番兼目付として出陣し、本陣で指揮を
とっている際に、熊野山より天狗党に狙撃され即死(42歳)
★里見哲夫先生の家が大変だったことが分かった。
★明日は、水戸天狗党3の西上が。
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